4  養育係は煩悶する ♪ド


 今日知り合ったばかりで、キスはおろか手を握ったことすらない美少女が眠っている。スカートの裾の乱れも気にせず、思いっきり無防備に、僕の部屋で。


 思春期の草食系男子たちの『見果てぬ夢ランキング』が発表されたなら、間違いなくトップ10にランクインするシチュエーションだろう。


 そんなありがたい状況に――それも父親の手で――放り込んでいただいたにも関わらず、僕の心は晴れない。晴れないどころか、今にも雨が降り出しそうにどんよりと曇っている。


 電脳世界から飛び出してきた女の子の養育係って。


 ソラは『歌姫プロトタイプ』のキャラ設定イラストを忠実に再現して、自ら実体化した。この先どんなに手塩にかけて育てたところで、ご飯をもりもり食べて太ったり背が伸びたり、出るべきところが出てエロかっこいいお姉さんに成長したりはしない。絶対に。


 つまり父さんは僕に、ソラの感情を育てろと言っているのだ。心の平熱を限りなく低く保つことだけをモットーに生きてきた、この僕に。


 言葉通りほんとに「適当に突っ込んで」あるだけだった荷物をほどき、やっと寝られる状態にしたベッドはソラに占領されてしまった。

 狂騒の渦中にあっても地道に為されていた僕の観察によると、ソラは一応人間らしい行動をとるようにはプログラミングされているらしい。壁を突き抜けたり、宙にふわふわと浮かんだりはしない。ドアを通って部屋を出、ベッドがあればそこで寝る。


 さっきぶら下がられてわかったのは、そこにある物体に寄り掛かったり縋ったりはできるが、作用を及ぼすことはできないということだ。スプーンを握って動かす、みたいな。質量がないからなのだろうか。


 長い睫毛が頬に影を落としている。呼吸しているわけでもないだろうに、わずかに開いているくちびるが妙になまめかしい。

 憑依型ボーカロイドの本体となるはずだったイヤモニと、ベッドで眠るソラの顔をしみじみ見比べる。


「何をどうしたくて、こんな姿になったんだか。ないものねだりしたって辛いだけなのに」

 ため息まじりの独り言に、ソラがぱっちりと目を開けた。


「ぴるぴるぴるぴっるぴる? ぴるぴるぴるぴっるぴる?」


 まさかのぴるぴる姫返り? ……あ、そうか。

 慌ててイヤモニを装着する。


「ナイモノネダリってなに? ナイモノネダリってなに?」


 おお、語尾に『ぴる』も『ぷ』もつかなかったぞ? 好悪どちらの範疇にも分類できなかったんだな。

 それにしても、ソラは人間の音声をそのまま認識できるのに、僕はソラの言葉をイヤモニを通さないと理解できないというわけか。なんたる不公平。


「えーと、ないものねだりっていうのは、そうだな……今自分が持ってないものを無理して欲しがること、かな」

 ベッドから身を起こしたソラが、小首をかしげて考え込む。

「カレーのスプーンほしいの、ないものねだり?」


 自信なさげに訊かれて、少しばかり胸の奥がきゅんとしてしまった。エアスプーンでエアカレーライスを食べていたあの時、ソラはそれほどまでに本物のスプーンを握ってみたかったのか。


「まあそうかな。けど、もともとはネット上のボカロプログラムだったソラが、豆粒みたいなイヤモニになんかなりたくない! かわいい女の子姿のほうがいい!って思ったこと自体が、ないものねだりの最たるものっていうか」

「ないものねだり、ダメ? ソラ、出てきちゃダメだった?」


 声が震えているわけではない。瞳が潤んでいるわけでもない。でも、僕の何の気なしの発言がソラを傷つけたことだけはわかった。


「いや、ダメじゃない。ぜんぜんダメじゃないんだ。だってほら、ソラは『ないもの』をさ、どういう仕組みかさっぱりわかんないけど、ちゃんと女の子の姿っていう『あるもの』に、頑張って変えちゃったんだから」

「ソラ、がんばった?」


 かしげた首が、まだまっすぐに戻っていない。水色の瞳は不安を湛えて揺れている。

「うん、頑張った! 誰にでもできることじゃないからね。すごいと思う」

 なけなしの威厳をかき集め、力強く頷いてみせた。


 小さな顔が定位置に戻ったと思う間もなく、ソラはベッドから飛び降りた。引っ越し荷物で足の踏み場もない床をぴょんぴょん跳ねまわる。


「ソラ、がんばったぴる! すごいぴる!」

「うん、すごいすごい。ソラはすごい」

「ソラ、ないものねだり、もっとがんばるぴる!」

 え? もっと頑張っちゃうんですか。

「え、えらいなあ、ソラは。今度は何を頑張るのかな?」


 ソラが元気よく振り向いた。

「人間のキモチ、わかるように、がんばるぴる。ソラ、言葉の意味、わかる。でも、言葉のキモチ、わからないぷ」

 説明し難いらしく、困っている。養育係に任命されたからには、ここはやはり助け舟を出さねば。


「歌詞の中の言葉ってことかな? 言葉の意味そのものはわかるけど、言葉の奥っていうか、言葉に込められた気持ちがわからないんだね?」

 大きな瞳がさらにひとまわり大きくなった。髪の毛のはちみつ色が、ぱあっと一瞬発光する。


「陸、すごいぴる! がんばったぴる!」

 養育係の身で、お褒めにあずかってしまった。


「いい、悪い、好き、嫌い、は、ただの分類。ソラ、知りたいぴる。かわいいの、奥のキモチ。さみしいの、奥のキモチ。知らないと、ちゃんと歌、歌えないぷ」

 懸命に伝えようと頑張るにつれ、ソラの「てにをは」の選択はどんどん的確になってくる。

 感情を育てるって、父さんの希望というよりソラ自身の希望だったのか。


「ソラ、知りたいぴる。きゅんきゅんするって、なに? やさしい嘘って、なに?」

「なるほど。ときめくとか、冷たい眼差しとかも?」

「知りたいぴる! わくわくも、うるうるも、てへぺろも!」

「おお! じゃあ、激おこぷんぷん丸も加えないと」


 会話がいつのまにか若手芸人の掛け合いじみてきた。

「ほっこりも、がっかりも!」

「よーし。それじゃ、どんよりも、ちゃっかりも」

「萌えるも、萎えるも、ツンデレも、中二病もぴる!」

「なんか急にコアな世界に突入したな……えーと」


 負けじとインパクトのある言葉を絞り出さんとする僕の視界で、ソラの身体がベッドにぱたんと倒れた。「電池が切れたみたいに」というフレーズが頭に浮かび、ボーカロイドだけにうまいこと言った! と自画自賛する。

 知りたい、理解したいとメモリーに溜め込んでいた言葉をぽんぽん外に出せて、よっぽどうれしかったんだろう。母親の胸に抱かれた赤ん坊みたいな満ち足りた顔をして眠っている。


 たった今、ソラのメモリーには、「ないものねだり=すてきなこと」と上書きされたに違いない。あまりに楽しそうだったから、ほんとのことを言いそびれてしまった。


 ごめんよ、ソラ。実は僕、ないものねだりが嫌いなんだ。


 声には出さずに言ってみる。ソラがはしゃいでほんのり温まった部屋の空気が、急によそよそしくなった気がした。

 ベッドを背もたれにして床に座り、ブレザーのポケットをまさぐる。

 こんなふうに頼りない気持ちになった時のために、いつもそこにあるお守り。取り出して蛍光灯に翳すと、中の水銀が「またですか」とでもいうように鈍く光った。


 ガラスと水銀でできたこの小さな体温計で、これまで何十回熱を測っただろう。

 僕はひ弱な子供だった。何かというとすぐ熱を出し、そのたび母さんは会社を早退して保育園や小学校に駆け付ける破目になった。

 熱が高くなると何が辛いって、余計なことを考えて気分が滅入りまくることだ。


 もし他の子みたいにお父さんがいたら、きっとお母さんは外で働いたりしないで家にいられたのに。


 もし僕がもっと丈夫だったら、病院代だってかからなかったし、お母さんも会社のみんなに謝って飛んで帰ってこなくてすんだのに。


 お父さんがいなくたって、せめて兄弟でもいたら、お母さんが残業で遅くなってもさみしくなかったのに。


 もしお母さんみたいに頭がよくて性格も明るかったら、勉強でも運動でももっと簡単にこなして、クラスの人気者にだってなれたのに。


 そう、僕は病弱なだけじゃなくて、飲み込みもかなり悪かった。

 今にして思えば、飲み込みの方は同じ年頃の子にくらべてそう悲観するほどひどくはなかったのかもしれない。

 でも、友達をなかなか作れない僕の見本は、常に母さんだったから。


 母さんは、両親が早くに亡くなって天涯孤独になるという、普通なら世を儚んでもいいような身の上だったらしい。

 にも関わらず明晰な頭脳を元手に、もらえる奨学金は全てゲットして大学を出、シングルマザーとなっても天性の人当たりの良さで周りの理解と協力を得て、男前に僕を育ててきたツワモノだ。


 興味のあることには、餌を前にした野生のライオンのごとく飛びつき、あっという間にものにしてしまう。障害物を発見してもビビるどころか、どうやって乗り越えてやろうかと目を爛々と輝かせ、楽しみながら乗り越えてしまう。


 勉強にしろ逆上がりにしろ家事のやり方にしろ、僕が教えてと言えば母さんは必ず、忙しい時間を縫って教えてくれた。

 教えてもらっていると時折、母さんがハッと一時停止状態になり、言葉を選び直すことがあった。何度かそんな場面を重ねるうち、僕にもようやくわかった。


 母さんが自分の子供時代を思い返して「この年頃ならこれくらい」と想定したレベルに、僕はついていけてないんだと。

 ドライブの時母さんが、ノリノリでアクセルを踏み込んだはいいけれど、助手席で車酔いして青ざめている僕に気付き、慌ててスピードを緩める時みたいに。


 何十度めかの高熱が下がったある朝、

「ああ、よかった。陸、熱下がったね。これで少し楽になるから」

と笑顔になった母さんを見て、なんだかストンと腑に落ちてしまった。


 僕はどう頑張ったって母さんみたいにはなれないみたいだ。

 だとしたら、手に入らないものを「もしも、もしも」なんて思い浮かべて悪あがきするより、無理しないで平熱を低く保ち、静かに生きるほうがいい。今持っているものに感謝して、誰にも迷惑をかけず。


 ゆとり世代後期に生まれた僕たちに「さとり世代」なんて名前がつけられる前から、僕はとっくにさとりの国の住人だった。


 幸せのハードルをどんどん上げながら、それを跳び越える努力すら楽しめてしまう母さん。

 SFマニアの道を邁進するついでに、アンドロイドやら新種のボカロやらをするっと生み出してしまう父さん。

 ボカロの領分を旺盛な好奇心でかるがるとはみ出して、人間の世界に降り立ったソラ。


 凡人にはないものねだりにしかなり得ないことを、頑張れば実現してしまえる熱意と才能がある人は、積極的にないものねだりしていいのだ。


 でも、僕はしない。分をわきまえているから。

 その代わりさとりの国の住民代表として、仙人並みに悟ってやる。時代遅れのガラスの体温計を握りしめながら。


「カレー……からい……?」

 ベッドの上でソラがむにゃむにゃとつぶやいた。

 ボーカロイドも夢をみるのか。しかも寝言まで。ただしソラが見ているのは電気羊の夢じゃなくて、どうもカレーライスの夢っぽいけど。


 くちびるの端が微笑むようにきゅっと持ち上がった。夢の中ではちゃんと本物のスプーンを握りしめて、本物のカレーを味わえているのだろうか。


 カレーの辛さを伝えるのはなかなかに難しそうだけど。

 とりあえずソラのないものねだりは、気持ちよく応援してやるとするか。

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