第17話 「夜の郵便配達」

深夜、尿意を催してゆっくりとベッドから起きあがった。はっきりと目覚めないように睡眠意識を制御し、寝ぼけたままの状態を維持しながら暗い部屋の中を歩いた。僕の場合、一度目覚めてしまうと再び睡眠に入るのが大変なのだ。


すると玄関のドアがカチャリと音をたてた。「気のせいか?」と思いながら、恐ろしい強盗や幽霊でも入ってきたらと考えたら恐怖心から永遠に眠れなくなっちゃうかもしれないと無視して便所に入ろうとした。すると玄関のドアの外から、低音の、しっかりと聞き取れる声で「夜分申し訳ありません、郵便です」と言った。


「え?」(こんな時間に郵便配達がくるわけがない、空耳だろうか?)

僕は例えようのない恐怖感に襲われて動けなくなってしまった。

「郵便です、夜分申し訳ありません」またドアの向こう側から声がした。目が覚めてしまった。(やはり新手の強盗かもしれない…)

恐怖心が増幅する。思わず台所の洗い場に歩いて放置したままになっている薄っぺらな刃の包丁を握りしめて、ドアスコープを静かに覗く。声の主は本当に郵便配達の格好をしていた。しかし目深に被った郵便配達の制帽にさえぎられて彼?の顔は見えない。

「どなたでしょうか?」

「はい、郵便配達です」

「こんな夜中に郵便配達しているわけがないでしょう。警察を呼びますよ」(せっかく熟睡していたのに目が覚めちまったじゃないか、ちくしょう…きっと犯罪者だ)

腹が立った。無意識に玄関のドアを足で蹴る。威嚇したのだ。しかし、相手が無秩序で無道徳な強盗に素人の威嚇の効果があるはずがない。

「あはは、心配しないでください、本当に郵便配達なんですよ」

「それじゃ、ポストに入れといてくださいよ、真夜中に驚くじゃないですか?」

「ところがあなたの受け取り署名が必要なんです。書留のようなものです」

(怪しい…やはり強盗だろうか? 絶対に開けるものか)

「それじゃあ申し訳ないけど今じゃなくて、明るくなってからまた来てください。夜中に郵便配達するなんて聞いたことがないし、普通の人なら夜中に玄関のドアを開けて向かい入れたりしないでしょう?」 

「はい、ご不審もごもっともです。でも僕の担当が深夜なんです。だから昼にはお届けできないんです」

「そんな馬鹿な郵便があるはずがない、夜中に限定した郵便って何なんですか?」

「あなたの大切な人からのお手紙なんですよ…」


2.


「大切な人の手紙…」

「そう、あなたの大切な方からのお手紙なんですよ」

(大切な人…誰だろう? 僕の周りにいる人は家族も親族も少ないながら友人も大切な人だ? )

「誰だかわかりますか?」

「わからない…友人ですか?」

「違います」

「あなたの身近な…もうこの世にはいない人ですよ」

「…もしかしたら…」

「おわかりになりましたか?」

「…父ですか? 母ですか?」

「あなたのお母さんからですよ」

(母は一ヶ月前に死んだばかりだ。母は末期の肺がんで苦しみながら死んだ。僕は病室で母の最期を看取ったのだ。しかし、母と話したのは死ぬ数日前のことで、死ぬときには目も開けずに死んでしまった。ひとことだけ、「さよなら」と言いたかった)

「申し訳ありませんが、そろそろ私は次のお宅に手紙を配達しなくてはならないのです。夜が明ければ私は手紙をお届けできなくなってしまうんです。ドアを開けていただけますか? あなたのお母さんからの依頼書に署名していただければ、手紙をお渡しして私は次のお宅に伺うことができるんです」

「いや、信じられませんね、死んだ母からの手紙など存在するはずがないでしょう」

「間違いなく、あなたのお母さんからの手紙です。お母さんがお亡くなりになってから、私に手紙を託されたのです」

「そんな馬鹿な、死人…つまり、幽霊…から手紙を受け取ることなんて人間にできるはずがない」

「私は人間ではありませんからね」

(ぷっ、何を言いやがる、ふざけるな、幽霊だって言うのかよ? それとも死神か? こいつは人間だ、しかも恐ろしい強盗なんだ、もうわかったぞ)

「ははは、ふざけるな。お前は強盗だろう? からかうな、絶対に開けないぞ」

「それでは、お母さんに、この手紙をお戻しすることになります。二度とお母さんからの手紙を読むことはできなくなりますが、それでもよろしいでしょうか? 」

「そんなもの元からないんだろう。ふざけるな」

玄関のドアがドンと音をたてた。また玄関のドアを蹴ってしまった。

「はは、わかりました。それでは、あなたのお母さんに手紙をお戻しします。手紙をお渡しできるのは今だけなんです、それでは…」

玄関の外の共有廊下を郵便配達員が歩くカツカツという固い足音が聞こえた。

(母からの手紙というのが本当だったらどうしよう? 手紙は母の遺書かもしれないのだ、いや、ありえない、死んだ人間から手紙など届くはずがない)

郵便配達員の足音が遠ざかっていく。

(どうしよう? クソっ!)

僕は包丁を握り締めて玄関のドアを開けた。

プシュッという空気が漏れた音がしてドアが開いた。真夜中のはずだが玄関の外は真昼のように明るかった。数メートル離れたところに郵便配達員が立ち、こちらを見ていた。

「思い直しましたか?」顔ははっきりと見えないが、郵便配達員が笑った気がした。


3.


郵便配達員は、たすきに掛けた大きな鞄から一通の封筒を取り出して差し出した。

「やっと、あなたのお手元に届けることができました」

「すみません、ドアを開けなかったのは強盗かもしれないと思ったからです。悪気はないんです、夜中の郵便配達なんて聞いたことがなかったものですから、どうか気を悪くなさらないでください」と言いながら封筒を受け取った。

「大丈夫です、私の見た目が怪しいのが悪いんです、かねがね反省しなければならない点だと思っているのです。私は郵便会社の者ではございませんし、現世では真夜中の郵便配達員なんかおりません。もう、お察しのことと思いますが、私はこの世の者ではございません。私はあなた方が幽霊と呼んでいる者ですから、怪しまれて当然なのです」

「ええ、あなたは幽霊なんですか? やっぱりそうなんですか。でも不思議と恐怖感がないんですね、何でだろう…僕は夢を見ているのかもしれないなぁ」と言いながら頬をつねってみる。

(痛い、夢じゃないな)

「夢じゃありませんよ、私は本物の幽霊です。でも幽霊といえば、何の根拠もないのに人を祟るとか呪うとか悪い印象がありますからね。誠に遺憾に存じます」郵便配達員の口元がゆるんだ。多分笑っているのだろう。

(おっと、すると僕はこいつに呪われているのかもしれない。だからこうしてうまいこと言って僕の前に現れたんだ、でもそれならこいつは誰だろう。呪うというならば僕の知人であり、僕を恨んでいる者のはずだ。今気がついたが、聞き覚えのある声だ…誰だろう…とりあえずは早く家の中に入ってドアを閉めよう)

「ありがとうございました、ご苦労様でした」僕はそう言って家の中に入ろうとした。しかし、家のドアがない。ドアどころではない、いつの間にか僕の部屋もアパートもない。僕は空中…もやもやとした雲のような中に浮遊していた。

「ああっ」声を出して驚いた。

「大丈夫です、手紙をお読みになればご自宅にお戻りになれます」

「え…」

「あ、申し訳ありませんが、手紙はこの場でお読みください」

「え…」

「本当に申し訳ありませんが、手紙は今、ここでお読みください」

(何だ、ここで手紙を読めだと…)

「お母さんの手紙は、あなたがお読みになったら、私が持ち帰らなければならない決まりなのです」

「ええ、それじゃ僕の手元には母の手紙が残らないんですか」

(冗談じゃない、俺の母親の手紙だぞ)

「残念ですが、そういう決まりなのです」

「嫌だと言ったら…どうなるんですか」

「申し訳ないですが、手紙を返していただきます。同時に私と会った記憶もなくなってしまいますがね」

「…」

「お母さんが伝えたかったことも、あなたは永久に知らぬまま人生を終わるのです」

「そんな馬鹿な…」

「あなたが拒否されたらということです。この場でお読みいただいて、私が手紙を回収して冥界に戻れば、何の問題もありません。さあ、お急ぎいただけますか、私は次に向かわなければならないのです」

(幽霊に何を言っても始まらない、諦めよう、僕がここで手紙を読めばいいんだから)

「はいはい、わかりました、でも、母からの手紙を手元に残したいと思うのは当たり前でしょう」

「気障なことを言うようですが、あなたが手紙をお読みになれば、お母さんの思いがあなたの心に刻み込まれるのです。形があるものはいつか壊れますが、記憶したことや経験したことはあなたの中に永遠に残るんです。形がないものこそ真実なんですよ」

(幽霊のくせにずいぶんとまともなことを言うじゃないか)

「幽霊といっても、もともと人間でしたからね、たまにはまともなことも言いますよ」

「えっ、あなたは僕の心を読めるんですか」

「幽霊ですからね」


4. 母の手紙


相変わらず妹に迷惑をかけているのかい。お前は還暦が近い歳になっても子供みたいに落ちつかないんだからね。困ったものだね。少しはまともになりなさい。

それはともかく、お前が私の病気は「ただの風邪だ」って言うから、私はすっかりその言葉を信じてしまったじゃないか。だから私は自分が死んだことにしばらく気がつかなかったんだよ。確かに毎日死ぬほどに苦しかったけど、いつかは治るものだと思っていたんだよ。いつかは自宅に戻れると思っていたんだよ…。それが一瞬、チクっと痛みを感じたと思ったら死んでいたんだからさ。ところで私の病気は何だったんだい、まさか肺がんだったんじゃないだろうね。今更どうでもいい話なんだけど凄く息苦しかったからね。

大丈夫だよ、そんなことでお前を恨んだりしないから。

お医者さんも看護師さんも本当に親切にしてくれた。私はあの人たちにすごく迷惑をかけたと思っているの。だって、おしっこもウンチの片づけもあの人たちの世話になるしかなかったんだからね。この年になっても人に自分のおしっこやウンチを見られるのは嫌だったよ。お前も覚えているだろう、私が脳梗塞で倒れて吐いた時だって、私は自分で吐いたものを人目に触れないように片づけてから救急車に乗ったじゃないか。

だから病院にはお前の方からよろしく言っといてちょうだい。医者や看護師さんたちを逆恨みしちゃダメだよ。あの子たちのせいで私が死んだんじゃないんだからね。

でも、まさか、私が死ぬとはね…。いつもお前たちには死ぬ死ぬなんて冗談を言ってたけれど、まさか本当に死んじゃうとはね、驚いたよ。冗談で言ったことがあるけど、わたしは本当に100歳まで生きるつもりだったいいんだからね。まだまだビールも飲みたかったしね。

でも、死ぬのも良いもんだよ、もう病気の苦しみはないし、気楽なものだよ、私はこの通り元気だしね。死んでいるのに元気っていうのは変だね。可笑しいね。お前とはもっと話したかったけど、年をとると伝えたいことも忘れてしまうものだよ。

そうそう、この人にこの手紙を届けてもらった理由はね、お前に一言だけお礼を言いたかったんだよ、ありがとうってね。私はいきなり死んじゃったからお礼を言う時間もなかったからね。

お前には感謝してるよ、本当にありがとう。じゃあまたね。

追伸

忘れていたよ、こっちではパパにも会えて、今、私は幸せだよ。


5.


「オヤジに会えたのか…あの世に行けば死んだ人間に会えるっていうのは本当だったんですね」僕は母の手紙を読み終えると安心した。涙こそ出なかったが、胸につかえていた母に対する後悔の気持ちが払拭できた気がした。

「会えるようですね、そうでなければ人が生まれたり死んだりする意味がないように思えます」

「そうですよね、親子や結婚相手とは絶対にそうあってもらいたいです。そうでなければ親や結婚相手としての資格がないですよ」

「全てお読みになったようですね」配達員が言った。

「はい…」

「それでは手紙を回収して私は次に向かいます」配達員の手が僕の前に伸びてきた。手紙を渡せということだ。

僕は慌てて、「あ、あの…手紙を手元に残しておくわけにはいかないんですか」と言って手紙を持った手を引いた。

「それは無理ですね、手紙をご覧なさい」郵便配達員の言葉で僕は手紙を見た。

「あ、ああ…」母からの手紙は手の中で徐々に消えていく。暖かな掌で解ける新雪のように、母からの手紙は見る間に跡形もなく消え失せてしまった。

「それが回収するということなんです。あなたが手紙を読み終えたら手紙は消えてなくなるんです」

「それなら初めからそう言ってくれれば…。どうせ手紙が消えちゃうのなら、あなたの前で読む必要もなかったじゃないですか」

「申し訳ありませんが、お渡ししたらすぐに読んでいただく必要があるのです。しつこいようですが、それが決まりなのです。回りくどいのが私の性分でして、再び遺憾に存じます」

「いや、怒ってはいませんよ、おかげで胸につかえていた母に対する後悔の念を拭い去ることができましたよ。ありがとうございました」

頭を下げた。すると郵便配達員は僕の頭を撫でながら、「あれから何年経ったのかは俺にはわからないが、お前も随分変わったな。髪の毛は真っ白だし皺だらけで、それに何だその腹はみっともない…」と言った。やはり聞き覚えのある声だった。

「あっ」(気がついた、この声は…)頭を上げて配達員の顔を見た。

「やっとわかったのか、相変わらず鈍いな」郵便配達員が制帽を取った。見覚えのある顔が見えた。14年前に死んだ父の笑顔だった。

「オヤジ…だったのか」涙が溢れ出た。

涙が目を覆って父を消した。

「またな…」父の声が遠くに去って行く。

いつの間にか雲が消えて僕は自宅の玄関前に立っていた。


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