2 父さんはフラグを立てる ♪レ
相変わらず誰もいないカウンター前を横切りながら、考える。
首尾よくトラップを仕掛けたつもりの父さんの期待に応え、禁断の107号室に突入するべきか、省エネ体質を貫き、「だって入るなって言われたし」と、しれっと通り過ぎるべきか。
迷っているうち、早くもカラオケルームへと続く廊下に着いてしまった。
廊下を挟んで右に101、102、103、104号室。左に105、106、107号室。廊下の突き当たりがトイレ、という配置だ。
107号室のドアが103号室のドアと向かい合っているところを見ると、107号室は他の部屋二つ分の広さがあるということだろうか。つまりはパーティールーム的な?
まずはゆっくりと101号室、105号室の間に足を踏み入れる。
105号室には誰もいないようだ。
101号室では音程をわずかにフラット気味に取るという玄人っぽい芸当で、男の人がジャズナンバーを歌っている。
洒落た歌い方だなあと感心しつつも、僕の背中はしっかりと、カウンターに隠れてこちらを窺っている父さんの気配を捉えている。
まあ、ついてくるだろうとは思ったのだ。
父さんの目を通して見たら、今の僕の頭上には『禁断の107号室突入イベント』のフラグがぴょこりと立ってはためいていることだろう。往年の人気ドラマ『家政婦は見た』ばりに顔を半分だけ出し、ハラハラ見守る姿をいじらしいと評していいものか悩むところだ。
メロディーラインと永遠にねじれの関係を誓ったかのような凄まじい音痴の102号室と、フレーズの頭が必ず2,3拍ずれるリズム音痴の106号室の間を抜ける。
ついに問題の107号室に差し掛かってしまった。
期待に応えてドアを開けたら、面倒なことになるのは目に見えている。ここはやっぱりフラグを頭からむしり取り、容赦なくポキリと折って、宿屋ならぬトイレへと避難するとしよう。
うん、それがいい。是非ともそうするべきだ。
107号室には目もくれず、向かいの103号室に顔を向けたまま進む。あと一歩でドアの前を抜けるというタイミングで、悲しげなため息が聞こえてきた。
横目で盗み見たカウンターの陰には、目の前で肉をとんびにさらわれたブルドッグさながらに、切ない表情の父さん。
会って30分もしないうちに期待を裏切るっていうのもなあ。もともと十数年のブランクには拘らず、仲良く機嫌よく暮らすつもりで来たわけだし。
しょうがない。同居初日のご祝儀ってことで。
おもむろに首を左に向け、107号室のドアノブに手をかける。喜びのあまり立ち上がった父さんが、カウンターの天板にゴリッと頭をぶつける音が響いた。
覚悟を決め、威勢よくドアを開ける。
……なんだ、これ?
禁断の部屋の中では、スターウォーズのC3‐POみたいなロボットが、手足を振り回して暴れている。
そのメタリックなボディからなんとか離脱しようともがいているのは、はちみつ色の髪の美少女だ。衣類と呼べるものを何一つ身につけないという、潔いスタンスで。
とりあえず、開けたドアを速やかに閉める。
見なかったことにしよう!
心の中の現実逃避スイッチに手を掛けた……が、諦めた。さらわれた肉を取り返してくれた飼い主に、尻尾をちぎれんばかりに振って駆け寄るブルドッグのごとく近づいて来る父さんが見えたから。
「みぃーたぁーなぁー」
見たなって、そんな幽霊屋敷のお岩さん口調で言われても。「そら見ろ、ほれ見ろ、どうあっても見ろ」みたいなお膳立てだったじゃないですか。
「驚いたか? うん、さぞかし驚いたことだろう! だから絶対に入るなと言ったのに」
「う、うん。もう、何から驚いていいものやら」
「何から? 何から、と言ったな?」
父さんの口角が邪な角度に持ち上がった。少年漫画だったら間違いなく、「ニヤリ」と描き文字を添えられるところだ。ああもう、いやな予感しかしない。
せっかく閉めたドアを開けて、ぐいぐい中に押し込まれた。
もとより抵抗するつもりはない。おとなしくソファの端っこに腰を下ろす。
ドアを後ろ手に閉め、父さんが言った。ブルドッグ顔にそぐわぬ猫撫で声で。
「さあ陸や、父さんに言ってごらん。何が見えるか、順を追って」
モニター前のステージ。見なかったことにしたかったものは、やっぱりまだそこにあった。
これは夢だ、幻だ、なんて言ってたってしかたがない。冷静に説明を試みる。
「えーと、まず、等身大C3‐POをシルバー塗装したみたいなロボット。かなり暴れてる。それと、信じられないんだけど」
「ほう、他にも何か見えると? 続けて続けて」
信じられないというフレーズは、いたく父さんのお気に召したらしい。ぎょろ目を三日月形に細めて続きを促された。
「もうひとり、はちみつみたいな色のロングヘアの女の子が……あられもない姿の」
「おお! やはり見えたか!」
「うん、見えるんだけど、なんていうか、うっすら向こうが透けて見える気がするんだよね。今も、胸から下はロボットの身体とオーバーラップしてて……なんか、メタリックな蛹から必死で脱皮しようとしてるみたいに見える」
「おお! おお!」
小さなステージではこちらに全く頓着せず、ロボットVS美少女の戦闘が繰り広げられている。あまりに真剣そのものなので、(身体は)申し分なく健康な男子高校生である僕ですら、ああ、あの髪の束がなければ胸のふくらみが見えるのに、なんて思っちゃいけない気がする。
そういえば、今ロボットに頭突きをかまして揺れている、あのおいしそうな色の髪。どこかで見た記憶があるのだけれど、どこだったろう?
「とりあえずあれ、止めなくていいの?」
まずは常識的かつ建設的な提案をしてみた。待ってましたとばかりに父さんが、なぜかマイクを投げてよこした。
え? これを武器に戦えと? いくらなんでもマイクでは、たいしたダメージは与えられないんじゃないだろうか。RPGで最初に手にする武器、木の棒とおっつかっつだ。
「あの戦いを止めたいなら、方法はたったひとつしかない。陸! 歌うんだ!」
「へ?」
歌で敵の戦意を喪失させるのはアイドル歌手の美少女というセオリーが、80年代に確立されていませんでしたっけ?
「別に反戦歌じゃなくたっていいんだぞ? ああ、伴奏が必要か?」
いそいそとデンモクを手に取った父さんに、結構ですと首を振る。
父さん特製フラグを頭に乗せ、まんまとこの部屋のドアを開けさせられた瞬間、きっとここまでの展開は確定してしまったのだ。
そして僕が素直に歌ってあの乱闘を止めない限り、『禁断の107号室突入イベント』終了のファンファーレは鳴らない。
急に歌えと言われて、思い浮かぶ歌はひとつしかなかった。破れかぶれで歌い出す。
おやまに あめが ふりました
あとから あとから ふってきて
ちょろちょろ おがわが できました
『あめふりくまのこ』。
僕が今まで生きてきた中で、たぶん一番多く聴いた曲だ。赤ん坊の頃は子守唄として。もう少し育ってからは、高熱で唸っている時や、けんかに負けて泣いて帰ってきた時なんかに。
「母ひとり子ひとり」と言うよりは「父ひとり子ひとり」と言ったほうがいいくらい男性的な子育てをしてきた母さんの、唯一の女親らしい振る舞いがこの歌を歌うことだった。
父さんが「お?」という顔をしてこちらを見ている。
そりゃあ意外でしょうとも。男子高校生がカラオケで一曲目にこれを歌い始めたら、100人中100人が引くだろうし。ましてやロボットと美少女のシュールな戦闘シーンのBGMとしては、ミスマッチもいいとこだ。
間が抜けた歌声がかえって功を奏したのかもしれない。少女が振り返った。下半身をロボットに呑みこまれたまま、ガシャコンガシャコンと近寄ってくる。吸い込まれそうに澄んだ水色の瞳に、僕を映して。
うーむ。これは少女の意思なのか、はたまたロボットの意思なのか。少女の興味がこっちに移った途端、ロボットの抵抗が治まったように見えるのは気のせいか?
疑問の数々が脳内を乱れ飛ぶせいで、歌の切り上げ時まで頭が回らない。場にそぐわない童謡は、空しく2番に突入する。
いたずら くまのこ かけてきて
そうっと のぞいて みてました
さ!
歌詞をど忘れしたわけではない。ただ単に、びっくりしすぎて歌えなくなっただけだ。「さかなが いるかと みてました」と続く11小節目から、少女がいきなり歌い出したから。
ぴるぴる ぴるぴる ぴるぴるぴー
メロディーラインは合っている。音程もリズムも申し分ない。
けど、なんで「ぴるぴる」?
知らない歌を耳コピしてとりあえず歌ってみようと思ったら、「フンフンフーン」というハミングが定番中の定番ではないだろうか。
歌う人物の気分が非常に盛り上がっていたり、あるいはとてつもなく天真爛漫な性格であったとしても、「ランラララーン」くらいがせいぜいだろう。
しかし「ぴるぴる」は、僕の歌唱が「さ」で止まった要因の一部でしかない。
何が驚いたって、口を動かして歌っているのは確かに少女なのに、「ぴるぴる」音はカクンと首を折ったロボットの頭部から聞こえてくるのだ。
少女はよほど『あめふりくまのこ』が気に入ったらしい。12小節ワンセットの「ぴるぴる」を、春先の小鳥のように楽しげにさえずりながら――いや、さえずっているのは正確にはごついロボットなのだが――、僕の周りをぐるぐると廻り始めた。
一糸まとわぬ美少女が円を描いて歌い踊る……ルノアールの絵にでも描かれそうな牧歌的な風景だ。少女の腰から下が、ロボットと合体さえしていなければ。
ついさっきまで行儀よく並んでいたソファは、てんでんばらばらな方向を向いて転がっている。テーブルはなぎ倒され、ゴミ箱に至っては吹っ飛ばされたあげく、コートハンガーのてっぺんにすっぽりと被さっている。
「がふっ」と聞こえたのは、ロボットの頭部でみぞおちを直撃された父さんの呻き声だ。もう一周してきた時に更なるダメージをくらわぬよう、腹を庇いながらそろそろと後退していく。
少女(とロボット)の無邪気なダンスのおかげで、今やカラオケルーム107号室の中は地獄の様相を呈していた。
「いったん外に出る? って、出られるのかな……」
父さんがポケットから取り出した何かを放ってよこした。
「こ、これを!」
苦痛に歪んだ顔。望みを託すかのように絞り出した声。
まさか、やっと会えた息子に託すたったひとつの遺言、的な?
美しい放物線を描いて落下してくるそれを、右手を伸ばしてキャッチした。期待を込めて手を開いたものの、中にあったのは透明な勾玉のような、いかにも頼りない物体だ。
「えーと、これをこすると巨大な竜が出現するとか、そういう?」
「おもしろい。おもしろいが、今は耳につけろ。どっちの耳でもいいから」
ああ、これってあれか。歌手がコンサートで歌う時、耳につけてるやつ。
どれどれと右耳に装着してみると、不思議としっくり納まった。
が、「ぴるぴる」というさえずりも、ぐるぐるダンスも、一向に収まる気配はない。
父さんのかわいそうなみぞおちに代わり、一周ごとにロボットの頭突きをくらっているソファは無残に破れ、中身のウレタンが飛び出している。あれが父さんの臓物なんてことにならなくてよかったと心底思う。
「そら、おいで、と言ってみろ」
「は?」
その「そら」って、文法でいうところの、いわゆる感動詞ってやつですか?童謡『鳩ぽっぽ』の、「まーめがほしいか、そらやるぞー」的な?
平成生まれの高校生が、日常生活で「そら」なんて語彙を使うことになろうとは、今の今まで思ってもみませんでしたが。
「いいから言うんだ。外に出たいなら」
外には出たいです。可及的速やかに。
「そらおいでー」
意図不明のフレーズを棒読みした瞬間。
少女が発光した。
髪の色と同化するような、はちみつ色の眩い光。その光の中、少女がぷるんと身を震わせる。
纏わりついていたロボットのボディが、力なく床に崩れ落ちた。銀色の残骸の中からすぽんと足を引き抜き、少女が目の前に降り立った。
ビスクドールみたいな象牙色の肌を、腰まで伸びた柔らかな髪が包んでいる。マリモすらすくすくと育ちそうに澄んだ水色の瞳。小さな鼻と口が、なんだか妖精じみた雰囲気だ。
竹から生まれたかぐや姫ならぬ、ロボから生まれたぴるぴる姫といったところか。
ん? 姫? 姫っていったら……
記憶の巻き戻しボタンに指が掛かったというところで、少女がすっと手を差し延べた。華奢な両腕が僕の首に巻きつく。
小首をかしげて顔を覗き込みながら、少女は言った。
「ソラ、来たぴる」
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