一九九五年十月九日夜半 トレべヴィチ・山道

 これはクリスマス前の有給休暇のようなものだ。恐らくはどの隊員も、誰しもが口に出さぬにせよ――、そのような考えを持っていたに違いない。それは英国SAS第十五連隊連隊長、ラインハルト・ハンキンソン中佐も同様だった。


 なにせボスニアと敵対する、セルビアの傀儡たるスルプスカは、昨夏の大規模空襲で完全に瓦解した。かつては資本主義陣営と相対したソヴィエト連邦も、再構築ペレストロイカから雪崩を打った民族決起カタストロイカに手一杯で、とてもじゃないがユーゴスラヴィアくんだりに手を出している余裕は無い。


 そうなるとそもそも。西側がスクラムを組んでボスニアを支援した時点で、この戦争の大勢は決したも同然だった。それは言ってみれば、先の大戦における日本対連合国の構図そのものだ。如何に凶暴な狼が一匹で牙を剥いた所で、人間は数の武力で勝利をもぎ取る知恵を有している。――そう、始祖アダムが禁断の果実を齧り、楽園を追放された、あの日から。


 だから、だからこそと、ラインハルト・ハンキンソンは首をひねる。休戦協定は既に結ばれ、恐らくはこの紛争は、双方の領土割譲、とどのつまりは痛み分けという形で国際的な決着を見る。……そしてそれと引き換えにセルビア側の戦犯は裁判に引きずり出され、今後百年の歴史において、忌まわしきナチス・ドイツと同列に、世界秩序ワールド・オーダーから断じられる巨悪として語られるだろう。――だが、とは言え、それでも枢要たる自治の裁量は残されるのだ。一部のセルビア人を生贄に差し出す事で、他のセルビア人が暮らす土地だけは辛うじて守られる。打ち出の小槌マジックワンドよろしく兵卒が湧いて出るなら兎も角、現実にそれが出来ない以上は、この結末は妥協点として上々な成果と評して良い筈だった……少なくとも、相手が等しく知恵を有する、同じ地平線上の人間であるならば。


 だからそんな待ち焦がれた大団円を目の前に、一体どこの馬鹿がドンパチやらかすというのか。今や虎穴となったトレべヴィチの山頂から届けられたのは、ヴィータが航行中という情報がたった一つ。それ以外に航空兵力の投入も、機械化部隊の侵攻も確認できない現状とあっては、威力偵察を兼ね友軍を救い出す以外に、ラインハルトには取り得る手段が残されていない。――英国はペン・イ・ファンで繰り広げられた地獄のような選抜試験。一度それを潜り抜けたからには、ここに座すSASの面々は家族をも凌ぐ絆によって結ばれている。だから友軍たるボスニア軍はさて置いても、天文台に取り残された分隊の救出だけは絶対に為さねばならなかった。


 斯くてラインハルト率いるSAS第十五連隊は、先遣隊を除く三個中隊で縦列を築きトレべヴィチを目指す。敵の正体こそ分からずとも、少なくともそれらが少数である可能性が高い以上は、下手に戦力を分散させる事こそが愚策と踏んだからだ。


「カバーズとの通信はまだか?」


 そう通信兵に問うラインハルト。ここで状況を整理するなら、先んじてパトロール分隊との合流を図ったカバーズの三隊は、何者かとの交戦に発展。さしあたっては応戦し、これを排除する旨の通知が、ほんの二分前に飛び込んできたばかりだった。事実その直前まで銃声は鳴り響き、サラエヴォを見下ろすトレべヴィチのあちこちでは、散発的な爆音と共にマズルフラッシュが瞬いていたのだった。


「いいえ、応答途絶。カバーズ……ロストしました」

 

 だが返されるのは無慈悲な答え。フラッシュバンと思しき痛烈な光の後に訪れた沈黙から察するに、恐らくカバーズによる制圧が完了していたものと推し量っていたラインハルトの読みは、ものの見事に外れを撃ち抜く。


「何だと?」


 ここに至りラインハルトは、自らの過誤を認めざるを得なかった。SASの駐屯を知らない暗愚な過激派が、僅かばかりの手勢を率い反撃の狼煙を上げた小火ボヤと踏んだのも束の間。或いは事によっては、連邦のスペツナズ級が投入された可能性も考え得る窮状に、状況は打って変わる。


「……総員に告ぐ。救出作戦は中止。基地に戻り本国へ通達。然る後防備を固め、明朝、ボスニア軍との合同による捜索を敢行する」


 苦心を滲ませながら、ラインハルトはそう告げる。なにせトレべヴィチの一帯には未だなお地雷原が張り巡らされている。もちろん天文台に至るルートに限っては安全を確保してあるが、戦闘の為に隊を分散させるとなると話は別だ。山を登るこちらと、山上で迎撃態勢を整える敵とでは、地の利において歴然たる差が生まれてしまう。それは例えば、開戦直後に山陵を取り囲まれた、ボスニアとセルビアの図式だ。だから無線のチャンネルを開いたまま、救助を求める声が何処からか届く事を、ラインハルトは祈る以外に出来なかった。十六人の兄弟より、その三倍の数の家族を守る。それは後日、いかに冷徹と蔑まれようとも、彼が指揮官として為すべき、最低限の職責だった。


「サー。総員、周囲を警戒しつつエアポートへの後退を――」


 だが副官が指示を反芻するように口を開いた瞬間だった。トマトのように彼の脳漿が爆ぜ、その血肉がソースとなってラインハルトの顔面に降り掛かったのは。


「――?!」


 声を上げる暇すらも無い刹那。覆いかぶさるように倒れ込む副官の身体を、反射的に抱きとめるラインハルト。一体なにが起こったのか、さしもの歴戦の勇士とて、頭が回らぬのも無理からぬ急転直下。全員が迷彩を施し、暗視ゴーグルを掛け、秘匿に万全を期した筈の隠密行軍スニーキング。仮に相手が同等の戦力を持つ特殊部隊であったとて、この悪条件で寸分の狂いも無く頭部だけを狙い撃つというのは、どう逆立ちしたとて、考え得るものではなかった。


「ネイサン……ッ!」


 そして。辛うじてラインハルトが副官の名を叫んだ時、次に爆ぜていたのは、彼自身の頭だった――。




*          *

 



 それはチェネレントラ・パッヘルベルにとっては、クリスマスのケーキを切ってよそう程度の些事だ。少なくとも本人はそう思いながらスコープ越しの世界を覗く。


 既に銃声が止み、沈黙に支配された夜闇の森。肉眼において、本来ならば全てが漆黒でしかないその世界にあって、にも関わらずチェネレントラの双眼は鮮明な視界を確保していた。


 いや或いは、彼女の脳そのものが――、とでも言うべきかも知れない。今こうしている間にも、チェネレントラの脳裏には幾つもの映像が浮かんでは消え、その中には繁みブッシュに潜み指示を出すSAS第十五連隊の姿も含まれている。


 絶対空感アプサリュートナと呼ばれるチェネレントラの超感覚的知覚ESPは、周囲数十キロの情報を瞬時に知覚し、さながら無数のディスプレイに映る映像のように脳内に投写する。


 だからチェネレントラ・パッヘルベルの隣に観測手は要らないし、チェネレントラ・パッヘルベルの眼に暗視ゴーグルは必要ない。灰被りの姫君チェネレントラには、ただ一挺のスナイパーライフルと、敵を殺し尽くすだけの弾丸さえが、あればいい。

 

 何の感慨もなく引かれるトリガー、その度にスコープの中で爆ぜる脳漿。折り重なる――、死体。指揮官クラスだけを狙うチェネレントラの狙撃に、さしものSASも困惑を隠し得ない。――装弾数十発のプスカ・オートマタ・クルネータがマガジンを空にする頃、一キロ先の山道には、同じ数の屍が物言わず生まれていた。


童話の騎士バタリオンアンデルセン総員に告ぐ。突撃し殲滅なさい。――童話のように残酷な真実を。そして絵本のようなハッピーエンドを」


 指示はその一言だけで十分だった。ガサガサと藪を散らす音がして、幾重もの影が赤い月下に飛び上がる。赤頭巾ロートカッペン髪長姫ベルシネット仕立て屋シュナイダーラインによる狩りの競争が、そうして静謐に幕を上げた。




*          *




 夜闇にナイフの残光を煌めかせ、先陣を切ったのはブランチェット・ロートカッペン。一振りの白刃と二丁の拳銃。ピクニックに出かけでもするような軽装で舞う赤ずきんは、嬉々とした表情で戦場に躍り出る。


 ――血海殲線サンギノーゾ・タランテーラ。近接戦に特化した彼女の力は、部隊長たるチェネレントラ・パッヘルベルとは対をなす超感覚的知覚ESPの一種だった。


 超常的な身体能力と、自らに迫る寸前の危機だけを識る野生の直観。索敵も防御も殺傷力も、その全てが他のメンバーに及ばない一方で、ここぞという一対一サシの勝負においては比類ない強さを誇る逆転の一手。加えて故障もあり得る機械化武装に頼らない生身の一点は、ブランチェット・ロートカッペンを童話の騎士の欠かざる一員として周囲に認めさせる、唯一無二の理由として機能していた。


 ゆえに敵兵の目に映るものは、僅かなる残光の赤。燃え盛る灼眼が尾を引いた後には、迸る血の雨が周囲に降り注いでいる。そして一つの雨が止む頃には、次の血飛沫が鮮やかに地を彩る。かくて首を捻り、肉を削ぎ、心臓を穿ち、戦場に佇むブランチェット・ロートカッペン。一心不乱に命を絶ち続ける今の彼女からは、先刻垣間見えた溌剌とした空気は感じ取れず、そこには生の躍動にただ打ち震える獰猛な獣が一匹、口元を歪ませて嗤うだけだった。




 

*          *




 そんなブランチェットの後を追うように滑り込むのが、髪長姫ラプンツェルこと、ベルシネット・ド・ラ・フォルス。斬糸ハールを木に巻き付けながら地雷原を飛び越えた彼女は、未だ二個小隊分の獲物が残っている事に安堵の笑みを浮かべながら、自らの兵装を行使する。


 先刻は死体を人形として操ったベルシネットだが、ブランチェットとの撃墜数を競い始めた手前、そこまで悠長な事は言っていられない。防弾ベストを意に介さず、ヘルメットを気にも留めず、子供がナイフでロールケーキを切り分けるように、全ての人肉を数キロずつの肉塊に刻みながら彼女は翔ぶ。自在の伸縮性を持つ人工のクモ糸ハールを前に、たかだかケブラー製の鉄帽は本来の役割を果たさない。ゆえに分とするまでも無く、山道にはミートミールのオードブルが、沸き立つ死臭と共に出来上がっていた。


 かくてただ一人の賓客も居ない狂った夜宴を、幽鬼めいた少女が愉悦の笑みを浮かべ舞踏する。その度に月下に白線が煌めき、その度に赤い血が五線譜のようにうねって鎮魂歌レクイエムを奏でる。そして彼女が降り立った先には、物言わぬ屍の観客席が、拍手もなく横たわるのだ。人が人の形を留めていない点において、それは幻想的でもあり、元が何の命であったかを示しえない点において、それは表象し難い狂宴でもあった。


 


*          *




 そのベルシネット・ド・ラ・フォルスの公演が終わる頃、草原を往くはSASの一団だった。辛うじて戦禍を逃れた彼らは、停車中の車両へ向け全力で駆けていた。既に小隊長と分隊長は銃弾に倒れ、指揮系統こそ幾らかの混乱を来していたものの、周囲を警戒しながら進むSASの戦列は、その事を思わせない程度には秩序だっている。


 見通しの良い丘陵地。非常時の軍駐屯地として想定されたこの場所は、事前に地雷の撤去は完了していて、トレべヴィチにおける安全地帯の一角であろう事は疑い得ない。


 ――しかしてそれは、飽くまでも平時の話。山頂から銃弾が飛び、士官クラスから順に撃ち抜かれている現状にあっては、石橋を叩く慎重さで、さりとて迅速に行動せねば、いかに熟達の兵士とて危ういだろう。


 十二名にまで減った一団を三つの分隊に分け、前・中・後列に配し進むSAS第十五連隊の残党。天文台跡周辺に陣取った第二小隊がロストし、第一、第三小隊が敵後続部隊と接触したと推認される今、ここに残る第四小隊の一ダースだけが、本部に情報を持ち帰り得る、最後のカードとなっていた。


 先遣の一隊が安全を確認しつつ右翼へ散開、それに応じて中列の隊が左翼へ向け移動を開始する。草原の中央には巨大な石が転がっていて、遠いブッシュを除けば、敵兵が潜伏できる唯一の空間に見える。


 だが状況はクリアと、後方の部隊にも合流が告げられた後、彼らの視界には異変が起こる。僅かに総員が注意を逸らした刹那、何者も居なかった筈の岩の上には、黒服の少女が悠然と佇んでいた。


 左腕を覆うケープ。そして童顔に輝くのは、赤い月に照らされた恐らくは眼鏡。かくてこちらを見据えるのは、年端も行かぬと寸時に分かる、色白で小柄な、セミロングヘアの少女だった。


 右翼の分隊長が静止の合図を送り、それに呼応した左翼、後方の部隊も警戒を維持しつつその場に留まる。英語で語りかけながら歩み寄るSAS隊員に、少女は一言二言、口元を動かす。


 隊員が聞き取ろうと近づいた刹那、草陰をざわざわと何かが伝い、ミステリーサークルめいた文様を象っていく。戸惑う隊員たちが、各々の足元に銃で狙いを定め、その何者かに注意を向ける最中にあって、既に周囲の注意の外に置かれた少女は、ぼそりと、今度は幾ばくか聞こえるように言葉を紡いだ。


「――凪げ、カリスト」


 瞬間、一陣の風が、ざわめくようにそよいだ。草木が舞い、少し遅れて黒い肉塊と、そして血の雨が降り注いだ。――カリスト。彼女の兵装たる伸縮式のグラインドカッターが描いたミステリーサークルには、即座に肉片と血飛沫がないまぜになった、どす黒い池が生まれた。それはさながら、一つの呪詛が結実した、禍々しい魔法陣のようでもあった。




*          *




 浅いため息を吐きながら、ヒンメル・ム・シュナイダーラインは空を仰ぐ。既に戦闘は大勢が決しており、トレべヴィチに進軍したSASの一団は、ヒンメルが殺戮した今の一隊で最後だろうと推し量れた。


 生きとし生ける物が等しく肉塊に帰した暗夜の山脈には、もう銃声も悲鳴も何一つとして聞こえない。――いいや、微かに聞こえるとすれば、それは最後の獲物を仕留めにかかる、荊姫の足音だろう。


 トレべヴィチの頂が虐殺の静寂に包まれる頃、西におよそ五キロ、ボスニアの内外を繋ぐエアポートでは、その最後の獲物を屠る、ハントゲームが始まっていた。

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