20  赤鼻のトナカイは覚醒する ♪ド


 スタッフルームには異様な緊張が立ち込めている。


 パソコンチェアを180度回転させ、父さんが振り返った。

「どうだ?」

 固唾をのんで成り行きを見守る僕と琥太郎。


「合格ぴる!」


 腕組みをしたソラが、厳かに頷いた。

「おおおーーー」

 バリトンとテノールとボーイソプラノ、3つの雄叫びが部屋にこだまする。


「よかった……これでもう僕、毎日練習につきあわされなくて済むよね? ね、陸くん? だいじょぶだよね?」←ボーイソプラノ(涙声)

「がんばったよなあ、たっきー。あ、父さん、早くドア開けてやって。僕、迎えに行ってやらないと」←テノール(平常より♯2ほどトーン高め)

「これでやっと歌酔い対策を講じなくて済むのか。やれやれだな」←バリトン(嘆息つき)


 喜びの中身はまちまちとはいえ、とにかくめでたい。

 2週間にわたる特訓と3度のマイクテストを経て、今日ついにたっきーこと滝尾樹里は、カラオケ館ネプチューンの入店資格をもぎ取ったのだ。


 スタッフルームを走り出、ドアの前で待ち構える。両手を大きく広げて。

「たっきーたっきーがんばったー! たっきーたっきーどんとこいー!」

 即興の『たっきー讃歌』を口ずさみながら、ソラがロビーを行進する。琥太郎がそれをとろんとした目で見つめている。


 扉が開き始めた。

 脳内に『ロッキー』ラストシーンの音楽が鳴り響く。金属扉がスローモーションで左右に分かれ、真夏の光と熱気が店内になだれ込んできた。

 光をバックにガッツポーズをしたたっきーが駆けてくる。目にうっすらと涙を浮かべて。


 さあおいで、たっきー。

 10年かけて劇的に和解した、僕の腕の中に。


 まっすぐ向かってくると見えた彼女は寸前でなぜかためらい、針路を変えた。

「琥太郎ありがとー! あんたの指導のおかげだよー」

 熱烈なハグを受けた琥太郎は、Fカップの胸の谷間できりもみ状態に陥っている。たっきー親衛隊の男子たち垂涎の状況であるにも関わらず、歓迎する様子はひとかけらも見当たらない。


「陸、なにしてるぴる? ラジオ体操ぴる?」

 空しく広げたままの両手を見て、ソラが首をかしげた。

 高らかに鳴り響いていた『ロッキー』の音楽がきゅるきゅると回転数を下げ、のどかなラジオ体操第一のテーマに変わる。


 うん、まあ、人生なんてこんなもんだ。


 上履き事件に端を発する様々な誤解が解けたあと、僕は琥太郎の協力を仰ぎ、たっきーの歌唱改造大作戦を開始した。

 ソラを歌酔いさせずに済めば、たっきーはうちの店で思う存分練習を積むことができる。彼女の打ち明け話とソラの辛口コメントを照らし合わせた結果、僕なりにわかったことがあったのだ。


 初カラオケでのカルチャーショックが尾を引いて、たっきーは歌い方に重きを置きすぎている。アイドルっぽく歌うことにこだわるあまり、歌詞の意味にまで注意が及んでいないのだ。

 なのに声からは「何が何でもあいつを見返してやる!」という、元父親への怨念がダダ漏れ。

 ソラにしてみたら、見た目はきれいでも中は空洞のデコレーションケーキに、イカの塩辛をべったり塗りたくって食べさせられたようなものだ。そりゃ気持ち悪くもなるだろう。


 歌に対して努力を惜しまないたっきーに、憑依型ボーカロイドという、ある意味掟破りの存在であるソラを紹介するわけにはいかない。

 そもそもソラをたっきーの特訓に立ち会わせるのは無理だ。歌酔いで七転八倒するんだから。


 というわけでたっきーの特訓は、僕と琥太郎立ち会いのもと、行われることとなった。ソラの批評に基づいて僕がコンセプトを説明し、琥太郎が音楽的指導をするという形で。


 まあ、説明するったって最初の数回で済んじゃったし。あとは縁側からにこにこ孫の姿を見守る爺みたいに、二人の真剣極まる練習風景を見てるだけだったからなあ。

 いやいやながらも指導はきっちりこなした琥太郎に、感謝の比重が傾くのは当然といえば当然だ。

 爺は孫娘の成長を、ここで目を細めて祝福するとしようかのう。


「あ、さやかちゃんぴる!」


 再び開いた扉から、さやかちゃんが顔を覗かせていた。

 先輩軍団との戦闘にこっそり参戦して以来、ソラはさやかちゃんが大好きだ。見えないのをいいことに早速まとわりついている。


「こんにちは。あ、陸さん」

「ひさしぶり。あれ? さやかちゃん、背、伸びた?」

「そうですか? 自分じゃわからないけど。あ! 陸さんとつらら先生のおかげで、先輩たちに押さえつけられなくなったからかも」


 うんうん、ずいぶん明るくなった。ドクダミ公園の決闘を思い出して感慨に耽っていると、たっきーがいつのまにか横に立っていた。

「陸、その子、誰?」

 目尻が例のアイラインに沿って吊り上っている。いきなりどうした、その仏頂面。


「なんでマイクテストなしで、ずかずか入ってこれちゃうわけ?」

「ああ、そこか。歌いにきたんじゃないよ。この子は、えっと」

「裏に住んでる二宮さやかです。陸さんにはいつも、たいへんよくしていただいてます。お姉さんこそどちらさまですか?」


 さやかちゃんが妙にハキハキと自己紹介をした。「いつも」と「たいへん」の部分に、非常に演劇的なアクセントをつけて。


「あたし? あたしは陸の……クラスメイトよ! クラスメイトっていったって1年や2年のつきあいじゃないんだから。10年物ってやつ?」

「10年物って、ワインじゃあるまいし」

 愉快な合いの手を入れたのに、睨まれた。両方に。


「みんなでにらめっこぴる? ソラも入れてぴる」

 ソラが張り切って参加の意図を表明し、琥太郎に小声で「やめときなよ」とアドバイスされている。


「時間もったいないから歌ってこよーっと。せっかく陸に毎日つきっきりで手伝ってもらって入れるようになったんだし!」

 なぜ「毎日」と「つきっきり」をそこまで強調する。今日は『全国アクセント特盛推奨デー』かなんかですか? 

 ていうかさっき僕を素通りして、琥太郎にピンポイントで感謝を捧げていらっしゃいませんでしたっけ?


「わたしもつらら先生に差し入れしに来ただけなので、行かないと!」

 Fカップの胸をゆさゆさ揺らしたたっきーと、揺らすほどのものがまだ見当たらないさやかちゃんが、先を争うようにカラオケルームに向かう。

 ゴリッと妙な音がしたので振り返ると、カウンターの下から父さんが立ち上がるところだった。にやにやしながらぶつけた頭をさすっている。

 またあなたは、そんなとこで。


「モテモテだな、陸」

「陸、モテモテ? すごいぴる! 誰にぴる?」

「いや、あれは女子特有の、単なる縄張り争いに過ぎないから。あー疲れた」

 カウンターに手をついて思いっきり脱力する。

「僕たちには生きにくい世の中になったよねえ……お疲れさま」

 気の毒そうな顔で琥太郎が、肩にぽんと手を置いてくれた。


 草食系男子の未来についてしみじみ語り合ったあと、

「でも! 今日から僕は自由だ! ソラちゃん以外の女の子が歌うのを、もう毎日聴かなくていいんだ! やっとほんとの夏休みが来たんだ!」

と、琥太郎は足取りも軽く帰っていった。


「そっか、明日からもう8月だもんなあ」

 カレンダーを眺めていて、ふと気付いた。

「そういえば2回目のお見合い、いつになったらやるんだろうね」

「ぷー」


 ベッドに寝そべっていたソラが、あめのお腹に顔を埋めた。白い両足をばたばたさせて抵抗のサイン。

 だからミニスカートでそれはやめなさいって。いくら北城つららが下着までちゃんと設定してくれてるったって。

 ……次回からはぜひ、巷で見せパンとか呼ばれている、見えてもいいやつにしてもらうとしよう。


 10日前に引き合わされた宿主――白坂絵玲奈を、ソラはどうしても好きになれないらしい。実をいうと僕だってそうだ。


 プロダクション一押しのアイドルの卵だという白坂絵玲奈は、約束の時間に大幅に遅れてやって来た。

 なのに、謝るどころか

「さっさと済ませてよ。このあと取材入ってるんだから」

と放言したのに始まり、渡したイヤモニを

「なにこれ、ダサーい。デザイン変えてよね、公式デビューまでに」

と放り投げる。


 しぶしぶイヤモニを着けてからも、てんで歌う気がない。自分から指定してきたテスト曲なのに、まともに練習した形跡もない。

「どうせボカロがてきとーに歌ってくれるんでしょ? なら、練習したって意味ないじゃん」

ときたもんだ。


 当然ソラの姿が見えるはずもなく、おしゃべりなソラも、彼女にはひと言も話しかけなかった。

 合格ライン以上の歌をきっちり歌ったあと、ソラはものすごい勢いで飛び出してきた。無理やりシャンプーされた猫みたいに、何度もぷるぷると首や手足を振りながら。白坂絵玲奈の思考の残滓を、一滴たりとも残しておきたくなかったんだろう。


「仲よくなれないぷ。 あの子には、ソラ、もらわれたくないぷ」

 ふわふわの毛に埋められたままのソラの頭を、あめが静かに見下ろしている。

 向こうから断ってくれれば別だが、ボカロが嫌がっているのを理由に話をなかったことにはできない。これまでの研究費は全額、向こうが出しているのだ。


 ああ! なんだか手塩にかけて育てた娘を、いけすかない成金と政略結婚させるダメ親父の気分だ。やるせない。


「陸さん、どこ? 早く来て、お願い!」 

 1階から、なにやら切羽詰まった声が聞こえてきた。さやかちゃんの声だ。

 急いで下りていくと、カウンターの前でおろおろしていたさやかちゃんが走り寄ってきた。


「つらら先生が変なんです。お願い、一緒に来て」

「ん? なんだなんだ? つららがどうした」

 今頃になって父さんが、スタッフルームから顔を出した。どうでもいいような時はちゃっかり覗き見してるくせに、全く。


「とりあえず行って見てくるから、そこにいて」

 話をややこしくするだけに違いない父さんは置いて、さやかちゃんと一緒に103号室に向かう。

 北城つららを崇拝しきっているさやかちゃんは、彼女の本当の趣味嗜好を知らない。差し入れに行って、頭にリボンをのっけた姿でも見てしまったのだろうか。


「なんかきーきー言ってるぴる! つらら先生、おさるに変身したのかもぴる!」

 お姫様ドレスを纏った猿の映像が一瞬頭をよぎったのを振り払い、とにかくドアを開けた。

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