一九九五年十月九日夜半 サラエヴォ五輪・競技場跡

「何が『我ら共に明日へ向かわん』だ」


 苦々しげに独りごち、男は手持ちのトランプをテーブルに叩きつける。もう共に歩む同胞の大半は死に絶えたというのに、なら棺桶でも引きずって行けと言うのか? それとも亡霊か吸血鬼か? いやいや、そのいずれにしても御免被りたい。ただその本心だけは喉元で飲み込んで、軍曹――、すなわちブランコ・イヴノビッチは口を開く。


「フォーカード。俺の勝ちだな」


 項垂れる部下たちを尻目に「俺は出ないぞ。行くなら負けた連中の中から行け」と、不機嫌を露わにする威圧的な態度で、軍曹は続ける。


 司令部から通達があったのは一分前。ポイントツーの部隊長である軍曹は、さしあたって「パトロールは致しました」と既成事実を作る為に、高尚なる任務の生贄を選ぶ必要に迫られていた。しかし居並ぶ面子の誰一人として喜色満面と頷く者は無く、戦意などというあらほましき理念は、この部隊にあっては既に皆無であると、誰しもが認めざるを得ない状況にあった。




「……ああ、なら僕が行きますよ」


 だがやがて耐え難い沈黙に屈したのか、一等兵のゴランが哨戒を買って出る。――ああ。この空気を読み率先し手を挙げる挺身こそが、今の終戦のボスニアには、そして明日からのサラエヴォには必要なのだと軍曹は内心で言祝ぎ、立ち上がってこの若者の肩を叩いた。


「貴様が行ってくれるなら話は早い。ま、スルツキどもの最後っ屁だけは踏まない様にな」


 それは最早一つのジョーク。どのみちもう戦闘は無い。なにせあれだけ息巻いていた連邦の犬共も、八月の大規模空襲で流石に音を上げたのだ。だから恐れるべきは地雷原。奴らが撒いて逃げて帰った、野糞の如き忌まわしき呪詛。仮にこのまま紛争を終えたとて、この撤去には数十年の歳月を要するだろう。或いは自分の命が尽きるよりさらに長い時間が。――そう考えかけ憂鬱になった軍曹の思考に、ゴランの言葉が割って入った。


「はっ。同志諸氏の貴重なるブリーフィング・タイムを妨害工作サボタージュしないよう、細心の注意を払う所存であります!」


 つまりは自分はそんなヘマはしませんと言う明確な意思表示だ。確かに基地周辺の安全地帯は確保済みで、そのルートに沿って歩く分には平穏無事だった。敬礼し部屋を出るゴランの背中を、軍曹は腕を組んで目で追う。――いかにも厳しい顔つきで、しかし実際には、後から飯でも奢ってやろうかと思案しながら。


「――ブランコ軍曹、ではポーカーの続きを」


 そして一難去ったとばかりに声をかける部下を手で遮り「小便だ」と手短に返した軍曹は、ゴランが出たのと同じ出口を通り、廊下の先の便所へ向かった。




*          *




 十年前に出来たばかりのこの施設は、もし紛争が無かったのなら今でも壮健だったろう。コツコツと響く自身の足音に耳を傾けながら、軍曹は最奥に待つ厠への道を進む。


 何故と言うに、ここは元はサラエヴォ五輪に際し建てられた、ボブスレー会場の跡地だった。――信じられない話ではあるが、ティトー前大統領が健在だった頃は、まだこのボスニアも、ボスニアを含むユーゴスラヴィアも、まあまあ恙無くやり過ごせていたのだ。それが彼の死んだ八十年から雲行きが怪しくなり、遂にベルリンの壁が崩れ去った事で決定的な破局を迎えた。


 ティトーという英雄的な蓋で以て、人々が忘れようと努めてきた民族主義。だがどんなに間借りで相応の暮らしが出来ようとも、人という強欲な生き物は希わずには居られないのだ。――それでも尚、自らだけの家が欲しいと。誰はばかる事の無いスイート・ホームに帰りたいのだと。それは理性ではどうしようも無い感情の産物で、だから遠きエルサレムとて、幾千年に渡って戦争を終えられないでいるのだ。――かつて住み、或いは今を支配し、これから奪い返そうとする皆が皆「そここそが我が故郷マイホーム」と声を上げ譲らないから。


 つい先週まで、銃声が金切り声を上げていた会場の跡地を、感慨も無く軍曹は闊歩する。かつては老いも若いも訪れた平和を歓呼し讃え、ただ祝祭をあるがままに楽しんだ昔日。祖父が言った言葉を、軍曹は未だなお忘れられずにいる。


「――儂らは大戦という憎悪を、心の奥に仕舞い込んだまま生きてきた。お前らの時代に、それが残らなくて本当に良かった」


 そう笑顔で語った祖父は、ティトーの死を看取り、五輪の成功を見届けた翌年に、眠る様に息を引き取った。


 だから軍曹は、そんな事は出来なかったさ。と自嘲げに内心で呟く。祖父たちがようやっと忘れた民族の禍根の、そのパンドラの箱はまた再び開いてしまった。いや開けたのだとでも言うべきか。クソッタレな神はいつだって賽を振らない。それを振るのは――、結局最後に割を食うのは、何の力も無い我ら人の子なのだと、それ以外には無いのだと軍曹は唇を噛みしめる。


 確かに願ったのだ。誰しもが平和を、子どもたちの笑顔を、輝かしき未来を。……ただ不幸な事に、万人がそれを願い過ぎたが為に、限り在る陣地を争い奪う、血塗れの椅子取りゲームが始まってしまっただけなのだと。


 ギイと開くドアが厠への到着を軍曹に知らせ、そうして彼は、随分と今日は考え込む日だなあとふと空を見上げる。――窓から覗く血の様に赤い月が眼に留まり、ぞわりと背筋が震えるのを感じ、軍曹はそれが初秋の肌寒さが齎した些事な尿意なのだと、自らに言い聞かせた。

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