2:嘘
目が覚めると、私は自室のベッドの上にいた。
カーテンの隙間からぼんやりと薄暗い空がのぞいていた。
腕を目一杯伸ばし、充電中のケータイをベッドの下から引っ張り出す。画面には「04:05」という数字が映し出されていた。
私は布団を頭までかぶり、目を閉じてみるが、一向に眠れる気配がない。完全に目も頭も冴えてしまった。
私は観念してベッドから起き上がり、シャッとカーテンを開けた。朝日すらまだでていない。
珍しいこともあるもんだ、と思った。
私は典型的な夜型、そして極度の低血圧だった。目覚ましを五分おきに一時間鳴らし続けてようやく目を覚ますほどである。
私はぐぐぐっと背伸びをした。
「おはようございます」
一人呟いてみる。
「おはようございます!」
さっきよりも少しだけ大きな声で言ってみる。
そしてサイドミラーに向って微笑んでみる。
そんなことをしながら部屋をぐるぐる歩いているうちに私は楽しくなってきた。
せっかく早起きしたし、ちょっと散歩してみようかな。
私は衣装棚からお気に入りのTシャツとハーフパンツを取り出し、着替えた。最後に椅子にひっかけてあった薄めのパーカーを羽織る。7月初旬とはいえ、さすがにここまで朝早いと寒い。
10分足らずで軽く身支度を済ますと、両親や兄弟を起こさないように気を付けて家を出た。
外に出るころには日が頭を出し、先ほどよりも空は明るくなっていた。雲一つない快晴だった。
心地よく冷たい空気を肺一杯に吸い込んだ。
気持ちいい。心からそう思った。
私はトントントンとその場で足踏みをしたのちに、そのまま駆け出した。
足が想像以上に軽く、よく動くので、少しずつ加速した。
風を身に纏う。走るときのたとえとしてよく用いられる比喩表現だが、今自分の体は比喩などではない、言葉通りの状態になっていると感じた。
中学から大学まで私は陸上部に所属していた。部活の時間外でも空いている時間を見つけてはこうして近所を走り回った。体を動かすのが、走るのが、本当に好きだった。無我夢中に駆け抜けた学生時代だった。
陸上から離れて数年経つ。社会人になってから、私は何度走っただろう。あんなに好きだったのに、どうして走ることをやめてしまったのだろう。走りながら、私は少し後悔をした。
見慣れ親しんだ近所の街並みも、走っている時だけは決まって異国の街に見えた。これも数年ぶりに見る景色。
楽しさよりも懐かしさがだんだんと上回り始め、少しだけ辛くなる。
痛い。痛い。
それでも私の足は止まらない。
このまま海岸まで行こうと思った。
「一緒にインターハイに出よう」
中学2年の春、日が落ちかけた校庭で親友の
「インターハイ?」
香織は力強く頷く。
「ボクとキミ、二人で」
「……」
香織はハードル。私は幅跳び。
香織の言う「二人」とは、それぞれ個人競技での出場のことだろう。地方の小さな中学校の陸上部にリレーを組めるだけの人数はいない。
私は去年地区上位、県大会出場、香織は県大会にすら出れていない。
しかし彼女は今、「県大会出場」でも「地区大会上位入賞」でもなく、「インターハイ」と言った。
その言葉が冗談や気休めなどではないことをその目は語っていた。
だから私は誠心誠意をもって答えた。
「私は陸上が好き」
「うん」
「好きだから、嫌いになりたくない」
「うん」
「香織なら言ってること分かるよね」
「…うん」
部員8人という存続ギリギリを走る陸上部の次期部長と謳われる私がこんなザマで情けないと思った。でも、だからこそ届かない夢を追って、失くしたくはなかった。
私は香織のように強くない。覚悟などない。安易にインターハイなんて口にできない。
香織は少しだけ俯いた。
「香織…」
思わず、ごめん、と言いそうになった唇を噛む。
香織は顔を上げた。
「ううん、ごめん、変なこと言って。聞いてくれてありがとね!」
香織は明るい声でそう言った。
その日そのあと香織とどんな会話を交わしたのか、正直覚えていない。
覚えているのは、次の日からも香織と私は部活に出て、今まで通り走りこんでいたこと。夏の大会が終わり、3年生が引退すると前部長の推薦で部長になったこと。そして自分たちの代の最後の大会で、香織は県大会出場を逃して他の部員より早々と引退したこと。私は県大会上位に食い込んだが、練習中のけがによりインターハイ出場を辞退したこと。
それらの事実以外は何も覚えていなかった。
喜び、悲しみ、悔しさ、後悔、当時感じていたであろう感情の一切を思い出すことが出来なかった。
私は中学を卒業した後、進学校に進み、そこで相変わらず細々と陸上を続けていた。
香織は県内の有名私立校に進んだ。陸上はやめてしまったらしい。
やめた理由を尋ねると、
「私もともとそんなに走るの好きじゃないし」
と、笑顔で言ったことをよく覚えている。
高校2年くらいまでは連絡をとっていたが、3年に上がるころにはすっかり疎遠になっていた。
呼吸が苦しい。
どんなに少人数でも、弱小でもいい。走れればそれでいい。高望みはしない。そう思って入った大学の陸上部。
部どころか、サークルと呼ぶにも値しない。入部2日目で私はそう思った。
部室に部活道具は一つもなく、あるのはTVゲームと灰皿と酒びん。
その状況に困惑しながらも私は一人大学の敷地を走った。
「何してんの」
数人で歩く同級生に声をかけられたことがあった。
「私陸上部だから」
「へええ、お疲れさま」
通り過ぎた直後に同級生たちが交わしていた会話を私は忘れない。
「陸上部ってあの?」
「じゃない?」
「ああいう人もいるんだね」
「んー変わってるよね」
私は次の日陸上部をやめ、バスで30分のところにある別な大学の陸上部に入った。いま一つ馴染めなかった私は、大会で名義だけを借り、練習にはほとんど顔を出さず、ひたすら家の周りを走っていた。
そんな状態で大会で好成績など残せるはずもない。
結果を望めない大会で、気づくと私はいるはずのない彼女を探していた。
視界に広がるのは、白、青、そして淡い赤の三色。
私は少しずつ速度を落とし、やがて立ち止まった。一度上がった呼吸は簡単には落ち着かない。
白に足を踏み入れる。
砂浜は急激な運動で疲労した足を優しく受け入れた。
波の、砂浜の、優しい音に不意に泣きそうになる。
思い通りにならないこともある。
そう割り切れずに立ち止まってから何年経つのだろう。
このまま波に攫われるのもありかもしれない。
私はさらに海に近づこうとしたその時、少し離れたところでしゃがみ込む一人の人物に気づいた。
こんな時間に外を出歩くもの好きが私以外にいたことに驚く。
私はなるべく足音を立てないように気を付けてその人物に近づいた。
顔を認識できるところまで近づいたとき私は驚きのあまりその人物の名前を呼んでしまった。
「
紗彩は驚いた様子で私の方を見た。
身長も髪型も何もかもあの頃と違う。でも間違いようがなかった。
中学時代、私の代のもう一人の陸上部員、
特段親しかったわけではないが懐かしさのあまりに声をかけた。
「久しぶり~、覚えてる?」
「もちろん…びっくりしたぁ」
紗彩は目をぱちぱちさせていた。
「ホントびっくり」
「隣座ってもいい?」
「もちろん!」
私は紗彩の隣に腰を掛けた。砂が付こうとこの際気にしない。
「いつこっち来たの?」
紗彩は父親の転勤に伴い、私が部長になった直後に転校したのだった。
「んーなんか帰ってきたくなって」
紗彩は何でもないことのように言った。
質問の答えではなかったが私はそれ以上追及しなかった。
「それにしても偶然ってすごいね。私、今日たまたま早起きして走ってたとこ」
「走ってたの!?相変わらずだなー」
紗彩はケラケラと笑った。その笑い方は心地よいやら懐かしいやらで思わず私もにっこりした。
「いや、働き始めてからもう全然走ってなくて、今日はホント久しぶり」
「えーそうなの?」
「紗彩は?あっちでどうだったの?」
当時中学生は携帯電話など持っていなかったため、紗彩とは連絡を取るまでに至っておらず、紗彩のその後を何一つ知らなかった。
「転校先さー、陸上部なくて」
「えっ」
予想外の一言だった。
紗彩は私の学校のぶっちぎりのエースだった。転校さえしてなければ私ではなく紗彩が部長になっていたのだ。
その紗彩が陸上を続けていなかった。
もう10年近く前の話とはいえショックだった。
勿体ない、という言葉を紗彩の心境を思い、飲み込む。
「そっか」
「まあ、しょうがないよね」
紗彩は遠くを見つめていた。
「高校では?」
「んーブランク空きすぎだったからねー。見学には行ったけど入んなかった」
紗彩だったら多少のブランクは問題ないだろうに、彼女のプライドがそれを許さなかったのだろう。
そして紗彩は私の方を見ることなくおもむろに言った。
「私ねー、こんなこと言ったら嫌われるかもしれないんだけど、きっと陸上が好きじゃなかった」
「……」
私の胸の中のどす黒い何かがゴソゴソと動く。せっかく走って気持ちがすっきりしたのに台無しだ。
どうして、皆そろってそんなことを言うのだろう。
「私足も速いし体力もある。大会で上位に上がれるから陸上部に入ってただけ」
「……」
言葉が出ない。
「やめてすっきりしたよ」
「…あのさ」
やっとのことで言葉を絞り出した。
「ん?」
「……」
しかし言葉が続かない。正直自分が何を言おうとしているのかも分からない。
しばらく続いた沈黙を破ったのは紗彩だった。
「もー嘘だよ、馬鹿!」
「はあ?」
「ほら、そんな怖い顔しないでって」
唖然とする私を差し置いて紗彩は勢いよく立ち上がった。
「走ろ」
「え」
「ほら立って立って!」
紗彩は強引に私を立ち上がらせた。
「ファイッ!」
紗彩は一人駆け出した。
「あ、ちょっと!」
私は何が何だか分からないまま立ち上がった。とりあえず後に続こうとしたが、砂浜に足を取られよろける。
足元が砂浜だと思えないほどの足の軽さで紗彩は走っていた。
紗彩だ。
「ちょっと、速い!」
なんとか紗彩に追いつき文句を言った。
「紗彩ってば!」
「はいはい」
紗彩は少しだけ速度を落とした。
紗彩の顔は生き生きとしていた。
「楽しい」
「え?」
「走るの嫌いになれるわけないじゃん、好きだよ、ずっと」
走りながら紗彩はそう言った。
きっとこれは本心だと私は思った。
「私も好き」
そう言わなければならない気がした。
「知ってた」
紗彩はニヤッとした。
「やっぱ最高」
紗彩は息切れ一つせずにそう言った。
「なんか夢みたい、紗彩とこうしてまた一緒に走れるなんて」
「ホント」
改めて偶然ってすごいと思った。もはや奇跡だとすら思う。
「話変わるけどさ、」
そう切り出したのは紗彩。
「昨日の夢に香織が出てきた。香織覚えてる?」
「マジ!?どんな夢?」
紗彩に会うまで香織のことを考えていたことが悟られたような気がして少しドキッとした。
「なんか本当は陸上好きじゃないとかほざいてたな」
私は思わず吹き出しそうになった。
「それ正夢」
「なんだって?」
「高校入ってからそんな感じのこと言ってたよ」
「まじかー、さすが」
紗彩は明るく笑った。
胸の中でずっと燻っていた何かがすっと溶けた気がした。
「てことは、さっきの香織の真似?」
「ばれた?」
「やめて傷つく」
今度は二人で笑った。
「夢すげー」
「あー怖い怖い」
自分は昨日どんな夢を見たか少し考えた後、すぐに思い出した。
「私は修羅場に直面する夢見たなー」
「うわキョーレツ、どんな感じだったの?」
「私の彼氏の家に行ったら元カノがいた」
「やばっ、てか彼氏いんの!?」
「まさか、夢だよ夢」
自分でも驚くほど鮮明にその夢のことを覚えていた。自分の彼氏であった人物やその元カノの顔も名前もやり取りも全て。
私の今の現実とはかけ離れたもので、どこか別な世界での出来事のように思える。
「ふーん」
紗彩はあまり関心が無いようだった。
私は話題を戻した。
「紗彩はいつ戻るの?」
「ずっといるんじゃないかな」
「えっ」
紗彩は笑った。
その笑顔がどうしようもなく寂しいものに見えたのは、絶対に気のせいではない。
「紗彩…」
「あっ、だいぶ明るくなってきたね」
紗彩は私の言葉を遮り、空を見上げて言った。
私も空を見上げる。
紗彩の言葉通り、日は完全に昇り、空は青空が広がっていた。
「今6時くらいかな。そろそろ帰る?」
「…そうだね」
紗彩は元の明るい表情に戻っていた。先ほどの寂しげな笑顔が気になったが聞かなかった。
私と紗彩は少し休憩した後に、海岸を離れた。たわいもない話をしながら歩いて帰った。
紗彩は自分の家の通り道だと言って私を家まで送ってくれた。
「今日はありがと、会えてよかったよ」
紗彩は私の家の前で別れる直前に言った。
「ううん、こちらこそ楽しかった」
「あのさ、また一緒に走ってもいい?」
紗彩は少し照れくさそうにそう言った。
「もちろん!いつでも誘ってよ」
「やった!」
紗彩は無邪気な笑顔を見せた。
嬉しかった。
私は少なからず紗彩に対し劣等感を感じていた。中学時代そこまで親しくならなかったのはそこにも原因があったのだろう。
紗彩は私に対してももしかしたら同じような感情を抱いていたのかもしれない。その考え自体が自惚れなのは分かっている。
実は似た者同士だったのだ。それに今気づいた。
だから嬉しかった。
「じゃあ、またね!」
「うん、また!」
紗彩の後ろ姿を見届けた後、私は家に入った。静かな様子からまだ家の人たちは起きていないらしい。
私は軽くシャワーを浴びて着替えたところで急激に眠気に襲われた。こんな早朝にあれだけ走ったのだから当然と言えば当然だ。
出勤までまだ時間があるからもう一眠りしよう。
ケータイのアラームを設定し直し、私はベッドにダイブした。
胡蝶が舞う 柚瀬 紫苑 @yuzu_se
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