第21話

 不動明王寺では、朝の勤行が始まってもなお現れないゲンジと千吉に不審を抱いた忠吉と安吉兄弟は、庫裡に向かった。

――――姉ちゃん?

おせいの手から滑り落ちたのは、ゲンジの書置きだった。

――不動明王寺老師

西ノ瀧へ参る勝手をどうかお許し下さい。素性の分からぬ私に塒や食を施して下さったご恩は決して忘れません――

金堂では、老師とリキュウが不動明王に向かい般若心経を読誦していた。

 ――色不異空

 ――空不異色 

 ――色即是空 

 ――空即是色

見るもの、聞くもの、

過去も未来も、

生も死も、

すべては空、なのである――――

――ゲンジよ、一切は皆、空。

しょせん「生きる意味」を突き詰めたとて、それは苦しみしか生まれない。

自分という拘り、死という拘り、恐れ……これら一切の拘りが苦しみを生む。

しかし、その拘りを捨て去った時、お前の望む、まことの「生きる意味」というものを知ることが出来るのじゃ――――

老師は心の中でそう祈った。

西ノ瀧の北壁は斜度としては垂直に近く、真下から見上げるそれは、屏風を立てたようにそそり立つ奇勝といっていい。

強化服に身を包んだゲンジは、足場となる窪んだ岩を探しては、一歩また一歩と嶮壁を登る。乾燥した晴天が続いたこともあり、登攀は容易いと思われた。直

後にザワザワと木々が揺れた刹那、一陣の風がゲンジの背後から襲って来た。

――何っ

物の怪のような眼眸がゲンジを射抜く。

彼の頭上で何者かが叫んでいる。

――しょせんお前は、野垂れ死ぬことも出来ず、かと言って、身命を投げ出すほどの勇ましさも無く、託つことばかりの情けない奴。

己の力量でこの金剛界なる西ノ瀧の北壁を登ることも出来ず、得度を授けられたのに、再び優婆塞うばそくに戻ってしまった。たとえ主からの命でも、わしは絶対にお前の先導などしないつもりだ。癪に障るわ。二度とここには来るな!

驟雨が北壁に叩きつける。ヨイチの怒号はなお業火のように降り注いだ。

「待ってくれ!」ゲンジは叫ぶ。

「自分は――」

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