天鵝の裳

 サーッ、パタン。

 シャッ、シャッ。

 日生がうっすら目を覚ますと、象牙色の衣の背中に艶やかな黒髪を垂らし、はたを一心に織る女の後姿が見えた。

 サーッ、パタン。

 シャッ、シャッ。

「お母」

 夢うつつに呟くと、ふと女が手を止めて、振り向いた。

「起こしてしまいましたかしら」

 窓から差し込む朝の光を浴びて、その顔は逆光になっていたが、雪のように白い肌も、大きな黒い瞳も、それ自体が光を放つかのように、本来の面影を浮かび上がらせる。

 振り向いた格好だと、細く長いくびがいっそう目立った。

「ああ」

 一気に何もかも思い出した体で、日生は目を見開き、半身を起こした。

 しかし、次に何をすべきか分かりかねる風に、目を落とす。

「天界の機とちょっと形は違うけれど、基の仕組みは同じと分かりましたの」

 男の戸惑いをよそに、女は嬉しげな声で語った。

「そう」

 肯定も否定もしかねる日生は頷くしかない。

「一枚は織り上がりました」

 女はいそいそと傍らの布を手に、男に歩み寄ってきた。

 日生は気圧けおされた形で動けなくなる。

「半分はお母様の織ったものですけれど」

 ふわりと差し出された織物を目にした若者は息を呑んだ。

 それは一見すると、全体に精緻に織り込まれてはいるものの、何の変哲もない象牙色の生地である。

 だが、間近に眺めると、朝日の中で微かに七色の光沢を帯びて照り映えた。

「これは……」

 日生はまるでなぞるように織物全体を大きな掌で撫ぜた。

 途中までは、きめ細かく、肌触りの柔らかい生地で、母親の織った部分とすぐ知れたが、ある地点を境目にして、まるで鳥の羽を撫ぜているような滑らかな感触が端まで続く。

「雲の上でも機を織っていました」

 すぐ隣で改めて目にする綸裳の唇は紅梅の花びらと同じ色をしており、その唇から控えめに覗く歯は真珠のように白く整っていた。

「地上の糸は性質が違うから、羽衣にはならないけれど」

 全体としては白い手だが、滑らかな桃色の爪をした、腹はほんのり薄紅を含んだ指先が織物をなぞる。

 生地の上で、その手が、自分の節くれだった、大きな小麦色の手の隣まで近付いてくると、日生は我知らず、手を引っ込めた。

 女のそれと並ぶと、あまりにも、無骨で、まるでけだものの手であった。

「普段、私やあなた方が身に着ける分には支障ありませんから」

 曇りの無い笑顔で語る女からは、百合に似た香りがほのかに漂ってくる。

「あなたの服も大分傷んでいるようですから、よろしければこちらをお召しになって下さい」

 綸裳を見詰める日生の面に、ふと突き刺さったように痛みが走った。

「俺には、こんなのもったいないよ」

 それを耳にすると、女の表情も打って変わって沈む。

「要りませんでしたか」

 まるで、叱られた幼子である。

 容姿としては十七、八の娘に見えるが、立ち居振る舞いはもっと臈長ろうたけたよわいに相応しく、しかし、時折の表情によっては偽ることを知らない童女にも映る。

 この女には、決まった年配を当てはめることが出来ない。

「麓の町ではきっと喜ばれるから、また織ってくれ」

 日生は慌てて言い足した。

「俺は、そこの長持に入ってる服を自分で適当に出して着るから、気にしなくていい」

 話しながら若者は立ち上がる。

「それより、朝飯にしよう」

 扉を開けようとして、日生はふと思い出したように振り向いた。

「夕べのわらびはこの家の裏で採れたやつだけど、不味まずくても食わねえと、体もたねえぞ」

「分かりました」

 綸裳が従順に微笑むと、男は安堵したように扉の向こうに姿を消す。

「あっ、さっそく出てきたな」

 閉めた戸の向こうから飛び込んできた声に、女はつと視線を向けた。

「こらっ、待て」

 扉越しにバタバタと足音が響いてくる。

 綸裳は織物を傍らに畳んで置くと、立ち上がって戸口に向かった。

 バタン。

 女が白い手をかけるより先に扉が開いた。

「すぐそこにいた」

 日生の腕の中では、雪のように白い兎がもがいていた。

「こんな大きくて真っ白いの、ここいらでは珍しいよ」

 綸裳は大きな黒い瞳をじっと紅玉じみた目の獣に注ぐ。

 白く艶のある毛並みも、透き通った髭も、全体に丸々太った体つきも、野生で育ったよりも、むしろ人の愛玩を受けた生き物に相応しかった。

「こいつならきっとうまいぜ」

 男は子供のように邪気の無い笑顔で言う。

「俺も半月ぶりに肉が食える」

 手足をばたつかせる白兎を抱きかかえたまま、日生は悪びれずに語ると、部屋の隅に忘れられたように置かれていた真新しい匕首を取って、また扉の外に出て行く。

「ほら、観念しろ、お前の肉も、皮も、一つも無駄にはしないから!」

 戸の内側では、女は一貫して表情のない顔で立ち尽くしていた。

*****

「せっかくさばいたんだから、食えばいいのに」

 串に挿した炙り肉を新たに頬張りながら、男は非難よりも純粋に疑問を示した様子で言う。

「私は、山菜の汁だけで十分ですから」

 女は容易に帰れない場所から来たと告げた時と同じ寂しい笑いを白い面に浮かべている。

 窓からの陽射しを避けて影になった場所に座しているせいか、その顔は幾分青ざめて見えた。

「やっぱり天女様は体の作りが違うのかな」

 日生の小麦色の顔に羨望が顕れる。

 こちらは陽射しのちょうど差し込む位置に座っているため、どんな表情も隠せない。

「俺は暫く肉を食わないでいると、薪切ってても、すぐへばっちまうし」

 顔よりも陽に焼けた大きな褐色の手の甲で口元を拭う。

「お母は俺にばっかり食わせて、自分は肉食わないでいたら、どんどん弱ってった」

 椀を持ち上げて、残った汁を一気に飲み干す。

 女は先ほど捕らえられた兎に注いだ時と同じ澄んだ双眸でその様子を眺めている。

「俺らも肉食わずに生きていける体だったら良かったな」

 半ば独り言のように語ると、日生は空になった椀と串を重ねて片付け始めた。

 今度は陽に晒された若者の顔の方に寂しい笑いが浮かんでいる。

「私がやります」

 日生が女の飲み干した椀にまで無骨な手を伸ばすと、綸裳は静かにだが確固とした口調で告げた。

「天女様にこんなこと……」

「綸裳と呼んで下さい」

 苦笑いする若者に、女は打って変わって縋る口調で続けた。

「羽衣が無ければ、人の女性にょしょうと変わるところはございませんから」

 女からは、百合の香りに似た甘い匂いが先ほどより強く立ち上ってくるようであった。

「ここに置いて下さる限り、はしためとして扱っていただいて構いません」

 すぐ間近に迫る綸裳の潤んだ瞳や緋色の唇、細く長いうなじに、衣の上からもそれと分かるふくよかな胸を、日生はまるで毒蛇にでも出くわしたかのような目で見入る。

「あなたに罰が下ることは決してない」

 囁くような女の声に、男は激しく首を振った。

「いいや」

 日生はむしろ自分に言い聞かせる語調で続ける。

「あんたのことはお母と思うことにするよ」

 若者はそう口にしたことで、自分で安心したように微笑んだ。

「だから、ここにいる間は、お母と同じことをして欲しい」

 その言葉を耳にした女も打って変わって、安らかな表情に転じた。

*****

「普段の水は、こっちから汲めるよ」

 そろそろ昼の熱気を帯びつつある陽射しの下、古びたまさかりを携えた日生は、こちらは洗い桶を持った綸裳に湧き水を示した。

「ここで汲めば、家まですぐだろ」

 若者は数十歩離れた先に見えるあばら家を指す。

「わざわざあの泉まで行かなくたって、ここの湧き水で、洗濯だって、行水だって、何だって出来るさ」

 そう言うと、暑さに耐えかねた風に、日生は湧き水を手で掬って、自らの顔を洗い流した。

 それまで後ろで黙って聴いていた綸裳は、ふと、湧き水の傍に並んだ二つの石に目を移す。

「これは……」

「お父と、お母の墓さ」

 袖で顔に残った滴を拭きながら、男は答えた。

「ここからなら、故郷の麓の町も見えるから」

 黙したまま並んだ墓石に見入る綸裳をよそに、日生は遠く広がる景色に向かって、半ば独り言のように付け加えた。

「今日は天気がいいから、向こうまではっきり見えるよ」

 物言わぬ二個の墓石のすぐ後ろでは、既に咲いた百合と新たに開きかけた百合の花が、並んで睦まじげに揺れている。

 女はどこか哀れむように微笑むと、白い手で二つの花をそっと撫でた。

*****

「綸裳の織ってくれた服、飛ぶように売れたよ」

 行李を下ろして、解れた笠を脱ぐと、日生ははしゃいだように告げた。

「おかげで一番いいやつが買えたよ」

 真新しい刃の光る鉞を見せると、しみじみと続けた。

「ずっと新しいのにしたかったから、本当に助かった」

「それは良かったわ」

 女も心から嬉しげに笑うと、傍らの籠に入った桃を一つ取って、剥き始めた。

「あれ、それはどこで……」

 男は籠を満たすふくよかな薄紅色の果実に目を丸くする。

「裏を少し行ったところに桃の木があったの」

 綸裳は少しも荒れる気配を見せない白い手の中で、野生の実の瑞々しい果肉を顕わにしていく。

「そりゃ知らなかったな」

 日生は、傍目にも蜜をたっぷり含んだ桃の白い肉片と女の指先に見入った。

「表の山道には柿と栗の木があるけど、裏には普段、薪取りにも行かなかったから」

 男の呟きに、綸裳も皮を向く手を休ませずに頷く。

「私も蕨を採りに行くついでにその先をちょっと探して、偶然見つけたわ」

 終わりに行くに従って、女はどこか乾いた口調になった。

 日生はふと思い出した風に傍らの行李の蓋を開けると、磨かれた漆器作りの茶筒を取り出した。

「湯沸して、桃と一緒に、これ、飲もう」

*****

「香りのいいお茶ね」

 花の香り立つ湯気の中、湯呑みを手にした綸裳は白い頬に笑窪を浮かべた。

「お母もこの茶、好きだったんだ」

 日生も釣り込まれるように一文字眉の切れ上がった双眸を細くする。

「麓に住んでた頃は、よく飲んでた」

 湿った声に自分で気付いたように、男は改めて笑顔に戻ると、手元の皿に残った桃の最後の欠片を頬張る。

「気に入ったなら、また町で買ってくるよ」

 女は微笑んで頷くと、つと立ち上がって、機のある部屋の隅に向かう。

 日生がどうしたことかとその様子を眺めていると、綸裳は機の後ろから、まだ青い素材の編み笠を手にとって示した。

「今日、待っている間に編んだの」

 男は喜びよりもむしろ驚きで目を見張った。

「次は、これを被って行って下さいね」

 綸裳は優しい手つきで、日生の真っ直ぐだが太く固い黒髪の頭に真新しい笠を被せる。

「どうもありがとう」

 日生は照れたように笑った。

「ぼろの笠でいつもみっともなかったからな」

 頭から外した笠を手に取り、一点の解れもなく編まれた青緑の模様を撫でた。

「何で編んだ?」

 本来の若草色の地に混じって、微かに七色の光沢が見える。

「あそこの泉の周りにあった竹の皮で編んだの」

 男の笑顔が僅かにそれと知れる程度に固まった。

「やっぱり、見つからないみたい」

 沈痛な声で告げると、女は長い睫を伏せる。

「もう随分探したけれど、あの衣はもしかしたら……」

「大丈夫だよ」

 悲痛な面持ちで続ける綸裳を日生は遮った。

「すぐ、見つかるさ」

 すっかり笑顔の消えた男は、手にした新しい笠に目を落として苦い声を出す。

 向かい合う二つの湯呑みからは、まだ、花の匂いを含む湯気が仄かに立ち上っていた。

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