3 父さんはフラグを立てる ♪ミ
熱帯地方のスコール並みに降りしきったぴるぴるの雨は、「来たぴる」の「ぴる」を最後にめでたく止んだ。
しかし、「そらおいで」と謎の呪文を唱えると同時に外に出られるはずだった僕は、相変わらず禁断の107号室の中にいる。
ていうかこの状況、もう禁断でもなんでもないよなあ。
嘆息しながらも、僕の勤勉な両手はひっくり返ったテーブルを起こし、コートハンガーに帽子のように被さったゴミ箱を救出して元の位置に戻し……と、せっせと働き続けている。
バイトにもすっかり慣れた高校生が、部屋の清掃という通常業務をこなしているようにしか見えない、「禁断」という響きから1万光年遠ざかったような光景。
「すっかり懐かれたな」
みぞおち直撃という名誉の負傷を楯に、父さんはウレタンの飛び出たソファにふんぞり返っている。痛みに耐えていると主張する割には、至極ご満悦だ。
父さんの視線は僕の顔ではなく、背中に注がれている。なぜならそこにはおんぶお化けのごとく、例のぴるぴる姫がぶら下がっているから。
ロボットとオーバーラップしていた時みたいに向こう側が透けて見えることもなく、首に回された手の感触もちゃんとある。ふくらみとは言えないほどのささやかな胸の隆起も背中に感じる。
でも、ぜんぜん重くないのはなぜだ?
いや、そんなことより。
「懐かれるのはまあいいとして、ぶら下がられたままなのも百歩譲っていいとして、父さん。とにかくこの子に、何か着せてやれないの? 僕もこれで一応、健康な男子高校生なんだけど」
「おお、そりゃ悪かったな。しばし待て」
ソファから立ち上がり、父さんはいそいそとカラオケ機器に向かって歩いていく。部屋の後片付けには猫の手ほども役立つ意思を見せなかったというのに、なんという軽やかな足取り。
カラオケ機材が並ぶ棚からノートパソコンを引き出し、なにやら入力すること数分。父さんがキーボードから顔を上げた。
「ソラ、名残惜しいだろうが、まあ降りろ。お披露目だ」
やっぱり「ソラ」って、この子の名前だったのか。感動詞じゃなくて。「ソラ、来たぴる」のあたりで、そうじゃないかとは思っていたのだが。
「降りるぷ!」
なに? 今度は「ぴる」じゃなくて「ぷ」だと?
新たな接尾語の出現にうろたえる僕の背中から、ソラの気配がふっと消えた。重さも体温も全く感じていなかったのに、肩がわずかに軽くなったような、背中がスース―するような、不思議な感じだ。
「陸、回れ~右!」
父さんの威勢のいい号令に抗えず、思わず振り向いてしまった。
「服、着たぴる」
……かわいいじゃないか。
僕の中に眠る動物的本能にとっては、一糸まとわぬ姿の方がありがたいのかもしれない。が、理性を加味した心情的には、こちらのほうが断然好もしい。
胸がちょうど隠れるほどの、ボレロ丈の白い上着。上着の下はセーラー襟のワンピースだ。胸元のリボンタイといい、足元のストラップシューズといい、細部にわたってお嬢様風味を醸し出しているのがいい。ソラの表情もどことなくうれしそうだ。
「どうだ! 名付けて『桜並木で待ってるね♪ 似合うかな? 新しい制服』バージョンだ」
……。
さっき「竹から生まれたかぐや姫」からほんのり広がりかけた連想は正しかったのか。
みぞおちを痛がる芝居も忘れ、自慢げにふんぞり返る父さんに訊いてみる。
「父さん……ソラって、もしかしてつい最近まで、歌姫プロトタイプだったりした? ていうか、キング・ポセイドンって、父さん?」
「お? なぜ俺の隠れた顔を? そうか! 陸も歌姫ファンだったというわけだな? いい趣味してるじゃないか。しょうがない、親子のよしみで、シリアルナンバー入り限定歌姫ストラップでもやるとしよう」
ビンゴだ。
経営する店にはネプチューン。ボカロ制作のハンドルネームにはポセイドン。 ローマ神話の海の神が、ギリシャ神話にすり替わっただけの話だ。あまりにひねりがなさすぎて逆に清々しいと思うしかないネーミングセンス。
琥太郎、なんていうか、ごめん。
きみが尊敬しまくってるキング・ポセイドン様は、かなりの変人であるばかりか、よりにもよって僕の父さんだ。
そしてきみが一途な愛を注ぐ姫ちゃんは、なぜか二次元を飛び出して、今、僕の前に立っている。はちみつ色の髪に縁どられた顔を、愛らしくかしげて。
「アンドロイドの研究開発には、馬鹿みたいに金がかかるんだよ。で、人工知能のプログラミングついでに、少しは研究費の足しになるかと思って作ってみたわけだ、流行りのボーカロイドってやつを」
「それが『歌姫プロトタイプ』?」
「うむ。口コミでユーザーが増えて、月々500円の課金でも予想外に儲かっちまって。いやぁ、才能って怖いよなあ!」
父さんと母さんが一度は結婚した理由がわかった気がする。この、自分の才能に手放しで酔えるところに「おお! もうひとりのわたしがいる!」と、共感したに違いない。まさに若気の至りってやつだ。
父さん=キング・ポセイドンという衝撃の事実発覚後、僕らは場所を移した。今は二階のリビングで夕飯を食べながら、ソラ誕生に至る秘話を拝聴しているところだ。
といってもソラは、レトルトカレーを食べる僕の仕草を隣でそっくりそのままなぞっているだけなのだけれど。
物に実際に触れることはできないらしく、エアスプーンを握りしめ、エアカレーライスをそこに乗せて口へと運び、もぐもぐしている。
試しにスプーンをコンサートの客席で揺れるサイリウムみたいに左右に振ってみたら、神妙な顔で真似している。
おもしろい。スプーンを置いて、いきなり右手の人差し指を鼻にぐいっと突っ込んだとしても、迷わず同じ動作をすることだろう。とりあえずはやらないけど。
やたらと寄り道の多い父さんの話をまとめると、こういうことらしい。
SFマニアが高じて産業用ロボットの企画開発部門に就職した父さんは、仕事の傍ら、自宅でずっとアンドロイドの研究に没頭してきた。C3‐POやターミネーターみたいな精巧なアンドロイドを夢見て、給料をつぎ込んで。
ちなみに赤ん坊(つまり、昔の僕)のミルク代にまで手をつけたことで母さんの逆鱗に触れ、この長い長い別居状態に至ったのだそうで。
物心つく前に亡くなったどころか、離婚すらしていなかったというのが驚きだ。なるほど苗字が同じはずだ。
そうまでしてつぎ込んだ給料でも足りなくなって窮余の策で作ってみたボーカロイドが、まさかの大ブレイク。『歌姫プロトタイプ』のおかげで、父さんはアンドロイド研究の資金に事欠かなくなったというわけだ。
「でも、資金の心配がなくなったから会社、辞めたわけだよね? なんで研究に専念しないでカラオケ屋なんかやってるの?」
父さんの小鼻が目に見えてふくらんだ。
「陸。ここは『カラオケ屋なんか』じゃない。この建物そのものが、データ収集のための壮大な研究施設なのだ!」
「へえ、そうなんだ」
もっと派手に驚くか、「またまた~」と笑い飛ばすかしてほしかったらしい。小鼻がしゅんとすぼまった。
だって父さん。今日ここに来てからの僕の心の平熱ライン突破回数は、ここ数か月の累積回数を遥かに上回ってるんだ。ここはしっかりリミッターを設定し直して、動揺を収めないと。
「お前、某テレビ局の音楽番組の口パク禁止騒動、知ってるか?」
「ああ、うん。プロデューサーが、この番組はナマ歌にこだわります、口パクはもう放送しません、って宣言したとかいう?」
「おお、一応知ってるのか。で、どう思った?」
「うーん。デビュー以来ずっと、口パクがスタンダードだと思ってやってきたアイドルのみなさんは大変だろうな~と」
「そう! そうなんだ!」
「だろうな~と」の~のあたりで、かぶせ気味に激しく同意された。
ソラは、ふくらんだりすぼまったり忙しい父さんの小鼻に興味を引かれたらしい。ぜひとも自分もふくらませてみようと、うさぎみたいに鼻をピクピクさせている。
「ナントカ歌謡祭での誰それの歌がお経みたいだっただの、耳が腐るだのバッシングされて、生番組アレルギーに陥るアイドルが続出したらしい。で、ボカロ界に彗星のように現れた天才に、白羽の矢が立ったわけだ」
「今ここで慎ましくレトルトカレーなんか食べてるけど、実は類い稀なる才能の持ち主である、僕の父さんのことだね?」
「まさしく!」
父さんの小鼻はほぼ1.5倍(当社比)まで拡大した。真似しようと焦るソラは、自分の鼻を注視するあまり寄り目になっている。いじらしい。
「音程を補正するってだけなら、もう既にオートチューンというツールがあるんだが」
「オートチューンって、あれだよね。テクノミュージックでよく使われてるやつ。ケロケロした感じの声に加工するのに」
「そうだ。よく知ってるな」
無論、姫ちゃん命♪ の琥太郎の熱心なレクチャーの賜物だ。
だがしかし、我が友琥太郎がキング・ポセイドンの崇拝者であることを、今ここで明かすのはやめておこう。父さんの小鼻の膨張が限界を超え、イソップ童話のカエルのお腹みたいにパチンと破裂しそうで怖いから。
「ただオートチューンでは、生番組でひとりひとりの歌に対応して、しかも自然に聴かせるのは難しい。で、某大手芸能プロダクションから依頼が来た。金に糸目はつけない。音痴の歌でもリアルタイムで補正できる、オートチューンの進化形のようなものを作ってくれ。アイドル一人ずつにオーダーメイドみたいな形になってもよいから、と」
「そっか、その研究施設が、このカラオケ屋なんだね。だから異常に上手い人と、気の毒なくらい音痴な人と、両極端なお客さんばっかり集めてデータ採ってたんだ」
「うむ。希少なデータの採集に励みつつ『歌姫プロトタイプ』に改良を加えて開発したのが!」
父さんの右手が僕の隣をすっと指した。
「この憑依型ボーカロイド、『ソラ』だ!」
誇らしげに紹介された当のソラは、未だ小鼻拡大に向け鋭意努力中だ。
名前を呼ばれてやっと集中が切れたのか
「ハカセ、ふくらまないぷ!」
と、製造元である父さんをうらめしそうに睨んでいる。
そうじゃないかとは思っていたが、父さんはソラに自分を博士と呼ばせてるらしい。SFマニアにありがちな選択だ。
「憑依型か……なんていうか凄そうだけど、いや、実際凄いんだろうけど、この『ぷ』とか『ぴる』とかって、いったい何?」
「えーとだな。憑依型ボーカロイドは、音程補正に留まらず、宿主の感情の変化に応じて自在に歌い方を変化させる。つまり人間的な感情を理解しなくちゃいけないわけだ。ってことでソラには手始めに、シンプルな好悪の感情プログラムを仕込んである」
部屋のあちこちに散らばった書類のうちの一枚を、父さんが拾い上げた。覗き込むと、幼稚園年少組の教室で見かけるような原始的なクレヨン画だ。描かれているのは、真紅の布きれを身体に巻き付けた……たぶん、人間?
その紙をソラの目の前に突き出し、父さんが尋ねた。
「ソラ。その服にも飽きただろう。こっちに着替えるか」
「着替えないぷ!」
首を横にぶんぶん振っての即答。
「ち! せっかく俺自ら描いてやったってのに。このマーメイドラインの美しさがわからんのか。美意識に関してはまだまだだな」
いやいや、マーメイドラインどころか、それ、真っ赤なドラム缶にしか見えませんから。ものすご~く好意的に見ても、腹巻と認定するのがせいぜいです。
理系頭脳を惜しみなく与える代償に、神様は父さんからネーミングセンスと美術の才能を極限まで削ったとみえる。
不満げにぶつぶつ呟きながら、父さんは別の一枚を持ってきた。
今度の紙には、フェアリー・ピンクのエプロンドレスに身を包んだ少女がカラーインクで描かれている。
やわらかな髪から細いリボン、袖口のレースの一片一片に至るまで、実に繊細なタッチだ。手描きなのだろうが、このままポスター化してアニメショップで販売したら間違いなく完売することだろう。
「じゃあ、こっちはどうだ?」
「着るぴる!」
今度は首を縦にコクコクと振っての即答。
「なるほど。うれしいときは『ぴる』、嫌なときは『ぷ』がつくのか」
「大雑把に言えば、そういうことだ。表情や声色から感情を読み取れる相手じゃないからな。語尾に目印でもつけないと、意思の疎通が難しいだろ。ちなみに好悪の判断がつかない場合は、語尾に何もつけない仕様にしといた」
「ソラ、これ着るぴる。ソラ、これ着るぴる」
ら行の早口言葉でも練習するみたいにさえずりながら、ソラはエプロンドレスの絵を両手で掲げ、くるくると踊っている。
まあ確かに顔は無表情といえば無表情だけど、喜んでるのか怒ってるのか、仕草からはっきり読み取れるけどなあ。『ぴる』とか『ぷ』とか、ほんとに必要なんだろうか。
うれしそうなソラの様子とは裏腹に、父さんがはあ、とため息をついた。
「そこまではいいアイデアだと思ったんだけどなあ。好悪のプログラムを入れた途端に、わがまま娘になっちまって。歌姫ユーザー達が作曲した歌を好きなようにアレンジするわ、しまいにゃ歌わなくなるわ」
「友達がボカロの反乱だ! って騒いでたのって、そのせいだったんだ」
「今月分の利用料を全ユーザーに返金して、詫び賃に特製歌姫ボールペンセットまで送って、当分『歌姫プロトタイプ』は利用休止。大損害だよ。おまけに、勝手に実体化しやがって」
「え」
耐えろ、僕の心の動揺制御リミッター。なんか今、ピシピシ亀裂が入る音が聞こえたようだけど、きっと気のせいだ。
「勝手に? ソラって、もともとこういう姿で開発したんじゃないの? 憑依型っていうからてっきり」
「陸、お前……」
一瞬言葉を失った父さんが、あろうことかテーブル越しにハグしてきた。
「いくらなんでも父親をリスペクトしすぎだぞ。こいつめこいつめ」
いや、別にそんなつもりはないんだけど、と反論する元気も出ない。
「ボカロプログラムをいきなり人型に3D化するなんて、さすがの俺でも無理だって。俺が憑依型として作ったのは、お前が今、耳につけてるそのイヤモニだよ。ソラはそんな豆粒みたいな姿じゃイヤだって、勝手に進化して出て来たんだ。『歌姫プロトタイプ』のイラストそのままの姿で」
目が点になるという慣用句を生まれて初めて実感している僕を、ソラが見つめている。はちみつ色の髪を右手で押さえ、きょとんと首をかしげて。
「そうか、だからさっき訊いたんだ。見えたか? って」
「そうだ。本来、ソラは人の目に見えない。制作者の俺はともかく、お前にも見えるとはな。いやあ、おめでとう!」
「あ、ありがとう……」
なにがおめでたいんだか全くわからないまま、思わず返事をしてしまった。父さんの口元がまたもや邪な角度に持ち上がる。
いやな予感ふたたび。
「うれしいか。うれしいよなあ。では、ソラ可視化第二号の栄誉を讃えて! 陸、お前にソラの養育係を任せてやろう!」
さよなら、僕の動揺制御リミッター。堅牢だったはずのきみが砕け散る音が、今、確かに聞こえたよ。
と同時に、虚ろな脳内で高らかに鳴り響くファンファーレ。
ああ、なるほど。
満足げにうなずく父さんを見つめ、僕は深く納得する。
『禁断の107号室突入イベント』は、ようやく今をもって終了したわけですね。
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