第3話

――ちゃんとご飯食べてる?

ふっと笑みがこぼれる。 

――食べている。心配無き様に。

ただひとこと書いて送ると、「……全くつれない返事だな。色気も何もあったものではない」

今までゲンジの携帯電話の画面を覗きこんでいたリキュウがあれを見よ、と真正面に見える阿讃山脈を指差した。

手前の山裾には、不動の大木が幾本もそびえ、若い木には、柔らかな陽が降り注ぐ。伸び盛りの木々たちの間を往来する四十雀や、ふだんはあまり見ることの出来ない駒鳥の朱色のかぶりものがせわしなく動いている。そこかしこで野鳥の雄が声高らかに囀っては飛び、飛んでは囀りしている。

「春の生き物の奉唱は、我々に命を与え給うた神への賛美でもある。それに心が動かされない奴は……」

「何が言いたい」

「お前、不妄語という戒めを知っているか?」

「ああ、読んで字の如し……だ」

「嘘をつくことはいけない、と単純に解釈する者が多いが、見栄や自恃のために、自分の気持ちを偽ることが不妄語の戒めだとわたしは理解している。オリョウは機微の分かる女だ。お前が一人旅立つことを決めたとき、抗うことはしなかった。『ゲンジのことはぬし様にすべてお任せしてるから』と言って涙すら見せなかったんだぜ」それだけではない、とリキュウは間遠い目を山のほうに向けながら、

「父上や母上が永逝され、天涯孤独となったお前の身を案じてはいても、他の者たちのように薄っぺらに気の毒がることはしなかった。それがオリョウさ。」

戒めまで持ち出して来て、己れの思想を押し付けようとするリキュウに段々と嫌気が差してきたのでゲンジは言ってやった。

「そんなにリョウがいいなら、お前がもらってやったらどうだ」

突然リキュウの顔が夕焼け空のように真っ赤になったと思ったら、思い切り拳が飛んできた。

「不瞋恚はよせ」

リキュウの拳を避けながら思いついた戒めを言いながら右往左往するゲンジは、春霞のかかる阿讃山脈に別れを告げた。

一昨年の春、ちょうど桜が葉桜に変わる頃、ささやかで眇々たる父母の追福を済ませたのち、大学院に出向いた。指導教官の部屋の前で休学届けを持ち入室をためらっていると、遥か西の彼方より凛たる声が鋭く耳に響いてきた。

――エイゴウカイキ

ゲンジはその場に立ち尽くすと、明瞭な声は鳴動とともに迫り来た。 

――エイゴウカイキ

(永劫回帰……?)

――ゲンジよ

声の主は微かだがはっきりした声でゲンジの名を呼ぶと、声の方に顔を向けた。

「なぜ俺の名を?」

スズカケの木がさやさやと葉をかい撫でる音が止み、辺りは静寂に包まれた。

時が止まったような不思議な感覚にして、己の姿が少し離れた場所からはっきりと見える。いったいこれは……!

――西方四国に行くがよい。その道は前途遼遠であるが、行き着くところお前が望む一斑のものはそこで窺い知ることができよう。

また、讃岐国は小豆島の行者ヨイチという者が先達としてお前の造作をしてくれるゆえ彼のもとを尋ねてみよ―

そういい終えると、声の主はわずかな余韻も残さず疾風となり西の彼方へ消え去った。

(俺は夢を見ているのか?)

汗ばんだ両手が何かを掴もうとしてふと我に返る。永逝した父と母が最期に言い残した言葉が蘇る。

(嘘偽りの無い、良き人生を)

(非運に抗わず逝った父と母。自然の災いは無量の涙を祈りとともに運び去った。人類は神のごとき全能だと言った奴がいる。全能だとすればなぜ人は死ぬ?なぜ悲しみは消せない?教えて欲しい。生きるということの意義を。俺は何のために今を生きているのかということを)

(嘘偽りの無い、良き人生を)

 主に拠り頼もう。西方四国へ。

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