一九九五年十月九日夜半 トレべヴィチ・臨時野戦司令部
「イエス・サー」
そう返答した筈の大尉は、通信を終えた無線を手に「はあ」と大きなため息を漏らす。そう返さざるを得ず、また相手がサー以外の何者でも無い以上、白であれ黒であれ、如何なる命令にも従う他は無い。――なにせ彼らは枢要なる友軍であり、なおかつ彼らの助力無しには、我らは戦争に勝つ術が無かったのだから、と。
大尉の名はドゥラガン。紛争の開戦以来サラエヴォを護り続けてきた、文字通り古参兵の一人だった。思えば既に三年が経つのか、と浸れば長く、されど弾雨の注ぐ苛烈な日常は、存外に過ぎるのも早いものだったなと現実に立ち返る。
武装の殆どがセルビア側に奪われ、丘陵に囲まれた首都の、その丘すべてを制圧された所から始まったワンサイドゲーム。――まったくよくも乗り切ったものだと、自画自賛と言うよりは自罵自責で以て大尉は呪う。独立には賛成、されどこのままでは雲行き怪し。ベルリンの壁崩壊から始まる無血革命の連鎖に、我も我もと手を挙げる政治家連中を、面と向かって痛罵しつつも為された薄氷の上の建国宣言。だが事態は御上の意図とは裏腹に、そして大尉の予想通りに、忌まわしくも最悪の方向へ転轍機を切る。
ボスニアの抱える問題は一つ。それはセルビアを隣国に持つがゆえの、不可避なるセルビア人の国土浸透。ティトー前大統領の死後、急速に連邦内での力を伸ばしたスルツキは、名ばかりの国民投票をボイコットした挙句、ボスニア北部に臨時政府を樹立。あからさまな連邦の庇護の元、首都サラエヴォに向け砲撃を開始したのだ。
斯くて燃え上がる民族主義。昨日までの隣人同士が銃を手に殺し合う、謂わばこの世の地獄。――ああそうだ。地獄と呼ぶのにこれ以上ふさわしいものがあるだろうか。なにせ「七つの国家、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字を持つ、一つの国家」と、実に長々しく揶揄された嘗ての連邦だ。五族協和だ世界平和だなどというお題目が薄ら寒くなるくらい、取り繕った日々の笑顔の底には、マグマじみた怨嗟が沸き立っていた。
――いや或いは、それこそが遺伝子に刻み込まれた恐れなのかも知れない。「やらなければやられる」その字義通りの歴史を歩んできた激動のバルカンは、いつだって「やってやられて」の繰り返しだった。今でこそ哀れなるボスニアは、幸か不幸か虐殺の被害者と国際社会に認知されつつあるが、紛争の陰でやって来た事と言えば、こちら側とてそう大差無いという事実を、大尉自身が誰よりも深く理解していた。今回はたまたま偶然、ミロシェビッチという連邦の過激派が悪役を引き受けてくれて、そのお陰で我らの罪は看過され得たのだと……既に血に塗れた自身の手を虚ろな目で見下ろし、そこで大尉は、自らを呼ぶ声に職責を思い出す。
「どうかなされましたか? 大尉」
声の主はナセル少尉。開戦の折より同じ釜の飯を食う、戦友とでも呼ぶべき同胞。叩き上げの自分とは違い、サラエヴォ大の経済学部を出た彼の智慧は、殺伐たる戦場にあって、さながら歯車を廻す潤滑油の様に機能してくれた。大尉の反芻する幾つかの言葉も、その概ねはナセルから教わったものだった。
「いや、少し思い出していたんだ。ほら、なんだったかな。――憎悪にご注意を。だっけ?」
「イヴォ・アンドリッチですね。それが何か?」
ナセルが口にしたのは、ユーゴスラヴィアの誇る偉大なる文学者の名だった。――イヴォ・アンドリッチ。外交官として欧州を飛び回った彼の、生まれの地はここボスニア。他国を経た半ば
「疲れているのかもな。終戦間近だってのに、良くない。――さっさと指示を済ませてしまおう」
無言で頷くナセルを他所に、大尉はSASからの指示を伝えるべく、無線を手に取った。
「こちらポイントワン。ポイントツー応答せよ。ポイントゼロより通達。哨戒間隔を密にされたし」
それはSASパトロール分隊からの伝令。無線の先では気心知れた仲間内とあってか、露骨に憂鬱を滲ませた溜息が響く。まったくそれも仕方がないと頷きつつ、大尉もまた内心で舌打ちを返す。なぜなら彼ら、或いは自分たちの中で、紛争とはもうとっくに終わりを迎えているのだ。だから戦闘に絡むであろう行動の一切が呪詛の如く忌避されているのは、隊内では無理からぬ話と言えた。一体どこに、家族や友人を奪われ、その仕返しに隣人の命を奪い合ったそれぞれの両手を、立ち止まって思い返したい輩がいるだろう。悪い事に平穏が戻りつつある今になって、おぞましい過去の悪夢が周回遅れでぶり返しつつあるのだ。だからこそと言うべきか、誰も彼も、敢えて遊興に興じ、歓談に花を咲かせ、来るべく幸せな未来に思いを馳せている。――かくあれかしと。奪われただけの何かが、きっといつか訪れます様にと。
「ポイントツー了解。パトロール要員を増やす。――我ら共に明日へ向かわん」
「ポイントワン了解。――我ら共に明日へ向かわん」
お互いに国歌の一節を口にしつつ通信が終わると、大尉はまた溜息をつき椅子にもたれる。――本当にそんな日が来れば良いなと。いや、その為に我らはあるのだと。せめて次代を担う子らには、禍根では無く笑顔だけが残ります様にと。
「……我ら共に明日へ向かわん」
誰に言うでも無く、もう一度祈る様に吐かれるその言葉に、隣に座るナセルが、やはり無言のまま頷く。――そうだ。この土地には必要だったのだ。四倍もの愛、相互理解、寛容の精神が……いったいそれは、いつ何処から崩れてしまったのだろう。この戦争で……或いは始めから? だが内心に響く孤独な問いに、答えを齎す者は誰も無かった。
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