ソウルメイトなんて信じない

中臣悠月

第1話 式田紫(しきた・ゆかり)の場合

「先生、どうもありがとうございました」

「いえいえ。その資料の返却はいつでもいいから、またゼミでね」

「は~い」

 私は学生たちに笑顔で応じながら、心の中で舌を出した。

 今日は大切な約束があるのに、卒論指導で思わぬ時間を取ってしまった。

 時計に目をやると、もう19時を回っている。

 完全に遅刻だ。

「Shit」

と、軽く舌打ちをする。

 私だって、大学教員のはしくれなのだから、けして学生の指導がイヤなわけじゃない。

 いや、むしろ20歳そこそこの若い子たちの話を聞くのは、30も半ばにさしかかって、いまだ独身の私にとって、とても刺激的だ。

 専門の平安文学を教えていると、ついつい彼女たちの恋の話に脱線してしまう。

 そもそもの題材が、恋愛話ばかりなのだから、それも仕方ないだろう。

 これが『平家物語』のゼミだったら、きっとそうはならないと思う。そして、そんな話を聞くのも、いつもだったら私にとってとても楽しみな時間なのだ。

 でも、今日はとても大事な約束がある。

 デートではない。

 残念ながら。

 でも、デート以上にとても大事な約束だ。

 親友の、いずみはなとの、月イチの飲み会なのだ。

 私は研究室の鍵を閉めると、扉の横にある札を「在室」から「空室」に変えた。

 閉まりそうなエレベーターに駆け込み、先輩の教授に

「すみません」と挨拶をする。

 初老の教授が私の顔をまじまじとのぞき込む。

「……何か?」

「……ああ。式田しきたくんの姪御さんだね。あまりにも若かりし頃の式田くんに似ていたから、一瞬ドキッとした。失礼」

「はい、確かに式田清子しきたせいこは私の叔母です。あまり似ていると言われたことはありませんが……」

 苦手な叔母に間違えられたことに一瞬ムッとした表情を隠せない自分に気づく。

 式田清子は、かつてこの大学で教鞭きょうべんをとっていた。

 英米文学科で米文学を教えながら、ジェンダー論のはしりのような論文を学会に発表していた。一時はテレビにも出ていたようだが、いまはエッセイストとして落ち着いている。

 しかし、このエッセイ、自分がいかに優秀かを自慢する話ばかりで、とてもじゃないが身内として読めたものではない。

 もちろん、学会で賞賛された話なら、まだなんとか理解できるものの、「学会でモテにモテて誰にするか悩んだ」などと大ボラをふいている(……としか思えない)くだりは、読んでいて本当に恥ずかしくなってくる。

 あのご面相でモテた、……など信じられる話ではない。

 確かに女として「男より強くなくては!」と虚勢を張らなければいけない時代だったのかもしれない。しかし、ウーマンリブなのか、男におもねっているのか、どっちとも言えないあの文章は、私には妙に勘に障る。

 こう、叔母を批判する私だって、もちろん美人ではないことはわかっている。

 だから、叔母と違って、いつも地味にシンプルにまとめているのだ。

 叔母の清子が、いくつになっても真っ赤やピンクのスーツをやめないから、私はどんどん地味で陰気な服装になる。

 でも、それは身の程をわきまえているからだ。

「確かに……式田清子くんは、もっと派手な感じな女性だったね。よく見ると印象が違うキミのほうが落ち着いている……というのかな」

 名前もよくわからない(学科が違うからだ)初老の教授に、そんなふうに批評されて、「私がわきまえているからだ」と喉まで出かかるが頑張って押さえ込む。

「そうでしょうか。年相応の格好をしているまでですが。また教育者として、あまり派手な格好もどうかと思いますので」

と気取った声で答えた。

 まるで、学会で発表をするときのような声で。

「なるほどね、それで清子くんのほうが若く見えるのか……キミの名は……」

 ……!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 なんてことを!

 叔母はもう50歳を過ぎているのに、叔母のほうが若く見えるですって?

 怒鳴りつけたい気持ちを抑えるために、深呼吸したところで、エレベーターが1階についた。

ゆかりと言います。お見知りおきを」

 エレベーターホールを振り返りもせず、受け付けに挨拶をして、研究棟を出た。

 ……キャバ嬢かホステスの挨拶じゃあないんだから……「お見知りおきを」はないわなぁ。


 いつものバーに駆け込むと、既に泉と花が話に興じている。

 ワインボトルがもう半分ぐらい空いているようだけれど、おそらく1本目ではないだろう。

 花が嬉しそうに

「紫~!」

と手を振る。

 ストレッチサテン素材で光沢のあるフリルのたくさんついたピンクのノースリーブブラウス。上半身はフェミニンながら、下半身は黒のフレアパンツでマニッシュに締めている。おそらく、花のお気に入りブランド、theory《セオリー》の「MAX C」か。

 足下には、大きなカメラバッグが置かれている。

「花、取材だったの?」

「うん、そう」

と言っても、染井花そめいはなのメインの仕事はカメラではない。写真も撮れば、取材もし、記事も起こす、ノンフィクション・ライターだ。

 誰にでも好感を持たれる品の良いスタイルの内側には、おそらくタフな肉体と協調性のある精神が詰まっているに違いない。

 その横で、乙部泉おとべいずみがワイングラスを掲げながら

「遅いわよ、紫」

と、妖艶に微笑む。

 BCBGMAXAZRIA《ビーシービージーマックスアズリア》の大きく襟ぐりの空いた幾何学模様のロングドレスを、下にキャミソールなしで着こなせる日本人は、私の周りで泉しかいない。

「もう、2本目」

と、ボトルを振る。

「やっぱりね」

と、私は笑いながら、席につく。

 バーやクラブで、ジャズの弾き語りをしている泉は、仕事柄かめっぽう酒が強い。そのわりに、30代半ばになっても見事なウエストラインをキープしているのは、やはり日頃、腹筋を使う仕事の賜物か。

 私の前に置かれた空のグラスに、花がワインを注いでくれる。

 本当は、こうやって女がワインボトルで自分たちで酌をしあうなんて、マナー的にあまりほめられたものではないことはもちろん知っている。

 でも、気の置けない仲間たちとの、こんな気軽な飲み会が、私にとっては心地よい。

 そう、最近は「女子会」と言うのだそうだけれど。

 一時期流行った海外ドラマ、『Sex And The City』の影響じゃない、なんて声もあるかもしれない。

 だけど、日本文化の専門家である私に言わせてもらえるなら、もともと日本にはそういう土壌があったのだ。

 ニューヨークに移民してくる前、イギリスでは紳士たちの社交場はあっても、女性たちはそこに立ち入れなかった。

 フランスで、女性を中心にした知的なサロンが開かれたのだって、17世紀に入ってからのことじゃないか。

 その点、日本の女たちは、平安時代から女主人を中心にした文学サロンを持っていたし、庶民の女たちには井戸端会議なんてものがあった。

 男は男で勝手に女を品評していたけれど(『源氏物語』の有名な雨夜の品定めのように)、女は女で御簾みすの内側からヒソヒソと男たちのことを品評していたのだ。

 だから、「女子会」なんて言葉が使われ出す前から、女たちは集っていたし、セックスに関する話題だって『Sex And The City』以上に開けっぴろげだったのだ。平安時代の宮廷では。

 こんな話を、大教室の授業で、4月の頭に披露すると、女子学生たちは目を見開いて驚いた顔を見せる。

 貞淑な妻が強要されるようになったのは、武家社会が浸透してからなのだということを、実はほとんどの日本人が知らない(悔しいけれど、高校生の頃、叔母・清子が書いたジェンダーに関する書籍で私も初めて知ったのだが)。

 だから私は、

「ニューヨークがけして進んだ都市ではないのよ。(儒教や……、fuck xxx in……進駐軍のせいで)日本の女性たちの性愛が遅れて、男の下に置かれているように勘違いしてしまっているだけで、そんなことないの。さしずめ、『Sex And The 平安京』ってとこね」

と言って、初めて講義を聴く学生たちを和ませるようにしている。

 そして、この会でももちろん、女が三人集まれば、セックスの話題と相場は決まっている。いつも。


「ねぇねぇ、それで最近どうなの」

 リップグロスとワインで濡れた唇に笑みを浮かべながら、泉は尋ねる。

 もちろん、「どうなの」の質問内容は、男とセックスだ。

「私は……、自分がたいした女じゃないのをわかってるから。美人でもないし」

と、まずは二人の前で卑下して見せる。

「でも、安定した職業だよね」

と、つぶやくのは美人だがフリーランスでシンガーをしている泉だが、花も隣で「うんうん」と頷いている。

「いや、でも、専任講師になったばかりで、このまま、助教授、教授と昇進できるかなんてわからないのよ。それにさ、男って自分の学歴のほうが高くないと、自分のほうが頭よくないと……っていうコンプレックスがあるじゃない」

「わかる!」

と、テーブルをばしっと叩くのは花。

「マスコミなんて、女も男もないのにさ、それなのに結婚相手を選ぶときには、『短大出の女のコ』とか言い出すから、頭くるわよね」

 珍しく、一気呵成に喋ったと思うと、グラスの中のワインを飲み干した。

 私も、大学院時代に痛い失敗をしている。

「いろいろと学問について意見を戦わせられる相手だから好き」

と言ってくれた男に、ふられた。

 浮気相手は、近くの女子短大の頭の悪そうな女だった。

 問い詰めたら

「いや、だってさ。寝物語に、史記は勘弁して欲しいよ」

と、悪びれもなく答えた。

 私は、思いついたら、とりあえずその場で口にしたり、紙に書いたり、アイデアを脳内から外に出さないではいられない性格だ。そうしないと、忘れてしまうというよりも、その考えで頭がいっぱいになってしまって、他のことが考えられなくなってしまうのだ。

 だから、行為の最中であっても、項羽こううのことで頭がいっぱいになったら、私の脳内には快楽ではなく、中国の戦場しか存在しなくなる。ちなみに、項羽とは、史記に出てくる中国古代の有名な武将だ。

仕方がないから脳内から出すしかない。

彼の名ではなく、喘ぎながら呼ぶのだ。

「項羽」

と。

 それは確かに相手も引く。

 わかってはいる。

 だから、「項羽」も「劉邦りゅうほう」も「司馬遷しばせん」も、それどころか、いま現在の日本国の首相の名前さえ知らないような女を選んだのだろう。

 私の間違いは明かだ。

 男よりバカな女を演じなければならない。

“一”という漢字ですら、書けないふりをして、

「やだ、もう、わかんな~い」

と、言っているほうが、確実にモテるのだ。

 私程度のルックスしか持っていないものは。

 だから、私は「ほどほど」を演じ「ほどほど」の男しか求めない。

「でもさ、なら自分より格上の男をゲットすればいいだけじゃないの? たとえば、学歴……紫はT大の大学院卒だって言ったって、世界に目を向ければ、アンタよりいい学歴持った男なんて、いくらでもいるでしょ。たとえば、ほら、MIT《マサチューセッツ工科大学大学院卒》とかさ」

 あっけらかんと、胸の谷間を見せながら、チョリソーにかぶりつく泉。

 確かに、泉は音大卒という高学歴で美人でありながら、いつも格上の……うらやましくなるような男とばかり付き合ってきた。いわゆるセレブというやつだ。

 しかし……、日本古典文学を研究している私に、MIT出身の理系男とどこで知り合えと言うんだか……。

「花だってさ、取材で自分より格上の男といくらだって出会う機会があるでしょうに。編集部の中しか射程圏内に置いていないから、そういう結論になるんじゃな~い? すみません、ワイン……ボトルもう1本、今度は白でいい? あ、銘柄はお任せで……」

 泉は、恋愛談義の途中でも、しっかりと食べて飲む。

 何においても、食欲旺盛なのだ。

いっぽうの花は泉の問いに苦笑いする。

「そりゃ、あるわよ。取材の対象者が、アラブの石油王だったり、ヨーロッパの王族だったりね。だけどね、そこまで格が違いすぎたら、まず向こうの射程圏内に私が入ってないと思うわよ。私なんて、空気よ空気」

「そんなことないでしょ、実際に貴族じゃなくたって王室に輿入れしている人たちが世の中にはいるんだから」

「……。泉は美人だから。誰でも彼でも、簡単に玉の輿に乗れるんだったら、ハーレクインみたいなロマンス小説は読む人がいなくなると思うわよ。そんな夢みたいな話、はいて捨てるほどあったら、憧れの対象にならないでしょ。これ、マスコミの現場の意見」

 夢見る泉に対して、花はいつも現実的だ。

 私も花に近い……と自分では思っている。

 でも、現実的というよりも、私の場合は、卑下……に近いのかもしれない。

 実は、“そんな夢みたいな話”を……経験しかかったことがあるのだ。私は、夢に乗らなかっただけで。

「どうしたの、紫?」

 私が押し黙ったその一瞬の空気の違いを、泉が俊敏に読み取った。

「……いや……別に……」

「……? これは、何かあるわね、話しなさい」

 ちょうどいいタイミングで新しいワインのボトルがテーブルに置かれた。

 泉は新しいワイングラスを私に押しつけながら、目で「話しなさい」と、もう一度せまった。

「女の友情に隠し事はなしよ」

と、花も追い打ちをかける。

 私はしぶしぶ、重い口を開いた。


     *


 年末年始に実家に帰省したときのことだった。

 我が家は、その地域ではいわゆる旧家と呼ばれる家だ。もともと、さほどの石高こくだかはなかったものの武家で、大政奉還たいせいほうかん以降は、おもに学者や医者になる者が多かった。私の父も、地元の大学の教壇に立っている。そして、叔母の清子も学者崩れのエッセイストだ。

 そんな古い家だから、玄関のたたきだけで、通常のマンションのワンルームが余裕で入ってしまうような造りだ。その広いたたきに、叔母のものとおぼしき品のないケバケバしいピンヒールがあるのを見て、私は玄関を入るなり肩を落とした。

 しかも、男連れらしい。

 父のものではない、これは叔母のピンヒールとは対照的に趣味のいい、おそらく高級で柔らかな皮で作られているであろう男物の靴が並べられていた。

 面倒は避けたい……。

 そう思いながら、長い廊下を抜け、そのまま客間を通り過ぎて、自室への階段を上ろうとしたところで、声を掛けられた。

 古い日本家屋だから、廊下の足音など筒抜けなのだ。

「紫ちゃん、紫ちゃんでしょ、入ってきなさいよ」

 相変わらずのあっけらかんとした声。

 私は無視するわけにもいかず、障子は閉めたままで応じた。

「あの……おばさま、とりあえず荷物がありますから、自室に荷物を置いてまいりますわ。それから挨拶に戻って参りますので」

 どこからそんな声が出るんだろうと自分でも思うぐらいの猫なで声。

「ふぅん、まぁ、いいけど。客間に戻ってくるときには、きちんと化粧して、ドレスアップしてきたほうがいいわよ」

 まさか、何度目かの結婚相手を本家に連れて来たのだろうか……。

 そう思うと、また肩がズシンと重くなる。

 もしそうだとしたら、同時に父が「紫はどうなんだ? 見合いでもするか?」と言い出すに決まっている。

 また面倒なことになるだろう。

 私はとっさに、携帯電話に電話がかかってきたフリをした。

 携帯は便利だ。

 自分の操作で、いくらでも着信音を外に聞かせることができるのだから。

 たとえ、本当には誰からもかかってきていなかったとしても。

「……あ、もしもし、はい、式田です。お世話さまです、教授。え、年明けすぐの後期試験の答案が提出されていない……? って、私の担当の、日本文学史概論Aですか? はい、はい、申し訳ありません、はい、はい」

 私は、アカデミーの主演女優賞でも取れるんじゃないかと言うぐらい、渾身の演技をした。それこそ、その場で話しながら、頭を何度もペコペコと下げた。

 障子越しにその影は、父と叔母、そして叔母の連れて来た男にも見えているだろう。

 そして、叔母の連れて来た男はともかくとして、大学で講義を持ったことのある父と叔母なら、いまのこの時期に答案がない、ということの重大さはわかってくれるはずだ。

「……えっと……あ……はい、パソコンのファイルの中には、もちろん。きちんとあるはずです。はい、パスワードをかけて、送信します。ええ、ええ……大変申し訳ありません……」

 通話を切るフリをしてから、父と叔母に謝りながら自室へと向かった。

「……申し訳ありません、のっぴきならない状況になったので、挨拶はまた、明日にでも」

 二人の返事を待たずに、二階の自室に上がる。

 そして、しばらく仕事をするフリをしてから、階下には下りず、そのまま布団をかぶって寝てしまった。

 縁談に不安を抱きながらも興味がある自分自身に、ほとほと嫌気がさしたからだ。

 家族は、職場での失敗を気にやんで、眠ってしまったと信じてくれるだろう。


 夜半過ぎ、真っ暗な中、私の部屋の障子を叩く音と聞き慣れぬ男の声がした。

「紫さん、紫さん……」

 ……ひっ。

 日本家屋にはプライバシーがない。

 ただの木と紙でできた引き戸でしたかない障子は、当然、鍵などついておらず、男の手によっていとも簡単に開けられた。

 頭まで布団をかぶる。

「紫さん……」

 叔母が連れて来た男に違いない。

 なんて男なんだろう。

 叔母がいるのに、私の部屋に忍んで来るなんて。

 しかも間違えたわけではない。きちんと、私の名前を呼んだのだから。

「怖がらないで、僕の顔を見てください」

 聞き慣れぬ声。

 しかし、一度も聞いたことがないわけではない声。

 ……でも、肉声を聞くのは初めてのような気がする。

 私の心の中で、針が好奇心と恐怖のふたつの間を行ったり来たりした結果、好奇心のほうにゲージを振り切った。

 私は布団の中から、おそるおそる顔を出す。

 男は、私の枕元のスタンドを点けた。

 暗闇の中、ぼんやりと男の姿が見える。

「あなたは……」

 肩にかかるぐらいの明るい髪、整えられた眉、はっきりとした二重まぶた、カラーコンタクトを入れたかのような薄茶色の瞳。

 見たことはある。

 でも、テレビでしか見たことがない。

「そう、藤原光流ふじわらひかるです」

 悪びれもせず、お茶の間に向けた笑顔を浮かべたのは、タレントの藤原光流だった。確か、もともとはミュージシャンでバンドが解散した後に俳優やタレントなど幅広く活躍しているマルチタレントではなかったか。

 そして……、ワイドショーではどこかの国の女優と映画での共演をきっかけに熱愛中ということになっていなかったか。

 もちろん、私はそんなことには興味がなかったけれど、大学への通勤の間、何気なく目にした女性週刊誌のつり広告にそう書いてあったのだ。

 授業が一限からあると、ラッシュアワーに電車に乗らないとならないから、本を読むことも携帯をいじることも難しい。つり広告しか見るものはない、という状況に陥ったとき、たまたま目にしたのだ。

 しかし、なぜタレントが我が家へ……。

「実は、いま流れている熱愛報道は、ヤラセなんだ。相手側のね。日本で名前を売るために必要なスキャンダルだったらしいけど、ウチの事務所には何の話もなく、ね。それで、マンションから一歩も出られず困っていたところを、清子さんに助けてもらったんだ。ウチの実家に逃げても、バレちゃうからね」

「……なんで? 本当は清子おばさんと付き合っているの?」

「違うよ」

「じゃあ……なんで?」

 なんで、は私だ。

 なんでうっかりこの男と会話を始めてしまったのだろう。

「清子さんとは、同じバラエティ番組のレギュラーなんだ。見たことがないかな」

「知らないわ。私、テレビって見ないから」

 一瞬、彼は悲しそうな顔をした、かのように見えた。

「それで、撮りの合間にね、キミの話を聞くことが多くて」

「清子おばさんが私の話を?」

「そう。写真も見せてもらったよ。それで紫さんに逢ってみたくて……、どこか知らないホテルに避難するよりも、この機会に紫さんに逢えたらと思って、無理にお願いして連れて来てもらったんだ」

 そんな馬鹿な。

 私の写真を見て、「逢ってみたい」と思うような顔かどうか、自分が一番よくわかっている。

 それとも、こんなに綺麗な顔をしていると、逆にブスな女を見てみたいと思うものなのだろうか。

「逢ってどうするの?」

 芸能人と大学教員。あまりにも住む世界が違う。

 まるで違う惑星に住む者同士のように、言葉が通じないのではないか。

 逢って、それからどうするというのだろう。

「逢って、恋をしたかった」

 ドラマのような台詞だ。

 いや、実際、何かのドラマで使った台詞なのかもしれない。

「私なんかと恋を? 住む世界が違うわ」

「同じ日本に住んでいる」

「芸能界とふつうの世界で、違うわ」

「ただ、職種が違うだけじゃないか」

「それに、私なんか女優さんと比べるまでもなく、不細工で地味な女だわ」

「そんなことはない。とても綺麗だ」

「何が綺麗だと言うの?」

「魂が……」

「魂?」

「そう、懐かしいきらめきを持った魂なんだ。わからないのかい? 僕とキミとは、いつかどこかの前世で逢っている、ソウルメイトなんだということを……」

「……ハッ……ハハハハ……ハハハ……」

 途中まで、ドラマの台詞のようだと思った。

 でも、ドラマはドラマでも三文芝居、もしくは頭のイカれた者の台詞だ。

「ソウルメイトですって……?」

「そう、実際に有名なスピリチュアル・カウンセラーの人がゲストで番組に出たときにも、楽屋を尋ねて、キミの写真を見てもらったんだ。そうしたら、間違いなく出逢う運命にあるソウルメイトだと……」

 彼の台詞が私の上を通り過ぎる。

 そういう概念が最近世の中で流行っているのは知っている。

 それに、「前世で出逢った縁」なんて、新しい口説き文句だとこの芸能人は勘違いしているのかもしれないけれど、平安文学を研究している人間からしたら、毎日、見る台詞なのだ。

 いったい光源氏は、一生の間に何回その台詞を口にしたのだろう。

 今度、そのテーマで学会発表してみようか。

 いや、無理だ。ありきたりすぎるテーマだ。

 うん、一から整理して考えてみよう。

 タレントと一般人との恋愛ストーリー。恋愛小説だったら、いい。夜9時台のドラマや、少女マンガだったら、それもいいんじゃないかと思う。

 でも、私は現実を生きている。

 現実に、王子さまは現れるわけがない。

 私なんかの前に。

 現れるとしたら、それは手の込んだドッキリか夢だ。

 夢は覚めたときが一番むなしい……。

 それを痛いほど私は知っている。

 ただのありふれた女でしかない私は。

 一夜の夢を楽しんで、それを思い出にできるほど、もう若くはない。

 私はきっと……一夜の夢を楽しんだら、それをずっと一生恋こがれて、こがれて、こがれて、狂ってしまうに違いない。

 だから、これは現実ではない。

 消去しよう。

 夢にもしない。

 この出逢いはなかったことに……。


 私は、その男の手に、布団だけを残して、隣の部屋へと逃げ込んだ。

 障子には、つっかえ棒をする。

 日本家屋だって、こうやればちゃんとプライバシーが守れるのよ。

「ハハハ……ハハハハハ……」

 私は笑いながら泣いた。

 うずく下半身を押さえながら、私はプライバシーとプライドを守った。


 年が明けて、後期試験も終わり、すべての評定が終わった頃。

 電車のつり広告で、あの男と外国の女優が入籍したことを知った。

 やはり、「前世の縁」と口にする男はロクな男じゃなかった。

 光源氏のように。


     *


「バッカねぇ~、ヤるだけヤっておけばよかったのに」

と、泉は笑う。

「とりあえず証拠を押さえておいて週刊誌にでも売っちゃえばよかったのにね」

 花は、変なところがしっかりしている。

「それは、マスコミ人としての意見?」

「いや、私的意見よ」

「まぁ、でも“前世の縁”だなんて、誰にでも言ってるロクでもない男なんだろうけど、どんなセックスするのかだけは知りたかったわ」

と、相変わらず泉は、そこにばかり興味があるようだ。

「きっと、つまらないセックスよ」

 そうでも思わないと、やってられないわ、と小さく口の中で今日何度目かの「Shit」を吐き捨てた。


 何時まで飲んだのか、途中から記憶がない。

 翌日は二限からだったからまだしも、軽い頭痛を抱えながら、平安文学概論の講義を進めた。

「先生、紫式部は藤原道長の愛人だったんですか?」

 昨日の夕方、資料を借りに来た学生が、質問を投げかける。

「いいえ、愛人ではないわ。パトロンではあったかもしれないけれど」

「パトロンと愛人の違いは?」

「いまの時代、パトロンというと、性的な響きを含むかもしれないけれど、芸術家のパトロンというのは、必ずしもそうとは限らないの。道長の場合は、娘の彰子を一条天皇の一番のお気に入りにさせて、そして皇子を産んでもらわないといけない。次の時代の天皇のお祖父さんにならないと、権力を握れないわけです。だから、彰子の周りには、優秀な女房をたくさん集めるわけですね。紫式部は、その中でも、彰子の教育係的な側面を持っていたと言われています。『源氏物語』という大作を書くような女房がいるということでも話題になり、またその才覚で彰子のサポートをする。そういう女房が紫式部だったわけです。『源氏物語』が仕上がるための援助は惜しまなかったと思いますよ」

「そうではなくて……、あの『紫式部日記』の、道長が紫式部を訪れる場面。夜這いですよね。先生はどうお考えですか?」

「……ああ、あれは、だって戸を開けていないじゃない。道長が訪れて来ても、戸を開けなかったから、それに対する恨み言の歌を道長が贈っているわけですよね」

 何を言いたいのだろう、この学生は。

 『紫式部日記』には、あんなにもはっきりと、一晩中戸を叩いていても開けてくれなくて泣く泣く叩き続けたという歌が書かれているじゃない。

「あの……、わざわざそれを日記に書きますか? 一般の私的な日記ではなく、中宮のお産のことが詳細に書かれた、公的な意味合いを持つ日記に。つまり、人に見せるのを前提に書いた文章に、『私は道長とやっちゃいました』なんて書けないんじゃないでしょうか……あ、ごめんなさい、乱暴な言い方して」

「いえ、大丈夫よ。確かに。あなたのような考え方をする研究者もいるわ……えぇと……」

 言葉をつむぎ出そうとしたところで、チャイムが鳴った。

 同時に、講義ノートを閉じ始める学生もいる。

「そうね、次の時間、またこの件については、考察を深めてみましょう。では、今日はこれで終わります」

 私も、急いで資料とノートをまとめ、傷むこめかみを押さえながら、教室の扉を開けた。

 ああ、頭が痛い。

 何か……、とりあえず冷たい水を飲もう。

 教員用食堂の入り口にある自販機でミネラルウォーターを買う。

 ボトルキャップを開ける前に、その冷たさを額とこめかみで存分に味わった。


――そうね。やったかやっていないかなんて、当人たちにしかわからないわ。

 ましてや、人の目に触れる前提がない贈答歌ですら、万が一、他人の手に渡ったときのことを考えて、とてもぼかした恋文になっている。現代のメールみたいに、「好きだ」「付き合おう」「今日会える?」なんてはっきりとは書かないものなのに……。

 それを、当時、時代の人であった道長とのことを、はっきりと書けるだろうか。

 あの時代、「扉を開けた」と書けば、それは「私たちはセックスしました」と公言しているようなものだわ。

 二人にしか、真実はわからない……――


 でも。

 やらないことで、他のめかけたちに埋もれてしまわないようなプライドを見せたのかもしれないじゃない。

 それとも、セックスしてしまったの……?


 ねぇ、私、本当はどうだった?

 泉や花に話したことが、真実だったのかしら……?

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