一九九五年十月九日中夜 バニャ・ルカ上空・航空機貨物室

「黄昏の、朝、僕は佇む、一人、楽園の外で、自分が壊した世界を背に想う、今は、もう帰り得ぬ日々を」


 スルプスカ共和国の首都、バニャ・ルカを発ったアントノフは、赤い月を背に居城たるブラン――、ルーマニアの古城へと向かう。そしてその機内では、ロサ・カニーナを膝枕に乗せ、チェネレントラがパッヘルベルのカノンを口ずさんでいる。


「くー、くー」


 寝息を立てるロサ・カニーナの、薔薇赤ローズマダーのボブカットを愛おしそうに撫で、チェネレントラは目を細める。


「駄目でしょう。荊の姫が眠ってしまっては……最も、貴女が一番最後まで、起きていようと頑張ったのは褒めてさしあげますが」


 ――童話の騎士、バタリオンアンデルセンの団員は、誰しもが何某かの超能力、特殊兵装、人体改造を有している。それらの行使は確かに一騎当千の狂戦士を生み出しはするが、狩猟豹が500メートルしか全速力で駆け抜けられないのと同じく、持続時間の制約、または発動後の反動も大きい。極度の眠気、空腹、疲労といった種々のデメリット・エフェクトが、不可避の災厄として彼女たちに訪れるのだ。


「んん……閣下……」


 寝言で想い人の名を呟くロサ・カニーナを、見つめるチェネレントラの眼差しはいやに淋しげで憐憫に満ちている。これから帰投する五人の騎士を待つ、第三コミンテルンの盟主にして童話の騎士大隊総指揮官、少将マイオール。――ロサ・カニーナの恋い焦がれる相手を、チェネレントラは快く思ってはいない。


「おやすみなさい、カイーナ……せめて夢の中ぐらいは、どうか幸せに……もしかしたら、つむを抜かれて目覚めないほうが良かったのかもしれないけれど、わたくしたちは」


 チェネレントラはそう独り言ち、周囲を見回す、ブランチェットとベルシネットを両脇に眠りこけるヒンメル。彼女たちにもまたそれぞれの事情があり、それはチェネレントラも同様であった。


 革命の凱歌と、そして炎に包まれる家。泣き叫ぶ少女と、奪われる家族の命。力を使った後の反動。記憶の断片は幾重にも重なってチェネレントラに悪夢を見せ、その度にえづくような嘔吐感に苛まれる。


(薬を……飲まなければなりませんわね……頭が……)


 しかし、チェネレントラが絶対空感アプサリュートナの発動を止めたが最後、この非力な少女たちを守るものはアントノフの脆弱な装甲以外になくなってしまう。それは怖い、それは嫌だとチェネレントラは反芻し、まだ寝てはならぬと自らに言い聞かせる。


「本当に……十二時の針で魔法が切れてしまう……灰被り姫チェネレントラですわね……わたくしは」


 自嘲げに嗤い、タイの裏から錠剤を取り出したチェネレントラは、いっときにそれを口に放り込む。――プラズマローゲン、エーテルリン脂質の一種であるこれは、脳機能の過労を抑え込む役割がある。ブランでのメンテナンスまでの間に合わせと頷いて、チェネレントラは苦々しげに咀嚼を重ねる。




 ――チェネレントラ・パッヘルベルはルーマニアの、高級官僚の一人娘として生を受けた。しかし一九八九年、共産党書記長にして独裁者、ニコラエ・チャウシェスクの時代が終焉を迎えると共に、彼女の家は革命の炎によって燃やし尽くされた。


 クリスマス。歓喜の声と共に響く銃声。処刑されるチャウシェスク夫妻。怒声、窓の割れる音。火炎瓶。棒。人。お父様の死体。お母様の死体。妹の死体。――わたくし。組み伏せられ、身動きの取れない……わたくし。痛み。血。嗚咽。憎悪。そして、それから。


 悪夢のピースにガタガタと身体を震わせ、唇を噛み締めるチェネレントラ。その唇から赤い血が滴ってロサ・カニーナの頬に落ちる頃、彼女の目は眼前を見据え、理性を取り戻したように、こう呻いた。


わたくしはチェネレントラ・パッヘルベル……灰被りから這い上がったの……ガラスの靴は……だから渡さない」


 静寂が支配する機内に、チェネレントラ・パッヘルベルの声だけが響き、やがて五人を乗せたアントノフは、居城たるブランに到着した。

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