一九九五年十月九日中夜 バニャ・ルカ要塞・執務室

 時計の針も日を跨ごうという中夜、スルプスカ共和国軍将軍、ナパド・ムラディッチは、同国の首都バニャ・ルカの要塞で、ただその時を待っていた。


 童話の騎士バタリオンアンデルセン。ナチスの亡霊とコミュニズムの怨念が生み出した御伽噺おとぎばなしがいかほどのものか。――さりとて彼は知っているのだ。少なくともその部隊を指揮する少女が、いかに超常なる力を有しているかを。


「……ゴールドースト」


 ナパドはぼそり、その名を呟く。正式な名をチェネレントラ・パッヘルベルと言ったか……だがナパドは、あの少女の事をそう呼んでいる。――傲岸ゴールドーストと。

 

 今夏、すなわち一九九五年の八月。ナパドの部隊がサラエヴォを撤退し、忌々しいワンサイドゲームデリバリット・フォースで追い立てられる最中、戦場に颯爽と姿を現したのがチェネレントラ・パッヘルベルだった。


 白いケープを纏い、手には一丁の狙撃銃だけを抱えて。ついに幻でも見たかと呆然とするナパドらの前で、少女はひたすらに奇跡を演じ続けた。――全ての弾雨と踊るように、爆風で舞い、砲撃で翔んで……そしてその一連の舞踏が終わる頃には、部隊を包囲していたNATOの雑兵は、みな等しく物言わぬ屍に変わっていたのだ。


 ――三年に渡るサラエヴォの包囲。冷徹に交通網を遮断し、兵站を断ち、虐殺を主導し、それでも尚、泰然たる自我を保ち続けたナパドが、初めて涙し、奇跡に打ち震えたのがこの時だ。


童話の騎士バタリオンアンデルセン、チェネレントラ・パッヘルベルと申しますわ。――将軍、意地悪な継母どもを、みなごろしにして参りましょう……さあガラスの靴を。踊りの終わりに、せめて貴方に勝利の美酒を」


 まるで全てが視えているように――、そして恐らくは事実であろう余裕を湛え、灰被りの姫君は微笑んだ。……それが童話の騎士、チェネレントラ・パッヘルベルと、スルプスカ共和国将軍、ナパド・ムラディッチの出会いだった。




*          *




「おやすみでいらっしゃいましたか? 将軍」


 暫しの夢現か、微睡みの中で声を聞いたナパドは、うっすらと瞼を開ける。目の前のカーテンがゆらゆらとはためいていて、窓際には白服の少女が、恐らくは・・・・立っている。


「誰か?」


 或いは地獄から迎えでも来たかと予感も巡る。かつてはスルプスカの国軍を率い栄光に溢れていた我が身も、サラエヴォ、スレブレニツァと立て続けに領土を失い、砂上の楼閣よろしく風前の灯火にある。事実、スルプスカ共和国大統領、ダヴィット・カラジッチからは罷免の通知があったばかりだ……身内から銃弾が飛んできても、おかしくはない。たとえばルーマニア革命の最中に、国防相のワシーリ・ミリャが不慮の死を遂げたように。


わたくしをお忘れですか? 将軍。――チェネレントラ・パッヘルベル、戦果のご報告に参りました」


「……ゴールドースト」


 反射的にそう呟くナパドの脳裏には、先刻まどろみの中で見た純白の姫君が、ありありと描かれた。そうしていっときに覚醒したナパドは、まさにその記憶の中の少女が眼前に在るのを、瞭然と知覚する。


「ふふ……お久しぶりです、将軍。お目覚めはいかがでしょう? 良いニュースと良いニュース。――ああ、西側にとっては悪いニュースばかりですが、どれからお聞きになりますか?」


「……任せる。君が視たというのであれば、全てはそうに、相違なかろう」


 どのみち、この少女には何もかもが理解るのだ。ならば取捨選択も、本人の采配に委ねるのが最適解だ。――恐らくは、この結果で自身の趨勢すうせいも決まる。ならば処刑宣告のつもりでと、ナパドはもう一度瞼を閉じ……無心のまま受け入れる。


「では簡潔に申しますわ……サラエヴォのSAS第十五連隊48名、ゴラジュデのグリーンベレー第十特殊部隊群フォーカソン72名、その他ボスニア軍兵士124名……『裁断の日シュターフェゲリヒト』の成果により、粛清を完了しました」


 ああ……まるで夢のようだと、ナパドは思う。あの日、生え抜きのスルプスカ軍を蹂躙した西側の特殊部隊が、こうもあっけなく壊滅に追い込まれるとは。軍略にカミカゼなど無いと信仰するナパドだが、この時ばかりは違った。


「ありがとう。少将マイオールにも……よろしく伝えてくれ……そして私は――、私はこれから、どうすればいい?」


 遅滞ない障害の排除。自らの汚点を隠し通したい西側は、間違いなく内戦の終結に舵を切り、結果としてスルプスカの存立は認められるだろう……その戦果は、ナパド自身の保身にも少なからず役立つ筈だ。だとするなら、次に請うべきは、敗軍の将たる自身の、これからの動向だ。既に童話の騎士――、第三コミンテルンの軍門に下った以上、オーダーには絶対に服従しなければならない……いや、その義務があると言うべきか。――少なくとも義理という言葉があるのならば。


「お気持ちの切り替えがお早いのですね。ふふ……将軍には、まだまだ踊って頂かなければなりません。そのための護衛も、明朝にはこちらへ到着するでしょう」


「……童話の騎士かね?」


 ナパドはいまだ、このチェネレントラ・パッヘルベル以外の騎士の名を知らない。ただ彼女の口伝てに、その存在を仄めかされているだけだ。確か事前の情報では、今宵バタリオンアンデルセンの二個小隊がボスニアに投入されたという。うち一隊がチェネレントラの隊だとするなら、明日やってくるのはもう一つの小隊の、指揮官か誰かだろう。


「はい。今宵ゴラジュデに血の海を作り上げた、我が団員ですわ。わたくしほどではありませんが、力のほどは保証いたします。――必ずや将軍の御身を、守り通す事でしょう。特にアレの能力は、この憎悪に燃えたボスニアの大地には、打って付けのものですから」


「心強い。ならばそれを待とう。――ゴールドースト、君は?」


 やってくる者の委細を聞く立場にないと、ナパドは自らの立場をわきまえる。今回の作戦「裁断の日シュターフェゲリヒト」において、スルプスカ共和国軍は何一つとして手を動かしてはいない。一騎当千の姫君たちを前にすれば、歴戦の勇者とて赤子も同然である。ゆえにナパドは、全ての裁量を第三コミンテルンに委ね、去っていくと知りながらチェネレントラに問う。


わたくしは帰りますわ。――時計の針が12時を指して、魔法が解けてしまう前に」


「そうか。名残惜しいが……武運を祈る」

「ありがとうございます。それでは将軍、お元気で」


 刹那、一陣の風と共に窓際の少女は夜闇に消える。残された白いカーテンは、初めからそこに誰もいなかったかのようにはためき……そしてそれを見て、将軍は善しと頷いた。


「私の人生は、いつだって灰被りだった……泥濘ぬかるみの底で手を伸ばし、そうしてやっと辿り着いたここも地獄だ。――ゴールドースト。ガラスの靴を履ける姫君は、この世界に一人しかいないという残酷を、君ならきっと知っているのだろう……私はそれができなかった。この手も靴も、踏みしめた死で赤く染まりすぎている。それでもなお、それでもなお……」


 ――我らは前に、進まねばならぬのだ。

 誰に言うとでもなくひとりごちたナパドの言葉は、少女を追うように夜闇に消えた。

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