第29話
やがて太陽が昇り始めると、遙か前方から風檣陣馬の如き軍団がやって来た。滄海は黒々とした重厚な鎧の海と化した。やがて島は、対岸の屋島と地続きになり、千軍万馬の嘶きや雄叫びが彼方から聴こえて来た。それまで心静かに神に祈りを捧げ、創造主に賛美を捧げていた黒田如水は突如、眼をかっと見開き、合流した万軍の兵に「我に続け!」と鬨の声をあげた。
己の不自由な左足を引きずりながら、馬上の者となった如水は、目の前の情景に眼を疑った。島に張り付く無数のもののけがこちらを凝視しているのを見た。馬たちも恐れおののいて嘶くだけで前に一歩も進もうとはしない。
「気味が悪いのう」
「喰われてしまいそうじゃ」
方々の兵からは恐れおののく声が上がった。如水とともに参戦した高山右近が西ノ瀧の中腹に立つヨイチの姿を見つけた。
「あの巨巌の上に立つ山賤は誰ぞ」
「一見するや丸腰でござります。あやつ、たった一人で雲霞の如き大軍のわしらと戦うつもりか。たわけものめが!」と皆はせせら笑った。
黒田如水率いる秀吉軍は、五七の桐が染められた戦の旗を翻し、波風が吹く中、西ノ瀧に進軍して来た。それを見ていたヨイチは、張り裂けんばかりの大声で、
「黒田如水。わしらをどうするつもりじゃ」と叫んだ。
「――この国を治定に参った」黒田如水は威厳のある声でたった
ひとこと、そう言った。
「其の方の家来が夜な夜な島の方々に上陸し、成年と見られる島の民を片端からさらって行った。よってこの島には孤児となった子どもと年寄りしかおらぬわ」
ヨイチは咆哮し、天下の策士と呼ばれる黒田如水と対峙した。
「知っておる。私が命令を下した」如水は剛健な真太い眉をピクリとも動かさず言った。
「それは、耶蘇教らしからぬ愚かな振る舞いと思うが如何かっ!」
ヨイチは腕に抱えた分厚い経典を頭上に高々と上げ言った。如水の左に控えていた小西行長が鋭い眼を剥き出して、
「あれは、我々耶蘇教の経典にござりまするっ!」と吼えた。
如水は「おぬし、それをどこで手に入れた」と唸った。
ヨイチはおもむろに、経典の中ほどを開き、ゲンジに教わった通りにみ言葉を読み始めた。イザヤ書だ。
「わたしの前で、悪事を働くのをやめよ」
イザヤ書は預言の書と言われており、預言者イザヤを通して創造主がしもべらに語りかけたものとして残る。
「悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている」
高山右近はまんじりともせず、ヨイチの語るみ言葉に耳を傾けた。小西行長の後ろでは、たちまち馬から降り、膝をかがめ十字を切る者、両手を合わせ祈る者も出てきた。
「箴言。自分を智慧のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ」ヨイチは経典を読み進めた。
黒田如水はたまりかね叫んだ。「お前はいったい何者だ!」
ヨイチは経典を閉じ、わずかな沈黙のあと、言った。
「創造主がこの天と地を創られ、全てのわざを終えられた後に休
まれた日が今日。安息日は聖なる日とされる――」
それを聞いた如水は、口元をゆがめ躰を強張らせた。
「安息日は――」ヨイチは続けた。
「戦をしてはならない」と断言すると、
巨巌に張付いていた生スダマやもののけたちが一斉に岩を滑り降
り、山が動くの如きの勢いで迫って来た。
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