第5話 堺市役所展望室

仁徳天皇陵 から北北西に約1㎞の場所に立つ堺市役所。政令指定都市の中枢にふさわしい高層館の21階。

 普段は展望ロビーとして広く市民や観光客に開放され、そこからは天皇陵が緑の鍵穴のように点在する百舌古墳群が一望できる。

 しかし今、そこに通じるエレベーターには『工事中につき展望ロビーは利用できません』という掲示が貼ってあり一般人はそこへ行くことが出来ない。

 八月十三日午前をもってそこは『堺市化学工場火災対策室』となっている。無論これも市役所の一般職員向けの名前で、実際は仁徳天皇陵に立て篭もるテロ事件に対する極秘前線対策室となっているのだが、それを知っているのは東京霞ヶ関の対策本部以外には、そこに出入りするごく少数の政府関係者と堺市長、大阪府知事のみである。

 内閣情報調査室から派遣されてきた尾田隼人が、この前線対策室の室長とされているが、その立場は微妙だった。ここにいる人員は内閣情報調査室、防衛省、警察庁、公安調査庁、および外務省の各インテリジェンス担当者から構成されており、最前線の情報を分析しながら中央対策本部に意見具申するとともに、警察や自衛隊の行動部隊に対し指示命令を出すことが主な任務であったが、そこには省庁間のパワーバランスや、中央に居座る総理を中心とした政治家や官僚トップのそれぞれの思惑が交錯し、微妙な空気が流れていた。

 内閣情報調査室は、組織図上、各省庁の最上位に位置するものの、その陣容は職員数や能力において防衛省や警察庁のインテリジェンス機関にくらべ大きく劣り、さらにその上層部はすべて各省庁からの出向者によって占められていることから、室長という立場も、司令官というより単なる事務局的な色彩が強く、自然と発言力も制限される。

 自身も警察庁からの出向である尾田は、ノンキャリアでもあることから、他のメンバーからの視線も厳しい。

 ここへの赴任を告げられたとき、(万一事態収拾に失敗したときのとかげの尻尾切り要員だな)と彼自身も感づいていた。中央官庁内でのキャリア同士の連帯意識は非常に強く、今回のように、成否が危ぶまれる事案には必ずノンキャリアが前線に派遣される。それは、成功すればすべて中央キャリアの手柄とし、失敗すれば前線ノンキャリアの無能無策のせいにするためだ。

 それにしても今あの仁徳天皇陵内はどうなっているのだろう。

 尾田は目の前のモニターに写る高解像度の天皇陵のアップ画像を見ながら呟いた。同じ内閣情報調査室から派遣されて、現在宮内庁衛視とともに陵内に潜入している瀬掘洋子の位置はGPSにより把握しているが、早朝、後円部円頂に達してからほとんど動かない。ただ微動があることから、生存していること、そして十畳ほどのごく狭い範囲内で活動していることは確かだ。しかし防諜のため、電波による通信を切断しており、彼女がどういう立場にいるのかはまったくわからない。

 尾田は瀬掘洋子とほとんど面識はないが、その噂だけはよく知っていた。何度か情報局内で見かけたその姿は噂に違わぬ聡明そうな美人であったが、確かに人を寄せ付けない鎧のような空気も纏っていた。同時に、自分よりほぼ一回り年下ではあるが、その容姿に、男としてかなり惹かれるものを感じたことも覚えており、現在彼女と行動を共にしている宮内庁の衛視に、微かな嫉妬のような感情も感じていた。

 その宮内庁の衛視の経歴については、その場にいる他省庁のメンバーも含め誰も名前すら知らなかった。それらしい存在は皇宮警察の名簿にも存在しない。日本政府の情報収集の粋を集めてさえ、味方の名前すらわからないという事態に、誰もが宮内庁という、世界最古の役所の奥深さを感じていた。

 「米軍からの解析衛星画像が入りました」という通信班の声でモニターに新たに映し出された超拡大画像には 、雑木でカムフラージュされたランチャーの先端部がほんの数cm鮮明に写っていた。やはりこういった分析は米軍任せにならざるを得ない。

「米軍よりの情報では、スティンガーに似た携行式ミサイルの一種と推測され、射角から、北北西、USJ方向を照準としている可能性が高いということです。なお同時に入った機動隊化学防護隊からの報告では、現時点での天皇陵付近での放射線量の増加は認められないとのことです」

 テロリストは実際に携行式のミサイルを所有している。核物質については現在放射線量の増加は見られないが、その真偽についてはまだ不明。情報から新たにわかったのはそれだけだった。

「ファットボーイなんていうふざけた名前だが、実際にテロリストがUSJを狙っているとしたらいよいよ具体的な行動に入らないと」

 陸上自衛隊のグリーンベレーと呼ばれる特殊作戦群、群長がフェイスマスクで顔を隠したまま、ほとんどタメ口で尾田の横に立って呟いた。

 官邸からの要請によって自衛隊と警察庁が描いたシナリオはこうだ。

 まず仁徳天皇陵西三キロの堺泉北臨海工業地帯にある某化学工場で重大火災が発生したこととする。このために警察庁はあえてダミーとして工業地帯内にある古い倉庫をひとつ爆破し、そこから上空数百メートルにまで達する黒煙を上げる。そこまではすでに大阪府警爆発物処理班の手で準備出来ている。

 そして火災現場から有毒物質が飛散する恐れありとして仁徳天皇陵を含む半径十キロメートルにもおよぶ市街地からすべての住民を避難させる。避難誘導に関しては、テロリスト達を刺激しないように、なるべく静かにかつ速やかに完了させる必要がある。ここまでを警察庁の分担とする。一方、防衛省は化学工場から火の手が上がると同時に陸上自衛隊特殊作戦群が仁徳天皇陵に対し、制圧作戦を開始し、テロリストを確保あるいは殺害し、ファットボーイと呼ばれる爆発物を撤去する。

 あらすじとしては出来上がっているが、実行段階としては難しい部分が多い。実際に非難させる住民数は最終的には数十万人を超える。ミサイルの照準先USJまで避難範囲を広げればその人数は倍増する可能性もある。これだけの大量の住民避難は例が無い。もし自衛隊特殊作戦群が制圧に失敗したり、時間を要した場合、犯人がファットボーイを発射させるまでの間にすべての住民の退避を完了させることが出来るのか。

 さらに現実の自衛隊の行動に関しては未知の部分ばかりだ。一種の戒厳令に近い状態での、戦後初の日本国内に対する自衛隊の治安出動となるが、法的に未整備の部分が多く、テロリストの出方次第では現場司令官が重大な判断を迫られる場面が予想される。

治安出動は総理大臣の決定でなされるが、その場合の自衛隊員の法的権限は警察の補完機能でしかない。簡単に言えば治安出動下の自衛隊員は軍服を着た警官でしかなく、緊急避難あるいは正当防衛が認められる状況以外での武器使用は認められないし、切迫性が無い限り一般的な法律も守らねばならない。「戦車も赤信号では止まらざるを得ない」と揶揄される所以である。しかし実際の状況下でどこから緊急性が認められるかを判断するのは現場の指揮官に委ねられており、ひとつ判断を間違えば事後マスコミのバッシングや訴追も覚悟しなければならない。

もうひとつ、尾田を不安にさせているのは総理である。彼はもと市民運動家の出身で、いわば警察や自衛隊と対峙してきた立場だ。その総理が最高司令官としてどこまで我々をバックアップしてくれるのか。古来、指揮官への信頼関係が無い軍隊が強かった例はない。

その不安は隣にいる自衛隊群長も同じらしく、後の責任問題を危惧し、作戦開始の決定を暗に尾田に求めていることがよくわかる。

(まったく損な役回りだ)そう考えながら、出来れば謎の宮内庁衛視とグリーンぺぺこと瀬掘洋子がタイムリミットの午前零時までに何とか解決の糸口だけでも見出してくれることを願っていた。

 時刻は既に夕方が近づいていた。

 タイムリミットと同時に作戦行動を起こすためにまず彼は第一段階として警察に天皇陵から半径1km以内のすべての住民を避難退去させることを命じた。

「とにかく自衛隊特殊作戦群を極秘展開するためには、天皇陵近辺の一般市民を一人残らず日暮れまでに避難退避させてください。理由は何でもいい。化学工場から有毒ガスが漏れて風向きの具合で天皇陵付近が危ないとでもしておけば、あとで辻褄合わせがしやすいでしょう。嫌がる人間には金を掴ませても構いません。商店や事業所には損害補償を約束しても構いません。それくらいの経費は官房機密費で賄えるでしょう。とにかく日没の6時52分までには完了させてください」

「それでは勿論付近の道路もすべて封鎖しますか。あとJR阪和線および南海高野線はどのように対処いたしますか」

 大阪府警から派遣されてきた警視がおどおどと尋ねた。まだ三十前後の若さから、きっとキャリア組なのだろう。彼もまた決定責任を尾田に押し付けようとしているのが見て取れた。

「道路は封鎖してください。鉄道は仕方ないでしょう。ぎりぎりタイムリミットまでは通常運行で結構です。ただし最寄の駅は先ほどと同じ理由で乗客の降車は認めないでください。そしてここからが一番重要なことです」

 尾田はキャリア組のまだ学生のような警視の目を見据えて言った。

「天皇陵内にいるテロリストを刺激しないように街の動きは止めないでください。つまり住人を避難させた後も街はいつもどおり街らしい騒音や匂い、灯りを絶やさないでください」

「そんな無茶な・・・」若い警視が絶句したが尾田は構わず指示を続けた。

「住民を退避させる際に、すべての家庭のテレビ一台は電源をオンにして音声を流したままに、最低一部屋は灯りをつけたままで。商店や事務所も営業中のまま退避させてください。必要なら私服警官に店員や従業員に成りすましてもらってください。道路は一般車両の通行は遮断して代わりに警察官や市役所職員のマイカー、あるいはどこかの事業所からバスやトラックを借りてきて適当に走らせてください。とにかく天皇陵にいるテロリストたちに異常を気付かせてはいけません。それがあなたの任務です」

 言葉で言うのは簡単だが、実際にはかなり難しい任務であることは尾田にもわかっている。キャリアの若い警視には荷が重いかもしれない。しかし自衛隊の奇襲を成功させるためにはテロリストをなるべく刺激しないことが重要だ。少しでも天皇陵周辺の街に変化を感じれば彼らは警戒するに違いない。

「念のために言っておきますが、住民避難にスピーカーや警察車両は一切使用しないでください。人海戦術で一軒一軒説得し、日常生活の延長として自然に住民を退避させてください。今それが出来るのはこの地元に根付いた大阪府警と堺市役所職員だけなのです」

 その言葉に何か使命感を感じたのか、若い警視は深く頷いて

「とにかく、地元勤務の警官と、市役所職員、およびその家族を集め、まず天皇陵近隣の町内有力者の説得から始めると同時に、近隣市町村への避難場所確保と、大阪府内バス業者に依頼し、避難用バスの確保を要請いたします」

 意外と理解の早い彼の返答に少し安心しながら

「日没までにあと数時間しかありません。急いでください」と念を押した上で窓からもう一度天皇陵を見下ろした。

 十分冷房が効いている筈なのに尾田は体中が汗ばんでいるのを感じていた。

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