19  マドンナはデビューを夢見る ♪ファ


 中学卒業と同時に、くるみちゃんはたきちゃんに変身したらしい。両親の離婚により、やむなく。

 中学の途中で苗字が変わらずに済んだのは、せめてもの救いだったと言うべきか。


「ここじゃ誰も、くるみ時代のあたしを知らないわけじゃん? パーッとキャラ変えて、高校デビュー大成功、みたいな?」

「そこに、よりにもよって僕がいたわけか」

「ほんと、なんでよりによってこいつが! って思ったよ。不登校になったのはあたしのせいって、絶対恨んでる。親が離婚したのも高校デビューも、全部バラされるって焦った」


「陸は、そんなことしないぴる。心やさしい養育係ぴる」

 滝尾樹里があのくるみちゃんだなんて、思ってもみなかっただけの話なのだが。


「けど、バラす気配ぜんぜんないし、避けもしなけりゃ文句も言ってこないし、あれ、こいつ、思ったよりいいやつ? ひょっとして、昔のことはなかったことにしようって感じ?って」

「せっかくいいやつに格上げしてくれたのに、実は全く気づいてなかっただけでごめん」


 滝尾樹里が初めて笑った。

 目尻が下がって恐ろしげなアイラインの効果が薄れ、くるみちゃんがわずかに顔を出す。


「その思ったよりいいやつがさ、あたしを追い返した直後の、あの店に立ってるんだもん。しかもあたしは入れてくれないくせに、次のお客にはドア全開だよ? 今まで偉そうに追い返してたのはあいつなんだ、これがあいつの復讐なんだ、って思うじゃん」


 追い返した直後に、ドア全開で? 


 眼鏡王子のドS顔が浮かんだ。

 ああ、あの時か。高城つららの高速着替えの。

 なるほど、あれが6月の……何日かは忘れたけど、とにかく土曜日。それであのあと突如として弾圧が始まったわけか。

 滝尾樹里の統率力、恐るべし。


「あの人、ちょっと訳あって、常連さんに面会に来たんだよね。歌いにきたんじゃないから、マイクテストもなかったっていうか」

「な~んだ、そんなことかぁ。勝手に誤解してカッカして女子のみんな巻き込んで、あたしほんっとバカみたい。嘘の噂まで流しちゃって……ほんとごめん」


「いやいや、こちらこそ、父さんが何度も追い返しちゃってごめん。実はうちの店、某プロダクションに頼まれてデータ採っててさ。ものすごい音痴の人とかしか入れてないんだよね」

 嘘も方便。

「とか」の部分に「ものすごく上手い人」が実は含まれていても、この際許されるだろう。いろんな意味でショック受けまくりの滝尾樹里の、心の平安のために。


「えー、そうなの? フツーに上手いって、そういう意味だったのかぁ。あたし、けなされてるのかと思ってたよ」

「音痴じゃないけど、たきちゃんの歌はキモチワルイぷ! 拷問のようだったぷ!」

 無神論者を3秒ほどやめて、神様に感謝する。ソラの忌憚のない意見を彼女に聞かせないでくれて、誠にありがとうございます。


「けど、滝尾さんなら一緒にカラオケする友達いくらだっているのに、なんでうちの店になんか通ってたの?」

「あー」

 滝尾樹里がきまり悪そうに髪に手をやった。入念に巻かれた縦ロールを指で弄ぶ。


「一人で練習したかったんだよね。……話長くなるけど、いい?」

「ここまできたら、どんとこいだよ」

「どんとこい、ぴる!」

「どんとこい」という響きが気に入ったらしく、「どっんとっこい! どっんとっこい!」と付点のリズムをつけ、ソラがさえずり出した。


「あの参観日ってさ、例の上履きの」

 おお、そこまで遡るのか。これはほんとに長くなりそうだ。

 階段を指差し、「座ったら?」のサインを出してみる。

 滝尾樹里がストンと腰を下ろした。人ひとり分くらい、さっきより間を詰めて。


「母親の再婚相手も見にきてたんだよね。あ、あたしの実の父親、3つの時に死んじゃってさ。再婚したばっかりだったんだ。新しいお父さんにいいとこ見せたくて、柄にもなく手、上げたわけ。『お手伝いもするいい子です』アピールってやつ」

「うわ、それを僕、ぶち壊しちゃったってことか。ほんとにごめん!」

「それはもういいんだってば。ごめんごめんうるさい」

「ごめ……」


 ソラが慌てて僕の口を塞いだ。目を白黒させる僕を見て、滝尾樹里が吹き出す。

「あんたも言ってたけど、あの頃のあたしって、どっちかっていうとおとなしめだったじゃん?」

 うんうん! と、大きく頷く。あの頃のくるみちゃんは可憐だった。


「それがわざわざいい子アピールするくらいなんだから、まあわかると思うけど」

「新しいお父さんって、厳しい人だったんだ?」

「ていうより、世間体の塊、みたいな? いいとこ出の人だから、世間に自慢できる娘じゃないと気が済まないんだよね。あたしのピアノも普段はうるさがるくせに、コンクールで入賞すると会社の人ぞろぞろ家に連れてくんの。みんなの前で弾かせて自慢したいわけ」

「……大変そうだなぁ、そんな人が我が物顔で家にいたら」


「うん。でね、こっからは絶対、ごめんはなしで聞いてもらいたいんだけど」

 ソラがすかさず、僕の口の前に手をかざした。まだ言ってないって。

「上履きのこと、あたし実は気になってたんだよね。泣かされた時はそりゃ、ひどいって思ったよ? でもあのあと、みんなが正義の味方ヅラしてあんたのこといじめたじゃない。そこまでしなくてもって思ってたんだ」


 そうだ。くるみちゃんは当事者なのに、けっしていじめには加わらなかった。みんなの後ろでいつも困ったような顔をして俯いていた。

「で、先生に相談するって言ったら怒鳴りつけられた。『悲劇のヒロインでいればちやほやしてもらえるんだから余計なことするな! いじめのリーダーだと思われたらどうする!』って」


「僕が父親だったら、『なんていい子なんだ! きみは天使だ!』って抱きしめるとこだけどなあ。てか、なんとかしてくれようとしてたんだ? ありがとう」

「なんとかできてないし」

 滝尾樹里が壁側に顔を背けた。頬が赤らんでいる。もともとは素直な子なのだ。


「けど、あんた5年生から学校来なくなったじゃん。さすがに学校側も見て見ぬフリできなくなったみたいで、家に先生方が来たんだよね。形だけ事情聴きに。帰ったあとあいつ、何て言ったと思う? 『お前があんなことで泣いたりするからだ!俺の顔に泥塗りやがって』」


「ひどいぷ! そんなお父さん、いらないぷ! 追い出しちゃうといいぴる!」

 ソラは怒って髪の毛をパチパチいわせているが、そうもいかないのが大人の事情というやつだ。

 追い出されるのはお母さんとくるみちゃんになってしまう。


「それからはもう、死にもの狂いでピアノ練習した。塗っちゃった泥の分、取り戻さなきゃって。一流音楽高校目指して、ピアノ以外にも毎日、ソルフェージュ、声楽、作曲のレッスン。とにかく音楽漬け。友達と遊ぶ暇なんて全然なかった」

「えーと、でも今ここにいるってことは……」


「そ。落ちちゃったんだ、音高。ピアノに触るのは一日7時間までって言われてたのに、不安で直前まで弾き続けて、腱鞘炎になっちゃってさ。当日の演奏はボッロボロ。だいぶ前から母親とも仮面夫婦状態だったし、娘は自慢できるとこ何もなくなったしで、あっさり離婚」


 上履き事件がなかったら、胡桃沢一家はそこまでギクシャクしなかったんじゃないだろうか。

「なんかほんと、ごめ……」

 ソラが口の前で×印を作るのとほぼ同時に、滝尾樹里が「はたくよ!」と言った。さりげなく気が合っちゃってるぞ、この二人。


「で、やっと本題に入るんだけど」

 ここからですか!


「もうビクビクしながらいい子やんなくていいんだ! って、はっちゃけて高校デビューしたのはいいんだけどさ。入学してすぐ、初めて友達とカラオケ行って、愕然としたんだよね。みんな、地声で歌ってるんだもん」

「へ? 地声?」


「あー、つまり、喋るみたいに歌えてるっていうか? あたし小学生から声楽のレッスン受けさせられてたから、歌い方がもろクラシックになっちゃってたんだよね。腹式呼吸で、いちいち声響かせないと歌えないわけ」


 ソラがぽん! と手を打って、『あめふりくまのこ』の最初を、女子高生バージョン&クラシックバージョンで歌い分けてくれた。

 なるほど、えらい違いだ。

「そっか、ママさんコーラスが無理してAKB歌うみたいになっちゃうわけだ」


「そうそう! うまいこと言うじゃん。でさ、急にお腹痛くなったーとか言って慌てて帰って、その日からアイドルの歌い方、耳コピして猛特訓。あんな奴のために必死こいてやってたレッスンが、なんで今さらあたしの高校デビューの邪魔するんだ! って悔しくて」


「だからうちの店にもひとりで練習にきたのか」

「あ、それは違くて。ほらあたし、特訓はお手の物じゃない? だからひと月もしないうちにマスターできたんだ、アイドル風歌唱は」

「それはすばらしい」


 隣でソラが「マスターできてないぷ! たきちゃんの歌は、はっきりいってキモチワルイぷ!」

と盛んに主張するので、感想がとってつけたみたいになってしまった。


「で、決めたの。アイドルになる! って」


 何ですか、その三段論法。

 もはやとってつけたような感想すら出てこない。話の着地点はいったいどこだ?


「今までやってきたのとは真逆の道で、てっぺん目指したいんだ。アイドルになって大成功する! で、クラシック以外音楽じゃないって見下してるあいつを見返してやる」

 きっぱり言い切ったあとで、滝尾樹里は照れたように僕を見た。


「だから土日は、ひとりでじっくり練習したいんだよね。けど、うち今、母子家庭で財政厳しいじゃん。あの店、マイクテストに合格したらひと月タダって聞いたから。拒否られ続けて、途中からはムキになってただけなんだけどさ」

「そうだったのか……すごいな、滝尾さん」


 お世辞じゃなく、感動していた。


 滝尾樹里は頑張ったのだ。

 夢に向かって手を伸ばし、必死に頑張って、だけど失敗した。

 頑張った事実さえ認めてもらえず、踏みつけられた。

 それでもまだ、踏まれた靴底の泥を掻き分けて顔を出し、懲りずに手を伸ばしている。


 僕もあの時、手を伸ばせばよかったのだ。


 泣いているくるみちゃんにあの場でひと言、「ごめんね」と言えば。

 いじめっ子の後ろで困った顔をしているくるみちゃんに、「泣かせるつもりなんかなかったんだ」と言えば。

 「仲直りしよう」と手を差し出せば。


 いじめが拡大する前に、学校をやめる前に、言い訳でも謝罪でも悪あがきでも、とにかくしてみればよかったのだ。悟って生きる方がいいなんて、かっこつけて手を引っ込め、しゃがみ込む前に。

 そしたら変わっていたかもしれない。いろんなことが。


「けど、泣かせた相手の名前忘れるって、ひどくない?」

 いつのまにか滝尾樹里は身体を完全にこちらに向けている。目にはからかうような光が灯っているけれど、いやな感じじゃない。


「あ、それなんだけど」

 感動と反省に浸りながらも、実は思い出していたのだ。

「あのさ、1,2年の時の担任って、ロッテンマイヤーさんに似てなかった? 『アルプスの少女ハイジ』の」

「似てた似てた! やたら規則にうるさかったあたりも、そっくり!」


「杓子定規な先生だったよね。あれで僕、すっかりロッテンマイヤーさんが嫌いになっちゃったんだけど」

「ロッテンマイヤーさんが好きって人もあんまり聞かないけどね」

「でさ、あの先生、『お友達の名前は必ず苗字で呼びなさい、それが礼儀です』って」

「……言ってたわ……それかぁ!」


 二人で顔を見合わせたあと、吹き出した。ツボにはまって笑いが止まらない。

「それにしたって、同級生の下の名前くらい覚えなさいっての」

「くるみちゃんって響きが印象的すぎたんだって。でも、ごめん」

「あ、ごめんって言った。アイス1個ね」

「えー、はたくんじゃなかったっけ?」


 10年前のクラスメイトのじゃれ合いを、階段の下からソラが見上げている。ちょっとまぶしそうに、爪先立ちで。

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