一九九五年十月九日夜半 サラエヴォ上空・航空機貨物室

 ――早く戦闘が始まらないものだろうか。

 ゴランが絶命する数分前。航行するアントノフの貨物室で、ブランチェット・ロートカッペンは爪先を噛んでいた。小柄な彼女が纏うのは黒いベレーと黒のケープ。そのケープの下には臙脂えんじ色の軍服――、いやミリタリードレスと言った方が近いだろうか。ひらひらとしたスカートの下には、やはり黒のニーソックスを履いている。


 年の頃は十代の頭か――、幾分か天然めいたボブカットの淡い青ドラジェブルーは、前髪がアシンメトリーに分たれていて、右側の片方がリング状のヘアピンで留めてある。臙脂の軍靴を踏んで膝を揺らし、虚ろな灼眼は落ち着きなく焦点が合わない。ケープの結び目に伸びる一本の青いネクタイが、ゆらゆらと振り子の様に少女の胸元を行き来している。




「――大丈夫? チェチェ」


 すると向かい側の席に座る薄茶ローアンバーの、セミロングのヘアスタイルの少女が、微笑みながら語りかける。歳の差はさして無いのだろうが、物腰の柔らかさと穏やかな口調の所為か、ブランチェットよりも幾らか大人びて見える。


 彼女の名はヒンメル。――ヒンメル・ム・シュナイダーライン。眼鏡の奥で謐を湛える、髪よりも深い濃茶の瞳が、ブランチェットを見守っている。前髪を額で分けた彼女の服装は、眼前の少女と殆どが同じだったが、ただ右腕うわんを覆う様に伸びた、半マント状のケープだけが異なっていた。


「ボクは――、大丈夫だよ。全然、大丈夫」


 そしてチェチェと呼ばれた少女――、ブランチェット・ロートカッペンは、身体を震わせながらそうとだけ答える。大丈夫。単に薬が切れただけだ。打てば戻る。また直ぐに気持ちよくなる。少女はそう内心で独り言ちながら、引きつった笑顔をヒンメルに向けた。淡色の髪の様に青ざめた少女の顔は、ただでさえ白いであろう彼女の肌を、一層に弱々しく、病的に見せていた。




 貨物室に座る少女は四人。

 向かい合う長椅子の、両端に二人ずつ。尾翼から向かって右側にブランチェット。その真向かいにヒンメル。


 ブランチェットの隣には薔薇赤ローズマダーのボブカットを尖らせた、左目に眼帯を掛けた少女が。ヒンメルの隣には薄紫フレンチモーヴのショートカットの、その前髪で右目を隠した少女が。前者は武人然と腕を組み、後者は退屈げに丸まった体育座りで、それぞれが目を瞑り、無言のままに座していた。




 やがて幾許かの沈黙を経て奥のドアが開き、もう一人の少女が室内に足を踏み入れる。――雪渓フィルン。つまりは薄いターコイズの長髪を靡かせた彼女は、一人だけが白いケープを身に纏い、他の少女達とは明らかに装いを異にしていた。


 少女の名をチェネレントラ・パッヘルベル。紺碧の双眼を薄暗い鉄檻の中で煌めかせ、座る四人を睥睨し彼女は告げた「――『裁断の日シュターフェゲリヒト』準備は良い?」と。


 その声に反応したのか、薔薇赤ローズマダーのボブカットの、眼帯の少女が薄目を開ける――と同時に、彼女の眼帯に埋め込まれている球形の複眼が、俄にぐるぐると動き出す。


 長椅子の中間、四人を見渡す位置にまで歩んだチェネレントラは、白いケープをはためかせると、これから為すべき事の要点だけを事務的に語る。


「今回のわたくし達の任務は、サラエヴォに駐屯するボスニア軍と、その背後に展開するSASの殲滅です。先ずは開戦の合図を――、ネル」




 ネルと呼ばれた薄紫フレンチモーヴのショートカットの、その前髪で右目を隠した少女は、ここでやっと顔を上げると、結んだ手を離し、体育座りの姿勢を崩した。


「うん……だいじょぶ。地雷原を……ハールで……花火」


 ぼそぼそと呟いた彼女の名は、ベルシネット・ド・ラ・フォルス。ベレーの代わりに黒いフードを深く被り、履いているのはボーダーのニーソックス。開いた目の下にはクマが目立ち、上目遣いの三白眼はチェネレントラに視線を移す。


「OK。ネルは以後ソロで、チェチェとヒンメルがバディ。――カイーナ。貴女はわたくしと」


 チェネレントラは飽くまでも確認と言った風に簡単な役割を伝えると、ブランチェットの隣に座る、眼帯の少女に目配せした。


 この無言のまま頷く、カイーナと呼ばれた少女がロサ・カニーナ・ドルンレースへ。輝く隻眼はやはり髪と同じ深い赤で、その背には黒鉄くろがねのバックパックを背負っている。長いマントによって覆われた軍服は、座った状態では太ももの、スカートの露出した部分しか見えない。




「――後はお好きに、ご自由に」


 そう締めたチェネレントラは、四人に向け自己注射器を投げ渡す。先刻から震えていたブランチェットは、この時を待ちわびたとばかりに空中から奪いとった針先を、勢い良く自らの首筋に押し当てた。残りの四人もそれを追う。


 ――この感覚だ。

 分とせずに深奥から湧き上がる膂力りょりょくの滾りに、ブランチェットは安堵を覚えた。次いで快楽の波が不断に押し寄せ、不安定な自我を飲み込んでバラバラにする。


 周囲を見渡すと他の少女達も身悶えながら嬌声を上げていて、沈黙の鉄檻は今や叫喚の交差する狂宴と化していた。


 あの穏やかだったヒンメルも、以前の顔が思い出せないぐらいに白目を剥き、濡れた股下は恐らくは失禁だろう、両腕で身体を抱きしめ、狂おしい呻き声を上げている。そこに隣席のネルが加わって、慰める様に這わされた五指が、さらにヒンメルを次の絶頂へ導いていく。


 寡黙だったカイーナもそう。マントの中に手を突っ込んでくちゅくちゅと何かを掻き回し、下品な雌のはしたない疼きをたけりに、惨めったらしく吠え叫んでいる。


 薔薇赤ローズマダーの髪色がそのまま肌に流れた様に頬は紅潮し、絶え間ない塩水が何度も噴水を描き床を濡らす。それを横目にするブランチェットも、股座またぐらに指を突き立て、脳天が吹っ飛ぶ様な真っ白に、身も心もトロトロに委ねながら達し、そして果てた。




 ただ一人チェレントラだけが悠然と、しかし感極まった歓喜の笑みを満面に浮かべ、このヴァルプルギスの夜を見下ろしている。


「第三コミンテルン旗下、童話の騎士バタリオンアンデルセン――これよりオペレーション『裁断の日シュターフェゲリヒト』を執行する」


 やがてチェネレントラの号令に合わせる様に尾翼扉はゆっくりと開き、肌を刺す強い風が機内に舞い込む。少女達の髪と肢体は寸時風圧に揺れ、後には淫気を払われ、容赦のない殺意の情動だけを取り戻した歓びのまなこが、一斉に外の、風の向こうの星の無い空を見据える。


 先陣を切ったのはブランチェット。しとどに濡れた股間の、その体液を拭い去る様に俄に駆け、赤い月を背に黒点を描きながら宙空に舞う。次いでヒンメル、ネル、カイーナと月下に発ち、それを見届けたチェネレントラも、紺碧の瞳を大きく見開いて殿しんがりを走りだした。




*          *




 ――地上から吹き上げる風が、身体中に纏わり付いた雌の淫臭を拭き上げる。

 高度五千メートル。雲海の直上から時速二百キロの速度で落下する少女たちの衣服は、パタパタと風にはためき内奥を曝け出す。しかし彼女たちの表情は、皆一様に殺意だけに満ち清々しい。


 降下から一分。先ずはカイーナが自身の背嚢から六本の鞭状の黒鉄くろがねを宙に放った。ドルンと呼ばれるそれは、見る間に蜘蛛の脚の様に変形し、彼女を内側に抱え六脚の機動兵器を生む。その上に白服のチェネレントラが乗ると、機動兵器の腹下で地を見るカイーナは、背嚢から二丁のショットガンを取り出し両手に構えた。


 カイーナとチェネレントラが準備を整える頃、次にはヒンメルが地表に向かい右手を振り下ろす。彼女の右腕部を覆う外套の下から蛇腹状の刃が伸び、その反動で一瞬だけ空に浮いたヒンメルの先、眼前の草原の表面を抉り、刃は空と地を繋ぐ円弧を描く。――カリスト。その彼女の兵装の上を渡り、ブランチェット・ロートカッペンは地表へのアーチを駆け抜ける。右手にはコンバットナイフ。ブルーのタイから取り出された白刃は、月下に白い残光の尾を引いた。


 他の四人がボスニアの地に降り立つ頃、最後に残されたネルは両腕を靭やかに掲げ、五指の先から十本のハールを繰り出す。目視では到底見えない細く強い人工の蜘蛛糸は、目下の大木に巻き付くとリールの様に本体を手繰り寄せる。くるくると旋回しながらふわりと枝に乗った彼女は、予定通りに進軍する同胞を横目に、自らの職責を果たすべくもう一度腕を振り上げた。


 チェネレントラとカイーナが外周の、チェチェとヒンメルが街側のボスニア軍を狙う中、ベルシネット・ド・ラ・フォルスは中央の地雷原に自らの糸を叩きつける。二週間前、スルプスカ軍が撤退したばかりのこのトレべヴィチには、彼らの埋めた無数の地雷が、未だ撤去される事無く残されている。斬糸によって切り裂かれた踏む者のない爆薬達は、寸時に火花を上げ一斉に起爆した。轟音を上げ鉄球をばら撒き、今正に何者かが攻め入った事を前線の兵士達に教えてあげる・・・・・・




「……シュ、シュターフェゲリヒト。開始」


 ベルシネット・ド・ラ・フォルスはフードを今一度深く被り直すと、独り作戦の発動を呟いた。――それが停戦の終焉の、忌まわしき合図だった。

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