一九九五年十月九日夜半 サラエヴォ五輪・旧競技場周辺
――轟音。
俄に聞き慣れた雷鳴が響き渡った時、それまでポーカーに興じていた兵士たちは一斉に身を震わせ立ち上がり、慄く様に辺りを見回した。砲撃にしては小さく、なれど地雷にしては大きい叫声。しかし委細は何れにせよ、ここからそう遠く無い距離で起きた爆発である事だけは、全員が経験と肌で推し量っていた。
「軍曹?!」
やがて数秒の間を置いて、部下が軍曹に指示を仰ぐ。それは寧ろ安心させてくれとでも言いたげな切迫した眼差し。ここで彼らの心境を代弁するのなら、なぜ終戦のボスニアで、また戦場の金切り声を聞かなければならないのかという、予定調和の盤面を覆された現状への、言いようの無い不安と恐怖だろう。
「総員、第一種戦闘配置! A班はゴランと合流。B班は待機。ポイントワンへの確認を急げ!」
先刻まで気だるそうにしていた軍曹は、事ここに至っては指揮官としての表情を取り繕う。とまれ、起きてしまった事は仕方が無い。さっさと最速でケリをつけ、本当の終わりにまで持っていこう。――そう覚悟を決め、自らの眠りこけた脳に活を入れる。
「俺も出る。安全装置は外しておけ。何があるか分からん」
無論のこと軍曹は、ゴランとの合流を第一目標、すなわち偵察こそが主任務であるとの付言を忘れない。なにせ紛争はもう終わったのだ。勘違いだろうが何だろうが、こちらから停戦をぶち破る様な真似だけはしたくない。さしあたって真剣な面持ちで頷く部下たちも、その辺りの事情だけは斟酌してくれているのだと、軍曹は安堵の溜息を漏らす。
「いいか。我ら共に明日へ向かわん、だ。――先走って死ぬなよ。これ以上は、本当に誰も死なないでくれ」
軍曹は自らに言い聞かせる様にそう告げ、部下たちを率い階下へ向かう。――まだ銃声は響いていないのだ。であるからには、どうか単なる事故であって欲しいと、既に決別した神への信仰を、今一度掘り起こし、かくて切実に祈りながら。
* *
――ああ、まったくボクは生きている。
軍曹らが階段を駆け下りる頃、降りしきる血の雨の中、ブランチェット・ロートカッペンは両手を広げ佇んでいた。
眼下にはたった今切り裂いた兵士の首が、こちらを眺めたまま転がっている。一体彼が最期に見た景色は何だったろうなと、一瞬だけ思いを巡らせたブランチェットは、次にはもうどうでも良いやといった風にステップを踏むと、じっとりと濡れ重くなった自身のベレーに手を当てた。
降下から僅か一分。矢の如き縮地で目的地に辿り着いたブランチェットは、真っ先に敵の斥候を物言わぬ肉塊に変え、後からやってくるヒンメルを待ちわびていた。先刻まで虚ろだった思考は瞭然とし、全身が満ち溢れんばかりの歓喜に打ち震えている。流れ落ちる血の赤に染まる頬はようやっと体温を取り戻し、四肢の隅々に行き渡る熱い滾りが、永い冬の終焉を告げるかの様に意識に覚醒を齎す。
――これだ。これこそが、ボクの生きている、証。
家畜の様に扱われ、生きる実感からは遠くかけ離れた灰色の日々。その暗澹の全てを拭い去り、本能の赴くがまま摂理を示せる戦場は、ブランチェットにとっては己が在るべく唯一の許された場所だった。なにせここでは狩って良いのだ。――自分より弱い者を、自分に刃を向ける者を、誰はばかる事なく、一切合切。
「1ダース、2ダース。足りないかな、かな」
指折り数え呟くブランチェットは、喜色満面、ケープ下のホルスターから銃を抜く。――ドラキュラ98。スチェッキンAPSを改良したこの銃の、マズル下に伸びる一見したフォアグリップは予備のマガジンで、傍目には仰々しい鉤爪の様にも見える。ゆえに携行可能弾数は一丁につきパラベラムを四十。とどのつまりこれを二丁携えるブランチェットは、両手で以て八十の弾丸を打ち込める態勢にある。
――ロートカッペン。赤ずきんと名付けられた自らの名と、与えられた
「――おまたせ、チェチェ。私が前面を叩きます。チェチェは背後から」
そのヒンメルの声にうんと返すブランチェットは、返事をする頃には既に駆け出していた。やれやれと
* *
――本当に、チェチェってばしょうがないなあ。
内心で独りごちながら、ヒンメル・ム・シュナイダーラインは前方から降りてくる敵集団に向かい、歩を進めていた。身体能力と速度ではブランチェットに劣るヒンメルだが、そのぶん索敵には一日の長があった。
眼鏡に内蔵されたサーモセンサーを起動し、眼前を移動する敵勢力を確認する。数にして二十八。気配から推し量るブランチェットとは異なり、総数を正確に割り出したヒンメルはこれで安心と一息をつく。なにせ戦場にあっては情報こそが枢要。当たらなければどうという事は無い銃弾も、弾雨の如く集中砲火を浴びればひとたまりもない、いかに改造を受けたとて所詮は人の身。彼我の力量差が明白であるとは言え、これで石橋は叩き終えたと頷くヒンメルは、ほくそ笑んで橋を渡っていく。
指揮官らしき人物に率いられ、階下に集結する正面の敵勢力は、どうやらこちらが本隊らしい。身振り、手振りから察するに、事態の切迫には遠く思いが及んでいない。せいぜいブランチェットが仕留めた斥候の、捜索程度で考えているのだろう。まったく甘く、愚鈍で、救いようがない日和見だなとヒンメルは嘲笑う。
最も状況が分からない戦場で、なおかつ自分たちが有利であると信じ切っている兵士たちの心境などこんなものかと同情もする。なにせ人間は、水底の絶望に身を委ねている時ですら、常に自らが欲する未来を選択し行動に移るものだ。生きとし生ける者の
好き好んで殺したい、という訳では無い。しかし任務は任務である以上、せめて一撃で苦痛無く屠る事こそが、屠殺の、或いは狩りの礼儀であろうとヒンメルは頷き、次の瞬間には獲物が
* *
「止まれ!!!」
ゴランを求めドアを開けた軍曹は、代わりに眼前の少女に銃口を向けた。――身の丈は自分の胸にも及ばない、正真正銘、文字通りの幼い少女。だが銃を前に微動だにしないその姿は、却って歴戦の勇士たちを戸惑わせていた。
――やれ。
やむを得ず顎で示す軍曹に従い、兵士の一人が少女に近づく。
だが問題は、この年端も行かない少女が、なぜ戦場に佇んでいるのかという事実だ。――それも銃声こそ無いにせよ、地雷原の只中にある、曲りなりにも戦闘の最前線で。……果たして虐殺を逃れてきた哀れなる同胞か、テロ目的で潜入したスルツキの一派か。その判別が付かない以上、軍曹は軍人として職務を果たさずには居られなかった。
「何処から来た? 質問に答えろ!」
確かに
そんな悔恨とも自己正当化ともつかない心境の中、軍曹は銃口を向けたまま、黒服の少女に視線を集中する。願わくば、いや嘘でも良い、同胞であると告げて欲しい。そうでなければ、部下たちの心奥に滾る復讐のマグマが、獣の如き情欲で以て暴発しかねない。かつての自分がそうであった様に、これからそうなるかもしれない若き部下たちを、命を張ってまで静止しようとする不退の覚悟は、今の軍曹には無かった。全てはやむを得ない選択で、必然たる贄で、どうしようも無いほどに自明な摂理なのだと。自らに言い聞かせる軍曹の眼の前で、少女は静かに口を開いた。
「――凪げ、カリスト」
待ちわびた言葉に耳を傾け、而して軍曹が聞いたのは、直後のその一言だけだった。一瞬だけ空を切った少女の腕先から、何か白い煌めきが灯ったと思った瞬間には、ずるりと落ちる自身の視界を、まるで他人事かの様に軍曹は見ていた。
べちゃりと音がして一回転した世界が、逆さに少女の姿を映す。一体何が起こったのか分からないままの軍曹の背後で、今度はズザザと、建物の崩れ去る様な音が聞こえる。
いや、それが音だったのか、声だったのか。徐々に失われ行く体熱の中で、朧げになる意識の中、軍曹は口を開く。
「あ……あ……」
娘の名を呼んだつもりだったそれは、声にもならず闇に消える。だけれど声には気づいてくれたのか、その逆さのまま歩み寄ってきた少女が、屈んで耳元で囁いた。
「おやすみなさい。……どうか次は、いと高き
そうか天国か。無辜のまま発った娘は、今そこに居るだろうか。酷い事を仕出かした俺は、きっと地獄に落ちるだろうか。――許してくれ。許してくれないか。誰か、誰でも良い、皆を、俺を。この大地を、ボスニアを、バルカンを……ユーゴスラヴィアを。
心の中で幾度も叫んだ軍曹――、ブランコ・イヴノビッチの命の灯火は、その幻視の中で静かに途絶えた。
* *
「こっちは、片付きましたね」
ゆっくりと立ち上がったヒンメルは、七人の十四に分かたれた肉片を眼下に、独りごちる。先刻まで人だったそれらは、全てが心臓を起点に真っ二つに分かたれて、例外なく息絶えていた。
「――戻れ、カリスト」
振った右手の先、靭やかな蛇腹状の円線が、血を飛ばしながら少女の腕に戻っていく。――カリスト。ダイヤモンドより固いウルツァイトの鋼を振動させ、一六〇ミリ戦車装甲すら叩き斬る中近距離戦特化兵装。これはヒンメルの意志一つで伸縮し、対象を秒とせず寸断するグラインド・カッターだった。
事実射程圏内にあった競技場跡もすっぱりと断ち切られ、ずり落ちた二階が歪に一階を押しつぶしている。この崩落で断たれたさらに四名の命を確認し、ヒンメルは胸で十字を切ると静かに祈った。
――ヒンメル・ム・シュナイダーライン。
KHMのNo.20。すなわち「
戦力の大半を失い、唐突に崩れ落ちた司令部に右往左往する敵残存兵力。そもそもが民兵とさして変わらないボスニア軍がパニックに陥るとすれば、それはもはや格好の的、戦力とは呼び難い烏合の衆でしかない。後は突入した
* *
板張りが蹴破られ、黒い塊が室内に転がり込む。――いや、その以前に地面が揺れて、傾いた。屋外で叫ぶ軍曹の声が聞こえたと思った直後、次には轟音と共に足元が崩れ落ちた。
「こちらポイントツー、ポイントワン応答せよ……うわあッ!?」
通信のつの字も果たせぬまま、通信兵がよろめき、周囲も叫声をあげる。卓上のトランプは宙を舞い、ある者は尻もちをつき、またある者は机の角に頭をぶつける。
一体なにが起きたというのか。ここで一兵卒に過ぎない男は、動転する意識を一層にフル回転させ、事態の委細を推し量る。――砲撃? だがそもそも、爆発音はさっきしたきり、銃声すら響いていない。火薬も無く敵陣地を屠る技術など、三年に及ぶ紛争の最中で、聞いた事も相対した事もない。とまれ戦場でビルが崩れ人が吹き飛ぶとすれば、それはいつだって火薬の炸裂こそが成し得る、忌々しいクソ人知の所業なのだ。
だが辛うじて銃を杖に態勢を立て直し、外の状況を確認すべく身を捻った男の目に飛び込んできたのは、割れたガラスの代わりに充てがわれた板を、蹴破って転がり込む少女の姿だった。
――空を覆う赤い月より、さらに赤い燃える様な灼眼。それとは対照的な
斑点の付いた黒のケープ。それに水の滴ったベレー。――いや、血なのか、アレは。白い柔肌を彩るかの様に赤い流線が紋様を描いている。――そして笑っている。嬉々として。今宵ポーカーで勝った誰よりも喜色満面と。狂った様に。――いや、狂っている? 誰が? 俺たち以上に狂った奴らがいるものか。アレは少女だ。たかが少女だ。隣人を犯し殺し、殺され犯されを繰り返した俺たちより狂った何かがあるっていうのか。或いはそれによって狂ったのか? だとするならばこれは罰か。狂気を生み出した俺たちへの。――だが望んじゃいなかった。誰も、誰一人として、こうなる事なんて、望んじゃ、いなかった。
眼前でゆっくりと二丁の銃を構える少女に、数人が応戦の構えを見せる。まったくよくやったものだ。銃への恐れが、パブロフの犬よろしく脊椎反射の様に銃を構えさせる、そんな狂った日常に災いあれ。――だがそういう自分とて、杖にしていた銃を、ツァスタバを、明らかに自身の娘とさして変わらない齢であろう少女に向けようとしている。
――生きなければ。ここまで生き延びて、生きて生きて生き抜いたのだ。たとえ両手が血で汚れようとも、それでもなお抱かねばならぬ家族が居る。自分にも、軍曹にも、或いはここに居る殆どの連中にも……血走らせた双眼で少女を凝視する男の前で、だけれど少女は、その憎悪と恐怖を受けてさえ一層に笑みを湛えた。
マズルフラッシュが光り、少女の持つ二丁拳銃がけたたましく火を噴く。もう二度と聞きたく無かった金切りが室内に響き、白黒と暗転する視界で、バタバタと同胞が倒れていく。そして多分、最後に残ったであろう自分の、明らかに自身に向けられた銃口の前で、男は――、男も……どうしようもなくなってやっと笑った。それは歓喜に満ちた少女とは真反対に、恐らくは恐怖に溢れていた。
――パン。
たった一発の銃声が響くと同時に、辺りには静寂が戻った。
* *
沈黙の戻った戦場に、ブランチェットは佇んで空を見上げていた。
板張りの割れた隙間から見える赤い月。――ブランチェットは全てが終わった後に訪れる、この静寂が嫌いだった。
犯され捨て置かれ、その日の役割がもうお終いだと告げられた時の沈黙。目の前のデザートを食べてしまった後の漠たる虚しさ。或いは、たった一人でいつまでも生きている、自身への嫌悪。――憂鬱な日常の始まりを告げる、祭りの後の寂寥にも似た瞬間を、ブランチェットは微動だにせず噛みしめていた。
「――お疲れ様」
ふと響く声に、ブランチェットははっとして目を向ける。月下に煌めく眼鏡、そしてはためくケープが視界に映る。
「……ヒンメル」
見れば既に一階となったかつての二階に足を掛け、ヒンメルが微笑んでいる。その穏やかな表情は、とても彼女が稀代の殺戮者だなどとは、何人にも思いつかせないだろう。そばかすを頬に浮かべる優しげな少女は、既にダース単位の人命を、僅か数分のうちに奪っていた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない!」
途端に破顔するブランチェットは、さも何でもないといった風に元気を装う。こちらも快活そのものといった年相応の笑顔。なれど両手に構えられた
「無理しちゃダメですよ、チェチェ」
眼鏡をくいとさせ窘めるヒンメルに「数を数えてただけだもんね! ヒンメルよりボクのが絶対狩ってるから!」と、ブランチェットはムキになって胸を張った。一瞬で描き出された戦場の惨禍と、和気藹々たる両者の掛け合いとの間には、余りに隔絶たる温度差が横たわっていた。
「ほら! ほら! ヒンメルは七人だけ! ボクは十七人は殺ったよ!」
ブランチェットは眼下に転がる、十四に分かたれた遺骸を見て勝ち誇る。七殺の名に恥じぬ、芸術にも似た仕立て屋の仕事は、雑多な蜂の巣を生み出す部ラチェットのそれとは、対象的にも見えた。
「ふふ……建物の崩落で何人か死にましたから、ほぼイーブンですかね」
而してヒンメルもヒンメルで、おっとりと笑みを浮かべ、自身の撃墜数を加算してみせる。こと戦況の把握においてだけ言うなれば、サーモセンサーを持つヒンメルに軍配が上がるのは間違い無い。
「えっ! それ卑怯じゃない? ねえねえ卑怯だよヒンメル!」
ぷんすかと頬を膨らませるブランチェットに「はいはい。それでもチェチェの勝ちです。じゃ、行きますよ」と、さも興味なさげにヒンメルは続け、獣道のほうに歩き出した。このやり取りもいつも通りだ。いかにも子供っぽいブランチェットをあやす、姉のようなヒンメル。――そしてその背後に横たわる、地獄のような光景。
「待ってよー! 次どこ行くの? ネルのとこ? エネレンのとこ?」
慌てて追いかけるブランチェットに応じる様に、一度足を止めたヒンメルは、
「天文台へ。ネルは既に接敵。チェネレントラとカイーナも、そろそろ攻撃を始めるでしょう」
「いいなあヒンメルは。ボクもその眼鏡ほしいー」
「ダメです。そもそもこれを使うには身体だって弄らなきゃなんですから。痛いの嫌でしょう? チェチェ」
「うん。痛いのやだ……」
不意にしゅんとしたブランチェットのベレーをぼふと叩き「行きましょう」とヒンメルは走り出す。
「うん!」
やがて二人の姿は分とせず闇に消え、後には崩れ去った平和の祭典の跡地が、赤い赤い月の下に残骸を晒していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます