テユベスクの歌 - The song of Te iubesc -
糾縄カフク
01:Battalion Andersen
一九九五年十月九日夜半 ボスニア共和国・首都近郊
ボスニアであればたぶん、皆さん、一歩ごとに、なにを考える時も、最も気高い感情にとらわれる時ですら、憎悪にご注意を。生来の無意識な風土病である憎悪にご注意を、という警告を思い出さねばなりますまい。なぜなら、あの遅れた貧しい土地では、四つの異なった宗教がひしめき合って生きているため、他の土地に較べて四倍もの愛、相互理解、寛容の精神が必要とされる筈だからです。
――イヴォ・アンドリッチ「サラエヴォの鐘・一九二〇年の手紙」
「――嫌な、空気だ」
ボスニアの首都サラエヴォを囲む丘陵地。廃棄された天文台の二階から空を見上げ、伍長は独り言ちた。星の無い夜空には赤い月が一つだけ浮かんでいて、それが視界にやけに大きい。迷信、という訳では無いが、先刻からぞわぞわと身体を蝕む、纏わり付く様な不穏な予感が、五肢にべっとりとこびりついて離れない。
アンドリューズ・ベルモンド。英国SAS第十五連隊、パトロール分隊を率いるこの男は、月明かりに照らされた厳しい顔に影を刻み、何かを告げたそうに後ろを向く。その視線の先には、すらりとした長身の――、つまるところ伍長とは対照的な風貌の兵士が立っていた。
「あっはっは……しかしまぁ。吸血鬼でも出てきそうな月ですねぇ、ベルモンド伍長」
話題を変える様に軽口を返す兵士は、狙撃手のエリック・ブルース。――ケンブリッジ出の彼は隊内の語学要員も兼ねていて、セルビア、スロベニア、ルーマニアと、近隣の言語に広く通じる、軍には珍しいインテリだった。
現に髭すらも剃っていない伍長とは対照的に、エリックは綺麗に身なりを整えていて、ここにほんの少しでも香水を付けさえすれば、着替えた瞬間に街へ繰り出せそうな風体を保っている。
「吸血鬼はルーマニアだろう。ブランの城の、ブラショヴの」
「――いえいえ、何でもヴァンパイアの語源はセルビアだそうで。最もここはボ
スニアですが」
伍長のかじった様な一般論に、エリックがここぞとばかりに講釈を垂れる。これが新兵なら張っ倒す所だが、不思議とエリックにはそういう気持ちが起こらない。伍長は忌々しげに髭面の顎を弄り、視線を逸らすと肩をすくめた。
「おいおいやめてくれ。もう
眉間に皺を寄せた伍長が、その皺を指で押さえ、さも頭痛の種とばかりに不快げに呻く。なにせ面倒にも対峙し続ける敵の本丸だ。思い返すだけでも憂鬱になる……いや、ならないほうが可笑しいとでも言うべきだろう。
――セルビア。この連邦を牛耳るボスニアの隣国は、正に対峙するスルプスカの、その背後を支える屋台骨だった。今なおボスニアが独立を阻まれているのも、厄介な事に
「これはすいませんね」と、相変わらず悪びれもせずに続けるエリックも「とは言え今回は終わりでしょう」と、多少は伍長の顔色を察したのか、楽観的な観測を示し微笑んでみせる。
伍長たちの連隊がボスニア入りしたのは八月。合衆国主導の大規模空爆に先駆けての事だった。時期にすれば二ヶ月と少しだが、任務としての疲労より、大義も
それは傭兵としてセルビア側に参じている
「スルプスカは北に撤退。そろそろ僕らもアイムホーム。故郷の扉を叩く頃ですよ。――クリスマスまでには帰りたいですね」
いつに無く饒舌なエリックも、或いは自分と同じ不安に駆られているのかも知れない。スルプスカ、即ちボスニアのセルビア人たちが決起し樹立した臨時政府は、開戦当初こそ連邦の支援を受け優勢だったものの、八月の作戦を機に各地で敗退。欧米の物量に屈する形で北部へと押し込められ、現在の停戦に至っていた。正にスルプスカは戦闘にこそ勝ったが、字面通り戦争には敗退を喫したのだ。
「まぁな。直に終わるさ。あいつらは凶暴な野犬だ。民間人を襲う分には上等だろうが、統制された
そう言えば自分も少し喋りすぎているかなとも伍長は思う。いや、大勢が既に決したフィールドで、試合終了のホイッスルを待つロスタイムが例えば今だ。常に張り詰めている糸は直ぐに切れる。つまり適度な緩急は精神衛生上必要で、ゆえにリラックスムードでこの場をやり過ごそうと考えていた。――だが予断を許さない直感が、さっきからずっと脳裏に警鐘を鳴らし憚らない。而して根源たる理由が分からないだけに、それが喉に引っかかった小骨の様に腹ただしくもどかしい。
「すまんなエリィ。ちょっと下を見てくる。警戒を続けてくれ」
両手を上げて「どうぞ」と笑うエリックを、そう愛称で呼び二階を任せた伍長は「サー、イエスサー」の掛け声を背に階下へ向かう。螺旋状に下へ伸びる階段は、紛争の三年を経ても頑健に形状を保っていて、ただ二階の一部だけが砲撃で崩落し空を覗かせていた。一階に残る二名が、敬礼で伍長を迎える。
* *
「マグナス、ピーター、状況は」
かくて伍長は卓上に置かれた近隣の地図を叩き、現況を整理する。丘陵地であるトレべヴィチ一帯には、天文台にSASパトロール分隊、その前にボスニア軍の三小隊を配置していて、もし不測の事態があれば、背後に控えるSAS三分隊、さらに本隊の三小隊が順次動く手筈だった。
「異常はありません、サー」
伍長の問いに大柄の特技兵、マグナスが答える。体格とは裏腹に手先が器用な彼は、始祖にヴァイキングの系譜を持つ、縮れた赤毛のノース人だ。
「ロメオ、シエラ、タンゴの三点に爆薬を設置。有事には起爆して対応します」
マグナスは低い口調で、NATOフォネティックコードのRからTに割り当てられた、地図上の設置ポイントを示して指す。これはいわゆる欧文通話表の一つで、アルファ、ブラボー、チャーリーとでも言えば分かりやすいだろうか。この場合はAからC。つまりは表の手前になればなるほど使用頻度が高い為に、分隊内で臨時の呼称を付ける際には中段以降のコードを用いる様にしていた。
「こちらも異常無しです、サー」
続いて小柄な衛生兵、ピーターも同様に返す。家庭の事情で医学部を諦め入隊した、このリヴァプール生まれの黒毛とは、偶合にも
「退路はグリーン。いつでも撤退は可能です。カバーズワンからカバーズスリー、共にクリア」
天文台の背後は退路として確保してあり、丘の下の平原の奥には、SAS第十五連隊第一小隊の、残三分隊が控えている。SASの基本単位は四分隊で一小隊、さらにその小隊が四つで一中隊を成しているから、このサラエヴォだけでも、計六十四名のSAS隊員がスクランブルに備えている事になる。
「ありがとう。どうも嫌な予感がしてな――、思い過ごしであれば良いが」そう呟く伍長に「自分も同じです」と、普段は無口なマグナスが珍しく応じる。
「何かが迫ってくる感じが――、うまくは言えませんが」
所在無げに語るマグナスを、怪訝な表情でピーターが見つめている。窓ガラスのとっくに割れた天文台の、目隠しだけの隙間から風が舞い込んで、伍長は咄嗟に地図を押さえた。
「前線に連絡を出そう。哨戒の手数を増やす」
根拠無き楽観は諌めるべきだが、拭えぬ直感には忠実であるべきだった。数多の訓練と実戦をくぐり抜けてきた自分たちに、無為な焦燥や恐れは無い。あるとすれば動物的な嗅覚、野生の勘とも言うべき第六感。それは恐らくは、戦場で生き延びる為に必要な、確たる素養の一つだった。
「こちらポイントゼロ、ポイントワン応答せよ」
伍長の声がノイズに混じり響く。北部を支配するスルプスカは、これまでも何度か協定を破り侵攻を繰り返していた。今度こそは流石にというのが大方の読みではあるが、バルカンを巡る民族の禍根は想像以上に根深い。追い詰められた鼠の一噛みも十分に考えられる。――人間は理屈だけでは動けない。いやそうでなければ、この不毛なる紛争こそが起こり得る筈も無かった。……感情だ。理性を盲にするだけの永年の積怨が、不正解を正解と、破滅への道を救済の技法だと信じ込む、忌むべき諸悪の根源なのだ。
「――こちらポイントワン」
伍長の呼びかけに、辿々しい英語でボスニア軍の指揮官が応える。ポイントワンは天文台の前方のホテルに陣取る、トレべヴィチを預かるボスニア軍の司令部だ。ここを起点に他の二小隊に指示が回る事で、周囲一帯の指揮系統は機能していた。
「こちらポイントゼロ。ポイントワン、哨戒の間隔を三十分に変更」
哨戒の回数を増やす旨を直ちに伝える。幾許かの沈黙と、溜息に似た雑音が無線に混じり「イエス・サー」とやがて聞こえる。誠に遺憾ながら、或いは当然ながら、土着にして古参の――、または肯定的に評するなら歴戦の勇士たる彼らには、もう幾許の士気も無い。あるのは終戦への漠たる待望、いや安堵と呼ぶべき何か。開戦から終始が防戦一方の、本来ならば敗戦国の軍隊と言えば悲しいかなこんなものだった。連中は飽くまでも、泣きついてヒーローに助けて貰った、哀れで無力な
「――伝わりましたかね。伍長」
ピーターが覗きこむ様に割り込む。身長は伍長より頭一つは低いだろうか。英国成人の平均身長ギリギリの彼が、或いはSASに通ったのは奇跡かも知れない。
「さあな。軍備も整えずに独立を宣言し、要衝を敵に取られたあげく俺たちに尻拭いをさせる――、そんな連中に戦力なんざハナから期待しちゃいないさ」
笑いながら無線を置いた伍長は「邪魔したな。上に戻る」と言い残し階段を上った。同じく乾いた笑い声が天文台に交響し、ボスニア民兵の不甲斐なさを憂う同胞の総意が、かくて多いに示されたのだった。
而して如何に惰弱とは言え開戦よりの兵士集団。それらを遅滞無く各点に配備し、さらに背後には英国屈指の、言うなれば世界最高峰の特殊部隊が顔を揃えている。だから事ここに至り、尚も不安を拭えない自身の六感を、一体何事かと伍長本人が訝しむのも止むからぬ話と言えた。ピーターとマグナスの談笑が止み、そうして肌寒い風がいっときに吹き込む中、伍長の足は屋上に辿り着いていた。
* *
上階ではエリィ――、ことエリックが双眼鏡を手に空を見上げていて、伍長は「どうした」と声をかける。柔らかな細面の彼は、控えめに見ても軍隊に居ていい蒸さい男では無い。一瞥も無いエリィの横顔を、伍長はじっと見つめていた。
「ベルモンド伍長。あれは――」
空を指差したエリックは、そこで初めて双眼鏡を眼から外した。不意に視線が合いそうになり我に返った伍長は、慌てて側まで駆け寄ると、誤魔化す様に双眼鏡を奪い取る。
「アントノフ……ヴィータか」
赤い月を背に空を過る黒点は、
「報告は――、ないな」
独り言ちた伍長に「ですね。しかしまあ
「一応本部に連絡は入れておくか。まぁエリィ、お前は少し休んでおけ」
「――その呼び方やめてくださいよ、
肩に手を置いた伍長に、やれやれと
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