8 少女は革命の狼煙を上げる ♪レ
目玉商品はおろか食材を何ひとつ手に入れず、人数だけ一人増やして帰ってきた僕を、父さんは予想通りの態度で迎えた。
「なんだ陸、手ぶらか。主婦帝国との戦闘に敗れたな? 昼飯にはオムライスが食えると思ってたのに、つまらん。ん? なにやら捕虜を連れてるじゃないか。敵国の姫でも奪取したか」
「捕虜じゃないぷ! さやかちゃんぷ!」
ソラが抗議の声を上げたが、ご近所づきあいをロクにしない父さんは、さやかちゃんの顔を知らない。泣きはらした顔をじろじろ覗かれてはたまらないので、さっさと追い払うことにする。
「了解、オムライスね。ちょっと時間かかるけど、スペシャルなのを作るから。それより父さん、今日も朝方までアレの修理してたよね。店番はしとくからさ、ちょっと二階で寝てきたら?」
アレとは、禁断の107号室でソラに完膚なきまでやっつけられた、例のアンドロイドだ。
食欲がすぐには満たされないとわかると、睡眠欲が勝ったらしい。父さんは素直に二階に上がっていった。
「二階でと思ってたんだけど、下のむさくるしい部屋になっちゃったな。父さん、悪気はないんだけど、あの通り全く空気読まない人だからさ。ごめんね」
父さんと入れ替わりに、スタッフルームに入る。
弱々しく首を振りながら、さやかちゃんは遠慮がちについてきた。耳の上できっちりとふたつに結ばれた髪の束が揺れている。
「陸、さやかちゃん、すごく暑そうぷ。お天気お姉さん、今日は夏日になりますって言ってたぴる。どうしてあんなかっこしてるぷ?」
ソラが言う通り、確かにさやかちゃんは、汗ばむような今日の陽気にはそぐわないいでたちだ。長袖のジャージのファスナーを喉元まで閉め、腕まくりさえしていない。なのにボトムは紺色のハーフパンツというアンバランスさだ。
さすがにここでソラフォンを取り出し、おもむろに電話し始めるのは不自然だ。「ここじゃソラとは喋れないから、あとでね」と目顔で伝達を試みる。
「らじゃぴる。ソラ、勝手に喋るから、陸、お返事しなくていいぴる」
おお、伝わった。すばらしい。これでこそ辛抱強く養育係を続けてきた甲斐があったというものだ。
「えーと、まずリュック、そこらへんに降ろそうか。あと、この部屋締め切ってて暑いから、ジャージ脱ぐ? ……あ、ヘンな意味じゃなくて、下にもう一枚、何か着てたらだけど。僕ロリコンの気は全くなくて、どっちかっていうとマザコン寄りだから安心して」
脱ぐという単語を口にしてから、おお、これはいかんぞ、誤解を招くかも! と気づいたのだ。おかげでしなくてもいい告白までしてしまった。
さやかちゃんの表情がようやく和らいだ。くちびるが微笑みまであと数ミリというところまで持ち上がる。
素直にジャージを脱いだ下は、半袖の体操服だ。ボトムとのバランスが、ようやく正常化された。
脱いだジャージを丁寧に畳んでいるさやかちゃんは、だけどまだ口を開かない。
「そうだ、飲み物適当に持って来ようと思ってたんだけど、どうせならドリンクバー、一緒に行って選ぶ?」
「それがいいぴる! ドリンクバー、楽しい! パラダイスぴる!」
さやかちゃんが頷くより早く、ソラが喜び勇んで返事をした。ソラ、僕、さやかちゃんの順でドリンクバーコーナーまで一列になって進む。
「ココアか、いちごオレがおすすめぴる! 陸、さやかちゃんに教えてあげてぴる」
いつぞやの「今日の一回」で、ソラは僕に憑依してドリンクバーの飲み物すべてを味わったのだ。おかげで僕はしばらく、ドリンクバーを見るだけでげっぷが出る有様だったのだが。
「女の子にはココアとかいちごオレが人気らしいけど、さやかちゃんは……」
「ジャージのファスナー、下げちゃだめなんです、1ミリも」
グラスを握りしめたまま、さやかちゃんがぽつりとつぶやいた。
「どんなに暑くても、腕まくりもだめ。どんなに寒くても下はハーフパンツで、ジャージは履いちゃだめ。ソックスはワンポイントなしの白で、くるぶしが隠れてなきゃだめ」
なんだなんだ? このだめだめの羅列は。校則か? それにしちゃ全く理に適っていないぞ?
小さく折り畳んで厳重に封をして、毎日心の奥に無理やり押し込めてきたんだろう。溢れ出した言葉は止まらない。壊れたドリンクバーの蛇口が、延々とジュースを吐き出し続けるように。――タンクがすっからかんになるまで。
「ポニーテールもだめ。ふたつに分けて結ぶのも、耳より下の位置はだめ。学校指定のスクールバッグも、手提げのはだめ。リュックじゃなくちゃだめ。リュックも、片方掛けはだめ。必ず両肩に背負わなくちゃだめ」
「指定なのに、手提げはだめってどういうこと? だめならもともと指定しなけりゃいいじゃん」
気が済むまで全部吐き出させてやろうと思っていたのに、思わず訊いてしまった。
「1年生のうちは、だめなんです。2年にならないと」
「え? だってさやかちゃん、2年生だよね?」
「部活の先輩にお許しがもらえないとだめなんです。早い子は春休み前にお許しもらえてたんですけど、私だけ5月になってももらえなくて」
「先輩ってヤツ、ひどいぷ! どうしてさやかちゃんにだけ、お許しあげないぷ!」
ソラがきーきー怒っているのに、当の本人であるさやかちゃんの言葉は静かだ。あって然るべき熱も湿り気もない。封印しておくうち、カサカサに乾いてしまったのか。
でもソラ。お許しをあげないことに怒るのは、違うよ。
たった1歳やそこら年上ってだけで先輩面して、あるはずのない権限を振り回し、下級生を支配してること自体がおかしいんだ。
「さやかちゃん。ひょっとしてさっきの、そいつらに命令された?」
乾いていた瞳が急に潤んだ。涙がひと粒、ぽろんと落ちる。
「あの店のあの棚から、って。印つけた箱を探して万引きしてこい、って。ちゃんとできたら、まともな2年生として扱ってやるって」
「なんだよそれ」
「くだらないって思うでしょ? みんなと同じにスクバ持ちたいとか、ジャージのファスナー下げたいとか。でも2年生の中でたったひとり、1年生と同じかっこしてるの、辛いんです。わたしは先輩達から嫌われてます、ぼっちです、って看板背負って歩いてるみたいで」
くだらないなんて思わない。思えるわけがない。
僕たちは学校で、一日の半分近くを過ごすのだ。最長でもたった3年の辛抱じゃないか、なんてのは大人の言い分だ。大人にとっては些末なことの積み重ねが、僕らにとっては毎秒1本ずつ増えていく針のムシロなんだ。
「裏校則を利用した、陰湿ないじめってやつね」
後ろから凛とした声が響いた。さやかちゃんがビクッと肩を震わせる。
「そいつ、はなからあなたをまともに扱うつもりなんかないわよ。店も棚も指定して、わざわざ印をつけた箱を万引きしてこいって? なんで気付かないの? もたもた箱を探してるのを観察して、ひとしきり笑って、あなたが無事箱を見つけたら、店員にチクるのよ。箱を持って店を一歩出た瞬間、あなたは万引き犯、そいつらは善意の通報者って仕掛け」
残酷な推論を突き付けた人物は、ホット用のカップにコーヒーを注ぎ始めた。
長身にショートカットの髪が映える。切れ長の目、黒ずくめのファッション。
宝塚の舞台に男役として立てそうな、美女というよりは麗人と呼ぶのがふさわしい感じの女性だ。
「卑怯にもほどがあるぷ! 許せないぷ! ソラ、完膚なきまでやっつけるぴる!」
ケンカ中の猫並みに髪の毛を逆立てて殺気立っているソラをよそに、さやかちゃんと僕はぽかんと彼女を見つめていた。変な同情がひとかけらも混じっていなかった分、毒気を抜かれたというかなんというか。
さやかちゃんがグラスをカウンターに置いた。吸い寄せられるように彼女に近づいていく。
「漫画家の、北城つらら先生ですよね? 『荊の教室』を描かれた」
「遠慮しないで『イヤミス漫画の北城つらら』って言えばいいのに。次回作のいいネタ貰っちゃったわ。お礼と言っちゃなんだけど、その鼻持ちならない先輩の駆逐策、授けてあげてもいいわよ。3人とも103号室に来て」
「3人とも?」
さやかちゃんに不思議そうに訊き返されて、北城つららが一瞬、あら、という顔をした。視線がちらりとソラを捉え、何事もなかったかのように戻される。
「あなたと、そこの坊やと私と、3人でってこと。ほら、さっさと飲み物選びなさい」
さすが大人。うまいこと誤魔化した。
ていうかこの人、確実にソラが見えてる。
父さんと僕にしか見えないはずだったのに、104にいた謎の人物、そして男装の麗人めいた漫画家。
父さん、ソラの姿、予想以上に認知されちゃってますが。
とりあえず特製オムライスに取り掛かるのは、まだまだ先になりそうだ。
「ふーん。そいつら、先生があなたに脚本を頼んだのが気に入らなかったわけだ」
「はい、たぶん……。うちの演劇部、今までポピュラーな作品しかやったことないんです。先輩たち、今年はこれ! って思ってるのがあったみたいで」
「それ、仲間内で根回しして、きっとキャスティングまで決めちゃってるわよ。主要キャラはそいつらが独占。下級生に回ってくるのは、良くて通行人その1とか村人その2とか。他はみんな、舞台にも上がれない」
北城つららはメモを取りながら話を聞いている。
自信満々の毒舌漫画家と人見知りの少女。
まともな会話が成り立つのかと密かに心配していたのだが、意外に話は弾んでいる。
「最初から優しい先輩じゃなかったけど、放置されるだけで済んでたんです。でも脚本書くって決まってからは、ちょっと賞をとったからって生意気だとか、優等生ぶってるのが前から気に食わなかったとか、急に言われるようになって」
横で話を聞いていて初めて知ったのだが、さやかちゃんは小説家を夢見る文学少女らしい。作文や感想文、創作童話コンクールで何度も賞をとったのだそうだ。
先生もその腕を見込んで脚本書きを持ちかけたのだろうが、せめてあと1年待ってやったら、事情は違ったろうに。
どこまで次回作に使うつもりなのか、北城つららはいじめのディテールを容赦なく問い質していく。メモを取る速度も相当なものだ。
彼女の作品、特に『荊の教室』の大ファンですと頬を染めて告白したさやかちゃんは、訊かれたこと全てに素直に答えている。
なんだか昔を思い出して息苦しくなってきたので、ポケットの中のソラフォンに《北城つららのプロフィールを調べて》と手書き入力した。ソラが目を閉じ、早速検索を始める。
ソラの頭脳は実体化した今も、ネット世界と繋がっている。故にこういう時はかなり頼りになる。
入試に連れていけば、僕でも東大に合格できるかもしれない。そんな野心は微塵もないけど。
「いじめや虐待、過去のトラウマをテーマに、人間の心理を深く抉った物語とシャープな作画で人気の女性漫画家。埼玉県出身、27歳。ファンの間ではイヤミス漫画の女王、氷の女王などと呼ばれている。抜群のルックスと歯に衣着せない物言いでTVのワイドショーにも引っ張りだこの才女」
何秒もしないうちに、ソラがすらすらと喋り始めた。
しまった。《回答はメールで》と書くのを忘れた。
恐る恐る様子を窺ったが、北城つららは相変わらず、さやかちゃんとの質疑応答に専念している。ソラの姿は見えても、声も聞こえるわけではないらしい。
「ソラも漫画、読んでみたいぴる。陸、あとで『荊の教室』買ってぴる」
目立たぬように頷いたつもりだったのだが、氷の女王の目からは逃れられなかったようだ。
「そこの、訳知り顔の男子。ついでにあなたのいじめられ体験も、包み隠さず話しなさい」
思わずさやかちゃんと顔を見合わせた。
さやかちゃんにはさっき「逃げのエキスパートだ」と、それらしき告白をしたけれど、北城つららはその場にはいなかったはずなのに。
「様子見てればわかるわよ。この子がされたこと聞きながら、本人よりあなたのほうがキツそうな顔してたじゃない。男らしくカミングアウトしなさいって」
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