7  少女は革命の狼煙を上げる ♪ド


 五月の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んで走る。

雲ひとつない青空の下を、ゴールめがけてひたむきに。


 まるで陸上競技に命をかけ、一瞬の風になっちゃう体育会系男子みたいだが、僕のゴールは近所のスーパーフレッシュの卵売り場だ。土曜の朝の目玉商品、卵1パック98円。


「先着100名様限り」の栄冠を勝ち取るには幾多の試練をくぐり抜けねばならないというのに、今日も僕はコブ付きだ。

 それもカートのお子様席部分におとなしく座っていてくれる幼児ならともかく、棚の間を歩き回っては「あれは何ぴる?」「これ、おいしいぴる?」と質問攻めのボカロ少女。


 今日も「いい若者が、オープン前からなに並んでんのよ」というおばさん軍団の視線に耐え、店員さんの呼びかけに従って決して走らず、最大限の大股ストライド早足で通路を前進し、卵パックが積み上げられた棚に辿り着いた。

 カートの角を向う脛にガシガシぶつけられ、肘で押しのけられながらも、おばさん軍団より少しは長いリーチをフル活用し、一番高い棚の奥の卵を無事ゲットする。


 ああ! 全力で走り抜け、ゴールテープを切ったかのようなこの達成感!

 所帯じみてると笑われようと、さとりの国の住人である僕は一向に気にしない。そんなことよりこれで気を緩めることなく、特売のキャベツと豚ロース肉を手に入れねば。

 

 ソラはどこかと見回す。

 ここ何週間か、ソラも僕と一緒に目玉商品争奪戦に参戦してきたのだ、一応。

 しかし商品に群がる人だかりの中にソラが交じると、一人分ぽっかりと不思議な空間が生じてしまう。


「なによこれ。隙間空いてるのに、なんで割り込めないの?!」的な苛立ちにまかせておばさん軍団にぐいぐい小突き回され、ソラは「怖い」を身をもって体験した。「殺気立つ」とか「容赦ない」とか「鬼気迫る」とかの語彙が増えただけでも、参戦の意味はあったのだと思いたい。

 というわけで今ソラは戦線を離脱し、殺気立っていない方の棚を自由に見て回っている。


 いた。ジャムのコーナーだ。

 例によって爪先立ちして、棚のてっぺんに並ぶ瓶を眺めている。

 一般的かつ売れ筋の商品は、普通に歩いていて目に入る高さに並んでいるものだ。けれどソラはなぜか、手が届きそうにない高い棚をいつも見上げている。


 身長147センチと小柄だからなのか。

 いや、たとえ身長170センチ以上のスーパーモデル体型に設定されたとしても、ソラはやっぱり爪先立ちして、見えないところを覗き込もうとするだろう。

 幼い少女が、自分には見えない高いところ――食器棚の上とか、冷蔵庫の上とか――にはきっと妖精が隠れているに違いないと、踏み台に乗っかって手を伸ばすように。


 知的好奇心とゆるぎない向上心。

 ソラの99.9%はきっと、そういうものでできている。僕には縁のないものだけれど、ソラに振り回される毎日は思いのほか楽しい。


「陸、陸! これ、何ぴる? 他のジャムと違う。きれいな丸い実、入ってる。おいしい?」

 僕をみつけたソラが、早速うれしそうに質問を浴びせかけてきた。

 人目のある場所なのでソラフォンを取り出し、耳に当てる。電話中のフリはもう慣れたものだ。


「ああ、コンポートだね。ダークチェリーの。実が浸かってる汁がね、ジャムみたいに粘度が高くなくてシャバシャバしてるんだ。ヨーグルトに入れたりするとおいしい」

「ダークチェリー! つやつやしてすごくきれいぴる。きっとすてきにおいしいぴる!」


 語尾の「ぴる」を「ね」に替えれば、充分に人間の女の子らしい物言いだ。

 この数週間でソラの言語表現は飛躍的に進歩した。我慢強さにだけは自信のある養育係のおかげで。


 とりあえず値札をチェック。

 498円か。さすが輸入もの、それなりの金額だ。いつもの半額でゲットした卵のおかげで浮いた食費、約100円。たったひと瓶でその5倍とは。うーむ。


 まともな食事を作りさえすれば、父さんは気前よくいくらでも渡してくれるが、入江家の一日の食費は1000円までと僕は密かに決めている。

 父さんのことだ、いつまた新たな研究に没頭してミルク代、いや食費に手をつけないとも限らない。浮いたお金は緊急時の生活費としてコツコツ貯めておかねば。


 ソラはまだ、とろけそうな目をしてコンポートの小瓶を見つめている。

 夕食はトンカツにするつもりだったけど、豚ロースはあきらめてチキンカツにして、千切りキャベツをもやし炒めにすれば……なんとかなるか。


「ソラ、今日の一回、ダークチェリーのコンポートお味見体験にする?」

「うーーーーーん」

 小さな頭の左右に両手を当て、ソラは文字通り頭を抱えて悩んでいる。


 今日の一回とは、5月に入って解禁されたわくわく憑依体験だ。

 一日一回10分間だけ、ソラは僕に憑依してカレーの辛さを味わったり、花の香りをかいだり、子猫を撫でたりする。


 ソラにはコンピュータと親和性の高い視覚と聴覚は備わっているのだが、味覚、嗅覚、触覚がない。「言葉のキモチ」をとことん追求したいソラにとって、それは大いなる足枷だ。

 しかし誰かに憑依中であれば、ソラはその人物の行動や感覚を追体験できるらしい。もちろんその「誰か」になるのは、この僕だ。いつぞや父さんがうっかり口走った通り。


 一日一回10分程度にとどめるのは、ソラが僕の感覚に染まり過ぎないようにという配慮からだ。正当な憑依先であるアイドル少女に馴染めなくなっては元も子もないので、10分ルールは今のところ厳密に守られている。


「昨日の一回も、陸特製カルボナーラのお味見に使っちゃったから。きっとハカセに、また味覚体験か! くいしんぼうめ! って言われるぷ」

 残念そうに棚から視線を逸らすソラに

「ソラ、今の気分がまさに『後ろ髪を引かれる』ってやつだからね。メモメモ!」

と養育係らしいひと言をかける。


 澄ました顔とは裏腹に僕の脳内では、マッチ棒みたいな手足を生やしたコンポートの小瓶が、ソラの長い髪を後ろからツンツン引っ張っている。


 ソラの横でパタン! と乾いた音がした。


 紙箱が床に転がっている。「お湯さえ注げばおいしいカフェラテ、できあがり!」が宣伝文句の、粉末カフェラテアルミパック6本入りの箱だ。

 そんなはずはないのだけれど、もしやソラの無念が棚を振動させて落としてしまったのかもしれないと、駆け寄って手を伸ばす。反対側から伸びてきた手が、ビクッと動きを止めた。


 あれ、誰かいたのか。ソラの陰になっていて見えなかった。

 迂回して覗き込むと、知っている顔と目が合った。通話が終わった風を装いソラフォンを仕舞う。


「お、さやかちゃん。買い物?」

 裏の家の中学生だ。ソラが初めて外に出た日、裏口でドレミファソラシドを歌い上げる僕の姿を目撃されてしまった女の子。あのあと挨拶に行って以来、何度か顔を合わせている。


 さやかちゃんはかすかにうなずいた。人懐っこいタイプではないが、道で会って声をかけるとはにかんだ笑顔でひと言ふた言、必ず返してくれる子だ。

 が、今日は怯えるような目をして立ち竦んでいる。


「落っこちちゃってびっくりした? でも、汚れてないから」

 手で軽く埃を払い、箱を差し出す。さやかちゃんは、ふるふると首を振った。下の睫毛に涙が小さな玉になって乗っかっている。


 え? なんで? ソラフォンに向かって喋っている内容が泣くほど気持ち悪かったのか?

 2,3歩後ずさりすると、さやかちゃんはくるりと踵を返して走り去ってしまった。


 女の子の涙なんて、さとりの国の平民たる僕には最も苦手かつ縁遠いものだ。無理に追いかけてもなおさら泣かせてしまいそうだし、あとでお菓子でも持って弁解に行こう。


 カフェラテの箱を棚に戻そうと手を伸ばしたら、ソラが首をかしげた。

「それ、棚から落ちたんじゃないぷ。さやかちゃんのジャージから落ちたぷ。お腹のとこから、ぽろって。さやかちゃんに返さなくていいぴる?」


 ジャージのお腹のところから? それって……。


 見て見ぬふりをしよう。そのほうが断然ラクだ。未遂に終わったわけだし、平熱を無闇に上げる必要はない。

 箱を戻し、鶏肉を探しに肉売り場に――向かおうとするのだが足が進まない。


 だって。

 出来心とか悪ふざけじゃない。あの涙にはきっと何か、切羽詰まった事情がある。


「ソラ、緊急事態だ。買い物は中止。さやかちゃんを探して」

「らじゃぴる!」


 せっかくゲットした目玉商品の卵を棚に戻し、棚と棚の間の通路を一本ずつ確かめる。さやかちゃんの姿はない。


 目玉商品獲得戦のライバル、おばさん連中からは「あら、あの小癪な小僧、あんなに必死で走っちゃって。まだ何かお買い得商品あったかしら」的な視線で追尾される。

 通路いっぱいに広がって姦しくおしゃべりしている女子中学生たちには、ぶつかりかけて睨まれる。

 買い物カゴは空っぽのまま走り回る僕を、在庫チェック中の店員は明らかに疑惑の目で見ている。


 余計なことには手を出さないはずだったのに、いったい僕、何やってるんだ?


「陸、さやかちゃん、いたぴる! 駐車場のトイレの裏。泣いてるぷ」

 耳の中のイヤモニからソラの声が響いた。この先どうするなんて考える暇もなく、僕の足は駆け出していた。


 ぎっしりと並ぶ車の間を縫って走る。

 駐車場の隅。トイレの建物の陰に、うずくまる小さな背中が見えた。

 しゃくり上げているのか、背負ったリュックが小刻みに揺れる。その周りをソラが、心配そうにぐるぐる回っている。


 さて、これからどうする? 悩みながら近づく僕にソラが気付いた。

「陸、こっち。さっきからさやかちゃん、『やだ、できない』しか言わないぷ。さやかちゃんのキモチ、ぱんぱん。なのに『やだ、できない』と涙しか、出てこないぷ」


 やだ、できない、か。思った通りだ。

 だとすると、さやかちゃんにはできないことを命令した黒幕が、もうじきここにやってくる。取り急ぎ移動だ。


 息を整え、声をかけた。

「うちってさ、カラオケのくせにドリンクバーが充実してないんだよね。カフェラテは無理だけど、ココアなら淹れてあげられるよ。行こう」

 

 さやかちゃんが、はっと振り返った。さっき睫毛の上でけなげに耐えていた涙の玉はとっくに川になって、顔に幾筋も跡をつけている。

「でも、あの、ここにいないと……」

 口ごもる背中をソラが一生懸命、両手で押している。質量を持たないソラがいくらがんばったところで、さやかちゃんを立たせることはできないのに。


「理不尽な要求からは、逃げていいんだ。とりあえず逃げてから、考える。逃げ続ける方法、もしくは反撃する方法を。逃げの一手に関しては僕、相当な自信があるよ? どう? カラオケ館ネプチューンで、逃げのエキスパートの経験談を聞いてみない?」


 どうにも不甲斐ない自己紹介が効いたのか、髪を振り乱してのソラの背中ぐいぐいが功を奏したのか。

 さやかちゃんはふらつきながら立ち上がった。


「立った、立った! さやかちゃん、立った! 陸、すごいぴる!」

 イヤモニの中でソラの声が躍っている。


 いや、「クララが立った!」みたいに言わないで。あちらは手放しで大喜びしていいシーンだけど、こっちは逃走――虚勢を張って言うならば、戦略的撤退――の場面だから。


 ここを逃げおおせたら、はい、おしまい。めでたしめでたし、じゃない。

 問題はこれからだ。

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