天鵝の裳(ころも)
吾妻栄子
夏の呼び声
「
少し間を置いて並んでいる二つの小さな石の前で、
「一月前は葉っぱか
並んだ石の後ろの叢には、微かに黄緑を残した、白い百合の花が一輪、微風に揺れている。
若者の太い一文字眉の切れ上がった目は、眩しげにその様子に見入った。
「お
日生はそう呟くと、二つのうち古い方の石にこびり付いた砂埃を払い落とした。
「きっと、俺の方が丈は大きくなったよな」
石をまた元の位置に置きなおすと、節くれだった大きな手で確かめるように石の頭を撫でる。
「最後に抱っこしてくれた時、お父が倍も大きく見えたんだ」
風がさやかに吹き抜けて、二つの墓石に落ちる木の葉の影が手を振るように揺れた。
「年が明けたら、もう
潤んだ目で告げると、日生は足許に置いた解れの目立つ笠を被り、傍らの行李を背負う。
「じゃ、行ってくるよ」
返事の変わりに、木々の緑の葉が通り抜ける風にざわめいた。
*****
「しかし、今日は暑いなあ」
蝉の声が絶え間なく鳴り響く山道で、日生は顔から頸の下を一息に拭う。
だが、容赦なく照りつける夏の陽は、若者の額に新たな汗の粒を生じさせた。
「向こうの泉にちょっと寄ってくか」
本来の下り道を外れて、脇の細い上り道に入る。
傾斜の急なこの道に入ると、照りつく日差しは多少和らぐものの、むっとした草いきれの気配が鼻を突いた。
「ちょっとだけ、ちょっとだけだ」
日生は荒い息で呟くと、顎の下まで生い茂った手前の笹を掻き分けていく。
道が少し開けて、今度は若者の倍も高い竹の立ち並ぶところに出た。
鳥が何羽か甲高い声で囀りながら少し上を通り過ぎる。
――キイ、キイ、キイ、キイ。
竹林の中を鳴き声が遠ざかりつつ、尾を引くように反響する。
日生は歩きながら、鳥の飛び去る方をちらと振り返るが、また前に向き直った。
――キイ、キイ、アハハ、キイ、フフフフフ……。
弱まっていく鳥の囀りに、また別の澄んだ声音が紛れ込む。
日生は構わず青緑の竹の中を進んでいく。
――ハハハ、ハハハ、ウフフフフ……。
響いてくる声が、はっきりと人の女の笑い声の様相を取り始めた。
行李を背負った若者は足を止める。
「誰かいる……?」
日生は急に不安に駆られた面持ちで行く先を見上げた。
行く手に見える、一本だけ図抜けて高い竹の葉の上に、何か、
風を受けてゆらゆら揺れながら、それは陽の光を浴びて七色に煌いていた。
「何だ、あれは」
日生はまるで吸い寄せられるように足を早めた。
一歩近付くたびに、不思議な布は、まるで手招きするようにはためく光彩を鮮やかにしていく。
――フフ、ハハハハハハハ……。
聞こえてくる笑い声も耳の中で大きくなってくる。
その声は、手放しに喜ぶ調子からして童女かと察せられたが、しかし、子供にはない厚みをどこかに備えているようにも思えた。
次第に開けてくる空は、抜けるように青く、陽射しは一足ごとに強まっていくようであった。
「うわっ」
唐突にこちらにぶつかってきた風と共に、視野がワッと一気に明るくなって、緑と紫の残像に閉ざされる。
山道に仰向けに倒れた日生は、後頭部に軽い衝撃の名残を味わいつつ、顔全体を羽毛に覆われた感触を覚えた。
顔に貼り付いたものを剥がし、また視野に
「誰かいるの?」
「そこに、誰か……」
しかし、日生が返事をする前に、唐突に、ザーッと大波にも似た音を立てて、風が通り過ぎた。
男は弾かれたように立ち上がると、元来た道を掛け戻っていく。
ゴーッと吠えるように背中に打ちつける風に追われて走りながら、日生は我知らず手にした衣を胸に抱き締めていた。
*****
あばら家に飛び込んで、錠を差すと、日生はやっと安心してその場に座り込んだ。
だが、片手に抱えた衣は、まるでそこだけ小さな虹が架かったように七色の光を発している。
男はぎょっとして、まるで炎が燃え移るのを防ぐかのように、持っていた衣を放り出す。
衣は床にはらりと広がると、面積が増えた分だけ余計に強く、虹色の光彩を放ちだした。
「こりゃ、えらいもんだ」
日生は慌てて、衣をまた拾って畳むと、家の中を天上から床までぐるりと見回した。
と、部屋の一角に、床の張り板が一枚わずかに浮き出ているのが目に入る。
思わず、駆け寄って、張り板を外し、生じた暗い隙間に畳んだ衣を押し込んで、また上から板を嵌め込む。
「取り敢えずは、ここに……」
若い男の全体重を掛けると、張り板はあるべき位置にカチリと収まった。
しかし、今度は、張り板同士の微かな隙からは、虹色の光が淡く漏れ出ているのに気付く。
日生が再び家内を見回すと、部屋の別の隅に、母親の遺した長持が、忘れられたように置かれているのが目に入った。
光の漏れ出る部屋の一角に、蓋するように
日生はそれで力を使い果たしたように長持に突っ伏すと、ほっと息を吐いた。
「こんなの売ったら、罰が当たっちまうよ」
再び外に出ると、頭上には元通り抜けるように青い空が広がっていたが、辺りは静かであった。
ふと、遠くに目をやると、灰色の雲がうっすらと立ち込めていた。
「降り出す前に、早めに帰らんとな」
一人ごちると、日生は荷物を背負いなおして、いつもの調子で歩き出す。
「今度は寄り道せずに行こう」
言い聞かせるように呟くと、若者は下り道を進む足を早めた。
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