新世界から
ききき
プロローグ
私は幼い頃から、夢を見ることが少なかった。なにか見たとしても、淡い景色の中に自分がプカプカと浮かんでいる。誰かに刺されて痛みを感じるわけでも、追いかけられて恐怖に襲われることも、美味しいものを食べて幸福に満ちていることも、感じたことがない。
ただ、宙に浮かんで、微睡んでいるだけ。最早、夢として見るべきものなのかと疑問を抱くのだ。
『・・・・、・・・・・』
遠くから声がする。優しい声だ、聞いてるだけでとても安らぐ、あたたかい声。ずっと聞いていたくなる、このまま覚めたくないとさえ思える。
『・・・ぅ・・・ぃ・・・』
声が近くなる感覚に、私はうっすらと重いまぶたを開けた。
「瓜生さん。」
声の主はずっと私を呼んでいたようだった。まぶたの向こう側には、彼がいた。
「天野さん…。」
「疲れてたんだね、ぐっすり寝てたよ。」
どれくらい寝ていたのだろうと、壁掛け時計に目をやると、数字は1:15を示していた。そう、仕事が終わって、天野さんが私の家にやってきて、それから大分時間が経っていたようだった。
起き上がると、毛布がはらりと落ちる。毛布の下にあった私の身体は何も身につけておらず、シーツは汗で湿っていた。
コンドームのスリーブやぐしゃぐしゃになったティッシュが布団の周りに散らばっているのを見て、ぼんやりとしていた記憶が鮮明に浮かび上がってきた。
「ゴムしなくてもいいって、言ってるのに。」
コンドームのパッケージをゴミ箱に投げ捨ててつぶやいた。
天野さんに視線を傾けると彼は少しバツの悪そうな顔をした。
「ごめんね、でもしないと長持ちしないんだ。」
優しく囁きながら、私を引き寄せて抱きしめてくれる。彼の胸に顔を埋めると、鼓動が頬を通じて伝わってくる。とても心地良くて、離れたくなくなる。
けれど、彼がこうするときはもうサヨナラの時間のお告げなのだ。
「じゃ、帰るね。」彼はポンポンと私の頭をなでて引き離すと、ジャケットに袖を通した。
私も立ち上がり、彼の胸にまた顔を埋める。いつもこう。ほら、ちょっと困った顔をするんだ。一緒にいてあげたいけど、帰らなきゃ、と目で私に語りかけるんだ。
「わかってますから。」
口元を胸板に押し付けてつぶやく。また天野さんは抱きしめて、頭を撫でてくれた。
「職場でも会えるからね、連絡だって取れるし。ね。」
「…」
いやいやながらも私は彼から離れる。彼は玄関に向かい、大きい革靴に足を入れる。この瞬間がとてもさみしくて、胸がキュッと締まる。
ドアノブに手をかけると、私はひらひらと手を振る。
「バイバイ。」
すると、天野さんはドアノブから手を離して、私の唇に優しく口付けをしてくれた。
そして、私の目を真っ直ぐ見て「またね。」と囁き、私の部屋を後にした。
彼の足音が遠のいていき、やがて聞こえなくなると、部屋の窓から帰路に立つ彼を見届ける。
彼はポケットから財布を取り出すと、小銭入れからいつものあれを取り出す。
いぶされたような銀色の丸い輪っか。あなたは私の部屋を出た後、それを左手の薬指にはめるのだ。
彼にはあの指輪をお揃いで持っている人がいる。その現実を知るのが嫌なのに、私はいつもそれを見届ける度に見てしまう。
私にはプレゼントされた指輪はあっても、彼とのペアルックではないのだ。私は二番目なんだと知るその瞬間が嫌で、私は彼がこの部屋から出て行くのが嫌なんだ。そうやってあなたはいつも、ろくに会話を交わさない娘と、ヒステリックな妻のいる安堵しない家庭へと帰っていく。
『ここにずっといてもいいんですよ。』
かつて私は、彼にそういったことがある。彼の反応はといえば『俺もできるならそうしたい』と。
遠のいていく彼の後ろ姿をみて、私はまたつぶやいた。
「ここにずっといてくださいよ。」
彼は知っているのだろうか、帰った後に私が人知れず泣いているのを。
私は彼の居場所になりたい、そう願っていてやまないのだ。
ひとしきり泣いた後はまた布団に潜る。さっきはあんなに温かった布団は氷のように冷え切っていて私から体温を奪うようだった。
責めて夢の中でだけでも会いたいと願うけれど、目蓋を閉じても真っ黒になるだけだった。
そうして、毎晩眠りにつく。
不本意なひとりぼっちの夜。
慣れているつもりだった夜も、あの人の肌に触れるようになってから涙が溢れるようになってしまった。
人はあんなにあたたかいんだ、と心地よさを覚えてしまったのだから。
あの人の身体はとても細いのに、手が大きくて、うなじから好きな匂いがして、真っ黒な瞳が私を吸い込んでいく。私の五感を貫いて、離れない。
声も、瞳も、体温も、何もかも思い出すだけで胸が締め付けられるようだ。
自分の身体を抱きしめてみたが、そんなもので満たされるわけがなかった。
「義隆さん…」
すると、返事をするように携帯の通知音が鳴る。スクリーンに表示されてるのは、『天野さん』。
私は飛び起きて、スマートフォンの画面を指でなぞる。
『今日も一緒に居れてよかった、明日お休みだからゆっくりするんだよ』
文面から彼の優しさを感じられる、けれどこれを送った後は跡形もなく消去されているのも知っている。
それでも、私は彼の言葉に応えれるだけでも嬉しい。『おはよう』といったら、『おはよう』と返ってくる、『大好き』といったら『おれも』と返してくれる。
でも、彼は私のモノじゃない。
『ありがとうございます、おやすみなさい』
現実を見ろみすず、所詮おまえは風俗より手軽にセックスができるだけの存在、彼にとっては擬似恋愛なのだ。所詮は愛人。
冷静な私が、自分自身に語りかけていた。
わかりきってはいるんだ、けれど、彼は擬似だとしても、私にとっては当たり前な恋愛の感情なのだ。
身体の関係を持たなくとも、ずっと抱いている気持ち。
周りに理解されずとも、私は彼を愛していたいのだ。ダメだとわかっていても。
いつか結ばれたいと夢見て、叶わない苦しさに泣きじゃくって私は眠る。
でも、夢に彼が出てくるわけでもない。
今の私にとって眠ることは、寂しさを紛らわすただひとつの手段だった。
そんな私が少し大人になる、物語を夢見てる。
新世界から ききき @omotaimental
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