第15話 「刺絡(SHIARAKU)」

1.


桟敷蓉子(さじきようこ)はK市にある高邑(たかむら)医院で刺絡治療を受けていた。刺絡とは皮膚と皮下の静脈を僅かに切って瀉血させる東洋医学的な治療だ。高邑医院は”蛭を患部に吸い付かせて悪血を吸血させる”治療で有名だった。蓉子も蛭治療を受けている。腰痛や神経痛に関節痛、リウマチ膠原病その他の骨関節筋肉疾患に効果があるという。不思議なことにこの治療を受けるとしばらくは肉体的にも精神的にも快調なのだ。蓉子は月に一度ほどの通院を楽しみにしていた。


高邑医院はK市の中心にある住宅街の一角にあるのだが、「初めて行く者は必ず迷う」と蓉子は言う。なぜなら高邑医院は住宅街の袋小路状になった突き当たりの奥の”複雑な型”になった路地の奥にあるからだ。蓉子も最初は迷った。迷ったばかりではない。あろうことか、その路地から出られなくなってしまったのだった。


漸く病院に辿り着いたものの、治療後に無事に帰ることができるかが心配になって、医師に相談すると、笑いながら「それでは途中まで看護師に送らせましょう」と言われて無事に抜け出すことができたのだった。その後は道の要所にある目印を見ながら辿る”コツ”を掴んで、病院まで無事に行き来できるようになった。


複雑な路地とは・・・たとえば東京駅の地下街のようなものだ。東京駅の下にある街は、大手町や逆方向の有楽町の方まで続いている。初めて地下街に入る者は必ず迷うだろう。たとえ田舎町であっても、再開発されたあとに新造された住宅地というのは都会の地下街と同じような構造を持っている。K市の高邑病院のある一角も同様で、新聞や郵便を配達する人間さえ一度は迷うと言われる。


住宅街の最奥にあり、さらにそこに至るまでに路地が複雑に絡みついているためか高邑病院の存在は小さなK市の住民でも知らない者の方が多い。また病院の傍に住む人たちは高齢者が多く、その大半が高邑医院の患者となっている。病院の一角に居住する者以外の市民たちに、いつの間にかこの病院は幻の病院となり、刺客治療が悪い血を抜くという治療が「あの病院は吸血鬼の病院だ」といった都市伝説ならぬ田舎伝説もネット上で生まれたのだった。


2.


蓉子は、その日も勤めている会社からの帰りに高邑医院に立ち寄っていた。頚部に蛭を6匹治療を終えた蓉子は衣服を整えながら蛭に喰いつかれていた首を触ってみた。看護師が患部をアルコール消毒してから小さく切ったガーゼを医療テープで貼ってくれている。(まだ首が痒いな・・・)蛭に食いつかれて小さな穴を開けられた患部が痒いのだ。


「この蛭は血を吸う力が強いですね、何という蛭ですか?」蓉子が高邑医師に聞いた。


高邑は自分の机の上に置かれた医療用の金属トレイを見つめている。トレイの中には蓉子の血を吸い尽くしてパンパンに膨らんだ蛭が6匹蠢いている。高邑には蓉子の声が聞こえていないようだ。再度話しかけてみた。


「先生・・・」

「あ・・・申し訳ない、何ですか?」

「この蛭は何という蛭なんですか?」

「ああ・・・ヤマビルですよ」を見つめながら高邑は答えた。

「ヤマビル?」

「山の中に生息する小さな蛭で、登山はもちろん、ちょっとしたピクニックでも人の身体に吸い付いちゃう奴ですよ」高邑は椅子を回転させて蓉子に向き直って微笑んだ。高邑の瞳は深い湖のように青い。吸い込まれそうな魅力がある。


高邑は60歳を超えているようだが、180センチほどの身長を支える骨格はしっかりとして姿勢もよく、青白い皮膚には張りがあり、細面で美しい顔には皺もない。ふさふさとした真っ黒な髪の毛には艶があり、若さに満ち溢れた青年のようだ。以前、蓉子は不思議に思って高邑に年齢を聞いたことがある。その時、高邑はニヤリと笑って「60歳を超えていますよ」と言った。蓉子は驚いた。思わず「ええっ!」と少女のような驚きの声をあげてしまった。


蓉子は高邑に恋心を抱いていた。30歳以上も年が離れているが、高邑は他人のような気がしない。親以上の親近感がある。時々、蓉子は”自分の肉体を少しずつ高邑に食べられてしまう”ような恐ろしい感覚に囚われることがある。


「へぇ、そうなんですか? 怖い蛭なんですね・・・」

「血を吸うときにヒルジンという覚醒物質を放出して人の神経を麻痺させるから痛みを感じさせずに吸血するんですよ」

「はぁ、だから痛みを感じないんですね、長時間ってどのくらい血を吸うんですか?」

「自然では1時間くらい、自分の身体の10倍もの量の血を吸うんです」

「何だか恐ろしい・・・でも、治療では数分ですよね・・・。そういえば蛭を皮膚から引き剥がすときに使うそのスプレーに入っている液体は何なのですか?」

「はは、これ・・・ですか?」高邑医師は小さなスプレーボトルを持って、シャカシャカと振っている。

「ええ、何ですか・・・それ?」

「ご心配には及びません、変なものじゃありませんよ。ただの濃い塩水です」

「え、塩水で蛭が皮膚から離れるのですか? ふぅーん・・・ナメクジみたいですね」

「蛭はナメクジみたいに溶けはしませんけどね。実は、私も塩が苦手です。塩で皮膚がかぶれるのでこうやって特殊な手袋を使うんですよ」高邑は手袋を引っ張って離すとパチンと音をさせた。


今まで気がつかなかったが、高邑は、ゴムと布の中間のような肌色の手袋をしている。


「塩アレルギー・・・ですか? 聞いたことがないですけど・・・」

「はは、食塩に含まれる不純物によってアレルギーを引き起こす場合があります。でも、僕は塩が苦手なんですよ、すぐ荒れちゃうんです」

「そうなんですか?」


そこに長身の看護師が入ってきた。高邑同様に青白い皮膚をしているが、端整な顔立ちの女性だ。この病院は3人の看護師がいるが、いずれも長身で美しい。「私もあんな容姿になりたい・・・」と蓉子が憧れを抱くほどの美人たちだった。


「先生、次の患者さんが・・・」


「あ、わかった・・・。桟敷さん、次の治療はいつにしましょうか?」

「仕事が忙しくなるので、しばらく来れないんですが・・・」

「それでは・・・いつものように1ヵ月後では駄目ですね・・・うーん・・・では2ヵ月後の12月20日ではいかがですか?」


蓉子は手帳を取り出してスケジュールを確認すると「あ、そうですね、そうしてください。それでは次回もよろしくお願いします、ありがとうございました」と言って席を立って診察室を出た。背後から「お大事に・・・」と言う高邑と看護師の声が聞こえた。


診察室を出ると、外はもう真っ暗になっていた。(診察を受けたのが午後6時だったから今は7時ごろだろうか?)蓉子が腕時計を見ると7時15分を指していた。(コンビニで夕飯になるものを買って帰るか・・・)


病院の中には蓉子しかいなかった。診察室に入るときには3人ぐらいの男女の患者がいたように思ったが、会計を済ませて帰ってしまったのだろう。


「桟敷さぁん・・・」会計担当の看護師が蓉子を呼んだ。「はい・・・」と返事をして蓉子が会計に向かうと突然目の前が歪んだ。すうっと気が遠くなった。「あ・・・」と声を出して蓉子は倒れた。


2014年6月1日の午前5時頃、K市北川町にある小さな雑木林の中で若い女性と思われる奇妙な死体が発見された。奇妙というのは、状況から比較的最近死んだと思われるのだが、血と肉を強い吸引力で吸われたような骨と皮ばかりの死体だったからだ。


死体の身元はすぐに判明した。K市貝殻町に住む桟敷蓉子というOLだった。

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