一九九五年十月九日深夜、ブラン城・城内

 ルーマニアはブラショフ、首都ブカレストから北の山中に、ブランの城はある。専らブラム・ストーカーのドラキュラで有名なそこは、しかして実際にはヴラド三世の居城ではなかった。移ろう時の中で王侯や貴族、さらにはブラショフ市と所有者を変えながら、現在はチャウシェスク下の共産主義政権に接収され、博物館として公開されている……というのは表向きの話で、童話の騎士――、もとい第三コミンテルンの本拠地としての有り様こそが、ブランの古城の真の姿だった。


 八十七年に始まった大規模改修工事。それを隠れ蓑になされた、城から地下に続く広大な施設の施工。当時斜陽にあったチャウシェスク政権に見切りをつけた少将マイオールが、幾ばくかの政府支援と引き換えに手にしたのがこの一帯で――、それから九十二年にブラン城が一般公開される頃には、第三コミンテルンの拠点は落成を果たしていた。 


 ブランの城から東に離れた、ソホドルの山中。五人を乗せたアントノフが飛来すると、それまで岩肌だった場所が俄に開き出し、滑走路が姿を現す。周辺に民家のないこの場所は、第三コミンテルンのエアポートとして機能している。




「童話の騎士第一分隊アインエピゾーデ、チェネレントラ・パッヘルベル、裁断の日シュターフェゲリヒトを執行、帰投しました」


 投薬の作用か、いくらか落ち着きを取り戻したチェネレントラが、真っ先にタラップを降り、迎えるスタッフらに敬礼で応じる。


「おかえりなさいませ、KHM21――、チェネレントラ・パッヘルベル様」

「メンテナンスを頼みますわ。実稼働八時間……流石に少々、疲れました」


 スルプスカ共和国首都、バニャ・ルカを発って二時間。それから一睡もしていないチェネレントラは、背後に残した同僚を他所に、疲れ切ったため息を吐く。スタッフが持ち寄った冷却剤を額に当てられると、そのため息は白い安堵に変わる。


「ふぅ……他の皆様もお願い致しますね。わたくしはほんの少し……眠ります」  

 

 管制室を抜けると続くオートウォークの果て、地上まで向かう560メートルの軌道エレベーターは、その距離がイコール分速である。極東の大企業すら凌駕する第三コミンテルンの技術力は、落日の共産主義圏からすれば垂涎ものだろう……最も既に、東側コミュニズムは瓦解し尽くした後なのだが。


「やはり外の空気というものは落ち着きますわ……あの狭い地下は、どうにも慣れませんもの」


 城内の隠し階段に直結したエレベーターを出、本棚の後ろから顔を出すチェネレントラ。開けた風景に背伸びをしながら、無防備に周辺を闊歩する。22エーカーの土地に建つ57室の古城に蠢くのは、恐らくは今やチェネレントラだけ。完全に警戒を解いた灰被りの姫君は、キングサイズのベッドに腰掛けると、ごろんと横になって深く息を吸う。


 観光地として十全に整備されたブランの城は、古城でありながら不衛生とは無縁である。寝具の手入れも行き届いており、こうして一息つくぶんには最良の環境と言えた。


(マスター……お義父とう様……)


 マスター。童話の騎士を預かる管理者。かつて自分を救い、今も帰るべき場所であり続けている存在の名を呟き、チェネレントラ・パッヘルベルの意識は闇に沈んでいった。




*          *




「おい……起きろ」

「……ん……おとう……さま?」


「お前のマスターじゃない。私だ、カイーナだ」

「……!!」


 いったいどれだけの時間を夢の中で過ごしたのか。チェネレントラが瞼を開けると、そこには寂しげな表情のロサ・カニーナが立っていた。


「カイーナ……メンテナンスは終わりましたのね」

「ああ」


「その様子ですと、少将閣下には会えなかったようですわね」

「……ああ」


 ドルンを外し、外套を脱いだロサ・カニーナは、ドレスとは言わないまでも、ゴシック調のミリタリーワンピースでめかしこんでいる。多分に、少将マイオールと会えるのを楽しみにしていたのだろう。かの指導者への感情はともかく、その心境だけは理解できるチェネレントラは、無言のまま半身を起こすと、ロサ・カニーナを優しく抱きしめる。


「仕方ないんだ……少将閣下はお忙しいから……私なんかの為に割く時間はないから……」

「あなたはよく頑張りましたわ……カイーナ。及ばずながら、わたくしがそれを讃えましょう」


 チェネレントラの胸に顔を埋めるロサ・カニーナ。眼帯で覆われていない、残されたもう一つの彼女の瞳からは、一筋の涙がこぼれ落ちる。


「……ありがとう」

「……構いませんわ。さ、カイーナ。つむを刺して眠りましょう。今宵はわたくしがご一緒して差し上げます。――赤バラに夜露は似合いませんもの」


 言うやロサ・カニーナの手を取り、破顔するチェネレントラ。そのままに荊の姫をベッドに引きずり込み、灰被りの姫は覆いかぶさった。

 

  



*          *




「メンテナンスは……いいのか?」

「後でで構いませんわ。そうね……錘を刺された貴女が、すやすやと寝息を立ててから」


 少女二人には広すぎるベッドの中で、チェネレントラとロサ・カニーナは抱きあう。着替えるにあたり、もうシャワーを浴びてきたのだろう。ロサ・カニーナの髪からは、ほのかに犬薔薇ロサ・カニーナの香りがした。


「可愛そうなカイーナ……せっかく湯浴みまでしましたのに」

「……それ以上言うな。惨めになる」


 背中を屈めて、自身の眼帯を覆うロサ・カニーナ。かつて孤児院時代に失われた左目は、以来ドルンの制御デバイスを埋め込む為の孔として機能している。――ゲルトナー。現在メンテナンスで取り外された複眼こそが、それである。


「私だって分かってはいる……分かってはいるんだ……だが分かっていても、この傷が疼いてしまう。まるでピースの欠けた穴のように……その埋め合わせを求めて……」

「……」


 チェネレントラの知る所では、銃撃で左目を失なったカイーナを、既の所で救ったのが少将マイオールだという。荊姫……つむを抜かれて目覚めた少女が、その抜いたプリンスに恋をするというのは致し方も無い事だが、平素の無愛想とはかけ離れた乙女心を、ついつい理解してしまうが為に、チェネレントラはロサ・カニーナを愛おしく思ってしまうのだった。


「おやすみなさいカイーナ。今はただ、深く考えずに良い夢を。夜は要らぬ妄想を呼び起こしますわ……それもこんな、特に月の大きい夜は」


 その日もこんな、月の大きな夜だったという。チェネレントラが特権階級の娘として悠々自適な暮らしを満喫していた頃、ロサ・カニーナは一人、孤児院の隅で打ち震えていたのだと思うと居たたまれない。チェネレントラの腕の中で縮こまるロサ・カニーナの、頭をゆっくり、優しく撫でる。


「……すまない……おやすみ……エネ……レン」

「おやすみなさい……わたくし荊姫ドルンレースへ」  

 

 ひとしきり泣き、安心したのか。ロサ・カニーナはくーくーと寝息を立て始める。その背中を何度かさすったチェネレントラは、淋しげに微笑むとベッドを立ち、自らのメンテナンスに向かった。薬が切れたのか、頭が少しだけ、滲むように痛い。

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