第14話 「丹沢」
1.
一面に広がる麦の穂がそよ風に揺れている。それは緑色の海が波打っているようにも見える。耳を澄ますと遥か遠くの入道雲の奥から微かに雷の音が聞こえる。もう・・・夏も終わりである。僕が運転する軽自動車はその海の中をゆっくりと進んでいく。
その日の午後、僕は丹沢にあるK川という川に釣りをするために出かけた。
K川は裏丹沢を流れる道志川の支流である。その道志川の水は、遥か下流で相模湖からの桂川の水と合流する。合流した水は、ダム湖である津久井湖に集められてダム下に放出される。放出された水は相模川と名を変える。つまりK川は相模川の源流のひとつなのである K川は丹沢山塊の犬越路峠あたりが源流であり、その道は険しいK川に沿って作られた「K川林道」から川を目にできる場所は少ない。そのほとんどが木々や断崖に隠されてしまっているからだ。それでもK川には漁協によって毎年人工養殖された岩魚や山女が放流されるので、それらの魚を釣りに入渓する人も少なくない。 関東大震災以前のK川は“大型の岩魚が釣れる川”として有名だった。もちろん養殖された放流魚などではなく、天然の岩魚であった。ところが関東大震災によって丹沢山塊の自然は大きく変貌した。地震によって山崩れが起き、沢は土砂で埋没し、いくつかの川も消滅した。それに合わせて岩魚や山女も大きな被害を受けた。特に岩魚への影響は大きかった。丹沢山塊に生息していた岩魚のそのほとんどが死に絶えてしまったのだ。K川もそのひとつだった。
僕がK川に出かけようと思い立ったのは釣り雑誌の「幻の岩魚」という題の記事を読んだからだった。その筆者は「K川に天然の岩魚が生息している」という釣り人たちの噂を確かめるためにK川に入渓して、ついに・・・天然の岩魚?らしき姿を確認したというような内容だった。その記事を読んだ僕は、実際にその幻の岩魚を見たくなってしまったのだ。 僕はK川と道志川の合流点に車を停めて釣りの準備を始めた。まず、入渓しても濡れないように腰までの防水ズボン?のようなウエスト・ウェーダーを穿き、いくつものフライボックスやラインなどを詰め込んだフィッシング・ベストを着た。 ペゾンミシェルの竹製の4番ロッドをアルミケースから抜き出し、上下2本の接続式になっているそのロッドを接いで、アルミでできたオービスのフライ・リールを取り付けた。
リールに巻きつけてあるプラスチック製のダブル・ティーパー・ラインを引き出してロッドの金属製ガイドの中にラインを通していく。 ペゾンミシェルのフライ・ロッド(バンブー・ロッド)はフランス製で、10年前に代々木上原の中古釣具店で19万円で購入したものだ。それほど高価なものではないが、僕のような永遠初心者にはふさわしくない代物だ。だから普段はセージの安物のフライ・ロッドにオービスのリールをくっつけて使っているのだが、なぜかこの日は無性にペゾンミシェルを使いたくなってしまったのだ。 釣りの支度を整えるとK川に入渓するために地元の人が利用する細い林道を川に沿って歩いていく。麦穂の中をしばらく歩くと周囲は鬱蒼とした林である。入渓する場所を探していると、地元の人が野菜を洗うためのものなのか、川の中に四角いコンクリートブロックが並べられているのを見つけたので、そこから入渓する。
K川は思ったより小さくて浅い渓流だった。「こんな川に岩魚がいるのだろうか?」僕はなんとなく諦めに近い気持ちで川を遡っていった。 沢を遡っていくと突然目の前に巨大なコンクリートの壁が現れた。小さな沢には似つかわしくないほど大きな堰堤だった。大分前のことだが同じ丹沢の世附川を釣行した時には小さな滝をよじ上ろうとして失敗し沢に滑落したことがある。 僕は堰堤を登る事を諦めて、沢の脇に繁る薮の低い崖をよじ登った。薮には蜘蛛の巣が張り巡らされており、気持ちの悪いねばねばとした蜘蛛の巣が僕の顔に絡み付いてきた。 蜘蛛の巣を押しのけながらやっとのことで崖を登りきると、僕は沢伝いに細い林道を歩いて上流へと向かった。 林道を少し行くと、沢に戻れる場所があったので、そこから再び入渓した。堰堤の上の沢はさらに細くなっており、とても魚がいる沢には見えなかった。それでも、もっと上流に行けばこの沢も広くなって大きな淵が現れるかもしれない。僕はさらに上流に向かった。その間も小さな沢の水深があるポイントに中型のドライフライを浮かべてみる。 相変わらず魚の反応はない。フライは空しく水面に浮かんでいるだけ。僕はさらに上流へと向かった。 その時だ。何か後ろの方で何かが動いた気配がして僕は振り返った。しかし...そこには鬱蒼と杉林が広がって、沢の流れの音がしているだけだった。ただ...動物園の檻の様な“獣臭”が辺りに漂い始めた。「熊?」そう思って、一瞬背筋が寒くなったが、今まで丹沢で熊に襲われたなんて話は聴いたことがないから鹿か狸だろうと、そのまま沢を進んだ。
2.
上流に進むにつれて沢は大きくなるどころか、沢幅はどんどん狭くなり、水深も浅くなるばかりだった。こんなに浅い川に魚がいるはずがない。 僕は「駄目か」と呟いてため息をついた。 もう少し進んで沢が広がらなかったら諦めて下流に戻り、別な沢に入ろうと思った。こんな水たまりの様な沢でペゾンミシェルなんて振ってたら恥ずかしいからな...と、誰もいないのに僕はひとりで赤面してしまった。
しばらく行くと小さな橋があった。下流の堰堤に続き、ようやく人工的なものを発見して僕は嬉しくなった。その時だ、橋の下は流れが速くなっており、小さな魚影が上流に向かって走った。 僕は慌ててロッドに引っ掛けていたドライフライを外して何度か流れに乗せた。しかし...反応はない。チッ...舌打ちしてフライをロッドに引っ掛けて橋の袂にあった大きな石に腰掛けた。
杉林のひんやりとした静寂の中で深呼吸をしてみる。清らかな山の空気は、僕の肉体も精神も浄化してくれるようだった。腕時計を見ると午後5時であった。気がつけばもう闇が迫ってきている。思いのほか時間が経過してしまったようだ。 僕は慌てて下流に戻ろうと立ち上がった。僕は闇が怖かった。 闇の中の山というのは不気味だ。これまで車では深夜に丹沢や奥秩父の山奥の道路を走った事が何度もあるが、夜空に黒い影となって浮かぶ山は背筋が凍るほど恐ろしかった。梶井基次郎の「夜の伊豆山中を歩く」何篇かの小説を思い出して、さらに恐怖感が増したのを覚えている。 僕は沢の中を下流に向かって進んだ。辺りはだんだん暗くなって来る。闇の恐怖に追われるようにジャブジャブと走るように下流に向かった。なんだか何者かに追われる様な気がして来るのだ。しばらく行くと先ほど“獣臭”がした場所に来た。辺りは薄暗くなって、真の闇はもうすぐだ。
しばらく行くと前の方から中年の男女が歩いて来るのが見えた。 中年の男女は人の良さそうな笑顔で僕を見ている。付近の夫婦なのだろう。「釣れたかい?」男が聞いた。「全然・・・」と答えると、「へえ・・・そうかい?」と妙に明るい声で男が言った。女の方は虚ろな目で前方を凝視しているだけで話に加わろうとしない。「ごくろうさんだね」男が言うと、ふたりは上流の方に歩き出した。「あ、あの...」と僕が話しかけようとすると、中年カップルは、振り返りざまにニヤリと笑うと、もの凄い速さで滑るように林の中に消えてしまった。 「狸?狐?」背筋が凍りついて、しばらく呆然と立ちつくしていると...山の奥から夜の闇が這い出てきて僕を包み込んでいくような気がした・・・。
「うわ!」と変な叫びをあげながら僕は麓の山里へと走った。ガシャガシャガシャと身に着けている釣り具が震える。 杉林が切れて目の前が開けると急に明るくなった。麓の集落にたどり着いたのだった。前方に僕の車が見えたのでなんだかほっとして大きなため息をついた。全身の力が抜けていくような気だるさを感じた。僕は車の脇にロッドを立て掛けてバッグから車のキーを取り出してドアを開けた。それからウエーダーを脱いでロッドをたたみ、それらをばたばたと後部ハッチに押し込んで、車のエンジンをかけた。真っ暗な闇の中でヘッドライトを点けた。
僕の車の前に2つの大きな墓石が照らし出された。先ほどの男女の墓だな?と僕は思わず身震いして、漆黒の闇の中に浮かぶ山裾を凝視した。
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