一九九五年十月九日夜半 サラエヴォ上空・航空機貨物室
――早く戦闘が始まらないものだろうか。
ゴランが絶命する数分前。航行するアントノフの貨物室で、ブランチェット・ロートカッペンは爪先を噛んでいた。小柄な彼女が纏うのは黒いベレーと黒のケープ。そのケープの下には
年の頃は十代の頭か――、幾分か天然めいたボブカットの
「――大丈夫? チェチェ」
すると向かい側の席に座る
彼女の名はヒンメル。――ヒンメル・ム・シュナイダーライン。眼鏡の奥で謐を湛える、髪よりも深い濃茶の瞳が、ブランチェットを見守っている。前髪を額で分けた彼女の服装は、眼前の少女と殆どが同じだったが、ただ
「ボクは――、大丈夫だよ。全然、大丈夫」
そしてチェチェと呼ばれた少女――、ブランチェット・ロートカッペンは、身体を震わせながらそうとだけ答える。大丈夫。単に薬が切れただけだ。打てば戻る。また直ぐに気持ちよくなる。少女はそう内心で独り言ちながら、引きつった笑顔をヒンメルに向けた。淡色の髪の様に青ざめた少女の顔は、ただでさえ白いであろう彼女の肌を、一層に弱々しく、病的に見せていた。
貨物室に座る少女は四人。
向かい合う長椅子の、両端に二人ずつ。尾翼から向かって右側にブランチェット。その真向かいにヒンメル。
ブランチェットの隣には
やがて幾許かの沈黙を経て奥のドアが開き、もう一人の少女が室内に足を踏み入れる。――
少女の名をチェネレントラ・パッヘルベル。紺碧の双眼を薄暗い鉄檻の中で煌めかせ、座る四人を睥睨し彼女は告げた「――『
その声に反応したのか、
長椅子の中間、四人を見渡す位置にまで歩んだチェネレントラは、白いケープをはためかせると、これから為すべき事の要点だけを事務的に語る。
「今回の
ネルと呼ばれた
「うん……だいじょぶ。地雷原を……
ぼそぼそと呟いた彼女の名は、ベルシネット・ド・ラ・フォルス。ベレーの代わりに黒いフードを深く被り、履いているのはボーダーのニーソックス。開いた目の下にはクマが目立ち、上目遣いの三白眼はチェネレントラに視線を移す。
「OK。ネルは以後ソロで、チェチェとヒンメルがバディ。――カイーナ。貴女は
チェネレントラは飽くまでも確認と言った風に簡単な役割を伝えると、ブランチェットの隣に座る、眼帯の少女に目配せした。
この無言のまま頷く、カイーナと呼ばれた少女がロサ・カニーナ・ドルンレースへ。輝く隻眼はやはり髪と同じ深い赤で、その背には
「――後はお好きに、ご自由に」
そう締めたチェネレントラは、四人に向け自己注射器を投げ渡す。先刻から震えていたブランチェットは、この時を待ちわびたとばかりに空中から奪いとった針先を、勢い良く自らの首筋に押し当てた。残りの四人もそれを追う。
――この感覚だ。
分とせずに深奥から湧き上がる
周囲を見渡すと他の少女達も身悶えながら嬌声を上げていて、沈黙の鉄檻は今や叫喚の交差する狂宴と化していた。
あの穏やかだったヒンメルも、以前の顔が思い出せないぐらいに白目を剥き、濡れた股下は恐らくは失禁だろう、両腕で身体を抱きしめ、狂おしい呻き声を上げている。そこに隣席のネルが加わって、慰める様に這わされた五指が、さらにヒンメルを次の絶頂へ導いていく。
寡黙だったカイーナもそう。マントの中に手を突っ込んでくちゅくちゅと何かを掻き回し、下品な雌の
ただ一人チェレントラだけが悠然と、しかし感極まった歓喜の笑みを満面に浮かべ、このヴァルプルギスの夜を見下ろしている。
「第三コミンテルン旗下、
やがてチェネレントラの号令に合わせる様に尾翼扉はゆっくりと開き、肌を刺す強い風が機内に舞い込む。少女達の髪と肢体は寸時風圧に揺れ、後には淫気を払われ、容赦のない殺意の情動だけを取り戻した歓びの
先陣を切ったのはブランチェット。しとどに濡れた股間の、その体液を拭い去る様に俄に駆け、赤い月を背に黒点を描きながら宙空に舞う。次いでヒンメル、ネル、カイーナと月下に発ち、それを見届けたチェネレントラも、紺碧の瞳を大きく見開いて
* *
――地上から吹き上げる風が、身体中に纏わり付いた雌の淫臭を拭き上げる。
高度五千メートル。雲海の直上から時速二百キロの速度で落下する少女たちの衣服は、パタパタと風にはためき内奥を曝け出す。しかし彼女たちの表情は、皆一様に殺意だけに満ち清々しい。
降下から一分。先ずはカイーナが自身の背嚢から六本の鞭状の
カイーナとチェネレントラが準備を整える頃、次にはヒンメルが地表に向かい右手を振り下ろす。彼女の右腕部を覆う外套の下から蛇腹状の刃が伸び、その反動で一瞬だけ空に浮いたヒンメルの先、眼前の草原の表面を抉り、刃は空と地を繋ぐ円弧を描く。――カリスト。その彼女の兵装の上を渡り、ブランチェット・ロートカッペンは地表への
他の四人がボスニアの地に降り立つ頃、最後に残されたネルは両腕を靭やかに掲げ、五指の先から十本の
チェネレントラとカイーナが外周の、チェチェとヒンメルが街側のボスニア軍を狙う中、ベルシネット・ド・ラ・フォルスは中央の地雷原に自らの糸を叩きつける。二週間前、スルプスカ軍が撤退したばかりのこのトレべヴィチには、彼らの埋めた無数の地雷が、未だ撤去される事無く残されている。斬糸によって切り裂かれた踏む者のない爆薬達は、寸時に火花を上げ一斉に起爆した。轟音を上げ鉄球をばら撒き、今正に何者かが攻め入った事を前線の兵士達に
「……シュ、シュターフェゲリヒト。開始」
ベルシネット・ド・ラ・フォルスはフードを今一度深く被り直すと、独り作戦の発動を呟いた。――それが停戦の終焉の、忌まわしき合図だった。
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