一九九五年十月九日夜半 トレべヴィチ・丘陵地周辺
「黄昏の、朝、僕は佇む、一人、楽園の外で、自分が壊した世界を背に想う、今は、もう帰り得ぬ日々を」
天文台の二階に腰掛け、パッヘルベルのカノンに歌詞を乗せ口ずさむベルシネット。かくて空を眺める彼女の足下では、糸の切れたように倒れる雑多な死骸が、歌に傾ける耳も無いまま静謐に事切れていた。
――
まったく今宵も多くのものを断ち切った。命を、身体を、未来を、希望を。そして屠られた全ての星霜に思いを馳せるように、ベルシネットは
前線で部下を守り果てた指揮官。けれども命令を無視し、逃げずに死んだ副官。――ドゥラガン、ナセル。確かそう言ったろうか。明日には忘れてしまう彼らの名前を、せめて今だけは心に留め置こうとベルシネットは微かに頷く。
――エリック、マグナス、それにピーター。彼らもこの窮地でよく戦った。ベルシネットは内心で絶え間ない拍手と賛辞を送り続ける。もっとも最後に残った名も知らぬ隊長格とは、もう少しだけ遊びたかったと幾らかの悔恨を滲ませる所ではあるが、迂闊にも
何とは言え、これは即興劇だ。一夜限りの、命と運命を懸けた一幕だ。ベルシネットは全力で糸を叩き込んだし、彼らは与えられた裁量の中で精一杯奮闘し、そして力尽きた。だからこの物語はこれでおしまいで、ベルシネットは次の劇を求め、また新たなる弾雨の中を歩まねばならない。やがて歌の終わりと共に訪れる退屈な静寂にため息を吐きながら、ベルシネットは遠い戦場に視線を移す。――そこでは
* *
天文台から下り、平原を超えた森林で響く散発的な銃声と、それを弾く乾いた音。ゆっくりと前進する黒い影を恐れるかのように、後退しながら光るマズルフラッシュが、辛うじての抵抗を示している。
ここで追いつめられながら銃弾を放つのは、SAS第十五連隊第一小隊、残三分隊のカバーズ、一方で銃弾を弾くのは、
開戦から一分。逃げず、しかし消耗を避けながら戦うSASの部隊は、正面にカバーズワン、さらに散開したカバーズツーが左舷へ回り、カバーズスリーは後方の樹上から狙撃の布陣を整えつつあった。無論この事はロサ・カニーナの複眼が既に察知していたが、彼女は敢えて放置していた。それは無論、背後に控える
――ロサ・カニーナ・ドルンレースへ。KHMの50、すなわち
だが対するカバーズワンも流石はSAS。殊勝にも二人の前衛を立てながら、分隊長ともう一人がバックアップに回る事で戦線を維持している。彼らの装着するMk.3型のスエードベストは、互いの連携を前提に設えられていて、先刻から時を置かず飛んで来る榴弾とタイムラグの無いリロードは、後衛の二人が前衛のベストの背部ポケットから取り出したそれを投げ、或いは供給するコンビネーションにより成り立っていた。
しかし銃弾の雨も、雨の合間の榴弾も、全てが
やがてロサ・カニーナの
――頃合いだ。
ロサ・カニーナもまた疾走った閃光を契機と踏み、背嚢から二丁のイズマッシュ・サイガ――、ロシアで製造されたフルオート式のショットガンを取り出した。樹上から狙撃手の狙う一発をサービスで撃たせ、残していた一本の
フラッシュバンなど無意味だ。彼女の複眼は周囲1キロの情報を瞬時に把握し、生体デバイスの操る
ロサ・カニーナは雑音と残光の舞う只中、脳裏に浮かぶ映像だけを頼りに
その事を見誤ったカバーズワンが肉片に変わる頃、残りの部隊も一様に息絶えていた。背後に待つチェネレントラ・パッヘルベルの、抱えたライフルに漂う硝煙が映像に浮かぶ。その口は「お疲れ様、カイーナ」と微笑んでいる。
――プスカ・アウトマタ・クルネータ。外形は
「良い戦でしたわ、カイーナ。そしてご苦労様」
既に
「――お前の足手纏いになるのだけは御免だからな」
だがロサ・カニーナはそう言ったきり踵を返し、天文台に進まんと歩を踏み出す。陰で頬を染めた
「貴女と居ると楽でいいわ。カイーナ。貴女が
早足でロサ・カニーナの前に出たチェネレントラは、くるりと回りながら「白服はまだ綺麗なまま」と、優麗に微笑んでみせる。――ブランチェット、ヒンメル、ベルシネット、それにロサ・カニーナと、いずれもが血を浴びて臭気を漂わせる中にあって、このチェネレントラ・パッヘルベル――、つまりはバタリオンアンデルセンを率いる指揮官だけは、戦争など知りもしない深窓の令嬢さながらに、淑やかに振る舞っているのだ。
「私が居なくてもどうという事は無いだろう。――だが居るからには血は全部吸わせて貰うさ。私の薔薇は、血を啜ってこそ赤く染まるんだから」
目を背けながら敢えて無愛想に返したロサ・カニーナは、負けじと速度を早めチェネレントラを追う。
「――
――KHMの21……
而してそんな事はおくびにも出さずに笑うチェネレントラが、優雅にも何度目かのターンを終える頃、二人は天文台に差し掛かる。遠目には二階から月を眺めるベルシネットが、退屈そうに足をぶらつかせている。そして指揮官の面持ちに戻った灰被りの姫は、ここでスキップを止めると、ただ普通に走り始めた。
「……お前は本当に性格が変わるな」
「――フン。貴女だって
チェネレントラに言い返されたロサ・カニーナが、途端にバツの悪そうな表情を浮かべる。――
「言うな――、アレは違う。閣下は――」
そう言いかけたカイーナの口に「めっ」と悪戯げに指をあてたチェネレントラが「分かってますわ。ほら、もう着くから」と反論を封じ、二人は天文台の裏手に立った。
* *
ヒンメルとブランチェット、それにベルシネット。他の三人は既に合流し、御茶会宜しく雑話を交わしている。――空には赤い月、足下には広がる血の海、そして集まる五人の少女。
足首に自身の糸を掛け、二階から逆さに顔を出すベルシネットは、仕留めた数で悔しがるブランチェットを見てにやにやと笑い、その間にヒンメルが入ってまあまあと宥めている。――全くヒンメルがいなければどうしようも無いなこの二人はと、チェネレントラは内心呆れ、三人を一瞥だけすると伍長の死体の側まで歩を進めた。もちろん華麗に、血の海だけを避けて周りながら。
「――いいですわ。やって」
そして命じられたカイーナは、背嚢から
そして鉤十字の上下両端には槌と鎌が加わり、これで第三コミンテルン――、ナチスドイツと共産主義が群れ集ったエンブレムが出来上がった。
「
言うやカイーナの頬に指を沿わせたチェネレントラは「――さあ、みなさん」と背後を向いた。その言葉を予見していたかの様に場は一瞬で沈黙に包まれ、鈍色の殺意を湛えた六つの眼が、白服の少女の下に集まる。
「一幕目は
チェネレントラが、
「標的は前方五キロ。雑兵で少し数が増えますけれど、まぁ一人頭三ダースって所かしら」
踵を返したチェネレントラは、カイーナの背嚢から銃を抜き取ると空へ掲げた。
「とっとと終わらせて帰りますわ。第三コミンテルン旗下、
言うが早いか、
「――童話の様に残酷な真実を。そして絵本の様なハッピーエンドを」
失った命の代わりに静寂を取り戻したトレべヴィチに、また次の銃声が響く時、それはまた新しい命が消える瞬間だった。 終戦のボスニアに開戦を告げ、死を振りまく五人の天使は、斯くて戦場にまた舞った。
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