6  養育係は煩悶する ♪ミ


 裏口から外に出た。

 いい天気だ。午前中とあって、まだ気温も上がり切っておらず、澄んだ空気が心地いい。


 カラオケ館ネプチューンは「なぜこんな場所に?」と誰もが思うような住宅地の真ん中に建っている。フェンスの向こうには一軒家やアパートがぎっしりと軒を並べていた。


「空ぴる! ほんものの空、ソラ、初めてぴる!」

 ソラが叫んだ。

 フェンスに駆け寄りてっぺんに手をのせ、爪先立ちして空を見上げている。家々の屋根に切り取られてわずかにしか見えない空を。


「青い! 高い! 遠い! 明るい! 広い! すごい!」 


 興奮を映すように、はちみつ色に発光した髪の毛が波打ち、顔の周りにふわりと広がった。青い瞳に空の青が溶けてしまいそうだ。

「気に入った?」

「ぴる! ソラ、うれしいぴる! わーいわーいわーい」

 アキレス腱が悲鳴をあげそうな全力の爪先立ちに、わーいの連発。


 そうか。湧き上がってくる気持ちとメモリーに溜め込んだ言葉を、ソラはまだうまく結び付けられないんだ。

 今こそ養育係の出番。「言葉のキモチ」レクチャーチャンスだ。


 隣に並んで同じ角度で空を見上げる。ソラの感動が伝染したのか、いつもより美しく見える気がしないでもない。

「ああほんとだ、きれいだね」


 ソラがくりんと首を回し、こちらを見た。空の色をひたむきに湛えていた瞳に僕が映り、新たな輝きが弾ける。

「きれい? きれいの中に、青い、高い、遠い、明るい、広い、すごい、みんな入ってる?」


「うん、いろんな言い方があるけど、今のソラの気持ちには『きれい』が一番しっくりくるんじゃないかな」

「きれい! 空、きれい! わーい! 空、きれいぴる!」

 爪先立ちのまま、ソラはぴょんぴょん飛び跳ね始めた。


「なんか、あの空がきれいなのか」

 屋根の上に広がる空を指差したあと、その指をソラの鼻先に向ける。

「ソラが、わたし、きれい! って主張してるのか、ややこしいことになってるけど」


「空、きれいぴる。ソラも、きれい?」

 僕の仕草をそっくりそのままトレースして、ソラが無邪気に訊いてきた。

「え、なぜここでそんな質問を……。いや、ソラは客観的かつ公平に見て、かなり」


 想定外の質問をされて必要以上にドギマギしてしまった。だってこれでは、デートの締めにふたりでうっとり夜景を眺め

「きれいだね。でも、きみのほうがもっときれいだよ」

「えー、やだあ、陸くんったらー」

なんて会話をするバカップルみたいじゃないか。

 本当に存在するのかどうかは知らないが。


「ソラの名前、あの空からとったぴる。だからきっと、ソラもきれいぴる」

 広がりかけた妄想が、やけに自信たっぷりなソラの言葉で霧と散った。

「ん? 父さんがそう言ったの?」


「ぴる。『俺の名前には、海の字が入ってる。息子には陸とつけた。だからおまえはソラ。陸海空、3つ揃ったら無敵なんだぞ』」

 さすが電脳少女。父さんとの過去の会話はすべてメモリーに書き込んであるということか。


 それにしても、陸海空で無敵って、ナントカ戦隊じゃあるまいし。

 とっくに父さんの記憶からは消去されているはずだった自分が、ちゃんと勘定に入っていた事実は、僕の体温をほのかに上昇させた。


「ソラって音階の、ドレミファソラシド~からとったんだと思ってたよ」

 照れ隠しにドレミを歌ってみせたら、フェンスの向こうからこちらを窺っている誰かと視線がぶつかった。セーラー服のおとなしそうな女の子だ。


 しまった。誰もいないと油断して、ソラフォンをポケットにしまったままだった。

 トイレ前に続いての大失態。今回はいつから見られていたんだろう。ひとりでぶつぶつ呟き、いきなり歌い出す怪しげなヤツが越してきたと思われてしまっただろうか。


 ぎこちない笑顔を張り付けて会釈する。女の子が会釈を返してくれて、ひとまずほっとした。あちらからは見えない角度でソラに囁く。

「ソラ、表に回ろう。もっと広い空が見えるよ」

「ぴる!」

 とてつもなく元気な返事が返ってきた。


 フェンスに沿って歩き、エントランス側に出た。

 駐車場が広がるのに加え、店の前は一応バス通りになっているので、急に視界が開けた感じがする。とりあえずあの場を離れる目的で口にした言葉だったが、確かにあそこよりは広い空が見える。


「ほんとぴる! 空、もっと広い! もっときれい! わーいわーい」

 駆け出したソラが駐車場の真ん中で両手をひろげた。爪先立ちしたまま空に向かって手を差しのべ、くるくると旋回する。

 やわらかな髪が風をはらんで広がって、まるでアスファルトの上にはちみつ色の大きな花が一輪、咲いているみたいだ。


 うんうん、うれしかろう。しばらくは「きれい」のキモチとやらを満喫させてやろうじゃないか。


 またしても目を細めて孫を見守る爺気分になってしまっている。

 琥太郎といいソラといい、なぜ僕の周りには爺要素をめいっぱい引きずり出す人物ばかりが集まるんだろう。平穏に生きることをモットーとし、壮大な夢も野心も持たない僕の天職って、ひょっとして爺や的なものなのか?


 はしゃぎ回るソラ越しに、駐車場に足を踏み入れる人影が見えた。

 若い女性だ。11時の開店時刻に合わせ、一番乗りを目指して来たのだろうか。

 遠目にもかなり派手なファッションに身を包んでいるのがわかる。土曜の昼前からひとりカラオケにいそしむようなタイプには見えないが。


 カラオケに行くというよりは戦地に赴くと言った方がいいような勇ましい足取りで、女性はずんずん進んでいく。足元から視線を上げてその顔を認識するやいなや、僕の足は速やかに車の陰へと後ずさった。


 なぜここに、あの樹里様が?

 

 入店拒否に大層ご立腹で、二度とこんな店には来ないんじゃなかったのか? ツイッターでこき下ろすだけじゃ飽き足らず、直接文句を言いに来たんだろうか。そうだとしたら取り巻きのキラキラ女子軍団を引き連れてきそうなものだが。

 あっという間に駐車場を横切り、樹里様の姿はエントランスの扉に吸い込まれた。


 さわらぬ神に祟りなし。万が一にも僕とこの店との関係が露見しないよう、とっととこの場を離れよう。

「ソラ、そろそろ行くよ」


 振り返ると、はしゃいでいたはずのソラが扉を凝視し、固まっている。

 ボーカロイドに対してこの表現はどうかと思うが、血の気が引いたと言っていいような顔色だ。象牙色の肌から温かみのある色素が抜け落ちて、磁器が一瞬にして安手のプラスチックになったような。


「またこの歌ぷ……ソラ、聴きたくないぷ」

 くずおれそうになるソラに駆け寄り、思わず両手で支えた。重さはないが、支えた感触はしっかりある。ポケットからソラフォンを出し、緊急用と教えられたキーを押す。


「ん? どうした、養育係。早くも緊急事態か?」

 呑気な声で父さんが出た。

「ソラの様子が変なんだ。なんか青ざめてるっていうか、気持ち悪そうで。歌を聴きたくないとか言ってる」


「あー、この歌だな。もしかして、まだ店の近くにいるのか?」

「うん、駐車場に」

「なら、とにかく店から離れろ。ソラがいいと言うまで遠くに行け。そりゃ歌酔いだ」

「歌酔い? 酔っぱらってるってこと?」

「なんていうか、アレルギーみたいなもんだ。ソラは波長が合わない歌を聴かされると、悪酔いしちまうんだ」


 店の敷地を出てしばらく歩くと、ソラの顔色は少し良くなってきた。人間より感度がいいとはいえ、遠くの音も全てクリアに聞こえるというわけではないらしい。

 行く手に小さな公園を見つけた。砂場とブランコくらいしかなくて、タンポポがぽよぽよと生えている。いかにも空地を有効利用しましたという雰囲気だ。


 隅っこのベンチに、まだふらつくソラを座らせる。

「大丈夫? 吐いちゃうんじゃないかと思ったよ。まあ、吐くものもないだろうけど」

「吐いちゃう? あれが、吐いちゃうキモチ? どうせなら吐いてみたかったぷ」


 あれほど青ざめてたくせに、ソラは残念そうだ。なんでよりによってトイレとか吐くとか、排出方面にやたらと意欲的なのか理解に苦しむ。

 ソラがどうにかがんばって吐き出せそうなものといったら、音符くらいしかないのではないか。


 小さな両手で押さえた口から、旗のついた八分音符や丸いドロップみたいな全音符がぽろぽろこぼれる図が頭に浮かんだ。

 いや、これじゃまるでハートウォーミングな絵本の1ページじゃないか。歌酔いの実態には程遠い。なにげにかわいらしいけれど。


「吐いちゃう気持ち、じゃあんまりだから、気持ち悪いとかむかむかするとか言ったほうがいいかもね。ところで、またこの歌とか言ってたけど、前にもあのお客の歌、聴いたの?」

「ハカセといっしょに聴いたぷ。あの女の子の歌、言葉とキモチ、ちがうぷ。ソラ、その時も気持ち悪くてむかむかになったぷ」

「それで父さん、よその店行って歌えって追い返したんだな」


 隣に腰を下ろすと、はちみつ色の頭が僕の肩にぽてんと乗っかってきた。細い髪の毛が肩先にこぼれる。

「陸、くまのこの歌、歌って」


「……それ、もしかして、不快な歌の効果を下手くそな歌で消すってこと? 毒を以て毒を制す、みたいな?」

「毒じゃないぷ! ソラ、陸の歌、好きぴる。くまのこ、『そうっとのぞいてみてましたー さ!』のあと、どうなるぴる? 聴かせてくれないと、ソラ、帰れないかもぷ!」


 さらっと脅迫された。これも養育係の仕事の範疇なのだろうか。

 公園のベンチで男子高校生が一人、童謡をフルコーラス歌っている姿なんて不気味以外の何物でもない。


 辺りを見回す。公園には僕とソラしかいない。通りからはちょっと引っ込んでいるから、オペラ歌手並みに朗々と歌ったりしなければ、誰にも気付かれはしないだろう。


「みてました、のあとは、『さかなが いるかと みてましたー』って続くんだ」

 昨日は中断された2番を、ひとまず軽く歌ってみた。

 ソラが頭を少し後ろにずらして、ほっぺたを僕の肩に乗せた。見上げる大きな瞳がキラキラと続きを催促している。


 なんにも いないと くまのこは

 おみずを ひとくち のみました

 おててで すくって のみました

 

 それでも どこかに いるようで

 もいちど のぞいて みてました

 さかなを まちまち みてました


 なかなか やまない あめでした

 かさでも かぶって いましょうと

 あたまに はっぱを のせました


 恥ずかしさが込み上げないうちにと、5番まで一気に歌い切った。名演奏でも聴いた後のように、ソラがふう、と満足げに息を吐いた。


「むかむかぜんぶ、耳から出てったぴる。陸の歌、言葉のキモチ、山盛り。ソラ、好きぴる。歌いたくなるぴる」

「そりゃどうも。別にことさら心を込めて歌ってるつもりはないんだけどな。山盛りって、ソラはどんな気持ちを感じたわけ?」


「うれしい、わーいの、反対のキモチ?」

 小首をかしげて自信なさげなソラの言葉に、ああ、と思った。


「やっぱそっちか。うわ、なんか情けないというか、恥ずかしいな」

「ソラ、合ってたぴる? うれしい、わーいの反対のキモチ、なんていう?」

「さみしいとか、せつないとかかな、たぶん」

「さみしい、せつない」

 今味わった気持ちを反芻するように、ソラが言葉を口の中で転がした。


「今の、『あめふりくまのこ』っていう歌なんだけど、僕の母さんが子守唄がわりによく歌ってくれたんだよね。で、母さんが留守で心細い時とかに、ちっちゃかった僕は、この歌を歌って待ってたりしたわけさ。ほら、この歌の中でくまのこって、母さん熊とはぐれてひとりぼっちだろ? なんか自分と重なる気がして」


 ああ、恥ずかしくも自分語り的なことをしてしまった。ソラの情操教育の一環として致し方なかったということにしておこう。


「陸、さみしくて、せつなかった?」

「まあ、その頃はちっちゃかったからね。くまのこのそばには母さん熊もいなくて、魚もいなくて、ひとりぼっちで雨に打たれてる。さみしいのは僕だけじゃない、みたいな?」


 もたれていた頭をきゅっと上げ、ソラが右手を伸ばして僕の頭を撫でた。

「よしよし。陸、よしよし」

 こ、これは。さみしい人→慰める、というプログラミングでもされているんだろうか。

「いや、あくまでもちっちゃい頃の僕の話だから、お構いなく」

 なーんだとばかりに、ソラは容赦なく手を引っ込めた。


「陸、すごいぴる。『あめふりくまのこ』から、さみしいのキモチ、みつけた。ソラ、元気で強いくまのこしか、みつけられなかったぷ」

「元気で強い? そりゃまたどうして?」


「だってくまのこ、雨なのに外に出てくる。ひとりで元気に遊んでる。魚がいなくてお腹すくと、お水飲んでみる。あきらめないで、またしつこく魚さがしてる。雨にぬれたら、はっぱで傘つくって工夫する。ソラ、すごいサバイバル能力って思っちゃったぷ」


 サバイバル能力に長けたエネルギッシュなくまのこだと? 目から鱗だ。あの歌詞からそんなにポジティブなくまのこ像を思い浮かべるとは。


 でも、そこが歌というものの良さなのかもしれない。

 夜、残業の母さんをぽつんとひとりで待っていた僕には、くまのこは同じようにさみしく見えた。そして初めて外の世界に出て、目や耳に飛び込んでくるもの全てを吸収しようと意気込んでいるソラは、くまのこに尽きることのないエネルギーを感じ取る。


 どっちが正しくてどっちが間違いってことじゃない。大きくなった僕は、さみしさに寄り添ってくれたくまのこに、あの時はありがとうと素直に感謝すればいいんだ。


 くまのこに頬ずりしたくなるような感傷的な気分を、ソラが見事にかき消してくれた。

「陸、最後のとこ、頭にはっぱのせて、もう一回歌ってぴる。くまのこみたいに。これ! このはっぱがいいぴる!」


 触れるものなら今すぐにでも引っこ抜きたいという勢いで、ソラはベンチの脇に生えた葉を指差している。

 どう見たって小さすぎる。ハムスターの傘ぐらいにしかなりそうにない。あの歌の中の葉っぱは、たぶん大きなフキの葉あたりなのだろうし。


 ていうか、タンポポとかヒメジョオンとか、スタンダードな草花がいくらでも生えてるのに、よりによってなぜ、それを選ぶ。


「ソラ……ドクダミだけは勘弁して。それ、ものすごく臭いから」

 葉っぱの傘第一候補の座を滑り落ちたドクダミが、春風の中、心なしか俯いた。

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