第2話 夜明け

見上げた空は遥か遠く。


流れる空気は澄んでいて。


撫でる風はただただ静かに。


時がゆっくりと流れていく。



11月ともなれば季節も秋から冬へと移り始める。

そんな時期に夜の山に居れば当然と凍えるわけで。

持ってきた薪の他にこの場で集めた枯れ木を火にくべながら、自前のパーコレーターで抽出した熱いコーヒーをちびちびとすする。

度の高い酒なぞをかっくらえれば、それはそれで体の内側からあったまるという話は聞いた事があるけれど、どうもそれは出来ない体質なようで、酒の味を知らずとも生きていけるだなどとちょっぴり悔しさをごまかすセリフを胸に秘めながら、だが不便になることは無いのであまり気にせずに済んでいる。

標高にしてわずか2100メートル程度の比較的低い山だが、夜の、それも人里から遠く離れた山の中であれば人工的な光もほとんど見えず、いわゆる自然の夜空というのが顔を見せてくれる。

この為にここまで来たと言っても過言ではないくらいに満たされた胸の内だが、山を下りればまたどうしようもない日常が待っている事をついつい思い出し、少し憂鬱になったりもするのだが、そういう時は熱いコーヒーをまた一口すすって「あちち」などと独り言を口にする事で気持ちを無理やりにでも霧散させてやる事にしている。

背には小さなテント、中にはそれなりに保温性の高いシュラフ、足の短い椅子に腰かけ、そこいらの石で適当に組み上げた竈には持ってきた薪がそこいらの枝やらと一緒に小さく、暖かく、火を灯し続けている。

昼間の下界は気温がまだ高く、薄手で登ってきたがやはり夜に焦点を絞って準備していたのが幸いだったらしい。羽織ったアノラックにスキー用にも使える厚手の防寒ズボン。防寒と怪我防止を兼ね備えた2枚重ねの軍手は実に実用的だが、薪や枝から付着した小さなささくれが時折肌に刺さりちくりとするのがたまに傷だ。

夕食は何を食べたろうか。

ここに住もうなどと思ってもいない、いわゆるキャンパーなものだからスーパーで買ったオーソドックスなカップラーメンだった気がするが、それももう数時間前のことだ。

今はただただ頭上に広がる無限の空とも言うべき星たちの世界を堪能している。

周囲に木々は少なく、開けた草原の中にテントを張り、一夜を過ごす。

これが今日のプラン。

オフロードのバイクに積めるだけの荷物を載せ、走り出したのが最早遠い過去のようだ。

地図やインターネットで無人で比較的安全なキャンプポイントを調べあげ、天気と相談しながらやっとの思いで実行したこのキャンプであったが、都会住まいでは決して見る事の出来ない夜空に、やって正解だったと何度も自分を褒めている。

かれこれ何時間、こうして空を眺めているだろうか。

薪を一本拾い、火の中にある他の薪に立てかけるようにしてくべてやる。

少し湿ったのか、シュウシュウと音を立てて薪の節から白い湯気があがっている。

パチン、と弾ける薪に少しビビりながら、だがやはり視線は空へと戻っていく。

携帯はテントの中。

腕時計は元々してきていない。

今が何時で後何時間これを見ていられるのか。

わからないが、月がいつの間にか大分西側へと移動している事からして、そう長くは無いのだろう。

天が動き、星座が横にずれ、星の瞬きがほんの少し遠のいたように感じる。

はぁ~・・・・と息を吐く。

カップの中のコーヒーはだいぶ冷めてきている。

立ち上がり、やかんを竈の中に設置した足の長い五徳の上に置き、湯を沸かし始める。

久しぶりに立ち上がったからか無性に伸びをしたくなり、胸の前で両手を組んでぐぐぐ~っと背伸びしてやると、どうやら体中の筋肉が固まっていたようで何とも言えぬ爽快感が体を包んでくれる。

そのまま座る事無く、東の空を見てみるとどことなく黒の空が薄れ、濃い群青になって来ている様な気がしている。

いや、気ではない。

黒から濃い群青へ。

その変化は確かなもので、そしてそれは加速度的に始まっていく。

群青に赤が混じり深い紫へのグラデーション。

深い紫から青が抜け、朱へ。

朱の空はやがて丸い塊を空へと呼び込み、そして朱がオレンジへ。

オレンジともなれば、空の雲同士が影を作り、互いにその影を映しあって立体的な風景を生み出してくれる。

そしてオレンジはさらに薄れ、薄い黄色へシフトし、丸い太陽は完全に顔を出す。

シュンシュンと音を立ててお湯が沸いた事を知らせるやかんを火から下ろし、持参したドリップタイプのコーヒーにお湯をゆっくりそそぐ。

眩しい太陽の光線が横から顔を思い切り照り付け、視界を邪魔してくれるが薄目でそれに対抗しコーヒーの香ばしい香りを胸一杯に吸い込んでやる。

ゆっくり鼻らから食道を通り、肺へと落ち込んだコーヒーの香りに頭の中で何かのスイッチがオンになった感覚を知る。

はぁ~・・・と両手で持ち上げたカップに口をつけることなく、立ち昇る湯気を吐息で吹き飛ばしながら明るくなったばかりの空をぼーっと見やるとどうしようもない現実が頭のてっぺんから足の先へと戻ってくるのがわかった。

しょうがねえな。

口に出すことなく、胸中でそうつぶやいて、コーヒーを一口すする。

「あちち」と口から漏れるその声と舌を通過する熱い液体を感じ取りながら、一日の始まりに乾杯するのであった。

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