9  少女は革命の狼煙を上げる ♪ミ


 観念した。

 もともとさやかちゃんに声を掛けた時、この話はするつもりだったのだ。話した上で、この先も逃げ切るのか、踏みとどまって戦うのか、考えてもらおうと思っていた。


「さやかちゃんさ。現役高校生のくせに僕、裏校則を知らなすぎるって思わなかった? どこの中学だって多かれ少なかれ、ありそうなことなのに」

「はい。ちょっとだけ、あれ? って……」

 おずおずと答えたさやかちゃんに、「男らしくカミングアウト」した。


「僕、幸か不幸か、裏校則の洗礼を受けてないんだ。中学、ほとんど行ってなかったから」

「中学、行ってなかった? もしかして、飛び級ぴる? 陸、すごいぴる!」

 あさっての方向で勝手に盛り上がっているソラは放っておいて、粛々と続ける。


「小学一年の初めての参観日に、やっちゃったんだよね。」

 あの日の教室の風景が甦って、胸が苦しくなる。

 お守りの体温計はどこだ? ああ、どさくさに紛れて部屋に置いてきてしまった。


「先生がみんなに訊いたんだ。『みなさんは昨日、どんなお手伝いをしましたか?』って。くるみちゃんって女の子が、『上履き洗いのお手伝いをしました』って答えた。その子のお母さんもうれしそうに笑ってた。そこで僕、あっけらかんと言っちゃったんだ。『自分の上履き洗うのが、どうしてお手伝いなの?』」


 さやかちゃんが困った顔をしてうつむき、北城つららは両手を肩の前で上に向け、欧米人ばりのお手上げポーズをしてみせた。

 ソラだけがきょとんとしている。


「非難するつもりなんか全然なかったんだよ? その頃は母さんとふたりきりだったし、自分のことは自分でするしかなかったっていうか……チビでもできることをやっておけば、その分少しでも長く遊んでもらえるからやってただけで、別に偉くもなんともないんだ」


「一年生ぐらいじゃ、親に上履き洗ってもらってる子の方が多いだなんて、思ってもみなかったわけね」

 まさにその通りだ。我が家の常識が他家で通用するとは限らない。


「でもくるみちゃん、泣き出しちゃってさ。かわいくて優しくて、男子にも女子にも人気のある子だったから、もう大ブーイング。みんなの視線が刺さる刺さる! お母さん達も『何? うちの子は言わなくたって自分のことは自分でしますって、自慢したいわけ?』みたいな目で母さんを睨んでるし。まあ、母さんはどこ吹く風って感じだったけど」


「その後から、ずっと?」

 言いにくい単語を上手に避けて、さやかちゃんが尋ねてきた。


「いじめられたね。ついたあだ名が、うわばきくん。上履き隠されるのは序の口。洗うの得意なんだろ? って、絵の具洗ったどろどろの水に漬けられる。雑巾バケツやトイレに突っ込まれる。花壇の土に埋められる。下駄箱に置いて帰ると次の日履けない状態になってることの方が多かったから、毎日持って帰るっていう知恵がついたよ」


 ソラの髪が静電気を帯びてパチパチ跳ね始めた。

 得意の「完膚なきまで!」が出ないうちに、話を終えなければ。


「そのうちどっかから『あそこんち、お父さんがいないんだって』とか聞きつけてきて、『お父さんがいないから何でも自分でやるしかないんだ、かわいそー』って囃し立てる。かわいそうって言うわりに、班分けの時も遊びのチーム分けの時も絶対入れてくれない。でも掃除だけは毎日、得意なんでしょって押し付けられる。クラス替えしたらマシになるかと思ったけど、新しいクラスにも必ずいるんだよね。母親の前でクラスのマドンナを泣かせた極悪人のエピソードを、新しい友達に事細かに語るご親切なやつが」


「ご親切じゃないぷ! 陸、言葉、まちがってるぷ!」

 ああ、そろそろソラに逆説的な言い回しってやつも教えなくちゃな。なんて頭のどこかで考えながら、話を締めくくる。


「小学3年のクラス替えは惨敗。5年のクラス替えでもやっぱりだめで、熱を出して寝込んだ僕に、母さんが言ったんだ。『理不尽なことからは、とりあえず逃げていいのよ』って。で、僕は学校に行くのをやめた」

 ないものねだりは金輪際しない。静かに悟って生きていこうと決めたあの日のことだ。


「隠してたつもりだったのに、母さんには全部バレてた。学校には、定期的に課題を提出すれば出席扱いってことで母さんが話をつけてくれた。上履き洗いは自分の仕事でしょって偉そうに言った子が、学校から逃げるのに母親の手を借りまくったんだから、笑っちゃうよね」


 誰も笑っちゃいなかった。


「そこで逃げたのはあなたの場合、正解だったんじゃない? ちゃんと高校入って軌道修正できてるんだから」

 きわめて現実的なフォローを入れてくれたのは、北城つららだ。言葉尻はきついのに、こちらを見る眼差しが「え?」と思うくらい柔らかくて、ドキッとする。


「学校の先生より母さんの方がよっぽど勉強教えるの上手かったし、いいフリースクールも見つかったんで。そこでやっと同年代の子と普通に喋れるようになって、友達もできたりして」

「逃げるって選択肢の、理想的な成功例ね。ひとえに思考回路がリベラルなお母さんのおかげだわ。感謝することね」


 北城つららが視線を僕からさやかちゃんへと移した。

「さて。逃げ路線の体験談は聞けた。あなたはどうしたい? 逃げる? 戦う?」 

 ただのネタ取材とは思えない真剣な目だ。

 射すくめられて、さやかちゃんの身体が微かに震えた。救いを求めるように僕を見てくれるのは光栄だけど。


 今ここで僕にしてあげられることは、何もないよ。「逃げたら?」とか、「戦え!」とか、僕が助け舟を出しても何の意味もない。

 どうしたいか、きみ自身が決めるんだ。さやかちゃんが決意して初めて、僕は心置きなく手を差しのべることができる。


 ソラがさやかちゃんの隣に立った。頭に手を置いてよしよしと撫でると、静かに歌い出した。


『民衆の歌』。


 ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』の中で、虐げられた民衆が歌う歌だ。闘え、それが自由への道、と。


 本来は勇ましい曲調の歌だけれど、ソラはバラード風にアレンジして歌っている。燃え盛る炎に油を注ぐというよりは、今にも消えそうな消し炭にそっと風を送るように。

 いい歌だ。僕にしか聴こえないのがもどかしい。


 さやかちゃんがふと、目を上げた。何かを探すように視線を彷徨わせる。ソラの歌は、まさに「闘え それが自由への道」のフレーズに差し掛かっている。

 ソラがその2小節を歌い切ると同時に、さやかちゃんは口を開いた。


「わたし、逃げません。戦います。うちの親、真面目すぎるくらい真面目なんです。私がいじめられてるなんて知ったら、おろおろしちゃうような人たちです。陸さんのお母さんみたいに、世間の常識なんて関係なく頑張れるタイプじゃない。だから、自分で」


 自分で、と言う声が少し掠れた。


「わかった。じゃあ、これ」

 テーブル越しに北城つららがノートを放った。くるくると回転しながらさやかちゃんの膝に着地したそれは、よく見るとリング綴じの小さなスケッチブックだ。

「これ……」

 パラパラと捲ってみたさやかちゃんが息をのむ。


「イヤミスの女王北城つららが、あなただけのために作った戦闘シーンのネームよ。家宝にするといいわ。大筋はそんなとこで間違いないと思うけど、細かいセリフは変えちゃっていいから。せっかく戦うって決めたんだから、この際言いたいこと全部言っちゃいなさい」


 未来の家宝に、涙がひと粒落ちた。

 体操服の裾であわてて雫を拭いて、さやかちゃんはスケッチブックを胸に抱きしめた。


「ありがとうございます! ほんとにほんとに、家宝にします! 勝利の記録として子孫に伝えられるように、わたし、頑張ります!」

「ひと月後にネットオークションに出品されてたりしたら、呪いまくるからね」


 追い立てるように僕とさやかちゃんをソファから立たせ、ソラも付いてきたのを目の端で確認すると、北城つららはドアを開けた。押し出された僕らのお礼の言葉をアルトの声が遮る。


「才能ある文学少女って、同じような道を辿るのね。そこに書いてあるの全部、私が中学時代、いじめの首謀者に言ってやりたかったセリフ。まあ、その時言えなかった鬱憤を今、作品の中で思う存分吐き出してるわけだけど」

 立ち尽くす僕らに一瞬、慈しむような眼差しが注がれる。


「小説家を目指すなら、言葉で戦え、さやか。陸は見届け役として、きっちり報告すること」


「あなた」でもなく「少年」でもなく、初めて僕たちの名前をはっきり呼んで、北城つららは勢いよくドアを閉めた。

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