第15話

 あくる朝早く、忠吉・安吉・千吉三兄弟が、西ノ瀧に二人を案内するという。

寺は四方を山で囲まれた小さな集落のはずれにあり、棚田と湧き出る清水があるお蔭で代々この寺は守られている。

蝉の声が喧しい。棚田の脇を通ると、朝、成虫になったばかりの鬼やんまが羽を風に当てていた。

一心に見つめる千吉を呼ぶ忠吉の声は、谷にこだまする。青田の周りで相撲を取っては、両親にしたたかに怒られた。隠れ鬼をしていて、草いきれに我慢できなくなり顔を上げると頭上には入道雲が沸いて出ている。

「大入道やぁ」と叫んでは鬼に一番に見つかってしまう弟の安吉。今となっては何もかもが懐かしい。皆、いつ戻るか知れない。着物の袖で何度も涙を拭いたので、忠吉の袖は薄汚れている。途切れた道を曲がる先から白檀の薫香が漂って来る。野の姫百合が恥らうほどのたわやかな香り。

「夏の野の 茂みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものぞ……」

万葉の歌を誰かが詠んでいる。

鈴をころがすような声が耳に心地よい。

(リョウ……?)

ゲンジは先を急ぐ。

黒南風らしき風に乗って薫る香は、ゲンジの躰を弄ぶ。柳風にしなうように、薫る風に吸い寄せられる。鉄葎かなむぐらのツタが足に絡みつき動けない。女の着ている小袿が揺れ、絹擦れが起こる。その余韻がだんだんと近づいて来る。

黒雲が垂れ込めて来て、遠くで雷鳴が聞こえる。物言うことなく、ただ女は手招きをする。一歩前に踏み出した後にはたちまち山棘が生い茂る。彼の後を追うリキュウは一瞬で姿を見失ってしまった。

「ゲンジっ!これは罠だっ!」

吼えるように怒鳴るリキュウの声もゲンジには聞こえない。

雷鳴が谷の真上で轟く。

「リョウ……さんとはどなたのこと?」

言名附だと言えば良かったのだろうが垂髪に手をやるゲンジは答えない。

「想い人に逢えず悶え苦しむのは世の常。さぞお寂しいことでしょう・・・」

手を重ねた女から吐息が漏れる。

(でも・・・私は彼方と契りを結びたいのです。今ここでお返事

を・・・聞かせてくださいませ)

女の吐息はゲンジのしなやかな肢体に纏わり付く。

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