蛍は招く

 暮れなずむ夏の夕焼けが辺りをあかね色に染め上げている。

 ひぐらしの鳴き声が響き渡る中、一人山道を登っていく若者の足取りは苛立ちを含んで早かった。

「町に着いた途端、どしゃ降りが来て、服十枚やっと売って、昼飯一杯に匕首あいくち一本か」

 破れ靴の先に石が当たり、泥を上塗りするようにぬかるんだ道を転がっていく。

「どいつも吹っかけやがって」

 濃い一文字眉の間にキッと亀裂が走るように皺が寄った。

 若者は怒りに自ら疲弊したように息を吐くと、立ち止まって、暑苦しさに耐えかねる体で、背中に張り付いた行李を負い直す。

 行李はカタンと空っぽな音を立ててまた日生の背に張り付いた。

「お母の織ってくれた服、一枚余っちまったよ」

 見上げた空にはちょうど一番星がぽつりと灯ったところであった。

 目には星と認められるものの、しかし、眩い光を放つには至らない、淡い輝き。

「形見にしろってことなのかな」

 若者は天に向かって寂しく笑うと、再び山道を歩き出した。

 苛立ちは消えて穏やかになったものの、疲れの滲む足取りである。

「遥か 離れた そのまた彼方に 美しい娘がいる」

 周囲から聞こえてくる蜩の声に紛らすようにして、日生はそっと歌い出した。

「誰もが部屋の前に来て その姿に見惚れる」

 母親が子守歌に聴かせた調子をなぞるように穏やかに歌う。

「そのおもては まるでの光のよう」

 蜩の鳴き声が次第に小さくなるのに対して、空は少しずつ藍色に転じて、一つまた一つと星が増えてくる。

「麗しい瞳は 輝く月に似て」

 山道を半ば過ぎて、木々の鬱蒼とした辺りに差し掛かると、蜩の鳴き声がパタリと止まった。

 ふと、若者の顔の前を小さな薄黄色の光が一つ、漂ってきて通り過ぎた。

「蛍か」

 日生の顔がふっと和らいだ。

「あっちの泉から来たのかな」

 問いに答えるかのように、同じ方から、またもう一匹、蛍が飛んできた。

 若者は嬉しげに顔を綻ばせると、歩きながらまた歌を続けた。

「草原を共にさまよい 一緒に羊を放って」

 行く先からは招くように淡い小さな輝きが次々流れてくる。

 眺める日生の目にも次第に潤んだ光が宿った。

「来る日も来る日も 姿を近くで眺めていたい」

 立ち止まって若者が両手で籠を作ると、一匹の蛍がその中に緩やかに入ってきた。

 そのまま優しく両手を組み合わせて閉じ込めると、微かな指と指との隙から仄かな光が漏れてくる。

「また、蛍の季節が来たよ、お母」

 日生が静かに両手を解くと、蛍は最初に飛び込んできたのと同じようにゆっくりと飛び去っていった。

 若者がまた歩き出そうとした瞬間、不意に走ってきた声が、辺りの空気を震わせた。

――ウエーン。

 日生は立ち止まったまま、四方を見回す。

 いつの間にか、泉へと続く、あの急な傾斜の上り道との分岐点に来ていた。

――シクシクシク、ウエーン。

 声は紛れもなく、泉のある方角から流れてきた。

 蛍を一匹、また一匹とこちらに放ってくるのと正に同じ方角から。

――シクシクシク……。

 日生はまるで吸い寄せられるように本来の帰路を外れ、泉への急な傾斜を登り始めた。

 聞こえてくる啜り泣きを掻き消すように声高に呼びかける。

「そこに誰かいんのか」

 返事の代わりに草いきれのむっとした匂いが立ち込めていく。

 視界が暗くなった代わりに、奥から飛んでくる蛍の光が目に焼きついてくる。

――ウエーン。

 それは、母親を求める赤子の泣き声に似ていた。

「朝から気色わりいな」

 若者はぞんざいに言い捨てると、草を蹴散らすようにして上っていく。

 雨露を宿した草が破れ靴はもちろん衣の裾を濡らして、日生の足に葉の切れ端が纏いつく。

――シクシクシク……。

 絹を裂くのに似たその響きを耳にすると、若者の目がカッと血走った。

「いい加減、脅かすなよ」

 日生は首筋を刺してくる笹を音高く掻き分けて進む。

 行く手からは、蛍が一匹、また一匹と、蒼白い光を放ちながら、しかし、衝突だけは避けるように流れてくる。

「誰なんだ」

 日生は破れかぶれに言い放つと、目の前に並び立つ青竹の節を振り払った。

 ザーッと波に似た風の音が、竹林を通り過ぎる。

 薄暗い中、背の高い竹に囲まれ、蛍の飛び交う泉のほとりに、若い女がうずくまって、小さな白い顔をこちらに向けていた。

 ふと、その顔の前を通り抜けた蛍の光が、大きな瞳の目元に浮かんだ涙をもきらりと輝かせた。

「いた……」

 暗がりの中でも濡れた艶を放つ黒髪がその体を守るように覆っているものの、屈みこんだ細く長い太腿の剥き出しの白さから、女が衣服と呼べるものを何も身に着けていないことが知れた。

「私、服が……」

 日生はまるで足だけは凍りついたようにその場に立ち止まったまま、しかし、急き立てられるように背中の行李から象牙色の織物を出して広げると、女の座す場所に向けて放った。

「これ、着ろ」

 目を泥にまみれた自分の破れ靴の爪先に落としたまま、男は呟く。

「早く」

*****

「どうもありがとうございます」

 急いで身に着けた割には丁寧に衣を着込んだ姿になると、女は深々と黒髪の頭を下げた。

 生地も作りも簡素な衣であるにも関わらず、女がその身に纏うと、急に贅を尽くしたものに見えた。

「あんた、連れは?」

 急速に暗さを増していく辺りに不安な目を走らせつつ、日生は尋ねる。

「私一人です」

 女は静かに答えた。

「こんなところに女一人で」

 言い掛けてから、少し思案して若者は問う。

「これから、どこに行く気だ」

 女は黙っている。

 日生は腰に下げた提灯を取ると、胸から出した火打ち石を擦って灯りを点けた。

「こんなとこじゃあれだから、取り敢えずうちに行こう」

 日生が灯りを手に歩き出すと、女は無言で従った。

*****

 二人があばら家に着いた頃には、辺りは藍色の闇に浸されていた。

「ここが俺の家だ」

 提灯を片手に若者が戸を開ける。

「お邪魔いたします」

 女はまるで高貴な館にでも訪れたように恭しく告げると、日生の後に続いた。

 提灯の薄ぼんやりした卵黄色の光が、若者の歩みに合わせて揺れながら粗末な家内を浮かび上がらせる。

 と、その光が、糸を張り巡らしたまま動きを止めているはたを捉えて上下した。

「あれは……」

 不意に女が声を出す。

 物問いだけな表情をすると、その顔はどこかあどけなくなった。

「お母の機さ」

 日生は笑った。

「死んだときのままにしてあるから、織りかけなんだ」

 男は話しながら、胸から取り出した火打石をまた叩く。

 薄暗い部屋が、パッと橙色に明るくなった。

一月前ひとつきまえ、俺がふもとの町で薬買って帰ってきたら、機に突っ伏したまま冷たくなってた」

 機を凝視したまま立っている女をよそに、若者は奥に食器を取りに向かう。

「それ、お母が完成して残してくれた、最後の一枚だ」

 女は服の胸に手を当てる。

 そうすると、垂れた黒髪が灯りを浴びて絹糸のように艶やかに光った。

 日生は一瞬、その様子に見入ったが、すぐに我を取り戻したように背中から荷物を下ろして荷解きを始めた。

*****

「申し遅れたが、俺は、日生といい、ここに一人で住んでる」

 汁を飲み終えた椀を置くと、若者は思い切ったように一気に語った。

 椀に装われた山菜入りの汁を珍しげに見入りつつ、少しずつ吸っていた女も目を上げる。

 つと、椀を擁していた白い手をそっと手前に着いた。

「私は綸裳りんしょうと申しまして、雲の上から参りましたの」

 言ってから、女は自分で可笑しくなったように笑窪を見せて笑った。

「気のふれた女とお思いでしょうね」

 笑いが寂しくなる。

「ただ、そのままでは容易に帰れない所から来たと思っていただければ」

 女が手前に置いた椀の中には、まだ半ば以上汁が残っていた。

「いや」

 今度は日生が目を落とす番であった。

「俺は、信じるよ」

 ややあって、黙していた若者が意を決して口を開こうとした瞬間、女が不意に黒髪の頭を下げた。

「しばらく、ここに置かせていただけますか」

 日生は口を半ば開きかけたまま、言葉の出所を失った格好で、女を見詰めた。

「衣が見つかるまでの間だけですから」

 顔を伏せた女の髪は、蜜色の灯りを浴びて、黒く染め上げた錦のように華奢な背の上でうねる。

「分かった」

 若者は痛みを堪えるような面持ちで、女を見下ろした。

「こんなところでもいいなら」

*****

「お母の布団に寝てくれ」

 機の後ろに忘れられたように畳まれている一式を指す。

「お粗末だけど、俺のよりはましだから」

 何のことやら分からぬという風に円らな目を見開いて座している女をよそに、男は立ち上がると、板張りを軋ませながら、機の置かれた部屋の隅に歩いていく。

「大丈夫さ、天女様に妙な気を起こしたりはしない」

 日生は布団を広げて枕を置き直しなら、からから笑った。

「俺だって命が惜しいからな」

 言い終える頃には、部屋の反対側の隅に回って、継ぎの当たった枕と敷布を出して、寝転ぶ。

「お母の服を着て、お母の布団に寝るんだから、お母だと思うよ」

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