第6話 豊の系統

 真夏の天皇陵だが、石棺の周りはやはりひんやりとした空気が漂っている。

 アヤタチは何度かナシメを説得しようと試みたが、その都度、革命熱にうかされた彼の熱弁を聞かされるだけで、事態は一向に進展しない。

 日御子は常に微笑を湛えたままそれを聞いているだけだった。

 それでも午後にはナシメが慣れた仕草でアメリカンクラブハウスサンドと紅茶を運んできて四人で遅めの昼食を摂った。紅茶はアールグレーで、その柑橘系の香りが部屋中に漂った。

 食事をしながらもナシメは、革命成就後の日御子を中心とした政治体制の案や、新憲法の内容、安保条約破棄後の日本の防衛と外交の方針などについて語っていたが、洋子は次第に、それがどうでもよい事のように感じられ、日頃の訓練の甲斐も無く、強烈な睡魔に襲われていた。

 子守唄のようにナシメの声が遠くなって、洋子の意識が数秒飛んだのを見逃さず、日御子が言った。

「洋子さん、お疲れのようですね。衝立の奥に私のベッドがあるのでよければ少し横になったら?」

 隣でアヤタチが『仕方ないな』という表情で軽く頷いた。

 日御子に案内されて衝立の影に回ってみると、粗末ではあるが、清潔な純白のシーツが敷かれた簡易ベッドがあった。日御子に促されるままそこに横になってみると、微かな日御子の残り香があった。石鹸のような、草花のような微かで心地よい香りに引き込まれるように数分も経たない間に眠りにおちてしまった。

 夢を見た。

 幼い頃、故郷小笠原の夢だった。

 週に一度の本土からの船は物資と共に、観光客を運んでくる。

 彼らは口々に「まるで天国のような島だわ」「別天地ね」と小笠原を賞賛し、スキューバダイビングやホエールウォッチングに興じ、そしてまた帰っていく。

 でも洋子は四季の無い、そして至る所に戦争の傷跡の残るこの島が嫌いではなかったが、無性にそこから離れたかった。

 NHKの衛星放送で見る本土の映像は、四季折々の美しい自然や洗練された都会の景色で溢れ、まさに別天地に思えた。

 小学校の修学旅行で初めて東京ディズニーランドに行ったときは、心底島へ帰るのが嫌になった。東京こそが別天地だと思った。

 夢の中で洋子はその小笠原に日御子とともにいた。珊瑚の隆起で出来た南島や三日月山の展望台から望む夕日を日御子と一緒に見ていた。幸せな気分だった。

 夢を見ていたのはほんの一瞬だと思ったが

目覚めたのは既に夕刻だった。インテリジェンスとしてあるまじき醜態だと、慌てたが、日御子もナシメもアヤタチまでもが、

「よくお眠りでしたね」

「何かとっても楽しい夢を御覧になっていたようですね」

「いま起きたんか」と日常生活の延長のようにあたりまえに声をかけてきたので、洋子も普通に起き上がって

「すみません。すっかり寝込んでしまって」

と言うと、すでに彼らの関心は別の方に向いているようだった。

(一体、私何してるんだろう。私の任務は日御子とナシメを天皇陵から排除し、ファットボーイという名の爆弾の危険を除去することにあるはずなのに・・・)

 洋子のそんな後悔を意にも介せず、アヤタチが話しかけてきた。

「あんたが眠っている間に日御子はんとナシメはんといろいろ話をしたんやが、その中でとても重要なことを聞いてしもうたんや」

 そしてナシメのほうを向いて言った。

「さっき、ワイに教えてくれた話、もう一度洋子はんにしたってや」

 ナシメは頷くと洋子に向かって説明を始めた。

「この天皇陵に入ってからのお二人の能力の高さを拝見し、私はあなたたちを敵に回したくない。出来れば私達の味方になっていただきたい、そんな気持ちがあればこそのお話です」

 もって回った言い方はこの男の外交官時代からの癖なのだろう。少しイライラしたが、洋子は黙って聞いていた。

「私達の革命に対する思いをあなたたちは絵空事だと感じたでしょう。当たり前です。それが正常な日本人の感覚でしょう。でも大きな変化は時にその正常な感覚、即ち我々の常識をまるで蹂躙するかのように目の前で現実化されます。オウム真理教事件、阪神大震災、そして東日本大震災とそれに続く原発事故、この数十年の日本における重大な変化を見てもいかに我々の常識や想定が当てにならないものであるかを雄弁に物語っています。この世の中で常識や想定といったものほど不安定なものはありません」

 前置きの長い話だ。たぶんイライラ宰相とあだ名される総理はこんな前置きに腹が立ってこの男を左遷したのではないか、と洋子が考えたとき、それを見透かしたようにナシメが言った。

「実は、総理もこの革命の黒幕のおひとりなのです」

 洋子は絶句した。

 そんな事はあり得ない。もしそれが事実なら総理直轄の内閣調査室から事態の収拾のために派遣されている私は何なの?ただのピエロじゃない。

 ナシメは洋子の動揺を意にも介していない。

「総理と私は高校の同級生なのです」

 そして子供のような表情で総理との思い出を語り始めた。

「二人が高校三年生の頃、ちょうど東大安田講堂事件がありましてね。その年は東大の入試がなかったのです。おかげで彼は東工大、私は一橋に入学したのですが、本当は二人とも東大志望だったのです。理系と文系で得意科目もちがっていたのですが、なぜかウマがあって、大学に入ってからも私たちはしょっちゅうつるんでいました」

 それからしばらく、ナシメの学生時代の思い出話が続いた。二人で同じ女性に恋をして二人ともふられた話や、授業をサボって名曲喫茶に入り浸っていた話などを聞かされたあと、ようやく話は核心に入ってきた。

「あなた方に当時の空気はわからないと思いますが、反体制を叫ぶことが未来を良くすることだとその頃の学生はみんな思っていました。私たちも熱に浮かされたようにベトナム反戦や成田闘争、公害企業の糾弾など、とにかく闘争と名のつくものは、何でも首を突っ込みました」

 自嘲するかのようにナシメは続けた。

「天皇制も、アメリカ帝国主義も、警察も自衛隊も、とにかく力を持つものすべてに抗いました。デモにも参加したし、あるときは火炎瓶や角棒を持っての闘争も経験しました。しかし、最初は団結して高邁な理想の元に集まった同志たちも、いつか互いに憎みあい、小さなコップの中での権力闘争に堕ちてしまう。そんな姿を幾度も眼にして、私と総理の志は次第に冷えていきました。そして大学四年になったとき、総理は私に言いました。『本当に社会を変えようと思うなら、外部からいくら小さな槍で突付いても無駄だ。俺は政治家になる。国の中枢に入って内部からこの国を変える。お前は官僚になれ。そしていつか俺が政治の世界でトップに立ったとき、俺を助けてくれ』と。左翼運動の内部闘争に辟易していた二人はそこで未来を決めました。

以来、彼は左翼系大物政治家の秘書を勤めた後、国政に立候補し市民運動出身の論客政治家として名を馳せ、一方私は外務省キャリアの同期トップとしてアジア大洋州局長まで登りつめたのです」

「お二人の絆はずっと変わらなかったわけね」

「いえ。実は社会に出て最初の数年はお互いに会って日本の未来についての理想を語っていたのですが、その後は、ほとんど付き合いはありませんでした。彼は政治家といっても外交畑とは無縁でしたから。正直なところ、私も仕事に脂の乗り切った時期で、彼との約束などほとんど思い出すことさえありませんでした」

 こんな会話の間も日御子は微笑を浮かべたまま黙っている。その姿がまた洋子にとっては何ともいえない凛とした姿に見える。その間もナシメは話し続けていた。

「外交官が歳を取ってくると、完全にボーダーレスな国際人になるか、自らを日本人として強く意識するかどちらかです。私の場合は後者でした。ここ数年は休日や地方出張時を利用しては神社や古跡などを見て歩き、そこで得たインスピレーションを基に、自分を含め、日本人のアイデンティティについて思考することが趣味のようになっていました」

 また話が総理から外れている、と思いながらも、黙っているアヤタチを横目で見て洋子も何も言わず彼の話を聞いていた。

「岡山県の瀬戸内沿岸に盾築遺跡という不思議な古墳があるのをご存知ですか?」

 ナシメの問いに洋子は首を振った。そんなもの小笠原育ちの洋子が知るわけが無い。

「そこは今でこそ宅地化されていますが、かつて五世紀くらいまでは海に浮かぶ島だった所です。そこに三世紀前半、今いるこの仁徳陵より約二百年も前、魏志倭人伝に描かれた卑弥呼の時代よりもう少し遡る時代に作られた墳丘があります。頂上には2メートルを超す大きな石の盾が何枚もサークル状に並べられ、中央には亀石と呼ばれる直弧紋が刻まれた大きな岩が置かれていました。今でも盾状の岩の何枚かは当時のまま立っています」

 ナシメはそこでちらりと日御子を見て話し続ける。

「休暇をとって瀬戸内の旧跡を訪ねていた私は、その和製ストーンサークルを見るために夕暮れ時、その日最後の訪問地として盾築遺跡を訪れ、そして初めて日御子さまを見たのです」

 ようやくナシメが日御子との出会いについて話をしているのがわかった。

「丁度冬至の頃だったと思います。夕暮れ時のせいもあって、遺跡には日御子さまと私以外には誰もいませんでした。最初、遠くから夕日に向かって祝詞のような言葉を発している日御子さまを見て、少し変な人なのかな、若いのに可哀想だな、という印象でしたが、数分後驚くべき光景を目の当たりにしました。あの時日御子さまは一人ぼっちでストーンサークルの中心にいたのですが、その祝詞らしい声が辺りに響くと共に、周囲は夕焼けに照り輝く瀬戸内海となり、遺跡の麓まで小波が押しては返し始めました。そうです。かつての盾築遺跡の姿が私の前に現れたのです」

 日御子はそこで少しはにかんだ表情で口を挟んだ。

「それはナシメの幻覚です。最初に言ったように私は鏡と同じです。私の中に人は自分が見たいものを映すのです」

 ナシメはそれに構わず少し興奮した口調で話し続けた。『倭国大乱』と中国の文献に書かれた二世紀から三世紀前半、九州から瀬戸内海にかけて多くの高地性集落や山城が築かれた時代。

「私の眼前には今では傾いたり、倒れて破壊されている巨大な板状の岩がサークル状に何枚も屹立しており、そのすべてが当時貴重品といわれた朱、つまり硫化水銀で赤く塗られ、それも夕日に染まり、あたり一面が赤一色のなか、日御子さまは盾岩の中心で直弧紋の描かれた巨大な石に向けて祈りを捧げていました。そして丘の両側には約十五m四方の造り出しがあり、そこには何人もの瀬戸内エリアの小国の王たちが日御子さまの祈りの前にひれ伏していたのです。その下の海面にはさらに彼らの乗ってきた船が何艘も繋がれ、彼らの部下や船を操る海人たちはその船から日御子さまを拝んでいました。私が見たのはまさに乱れた倭国を日御子さまが武力ではなく、威光によって治めた場面なのです。昨日まで互いに相手を従わせようとして戦ってきた人々が、自ら武器を捨て喜んで日御子さまの下に集ったその場面を見たのです」

「私はただ、私の一族、瀬戸内の各地にいた何人もの日御子のうちの一人、魏志倭人伝の卑弥呼と同時代か数代前の一人の日御子が眠る遺跡に祈りをささげていただけなのですが・・・」

「いいえ」とナシメは日御子の言葉を頭から否定した。

「あそこで私が見た光景は、確かに私の望んだ光景かもしれませんが、それは幻覚ではなく、遠い昔に実際に起こった現実と私の願望が日御子さまの祝詞によって共振し映し出されたものです。私はこの光景を見たとき気付いたのです。目先の利益のみに眼を奪われて争う現代の国家や政党はすべて、倭国大乱の小国の王たちと同じであることを。そして貴重な生の時間を、敵を屈服させることに費やすことの愚かさを。人類には古今東西を問わず、グレートマザーという集合的無意識が存在します。それは大いなる母の元にすべての人類が子供のように愛を受け、罪を許され、母のもとで豊かな生を送る生活です。武力や恐怖による統治ではなく母の愛による統治、それこそが究極の平和な社会であり、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の姿なのです」

 ようやくナシメが目指す革命の全体像がおぼろげに見えてきた。

「夕日が完全に水平線に沈むと同時に、盾築遺跡はもとの静かな墳丘に戻っていましたが、私の興奮はそのままでした。あの学生時代に総理と共に活動していた頃の理想が胸の中に沸々と甦っているのを感じていました」

 黙って聞いていたアヤタチが、さすがに口を挟んだ。

「ナシメはん、そろそろ結論を教えてやってんか」

 初めて自分の話が長すぎたことに気付いた様子だ。

「これはすみません」と謝って、彼はその後、日御子を説得し『日御子の光教団』を設立し、数年で急速に拡張させて、信徒数十万を抱えるまでに成長させた経緯をかいつまんで話した。

 現代の日本の政治を動かしているのは票だ。

 組合や企業、団体、あるいは浮動票と呼ばれる空気のような票。それらの動向を無視して政治家であり続けることは出来ない。『日御子の光』教団も信徒数の急増をバックに政治的な発言力も増してきた。反面、一年ほど前から総理は閣僚の失言や所属政党の内紛が影響してその支持率は下がる一方だった。

 そのタイミングでナシメは日御子を総理に引き合わせた。そして彼が考える革命について語った。勿論日御子自身は今日と同じように黙って微笑していただけだったが、彼女の持つ不思議な鬼道の能力、「ひとをとりこにする」力は総理に対しても如何なく発揮された。本来時の権力者が了承する筈の無い話が、すんなりと合意に至った。

 それは、総理が権力の座にありながらも、党内の他派閥や、野党、マスコミからの攻撃に毎日さらされ、権力者の孤独を噛締めていた時期であったことも無関係ではないだろう。

 また革命という言葉とは裏腹に。日御子たちの行動はかつてのオウムとは違い、可能な限り非暴力無血革命を目指しており、総理に対しての依頼事項は、もしナシメや日御子が革命に対する行動を起こしたとしても、国民が拒否反応を起こさない限り、直ちに軍隊、つまり自衛隊の起用は控えて欲しい、という消極的な協力依頼であったことも、要因のひとつだった。

 さらに、ナシメが、当時はまだ外務省アジア局に在籍していたのだが、その人脈をバックに内々に、中国、ロシア、韓国、北朝鮮の四カ国に対しては、『万一日本で天皇制が覆るような事態になっても、その混乱が周辺国に及ばない限り、日本の国内問題であり、関知しない』という各国政府の内密の言質をとっていたことも総理の協力を得やすくしていた。アジアの周辺国にとっては、現存する世界最古の王室「天皇家」の存在は、日本に対する微妙な劣等感の原因のひとつであり、それが無くなる事は、経済のキャッチアップとともに彼らの願望のひとつでもあった。

ただ最大の同盟国アメリカに対してはナシメの人脈も奏功せず、何の言質も取れていなかった。ただし安保条約の規定から、革命も国内問題にとどめている限りは米軍の出動は法的にも有り得ない事だった。

「革命成就の暁には、総理にもそれなりのポストをご用意します」と最後にナシメが言ったときに、総理の眼に微かな喜びの表情が浮かんだのを見て、「この人も既に権力という麻薬に憑かれているのだ」と感じたが黙っていた。

 その後、巷間で噂された、総理とナシメのアジア外交に関する確執とそれに伴うナシメの更迭、退職は、この会談の後の、ナシメと総理による茶番であったことは言うまでもない。

「革命と呼べば物騒かもしれませんが、ベルリンの壁崩壊も、旧ソビエトの崩壊も、伏流水のように地下で大きくなっていた流れがある日突然地表へと現れ、ほとんど民衆の血を流すことなく一気に体制の変革を現実のものとしました。私達の目指す革命も一滴の血を流すことも無く、日本人本来の価値観に基づく古くて新しい日本を一気に創り上げることなのです」

 

 天皇陵に入って二度目の日没が迫っていた。

「八月十五日、明日になれば、総理の口から我々がここにいることが国民に発表されます。勿論、総理の現立場から語られるのは、日本政府と敵対する集団が仁徳天皇陵を占拠している、という事実に変わりは無いのですが、終戦記念日という、日本人にとってその存在の根底を問い直される日に、悪意の無い言葉で全国民の前に私達の行動が公表されることは今後の活動のために大事なことです」

 ナシメの言葉に、日本全国がマスコミもネットも蜂の巣を突付いたかのような騒ぎになる様子が洋子の眼に浮かんでいた。

「あとは、日御子さまがマスコミの目の前でこの石棺の中から金印を取り出し、その口から万世一系と言われる皇統の真実が、その黎明期においては、日御子さまの一族、すなわち北九州豊の国で宗教的権威を有していた女系一族とまるで縒り糸のように絡み合ったものであったことを公にし、同時に日御子さまを中心とした新しい日本のかたちを語り、国民の判断を待つのです」

 日御子に対して不思議な好意を持ってしまっている洋子だが、それでも、ナシメが言うほどうまく事が運ぶとは到底思えなかった。

 そして、何より自分と同じようにナシメの計画を阻止しなければいけない立場のアヤタチが一体何を考えているのかが気になった。まさか本気で寝返ろうと考えているのではないと思うが、この状況をいったいどう打破しようと考えているのか?

 アヤタチは黙ったままだった。

「アヤタチさんは、悩んでいるんですよ」

 ナシメが洋子の気持ちを見透かすように言った。

「私たちはアヤタチさんのような存在が宮内庁にあることを知りませんでしたが、多分アヤタチさんは、日御子さまの血統の正当性をご存知なだけに、現皇室との板ばさみになってどうしてよいのか考えているのでしょう」

「本当なの?」

 洋子の問いにアヤタチが頷く。

「ほんまや。最初に日御子はんに会った時に言うたように、彼女の一族は今でこそ家船という海上生活者となっているが、魏志倭人伝の卑弥呼やトヨ、日本書紀の神功皇后、さらには瀬戸内から伊勢神宮にいたるまでに点在する海の女神の血を引く宗教的権威をもった一族で、記紀以前では皇族内にも彼女の一族は大勢いたんや」

「そんなこと記紀には一言も書いてないわ」

「あたりまえや。記紀の編纂を命じたのは誰か覚えているやろ」

 アヤタチに言われて洋子は受験で学んだ日本史の知識を思い出した。

「天武天皇ね」

「そや、柿本人麻呂が『大君は 神にしませば・・・』と天皇を詠んだように、壬申の乱を機に、それまでの有力豪族共同体的な天皇家から、絶対神格化を図った天皇や。自らが絶対的な神となろうとした天皇の命で編纂された記紀で宗教的権威である日御子の一族、つまり『豊の国』の一族をどう扱ったかは推して知るべしや」

 たしかにアヤタチの言うとおり、現在の天皇家の基礎を作ったのは天武天皇とその次代持統天皇の白鳳時代であった。『天皇』という称号自体も天武天皇以来とされ、それ以前には「おおきみ」や「すめらみこと」と呼ばれていた。さらに現在普通に神武天皇とか仁徳天皇などというように使われている漢字の天皇名は奈良時代に淡海三船という漢詩「懐風藻」の編者として有名な文人が、その漢詩や外典の知識を駆使して勝手に付けた名前であり、当の本人は後世、自分が仁徳や神武などと呼ばれることなど思いもしていなかっただろう。

「それじゃあ、どうして日御子さんの一族が皇族の中にたくさんいた、なんてわかるの?」素直に洋子は尋ねる。

「名前や」

「名前?」

「記紀には、壬申の乱以前の天皇や皇族には『いみな』と呼ばれる実名や別称が記載されている場合が多いんや。それを見れば一目瞭然や」

「例えば誰?」

 洋子の問いに珍しく日御子が会話に入ってきた。

「洋子さんの知っていると言えば、聖徳太子とか女帝推古天皇などがそうね」

 そしてナシメが解説をする。

「聖徳太子の別称は、そして推古天皇は。もうおわかりでしょう」

「豊の文字ね」洋子は思わず大きな声で返した。

「そうです。記紀の編者は天武天皇の意に沿って豊の一族の持っていた宗教的権威を消すことには成功したものの、天皇家自体とすでに密接不可分の存在であった豊一族の名前の痕跡までは消すことが出来なかったのです」

 聖徳太子の別名は豊聡耳(とよとみみ)、推古天皇の諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)である。

「他にも斎明天皇や用命天皇、孝徳天皇、文武天皇、元明天皇など皆豊の文字が入った豊一族の血統の濃い天皇や」

「でも、どうして天武天皇はそんなに豊一族の痕跡を消そうとしたのかしら。いくら神格化を図るせよ、天武天皇ともある程度は血脈が繋がっていたのでしょう」

 洋子の問いにアヤタチが答えた。

「中国の影響や。天武天皇は壬申の乱で、先帝である天智天皇の子、大友の皇子を殺して天皇の位に就いたわけや。これを正当化するためには中国の易姓革命、つまり皇帝が徳を失えば武力によって新しい王朝を建てるのも天命であるという思想が一番好都合なのはわかるやろ。ところが易姓革命の思想では、皇帝の上位に位置するのは「天」の概念のみや。当時の日本のように九州豊の国に卑弥呼の流れを汲む宗教的権威「豊一族」がいて、実際に皇族と深い血縁で結ばれているんは、易姓革命思想からは不都合で仕方ない。そこで天武天皇は記紀の編纂では、豊一族をぼかしたまま日本の歴史を書き換え、さらに伊勢神宮を天皇家の霊廟として天照皇大神を祭ると同時に外宮には豊一族の始祖神的性格の豊受大神を祭ることによって、本来近畿の皇室とは独立した権威を有していた豊一族の女神を、何となく天皇家の氏神化してしまったんや。正面から否定するんやなく、敬いながら存在をあやふやにしてしまうという文句のつけようが無い、手の込んだやり方やな」

「でも、当時の豪族や皇族は真実を知っていた人がたくさんいたのに、何故誰も異議を唱えなかったのかしら?」

 その問いにナシメが自嘲気味に答えた。

「記紀を実際に編纂したのは稗田阿礼や太 安万侶、舎人親王です。彼らは今で言う高級官僚のようなものです。私がいた外務省でもそうでしたが、官僚の作文というのは、反対意見を押さえ込むために、読む人によってどうとでも取れる玉虫色の表現に埋め尽くされながら、結論は体制側の都合よく導き出されるようになっているのです。官僚に必要とされる能力は今も昔も変わりませんね」

「つまり、記紀、特に日本書紀はその色合いが強いんやが、『一書に曰く・・・』といった表現でいろんな説を公平に取り上げているふりをして、実は体制に不都合な意見は無視している。でも実際に嘘をついている訳やないから咎めることはできへん。ナシメはんは官僚のようやというたけど、ワイはどちらかというと公平な振りをしながら自説への誘導を図るマスコミの偏向報道みたいなもんやと思う」

 アヤタチの言葉に納得しながらも洋子はさらに疑問をぶつけた。

「でも豊の国、宗像氏を祖とする家船の一族が皇室と深いつながりがあることは少なくとも格式ある神社の神職や、国造家の流れを引く人々は知っていた筈なのに、現代に至るまでなぜ誰もそのことを公にしようとしなかったの?」

「その問いには私が答えましょう」日御子が静かに言った。

「答えは誰もそれを望まなかったからです。真実をにすることが正しいことだという考えはもうすでに現代の欧米的な倫理観に囚われてしまっています。秘すれば花、という言葉のように私達一族はその出自を他人に誇ることもせず、自らの信じる神のために祈りを捧げながら静かに船の上で一生を送ることを望んでいました。また各地の神職者もそういった私達の姿に何かを感じて敢えて事を公にすることもなく、ただ家船に対してそれぞれの域内での通行や漁労の自由を保障することで私達を尊重してくれました」

 そして一息入れてあと日御子は更に続けた。

「これは歴代皇室も同じです。私たち家船一族は、他の漂泊民族であるサンカやクグツと違ってこの千年以上の間、ほとんど差別や迫害を受けたことはありません。これは皇室のお陰もあるのです。ですからナシメの言う革命が成ったとしても、私たちは現皇室の排除や攻撃は一切するつもりはありません」

「平和的な一族だったのね」

 ぽつりと洋子が言うと、日御子は悲しげに首を振った。

「人は望むとおりに生きられるものではありません」

「ナシメはんと同じように、日御子の一族の宗教的権威を利用しようとした例は日本史の中にたくさんあるんや」

「例えばどんな?」

 洋子は自分が知らない日本史の裏側にミステリー小説を読むような胸の高鳴りを覚え始めていた。

「家船の一族は宗像大社の大宮司、宗像氏を祖とするんはもう話したやろ。そんで宗像氏は本来豊の国を含む北部九州全体を治めていた豪族で、魏志倭人伝の卑弥呼やトヨ、記紀の神功皇后などと深い関係がある一族なのは理解してるわな」そう言ってアヤタチが念を押したあと教えてくれた日本史の中での日御子の一族の存在感は、洋子の常識を遥かに超えるものだった。

 例えば源平合戦では、本来平清盛の厳島神社信仰を通じて、平家のほうが豊一族に近い関係であったが、頼朝の異母弟、源範頼が平家に先んじて九州に渡り宗像氏に協力を依頼し、その諾を得ることに成功した。厳島神社は名のとおり イチキシマヒメを祭る社であり、宗像神社とは主従に近い関係だった。このため平家は、本来なら我が国最高の権威の切り札とも言える安徳天皇と三種の神器を擁しながら、瀬戸内、九州の武将や神社の協力を得ることが出来ず、壇ノ浦以西の逃げ場を失い滅亡した。源氏勝利の実際の功労者は義経ではなく、凡将と言われる範頼だったのだ。

 そして鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、彼らの味方となってくれた豊の国、宇佐八幡宮への謝意を込めて鶴岡八幡宮を建立し、それまで以上に八幡信仰を篤くしたのだった。

 時は下り、足利尊氏は後醍醐天皇の不興を買い、新田義貞に追われ、北九州まで落ち、ほとんど再起不能と思われた。完全な朝敵であるにも拘わらず、宗像氏の協力を得ることに成功し、九州瀬戸内の武将の協力を得て起死回生の政権復帰を果し、足利幕府を成立させた。

 これらは、いかに当時の宗像氏と豊一族の宗教権威が皇族のそれに匹敵していたかを物語るものだ。

 また、戦国時代には領土的野心から、名門宗像氏の内紛を図り、一族の人間を暗殺した周防の大内家重臣、陶晴賢に対し、豊一族はその報復として厳島神社を通じて当時は広島の地方豪族に過ぎなかった毛利元就に肩入れした。厳島の戦いでは、神官と村上水軍を味方につけた毛利方が、兵数では圧倒的に多勢であった大内家、陶晴賢軍を破り、結果的に山口から九州北部を領した名門、大内家は滅び、逆に毛利家は中国地方の大半を有する大大名となった。

 さらに毛利家の神事を司っていた高杉家の家系からは、幕末高杉晋作が出ている。

 彼は第二次長州征伐に際し、瀬戸内海上でたった一隻の古びた軍艦で数倍する幕府の海軍を破っている。そこにはやはり彼が神官の一族の出身であったために、宗像氏から続く豊の一族の存在を知っており、瀬戸内に隠然たる権威を持つ家船、即ち豊の一族との協力関係があったと考えられる。だからこそ晋作は自らの軍艦に「オテントサママル」という卑弥呼以来の豊一族の太陽信仰を彷彿とさせる名前を付けたのだ。決してふざけていたわけではない。

 そしてもっとも信じられなかったのが織田信長と豊臣秀吉の話だった。

「寧々とその母親の朝日は、家船の一族や」

当たり前のように話すアヤタチの内容は、まず秀吉と寧々が夫婦であることを否定した。

「寧々と朝日の出身地は今の愛知県津島や。ツシマという地名は、古来より海人族の本拠地をさす地名や。そして織田家はもと越前剣神社の神職出身やった。剣神社の祭神は、スサノオノミコトやけど、神功皇后に反抗して殺された忍熊皇子も祭神とする神社や。いうなれば、皇室に反抗した荒ぶる神を祀る神社や。なんとのう子孫の信長の運命を暗示するかのような神社やな。とにかく、信長もその出自から、寧々と朝日が持つ、皇室に匹敵する隠された宗教的権威を知っていたんや。秀吉は単に寧々の警護係として信長に命じられただけや。表向きは夫婦やったかもしれへんが」

 確かに二人の間に子供も出来なかった。またあれほど非情な人間として知られた信長が秀吉に対して「寧々を大事に扱え」と何度も念を押していた話は有名だ。

 さらに熱田神宮には深く帰依していた事でわかるように、信長は決して後世言われるような無神論者では無い。にもかかわらず、朝廷や仏教界の権威に関しては何の敬意も払わなかったことも、その掌中に寧々と朝日がいればこそ、だったのかもしれない。

「信長は、ナシメはんと同じように寧々とその母の朝日を奉じて革命を起こすつもりやったんやないかな」

 アヤタチはナシメと眼を合わせることなく静かに呟いた。

 結局、当時の正親町天皇の第五皇子、親王ら信長の革命に対する危機感を募らせた朝廷側の意を受けて明智光秀が反乱を起こしたことによって、その意志は遂げられなかったが、裏事情を知っている秀吉によってそれは別の形で受け継がれた。

 天下統一後、彼は朝廷に対し、源平藤橘に並ぶ第五の氏「豊臣」を認めさせ、それを名乗った。まさにそれは文字通り、自分が「豊一族の臣」であることを宣言したも同じであった。子飼いの大名や毛利、島津、大友などの西日本の大名にも「豊臣」の氏を下賜し、彼自身は豊の一族の長として日本のみならず、朝鮮や大陸まで自らの版図としようとした。

「秀吉は、『人たらし』と言われていたけど、ほんまの人たらしは、寧々と朝日や。秀吉は二人を利用して、朝廷を凌駕する権力が欲しかっただけや。せやさかい、秀吉のやったことはかつて豊の一族が皇室で権力を持っていた頃の二番煎じばっかりや」

 アヤタチによれば、秀吉は神功皇后とその息子応神天皇を祀る住吉大社、その子仁徳天皇が眠るといわれる仁徳天皇陵、聖徳太子が建てた四天王寺など豊の一族が大阪平野に残した大型建築に負けない建築物を作ろうとしたのが大阪城であり、神功皇后の三韓征伐に倣ったのが文禄慶長の役だったという。

 そして秀吉は寧々や朝日から仁徳天皇陵には『親魏倭王』の金印が眠っている可能性があることも聞いていたらしい。彼が狩と称しては仁徳天皇陵に度々侵入していたのは実はナシメがそれによって自分たちの正統性を証明しようとしているのと同じく、秀吉も金印を手に入れて、それをもって朝廷と対等の立場に付こうと考えていたのではないかと思われる。

「ここからはワイの予想やが、金印の取り扱いをめぐって利休と秀吉は対立したんやないかと思う。利休も仁徳天皇陵のすぐ隣に『もずの屋敷』を建てて、天皇陵から様々な石材などを持ち出していたという話があるんや。彼も金印がここにあることを知っていて、秀吉よりも先にそれを見つけようとしたか、あるいは既に見つけていてそれを秀吉に隠していたか・・・。とにかく当時の政治のトップと文化のトップが二人共に仁徳天皇陵に対して異常な関心を寄せ、そして対立したのは事実や」

 それは天正十九年、それまで蜜月関係にあった千利休が突然秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられたことを指していた。

 そこで、洋子はふとまったく別の史実を思い出した。

「そういえば、秀吉が徳川家康を懐柔するために自分の姉を江戸に差し出したことがあったけど、そのお姉さんの名前も『朝日』だったわね。これはどういう訳なの?」

「それは、家康も豊一族の隠れた権威を知っていてそれを欲しがった。秀吉は自分も豊一族のふりをして、自分の血縁者に『朝日』という名を付けて家康に差し出したんや。家康は単に偽者を掴まされただけや。なにせ本物の朝日は卑弥呼と同じようにすでに歳長大で見たもの少なし、という状態やったから、仕方あらへんな」

 そして歴史はあの魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の卑弥呼の死後と似た過程を刻んだ。

 寧々の母である朝日が死んだのは慶長三年の八月、秀吉が死ぬほんの十日前だった。

「露と落ち、露と消えにしわが身かな、浪速のことは夢のまた夢」という有名な辞世の句はもしかしたら朝日の死を聴いて作られたのかもしれない。

 朝日は豊の国大分県日出村の松屋寺に葬られた。

 通常の歴史書では、もともと尾張の足軽の妻であり、単に寧々の母としてしか認識されていない朝日だが、歴史書では、なぜ彼女が縁もゆかりも無いはずの大分県の、それも日出村という、太陽信仰の影響を強く受けていると思われる場所に埋葬されたのか、それを納得させる合理的な説明は一切なされていない。

 卑弥呼の死後、邪馬台国は男の王を立てたが国中が不服であり、互いに誅殺し、国中が乱れた、と魏志倭人伝の記述にある。これは秀吉、そして朝日亡き後に大阪城の主となった秀頼をめぐって石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派が争い、関が原の合戦がおこったのと同じ構図であった。結局朝日の娘である寧々が最終的に徳川家と組み、豊臣恩顧の大名を説得すると、徳川家が武力とそして豊一族の権威をも手に入れて再び国は定まった。

「歴史は繰り返すってよう言うたもんや」

 アヤタチの呟きにナシメは少し怒気を含んだ声で反論した。

「私と日御子さまの求めている革命は秀吉とは違います。秀吉の二の舞にはならない。第一今のあなたの話には大事な部分が抜けている」

 そしてナシメはアヤタチを正面から見据えると言った。

「秀吉の正体についてです。なぜ秀吉は信長から寧々と朝日の母子の保護を命じられたか。信長亡き後、後継者たり得たか。ただの農民出身とは思えません。もしかしたら秀吉はアヤタチさん、あなた方と同族だったのではありませんか?」

 そう言えば秀吉こそ、その出自は謎に包まれていた。

 そのひとつに『秀吉サンカ説』がある。漂泊の山の民「サンカ」。秀吉はそのサンカの出身だからこそ蜂須賀小六のような野盗のような川並衆を使いこなすこともできたのだ、と言われる。

「これはワイらの一族の言い伝えやから証拠はない」

そう言ってアヤタチは秀吉と自らの一族の関連について語った。

「秀吉は、厳密にはサンカやない。土蜘蛛と呼ばれる古代からの穴居民族の出や。彼らの名前は大概、森にすむ動物の名前が使われる。せやさかい、信長が『猿』とか『禿げ鼠』って呼んだのは、実は秀吉の本名やったかもしれへん。どちらにせよワイらとおんなじ影の一族の出やったことにはかわりあらへん。秀吉の奇跡のような勝ち戦の後ろには常に影の一族の助力があったんや。墨俣の一夜城は有名やが、他にも金ヶ崎の退き口や高松城の水攻めとその後の中国大返し、石垣山の一夜城といった奇跡のような戦功はすべて山の民の協力があったから成し得たことや。それに秀吉の軍師と伝えられる竹中半兵衛や黒田官兵衛も影の一族や。二人とも出自が不明確なのはそのためや。特に黒田官兵衛にいたっては薬売りやったという。まさに漂泊の山の民の血筋や。ただし彼らが秀吉に仕えたのは、秀吉のためやない。秀吉のバックにいる寧々と朝日のためや。古来より山の民、川の民、そして海の民は皇室のなかでも、豊系の天皇を敬う傾向が強いんや。秀吉があのまま、忠実な豊の臣であり続ければ、もしかしたら江戸時代は存在せず、日本史には数百年の大坂時代と豊臣政権の歴史が刻まれたかもしれへん」

 そしてアヤタチの口から驚くべき名前が出た。

「アヤタチっていうのは、ワイら影の一族の代々の頭領の名前や。わいらはアヤタチになったその日からすべての名前を捨てて、ただのアヤタチになる。秀吉の時代にもアヤタチはいたんや。世間には絶対に出えへんが、皇族と、豊の一族と、そしてその影を司る役割を負って。ところが秀吉は天下を手中にしたあたりから、逆に彼を影から支えてくれたワイらの一族が邪魔になった。あるいは仁徳陵に隠された金印の扱いでもめたのかもしれへん。金好きの秀吉は、まさに日本国の正統な王である証の金印が欲しくて仕方がなかった。多分一度は仁徳陵から見つけ出すのに成功したんやないかな。それを当時のアヤタチが大坂城に忍び込んで奪い返し、再び仁徳陵に戻した。秀吉は怒り、ついにワイらの一族を裏切って殺してしもうたんや。無理やり大泥棒『石川五右衛門』なんていう名前を付けてな」

 石川五右衛門といえば、京都三条河原で釜茹での刑に処された大盗賊の名前だ。その五右衛門が実はアヤタチだったとは。

「『石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ』と有名な辞世の句があるやろ。あれは五右衛門を泥棒として歴史に残すために豊臣家によって改ざんされたもんや。本当に最後に語ったのは『磯の地の 真砂は熟みて 尽くるとも ほつまの道は 幾代 尽きせじ』や」

「それはどういう意味なの?」

 洋子はまったくその意味がわからない。

「『ほつま』いうのは『すぐれた真実』いう意味の昔の言葉や。記紀が出来る前に神代、つまり天皇家やトヨの一族、そしてワイらスサノオの一族の歴史を書いた『ほつま』という書があったんや」

「それは『ホツマツタエ』と呼ばれる、独特の文字で書かれた古史古伝のことですね。近世まで一部の神社や旧家に秘匿されていたという。でもあれは歴史学者から様々な矛盾を突かれ今では後世に作られた偽書という評価が定着している筈ですが」

 ナシメの言葉にアヤタチが反論する。

「写本の細かい矛盾をさも重大なことのようにことさら指摘して偽書扱いするんは学者の悪い癖や。印刷技術の無い時代に何世代にも渡って書き写されてきたものに間違いや矛盾があるのは当然やし、時には書き写す人間の主観や誇張が加えられるのもあたりまえや。それをもって全体が嘘やなんてことは早計や。五右衛門はな、その『ほつま』に書かれている皇室、豊一族、スサノオの一族の歴史は、秀吉がどんなにそれを覆そうとしても真実や、と大声で叫びながら処刑されたんや」

 アヤタチはそれがつい昨日の出来事であったかのように無念そうな表情で言い放った。

「それ以来、秀吉とワイら一族の縁は完全に切れたんや」

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