1 父さんはフラグを立てる ♪ド
乗ったことのないバスに乗り、降りたことのないバス停で降りる。母さんに渡された地図を頼りに見知らぬ道を歩きながら、ふと思う。
打ちひしがれている琥太郎には誠に申し訳ないけれど、とりあえず今日のところは、姫ちゃん以外のことに頭が回らない状態でいてくれてよかったのかもしれない、と。
いつもの琥太郎だったら
「え、陸くんが寄り道? めずらしいね?」
ときょとんとした挙句、
「ねえ、どこ行くの? なんの用事? 僕も一緒に行ってもいいとこ?」
と無邪気に質問攻めにしてきただろうから。
相手が琥太郎とあらば大抵のことは包み隠さず話すことにしているが、今回ばかりは寄り道の事情を簡潔にまとめて話す自信がない。
琥太郎は僕が母ひとり子ひとりの身の上で、父さんを物心つく前に亡くしたと信じ切っている。なぜなら僕がそう話したから。
僕だって生まれてこのかた、それが真実と信じて疑わなかったのだ。
ひと月ほど前、仕事を終えて帰宅した母さんが
「ああ、才能って怖い! 隠しても隠しても溢れ出て、人目に触れてしまうのね。陸、母さんついに、ニューヨーク支店スタッフに抜擢されちゃったわ!」
と舞台女優ばりのポーズで両手を広げたあと、
「急だけど、4月上旬には向こうに発たないと。だから陸、それからはこの人と暮らしてね。一応、生物学上の父親だから」
なんてのたまうまでは。
「この人」と突き出されたのは、何かと思えば紙切れ一枚。
こういう場合、紙切れは9割がた写真で、それを見た少年(もしくは少女)は
「この人が僕の(わたしの)……お父さん?」
と瞳を潤ませるか
「今さらそんなこと言われたって! 認めねーからな! (わたし絶対認めないんだから!)」
などと叫んで写真を引きちぎる、というのが王道ではないだろうか。
でも僕は残念ながら、そんな王道パターンは踏めなかった。なぜならそれは写真ではなかったから。
まあ写真であったとしても僕には、映画館で観客の涙を誘うような劇的な反応はできなかっただろうけど。
紙切れには生物学上の父親という人の名前と住所と電話番号が、ぽん、ぽん、ぽん、と三行並んでいた。まるで「学校帰りにスーパーで買ってきて」と渡された買い物リストに並ぶ
トイレットペーパー(12ロール・シングル) 再生紙タイプ
低脂肪乳1リットルパック
耳までふっくら食パン6枚切り
みたいな気軽さで。
しかも「お買いものメモ」ならぬ「お父さんメモ」の裏には地図が印刷されているという、地球にやさしい仕上がりだ。母さんの性格上、まず地図をプリントアウトし、然るのちその裏に必要事項を書き殴ったに違いない。
さて、衝撃の「お父さんメモwith地図」を手にして僕は何と言ったか。
普段と変わらぬ声で、こう言ったのだ。
「へえ、父さんって生きてたんだ。あ、母さん、パスポートはそこじゃないって。ドレッサーの引き出し」
このように滅多なことでは動揺せず、心の平熱をウミガメ並みに低く保っている僕ではあるが、今珍しく戸惑いの中にいる。
母さんの荷造りを手伝いつつ自分の引っ越し準備もこなし、粛々と迎えた今日この日。
「お父さんメモwith地図」で辿り着いた先に、「家」と言われて頭に思い描くような住宅が見当たらないからだ。白い塀に囲まれた一軒家とか、周囲を威圧するように建つ高層マンションとか、今にも崩れ落ちそうなボロアパートとか――要するに一般住宅と呼べる建物が。
代わりに建っているのは『カラオケ館 ネプチューン』の看板も真新しい商業用店舗。
そういえば。
地図を裏返し、メモに走り書きされた名前を再確認する。
入江 海王(いりえ かいおう)
初めてこの名前を目にした時、思ったのだ。父さんの両親、つまり僕の祖父母にあたる方々は、ずいぶんとまたスケールのでかい名前をつけたものだなあ、と。七つの海を股にかける海賊王にでも育てたかったのだろうか。
海賊王にはならなかった――一応努力はしたものの、なれなかったのかもしれないが――その息子は、自分の店に命名する際「海王=海の王=ネプチューン」というベタな発想で満足したとみえる。
ふむふむ。僕の血の中には「微妙なネーミングセンス」という遺伝子が、かなりの確率で含まれているわけだ。首尾よく結婚して子どもを授かった場合、あるいは万が一起業などして自分の店を持った暁には、名付けには重々注意するとしよう。
珍しく戸惑ったり遺伝について思索したりして疲れたので、裏口を探すのが面倒になってしまった。お客じゃないけど今日のところは勘弁してもらうとして。
駐車場らしきスペースを横切り、エントランスの前に立つ。待ち構えていたかのように自動ドアが左右に開いた。
おっと!
中に入ろうとしてつんのめりかけた。なんと目の前にもう一枚、ドアが出現したのだ。
前に立っても開かない上に、ドアはシルバーグレーの金属製で、中の様子は1ミリたりとも窺えない。カラオケ店の入口というよりSF映画に出てくる宇宙船の内部扉といった風情だ。
「入店ヲ、希望サレマスカ?」
いきなりヴォコーダーで加工されたようなロボットボイスが響いた。
そう来たか。
エントランスの印象通り、父さんはかなり個性的なコンセプトの店を企画したらしい。
「えーと、まあ、入店はしたいですね」
とりあえず返事をしてみると、上から小さなマイクとデンモクがしずしずと降りてきた。
「デハ、得意ナ曲ヲ1曲入力シテ、オ歌イクダサイ」
これは、もしかして。いや、もしかしなくても。
女子高生御用達マスカラでボリュームアップされた睫毛の下に、くっきりとクマを作った樹里様の顔が頭を横切る。彼女のご立腹の原因となった勇気あるカラオケ店って……。
個人情報保護に神経をすり減らすこのご時世、新しいクラスの名簿を作成して配るようなことはまずないだろうが、彼女の前で父親の職業と現住所を言うのだけはやめておこう。
密やかな決意は胸の奥にしまい、マイクに向かって話しかける。
「できることなら歌は勘弁してください。陸です。母さんに言われて来ました」
「なんだ、陸か。なら始めからそう言やいいのに」
極めて人間らしい応答が返ってきて、扉が開いた。
まっすぐ進んだ正面にはカラオケ店の定石通り、カウンターがあった。
ただし「いらっしゃいませ」とにこやかにほほ笑むお姉さんはおろか、とりあえず時給さえもらえりゃいいと、だるそうに佇むバイトくんすらいない。
向かって左側にはカラオケルームがいくつか、廊下をはさんで並んでいる。歌声らしきものも漏れ聞こえてくるし、一応お客はいるようだ。
誰も出て来る様子がないので、聞くともなしに歌声に耳を預ける。
なるほど。これじゃ「フツーに上手い」だけの樹里様は、残念ながら入店を許可されないわけだ。
カウンター右脇の扉が宇宙的なサウンドと共に開いた。奥から呼びかけてきたのは、たぶん父さんと思われる先ほどのぶっきら棒な声だ。
「とにかく入れ。今ちょっと手が離せない」
「おお、息子よ!」なんて駆け寄って来られるよりよっぽど有難いけれど、息子との初対面に臨む態度としては、かなりユニークな部類ではないだろうか。
「は……じめまして?」
言いかけてから(あ、もしかしたら赤ん坊の頃会っていたかも。それならお久しぶりです、と言うべきか?)などと考えて、語尾が疑問形になってしまった。
パソコンに向かっていた後ろ姿が、くるりと振り向き立ち上がった。
ごく普通のジーンズの上に、ごく普通のポロシャツ。
しかしその上には、特にSF好きでなくともほぼ世界中の人が知っている、あの映画の敵役のマスクが乗っかっている。
「るーく! もとい、りーく! あい あむ ゆあ ふぁーざー!」
僕が待たされている間、この人はいそいそとダースベイダーのマスクを取り出していたんだろうか。「今ちょっと手が離せない」って、まさか、マスクの装着で手が塞がっていた?
父さん(であるらしい人)は、黒光りするマスクからすーはーすーはー大袈裟に息を吐きながら待ち続けている。何をってもちろん、僕からの期待すべき反応を。
『スターウォーズ』のあのシーンで、ルークは確か絶望の叫びを上げるんだったよなあ。
限りなく低空飛行し続ける僕の平熱を、そこまで一気に上昇させるのは無理です。悪しからず。
「えーと……フォースとライトセーバーの持ち合わせがないもので、お手合わせできなくてすみません。ところでつかぬことをお伺いしますけど、スターウォーズごっこで遊びたいばかりに、僕に陸と名付けたんじゃないでしょうね」
銀河帝国を牛耳る暗黒卿(になりきっている人)が、マスクを厳かに外した。髪の毛に引っ掛かって思いのほか手間取っていたことには目を瞑るのが、武士の情けというものだ。
「お前、思ってたより面白いやつじゃないか。柊子め、嫌がらせに偽情報をよこしたな? ちなみに陸ってつけたのは、断じてそれだけが理由じゃないからな!」
柊子というのは、今頃成田空港にいるであろう母さんのことだ。息子の養育を肩代わりさせるにあたり、いったい僕のどんな情報を与えたんだか。
それにしても。
「断じて」と威張っているわりに、命名理由の一端にはスターウォーズごっこがしっかり含まれてるんじゃないか。まあ流雨駆とか留宇久とか、当て字を駆使したキラキラネームじゃなくて、ルークにいくらか響きが近い陸にしてくれたことには感謝しておこう。
太い眉の下からぎょろりとこちらを見据える目。不敵な面構えと言っていい顔だ。ただその目の中にはどことなく愉快な輝きがあって、なんだかとても懐かしい。
父さんに会ってこんな気分になるなんて、今の今まで思いもしなかった。体温が平熱認定ラインを超えそうになる。
まだまだ修行が足りないな。
制服のポケットの中で、お守りをそっと握り締める。
「とりあえずその、気持ち悪い敬語はやめろよ。ベイダーとルークみたいに敵味方に分かれてたってわけじゃないんだし、フランクにいこうや。……さて、と。陸の部屋は二階だ。届いた荷物は適当に突っ込んである。他に何か訊いときたいことあるか?」
そりゃいろいろあるけど、全部訊いて答えてもらっていたら日が暮れそうだ。
こういう場合は当たり障りのない質問を。リクエスト通り、敬語なしで。
「じゃあ、お客さんのことなんだけど。ただ上手いだけじゃない人っていうか……歌い方にオリジナリティーがある人? と、並外れて音痴とかリズムがぜんぜん取れない人とか、両極端なお客さんばっかり入れてるよね? 業者に頼まれてデータでも取ってるの?」
「……陸、お前それ、この部屋に入るまでの何分かで聴き分けたのか」
父さんの目の輝きが電球1コ分、たぶん40Wほど増大した。なにやら怪しげな光を湛えて。当たり障りのない質問のはずが、選択を誤ったか?
「いや、聴き分けるだなんて大層なもんじゃなくて……ほら、入り口でも歌わされそうになったし、何か意味があるのかと思っただけで」
「あー、その件については、夕飯の時にでもじっくり語り合おうじゃないか。ところで、そうだ、トイレ! トイレの場所を教えておかないとだな!」
大変わかりやすく話題を逸らされた。絶対に知りたかったわけでもないから、まあいいけれど。
「そうだね。悠久の昔から、トイレは生活になくてはならない、ありがたい存在だからね」
「全くだ。で、トイレはだな、玄関入って左手にカラオケルームがあったろ? あの奥の突き当たりにある」
「え? お客さんと一緒のトイレを使っていいの?」
「そのほうが掃除の手間が省けるからな」
「なるほど、合理的だね。後で行ってみるよ」
「いや、今がいい。今、行ってみるべきだ! お客で混雑している時より、断然、今だ!」
父さんの目は今や電球1コ分増量どころか、クリスマスシーズンの表参道のイルミネーション並みにキラキラと輝いている。
トイレに見せたいものでもあるんだろうか。R2‐D2型のウォシュレットとか、蛇口がヨーダの顔になってるとか? ヨーダの蛇口じゃ、モスグリーンの液体でも出てきそうでちょっと怖い。
「……うん、行ってみるよ」
生理的欲求は全くないけど、おとなしく従っておこう。宇宙船のハッチじみたドアから出ようとした僕を、父さんの声が引き留めた。
「ただし!」
まだ何か? と言いたいところをぐっと堪え、にこやかに振り返る。
「トイレの手前の107号室には、絶対に入ってはいけない。絶対にだ。いいな?」
二回重ねて言った「絶対に」は、文字に変換したとしたら級数を5段階アップし、その上太字にして傍点まで付ける勢いの強調ぶりだ。
なんだ。見せたいのはトイレじゃなかったのか。
努めて厳粛な雰囲気を醸し出そうとはしているが徒労に終わっていることに、父さんは全く気付いていない。全身から立ち上るワクワク感は、遠足を前にした小学生のようだ。
入るなと言われたら、必ずや入りたくなるはず。
『鶴の恩返し』のお爺さんでさえそうだったのだ。ましてや健康な男子高校生ならばなおさら! と、父さんは思っているに違いない。
この僕が、入るなと言われたら「はいそうですか」と入らずに済ませてしまう、不健康極まる高校生だとは露知らず。
「107号室だね、了解」
うなずいて部屋を出た。
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