一九九五年十月九日夜半 トレべヴィチ・天文台跡

「ちっ……繋がらない」


 伍長はそう呟き無線を置く。

 轟音を聞いて分とせずに掛けた通信は、踏み潰される様なノイズにかき消され寸時に途絶える。

 

 ポイントスリー。ボスニア軍の小隊を配した、位置にして最もスルプスカに近い北東の丘陵地――、かつて五輪の折、ボブスレーのコースとして使われていた祝祭の残骸。


 今や各所から響く銃声は、何らかの勢力による敵性行動があった事を如実に語るが、しかしそれにしては早い制圧の速度を、内心で伍長は訝しんでいた。果たして今のスルプスカに、そんな兵力が残されているだろうか、と。




「エリィ。火力を一階に集中する」

「サー」

 

 一転した真顔で敬礼だけを返すエリックが、直ぐに陣地の移動にとりかかる。彼をちらと横に見やり、険しい表情で顎を弄る伍長の脳裏には、既にトレべヴィチからの撤退が描かれていた。これは恐らくスルプスカの侵攻では無い。特殊部隊クラス――、連邦ユーゴか、或いはそれを装ったロシアの連中か。

 

 スルプスカの後盾となっているユーゴスラヴィア連邦、その舵を握るセルビア共和国には、実質脅威足り得る対外特殊部隊は存在しない。一連の紛争において悪名を轟かせたのはマフィアの私兵で、ただの民兵にこれだけの手際があるとは思えなかった。


「こちらポイントゼロ、ポイントワン――」


 階段を下りながら通信を試みる伍長だったが、前方のボスニア軍司令部も沈黙したままだった。いよいよ事態は切迫しているらしい。ポイントワンから天文台への距離は一キロと無い。


 最早アルルカン――、つまりは連邦ユーゴの私兵の線は消えた。自分たちと同じか、或いはそれ以上の制圧力を持った特殊部隊――、しかしだとしたら、事は紛争どころでは済まない。


「マグナス、ピーター。状況を確認後、十分以内にここを撤退する。ポイントワンが落ちた」


 伍長はそれ以上は手で合図をし、最早語る事をしなかった。マグナスとピーターは無言のまま敬礼し、速やかに行動に移る。


 マグナスはC4の起爆準備に、ピーターは裏口の確保とカバーズへの通達に。伍長も自らの銃座を窓際に据えると、それが終わる頃にはエリックも一階に降りてきていた。




 ――ザザザ。

 不意に伍長の無線が鳴り、先刻指示を伝えたばかりの将校の声が、悲鳴混じりに部屋に響く。


「こちらポイントワン……ポイントゼロ……味方から……攻撃を受けている……あいつら……死体の……」


 途切れ途切れの声が切迫を訴え、しかし最後まで言葉は続く事なく通信は事切れた・・・・


 ――謀反……か。

 かくて伍長は封じていたもう一つの可能性を辿る。前衛のボスニア軍にスルプスカの間者が入り込んで、そいつらが外部からの襲撃を装って一斉に攻撃を仕掛けてきた、と。


 そう考えればこの電光石火にも合点は行くが、だが長い紛争を耐え忍んだ古参で組んだ三部隊に、今更の裏切りがいるとは信じ難かった。


「伍長……あれは!!」


 一寸の思考に閉じた意識を、銃を構えるエリックの声が現実に引き戻す。

 スコープを覗き込むエリックが正面に指し示したのは、だらし無く空を向き、白目を剥いたままじりじりと天文台へ迫ってくる、ポイントワン――、ボスニア兵士の一列だった。




「――どういう、ことだ?」


 攻勢と呼ぶにはその足取りは余りに鈍く、銃を構える素振りすら無い。言ってしまえば、例えば映画やゲームの動く死骸。リビングデッドやゾンビの類が、傍目には近かった。


「カバーズワンからスリー、ポイントゼロへ向け移動を開始」


 背後からピーターが叫ぶ。増援の到着までは十分。一方で眼前の群れは数分で天文台を囲むだろう。退路の不利を考えれば、ポイントワンの処理だけは自分たちで済ます必要があった。


「エリィ。100メートル地点で呼びかけろ。マグナス。それで駄目ならロメオとシエラを爆破。殲滅し撤退する」


 両脇の二人が頷く中「状況はコードZズールー」と告げた伍長は、現況を連隊本部に伝え、自身も銃座からスコープの先を見据える。ファナティックコードZズールーは、友軍の造反を意味する略号だ。


「――あいつらの目的、なんですかね?」


 迎撃体制が整い、ポイントワンの横列が迫る中エリックが問う。


「さあな。その為に一度だけ機会を作る。それで無理ならもう撃つしかない」


 スコープ越しに見える兵士の中には、当然見知った顔がいくつもある。だが生気を失った連中のそれは、伍長の記憶で笑い語るボスニア軍の彼らとは似ても似つかない。


 やがてポイントワンがC4の設置地点に近づき、頃合いを見たエリックは銃座を立つとセルビア語で兵士たちに呼びかけた。ボスニア・セルビア・クロアチアの言葉は原型は一つで、その差異は方言程度でしかなかったからだ。




 ――沈黙。

 だがエリックの呼び声に立ち止まった横列は、誰一人何の言葉を発するでも無く、死人の様に反応を示さない。一枚の枯葉が風に舞い、天文台と彼らとの間に踊る。そして踊り終えた枯葉が地面に足を付けた時。事態は動いた。


 それまで沈黙を保っていた兵士達が、一斉に銃を掲げ発砲を始めたのだ。顔は明後日を向いたまま、ただ銃口だけを前に。およそ射撃の為とは思えない姿勢で。


 壁に隠れ手合図を出す伍長に、マグナスが頷いて起爆装置を押す。瞬時銃声は爆音に消え、死体の様だった兵士達は、名実ともに死体――、もとい肉片へと変わっていた。




「一体なんだっていうんだ?」


 立ち上がった伍長は暫し呆然と戦場を見渡した。あんなものが戦う兵士の姿である訳が無い。彼らの持つ銃の有効射程はせいぜいが100メートル。それも夜間、この星の明かりすら無い闇の中で、無闇に、奇襲の体すら無く撃ち放して誰に当たると言うのか。催眠か、それともドラッグか。伍長の中で、敵の姿と目的がどんどんと不明瞭になっていく。


「――総員、撤退を開始する」


 いずれにしても、状況が分からないままここに居座る理由も無い。遠くでは未だ銃声も続いている。一刻も早く本隊と合流し、今後の対策を講ずる事が急務だろう。伍長はそう考えた。


「――?」


 しかし気のせいだろうか。ピーターの返事が無い。やがてエリックとマグナスも異常に気がついた様だった。三人の視線が同じタイミングで裏口へ向かう。そしてその刹那、彼らは見てしまった。敬礼したままの姿勢で硬直したピーターの身体が、糸に括られたボンレスハムの様に寸断され 床に落ちる瞬間を。




「――!!!」


 いつの間に背後に回られたのか。敵襲を信じた三人は、布陣を守りロビーまで後退する――が、彼らを待ち室内に雪崩れ込んだのは、あの死人の様なボスニア兵士の群れだった。 


 ――馬鹿な。

 確かにたった今肉片に変えたばかりの死人達の、第二陣がそこには居た。さっきまでの鈍重な動きでは無く、まるで釣り糸にかかった魚の様に勢い良く目張りを割って。


 呻き声を上げ立つ兵士達に目掛け、三人は斉射を以て応じる。

 退路は絶たれ、そして前門も塞がれた。現時点で彼らが取りうる残された選択肢は、天文台に籠城し増援の到着を待つ事だけだった。伍長は二人に合図を出し、二階への転進を告げる。頷いたエリックを先頭に、マグナスが階段へ駆け出す。


 ――と、エリックが転ぶ。上階への途中で躓いたかの様に倒れたエリックは、立ち上がろうと足下を見て気づいた。脚が無い。――脚は階下に転がっていた。


 殿しんがりを務める伍長を援護する為、振り返って榴弾を構えたマグナスは、その転がっていくエリックの脚を、それとは知らず目で追っていた。そして次にマグナスも気づいた。投擲する筈だった榴弾を構えた、自身の腕が消えた事に。――腕は足下に落ちていた。




 階段の中ほどで爆音が響きマグナスが肉片に変わり、巻き込まれたエリックも落命したらしい。二人を追いかけた伍長は、突然の事態に唖然としながらも、直ぐに踵を返し死人の群れと対峙する。皮肉にも眼前の相手は、さっき通信を交わしたばかりのポイントワンの指揮官だった。


 最早言葉の通じる相手では無い。心臓、頭、ダブルタップで急所を狙うが、本来ならば即死級の近距離射撃を受けて尚、銃弾は彼らの進撃を阻めない。人を殺す術なら学んだ。そして事実行使もしてきた。だが死者の、命を持たぬ者の相手など経験のある訳が無い。応戦しながらも徐々に壁際へ追いつめられていく伍長は、遂にやっとの恐怖に駆られた。




 ――ストン。

 後退の最中、突然に伍長の視界が落ちる。

 背後で頭を失った身体だけが、トリガーを引きながら後ずさって行くのが彼には分かった。


 一体何が起きたというのだ。レーザーか、幻覚か、それとも連邦の新兵器か。訓練でも実戦でも相まみえた事の無い数多の事象に、思考だけが空回って首一つになった伍長は、ぼんやりと目の前を歩く死人達を眺めている。

 眺めていると、やはり幻覚なのかも知れない。その群れをかき分けて、おずおずと一人の少女が姿を現した。




 薄紫フレンチ・モーヴの、前髪の片方だけを伸ばしたショートカットで右目を隠し、さらにその上にフードを被った三白眼の少女。 彼女は伍長の目の前までそそくさとやってくると、唐突に屈んだ。――まるで自らが解体した蛙の反応を間近で見て楽しむ様に、興味深げにまじまじと。


 だが伍長の瞼はぴくぴくと痙攣を繰り返すだけで、言葉も喋れなければ身動きも取れない。少女の表情が興味から退屈へと変わるまで時間はそう要さなかった。


「あ……あぁ……もう終わりだ……残念、バイバイ」


そして立ち上がって去っていく少女の背に、煌めくいくつもの糸の様な何かが一瞬、伍長の目には映った様な気がした。

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