一九九五年十月九日夜半 サラエヴォ五輪・旧競技場周辺

 その日はやけに静かな夜だった。


 鳥も獣も虫も幽鬼も、何もかもが押し黙って来たるべく災厄を看過する――、そんな開戦前夜にも似た不気味な、デジャブの様な静寂。一等兵のゴランは、この同じ空気をつい三年前にも経験していた。




 九二年の春、あの時もそうだった。議会で独立が決議され、しかしそれに反し街を包囲する連邦軍。同胞の平和的解決を訴える、ただ結末の分かりきったデモに放たれる当然の銃弾。

 

 そのたった一発の金切りが戦端を開くまで、まるで蛇に睨まれた蛙が甘んじて死を受け入れるかの様に、全ては確かに沈黙していた。――いやそう見えていたと言うべきなのか。少なくともゴランにとっては沈黙だった。じりじりと忍び寄る音の無い恐怖だった。




 あれから三年。今ではこうして高地の奪還は終わり、連邦の後を継いだスルプスカは北部へと後退した。無論自分たちの力では無い。RUNAを始めとした西側――、つまりはNATOの助力があったればこその辛うじての勝利だ。今日も背後に控えるSASから、臨時の哨戒の指示が回ってきたばかりだった。


 優勢は揺るがない。それは誰しもが理解していた。だから通信が入った時には指揮官ですらが愚痴をこぼし、宥める様にゴランは哨戒の役を買って出たのだ。


 かつてサラエヴォ五輪、ボブスレーの会場として設営されたこの場所は、三年前からスルプスカの、そして二週前からはボスニア軍の基地として使われ、平和の祭典の跡地のあちこちには、戦火の傷跡が生々しく残っていた。


 ゴランは共産圏で初めて行われた記念すべきオリンピックに、父に連れられ目を輝かせながら付いて行った事を覚えている。――それが十一年前の八四年。だったらこれは悪夢か何かか。歓喜の残滓は微塵も無い紛争のサラエヴォを、あの日の自分は果たして信じられたろうか。この三年の死者は首都だけでも優に一万を超し、国全体では実に六万に上る。全てはもうこりごりだった。


 そもそも一体誰が望むだろう。祝祭の折、肩を抱き合い歓呼の声を向けあった隣人たちと、銃を突きつけ合う暗澹たる未来を。もし過去に戻る事が出来るのなら、こんな馬鹿げた事は止めて、何もかもを無かった事にしてやり直したい。それなりの不満があっても良い。時に喧嘩するぐらいで良い。だから、せめて、互いに命を奪い合わない平穏な日々を……それだけを希いたい。

 

 ゴランは、たぶん基地に残った連中と同じ事を考えながら、自分以外には誰も居ない会場の跡地を進んでいく。ああそうだ。ほんの一部の狂人どもだけなのだ。こんなにも熱烈に、同胞の死体を並べてまで国を欲したボスニア人は、と。――いや実際には、そう思い込む事で、紛争の間に仕出かしてしまった罪の数々から、目を背けようとしていただけかもしれないが。


 だがおぞましい罪の意識から目を背けた所で、ゴランはいつもと違うぞわりとした空気にようやっと気づく。中秋のボスニアの夜は本来ならば肌寒い。にも関わらず、じっとりと汗ばむ背中の湿りは何だというのか。身を震わせ思考を止め、ゴランはスルプスカから接収したアサルトライフル――、ツァスタバM70を構える。


 元々が連邦の一部だったボスニアは、その連邦を敵に回したが為に軍備も兵力も十分では無く、こうして包囲の間隙を縫った反撃の最中に、銃器を敵から奪い取る事でしか兵站の増強が叶わなかった。――言ってみればこのツァスタバは、セルビアの企業が製造した、ユーゴスラヴィア版のAKカラシニコフと言った所だ。


 コースの端の壁面には砲弾で空いた大穴があって、ゴランはにじり寄るとハンドガードを握りしめ、暗闇の向こうへ銃を向けた。星の無い空には赤い月だけがさっきから煌々と輝いていて、血の一色で染められた様に鬱蒼とした樹林が、周囲に静謐を湛えていた。確かに不気味ではあるが、不気味である以外に反応は無い。




 ――やはり気のせいだったろうか。

 いや気のせいであって欲しいという願望だ。既に紛争は終わりを告げ、同胞たちもこれからの日々について考えている。無論それはゴランとて同じで、年内には再開するであろう妻子との暮らしを、今か今かと千秋の思いで待ちわびていた。

 

 だがゴランが胸を撫で下ろし、踵を返し基地へと戻ろうとしたその時だった。遠い前方の森の奥で、閃光と共に爆音が響いたのは。


 それはセルビア人スルツキが撒いていった、恐らくは地雷が炸裂した悲鳴。侵攻か。或いは同胞が迷い込んだか、ただの獣か。




 ――ふと背後から何かが迫る気配がする。

 そしてゴランは振り向いた。銃を構える間もなくただ反射的に。


 鈍い痛みとにじみ出る熱。視界が一瞬で回転し、気がついた時には空にいた。

 残光に煌めいた恐らくは刃と、眼下に映る自らの胴。そしてその先に立つ少女の姿。


 それがゴランの見た最後の光景だった。

 どさりと落ち誰かを見上げる、彼の目にもう光は無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る