第4話 日御子と難升米
日の出が始まる前に、二人は最後の斜面をよじ登った。周囲が次第に朝の気配に変わっていく中、森と土の匂いが鼻腔をつく。
相手は既に自分たちがすぐ近くまで来ていることは知っているはずだが、特別な気配は何も感じられない。
慎重に木の幹から幹へと身を隠すように移動して、後円中心部がなんとか木々の間から望むことが出来る位置までたどり着いた。
確かに古く苔むした石の柵があり、その影から見える中央部にはこんもりとした土饅頭が見える。周囲は下草が刈られむき出しの地面が見えていた。
土饅頭のにはさらに砂で作った小さい山が盛られ、その前に真新しい杯や榊が供えられていた。
また、その周囲の木には何枚かの銅鏡が吊り下げられていた。
五時十分、日の出の五分前に盛り土の奥から若い女性が現れた。
日御子に違いない。直感でそう判断した。頭上に茂る森のために周囲はまだ薄暗く、その表情まではわからないが、遠目には細身のシルエットをカジュアルなパンツとシャツで包んでおり、街を歩いている女子大生と何も変わらない。
カルト教団の教祖にありがちな、こけおどしの修行服や大げさなアクセサリーも見当らない。ただストレートの髪は肩よりもかなり下まで伸びており、そこだけがやや古風な感じに見えた。
続いて、壮年の男が同じように盛り土の奥から現れた。あの向こうにきっとアジトと見られる洞窟があるのだろう。
男のほうも同じように細身で綿パンにシャツ姿、白髪混じりの少し長めの髪形はどう見ても日曜日の管理職にしか見えない。
ふたり並んで立つ姿は、ここが天皇陵でなかったら上流サラリーマン家庭の仲のよい親娘にしか見えないだろう。
核兵器の存在を匂わせながら政府を脅すカルト教団の教祖と側近という状況から、思い描いていた姿とのあまりの差に、洋子は拍子抜けするような気持ちだった。
朝霧の中でまず、日御子と思われる女性が祝詞のような言葉を朗じはじめた。
それは若い女性の澄んだ声ながら、意外に力強く辺りに響き、その抑揚はまるで小波のように低く、高く、そして心地よくあたりを包んだ。まるで一流奏者によるクラシックの独奏を聴いているかのようだった。
内容はまったくわからなかったが、数分の祝詞の最後に「カシコミ、カシコミ申す」という言葉がまるで天空に登っていくように空に吸い込まれていくと同時に、遠く木々の合間に見える金剛山地の山際に眩しい光が走った。
日御子がその光に向かって二拝四拍手した瞬間、遠くの光がまるでその拍手の音に導かれたようにこの天皇陵の森に差し込んできた。
周囲の空気は一変し、真っ赤な朝日がまるで生き物のように顔を出した。
盛り土の周囲に吊り下げられた数多くの鏡はそれぞれが朝日を写して赤く輝き、反射が反射をよび、日御子とナシメの周りを赤い光が眩く交差していた。
それは、いままで洋子が見たことの無い荘厳な日の出だった。
いや、朝日自体はいつもと同じ筈だ。多分単なる日の出だけなら、例えば洋子の生まれ故郷の島で見る太平洋からの朝日のほうが遥かに雄大で美しい。
しかしそこに日御子がいるだけでまるで彼女が朝日をしもべのように操り、そして光が彼女の周りを歓喜しながら踊っているような錯覚を覚えていた。
日御子が一礼を終えた時、天皇陵に完全な朝が訪れた。
日御子に続きナシメが斜め後ろで一礼をしたところで、多分日拝の儀式は終わったのだろう。日御子とナシメの表情に穏やかな笑みが見えた。
そして日御子が洋子とアヤタチの隠れている石柵のほうに向かって軽く会釈しながら微笑んだ。
それは同性である洋子ですら胸が締め付けられるような美しい微笑だった。
北の工作員が任務を放棄してでも彼女に尽くそうとした気持ちがその微笑を見ただけで理解できた。
「天涯の花」と元工作員が言った例えは、まさにそのとおりだと思った。
日御子の美しさは、ヒトの美しさでは無い。あの人は美人だ、とかあの女優さんは綺麗ね、という表現は、所詮ヒト科ホモサピエンスの中での容姿の優劣でしかない。対して日御子の美しさは、例えば満開の桜を一陣の風が吹き抜けた時に舞うひとひらの花びらの美しさであったり、真夏の太陽を受けてキラキラと輝く清流の美しさであったり、秋の夕暮れの涙が出そうなほど切ない里山の風景の美しさであったり、冬の日の障子越しに見える雪景色の凛とした美しさであったり、そんな形容しがたい美しさをあの元工作員は「天涯の花」と表現したのだ。
既に隠れていることに意味はないことを悟ったアヤタチと洋子は立ち上がって、石柵の中に入って行った。
アヤタチは昨夜の話どおり、笑っている。
日御子も微笑を浮かべたままだ。
洋子も何とかぎこちないながらも笑顔らしいものを作って中央の盛り土部分に向かって歩く。
太陽に向かってを打っていたナシメと思われる男も微笑を浮かべてこちらに顔を向けた。
東から差し込む朝日に遮られて不明瞭ながら、洋子はナシメの顔に見覚えがあるような気がした。
洋子の頭脳の中で、目まぐるしく検索が始まった。若く見えるが年齢は六十前後、細身、白髪で、身長百七十から七十五㎝、全体として非常に知的でソフトなイメージ。
彼女の持つ、犯罪者、および公安の要注意人物データベースになかなかヒットしない。
けれどナシメは絶対に洋子の記憶のどこかにある人物に違いなかった。
近づきながら記憶を辿っている洋子に対して、ナシメが先に声をかけた。
「おや、やはりあなたは内閣調査室の『グリーンペペ』さんですね。お噂はかねがね伺っていたが、実際にお目にかかってみると、聞きしにまさる美人だ」
コードネームで呼ばれて初めて、彼女のデータベースにナシメがヒットした。
元外務省アジア大洋州局長、羽田米次郎。
ミスター外務省と呼ばれたあまりの大物であるが故に、かえって洋子の中でナシメと結びつかなかったのだ。
たしか、一年前に東アジア諸国に対する外交方針で総理と対立し、更迭された筈だ。その後、結局外務省を退職し、どこか民間シンクタンクの所長に納まったと聞いていたが、まさか『日御子の光』教団の幹部になっていたとは知らなかった。
「はじめまして、ナシメです」そう言って握手を求める仕草は、数十年の外交生活で鍛えられたのか、非常に洗練されており、思わず洋子も警戒することも忘れてそれに応えた。
「なんや、お互いに知っているんや」
アヤタチの声に今度は彼のほうにも手を差し伸べてきた。
「残念ながら君の事は存じあげないのだが、昨夜からの活躍を拝見して、驚きました。日本政府に私の知らない、こんな優秀な戦闘員が存在したことを。是非、正式な所属とお名前をお伺いしたい」
「宮内庁書陵部、衛視アヤタチです」
笑顔で彼の手を握り返した。
「衛視・・・」
ナシメはその所属に驚いた様子で、助けを求めるように洋子を見た。
「私も、昨日初めて会ったので詳しいことはわかりません。ただ宮内庁の中には、私達の知らない組織というか、一族というか、そういったものがあって、太古の昔より皇統の影の部分を担ってきたそうです。彼自身は自らをスサノオの末裔と言っています。俄かには信じられない話ですが、今回の事件で宮内庁が書陵部衛視という肩書きで正式に派遣してきた事と、彼の能力から判断して私は現状では、ほぼ真実ではないかと考えております」
相手が元政府高官だったことで、知らぬ間に洋子の口調も、上司に対する報告口調になっていた。ナシメは大きく頷くと、あらためて言った。
「昨日からの君たち二人を陵内の各種センサーを通して拝見し、驚きました。私は日本政府の危機管理能力を見くびっていたようです。
アヤタチさん、そしてグリーンぺぺさん、あなた方の相手をした三人は、私が教団の守護神として外務省時代の人脈を駆使し北から派遣してもらった選りすぐりの戦闘員です」
洋子はナシメの言葉を遮るように言った。
「すみません。確かに『グリーンぺぺ』は私のコードネームですが、出来れば本名の瀬掘洋子で呼んでいただけますか」
「ほう、本名は瀬掘さんですか。あなたの評判から『グリーンぺぺ』がぴったりだと思いますが・・・。お嫌なら瀬掘さんとお呼びしましょう」
そこでアヤタチが口を挟んできた。
「『グリーンペペ』かわいくていい名前や。なんで嫌なんや?」
(余計なことを)といった表情で横目でアヤタチを睨む洋子を見ながらナシメが言った。
「『グリーンぺぺ』は瀬掘さんの生まれ故郷、東京都小笠原村に自生する文字通り緑色に光る夜光性のきのこの現地名です。その発光性は世界一と言われています。しかもその一本あたりの寿命が三日しかないために、古来より『神出鬼没』の美しいきのことされているのです」
その説明に、洋子は不機嫌そうに自ら説明を加えた。
「ただし、食用には適さない・・・」
笑いながらナシメが続ける。
「つまり、神出鬼没で見た目は非常に美しいが煮ても焼いても食えないと・・・」
そこまで聞いてアヤタチは周囲に響くほどの大声で笑った。
「ははは、そりゃ、ほんまにぴったりやな」
洋子は憮然としている。
しかし、その場の雰囲気はまるで仲のよいご近所同士で談笑しているかのような和やかな空気に包まれた。
その様子を楽しそうに見ていた日御子が静かに言った。
「私が教団代表、日御子です。ナシメ、立ち話はこれぐらいで、中に入ってもらいなさい」
「はい」
外務省局長という言わば日本のトップエリートだったナシメが、二十歳前後の小娘の命令に素直に従っていることが奇妙に見えた。
日御子とナシメの案内に従って円頂部中央の盛り土から北側に回りこむとそこには、地下へ通じる小さな入り口があった。それは大人が腰を屈めてようやく入れるくらいの大きさで、真新しい木の枠組みがあることから、最近になってナシメ達が作ったものだろう。
そしてそこには、今は開放されているが、黒く重い金庫のような金属の扉が付けられていた。
入り口の横には樹木によって擬装されているが、ほんの一メートルほどの携行式ランチャーミサイルの砲身が見えた。
洋子の視線がそれを捉えたのを見逃さずナシメが言った。
「そのランチャーは小型ですがロシア製の携行型地対空ミサイルがセットされていて、此花区のUSJ入り口ゲート前の巨大な地球儀にロックオンされています。ボタン一つでいつでも発射できます」
それは静かな口調ながら、明確な脅しだった。
USJとは言わずと知れたユニバーサルスタジオジャパンのことだ。東京ディズニーリゾートと並ぶ日本有数のテーマパークはアメリカハリウッド映画の町並みを模しており大阪湾岸随一の観光地だ。
確かにこの仁徳陵からUSJまでは直線で十㎞ほどしかなく、近年の誘導型ミサイルの性能を考えれば、そこに向けて地対空ミサイルがロックオンされていれば、相手は動かないだけに確実にヒットすることが出来る。
しかも携行式地対空ミサイルは、中東のゲリラなど生産国以外にもかなり出回っており、ナシメの経歴から推測すれば、ロシアないし北朝鮮から極秘に入手することは可能だろう。
(もし本当にあの弾頭に核物質が装填されていたら・・・)洋子は背筋が寒くなるような思いでそれを見つめた。
「さあ、どうぞ中へ」
意に介さない様子でナシメがアヤタチと洋子を穴の中へ誘う。
ためらう洋子を見かねて、日御子が先に入り口に立つと、
「中には誰もいません。ここにいる教団メンバーはあなた方が倒した三人を除けば私とナシメだけです」と洋子を安心させるように言って中へ消えた。
アヤタチが、眼で頷くように洋子を見ると日御子のあとに続いた。
背後にナシメの視線を感じながら、洋子もアヤタチの後に続いて中へと入っていった。
そこは上映前の映画館のような落ち着いたオレンジのライトで照らされた薄暗い空間だった。
数段の階段を降りてみると、中は意外に広く、地表から数メートル掘り下げた竪穴の上にこの天皇陵の樹木をドーム型に組み上げて天井を葺いているだけなのだが、それでもマンションのリビングルームぐらいの広さがあった。さらに奥のほうには衝立があって、その先はどういう構造になっているかはわからない。
そしてもっとも眼を引くのはその中央に置かれた巨大な石棺だった。
まるで博物館の陳列物のようにスポットライトに照らされた石棺は幅2m、長さ3m、高さ1.5m程度の巨大な長持型石棺で、破損や崩壊もなくほぼ完全な姿だった。
棺の周りには、この大型の石を墳丘頂上まで運ぶための縄かけの丸い突起がいくつかついており、その突起の前面には朱が塗られた痕跡があり、千五百年経た今でもその赤色は明確に識別できる。また上部の石蓋は丸く盛り上がっており全体としては長持型というより亀のような形をしていた。たぶん火山灰から出来た凝灰岩だとすれば重さ30トンは下らないだろう。
この形の石棺は、主に畿内の大型古墳の被葬者に用いられていたため、『大王の石棺』と呼ばれる形式だ。ただ通常の長持型石棺にはない不思議なデザインの模様がその側面に刻まれていることが認められた。
「直弧紋やな」
アヤタチが呟いた。
「よくお判りですね。そのとおりです」
ナシメが答えたが、洋子にはなんの事かわからない。
「吉備や九州の遺跡の装飾に見られる円と直線を複雑に配置したデザインや」
アヤタチがぶっきらぼうに説明してくれたが、吉備や九州の紋がここにある意味を把握しかねていると、ナシメが
「今お茶でも淹れますから、こちらへどうぞ」とアウトドア用のテーブルチェアセットを示した。
日御子も立ったまま二人が座るのを待っていた。自分の立場を忘れて、何か日御子に気を遣わせているのが申し訳ないような感覚に囚われ慌てて洋子は小さな布張りのチェアに腰掛けた。
続いてアヤタチも腰掛けるのを確認した後日御子も椅子に座った。
衝立の奥からナシメが柔らかな仕草で人数分のコーヒーを持ってくると各々の前に置き、自分も空いている席に腰掛けた。
巨大な石棺を前にした薄暗い空間で4人の男女が向かい合って座っている。
「どうぞ、毒は入っていませんからご安心ください」
と、ナシメがまずそれを証明するかのようにコーヒーに口をつけた。
「大概の毒物にはワイは耐性があるから平気やで」
本気とも冗談ともつかない口調でアヤタチが口に入れるのを確認して洋子もコーヒーに口をつけた。
正直、丸一日ぶりの液体は口中から胃にまで染み渡るように美味しかった。
その様子にナシメが
「これは『コピ・ルアク』というコーヒーですから、美味しいでしょう」と自慢げに言った。
「なんや、それ?」というアヤタチに洋子は説明した。
「『コピ・ルアク』はジャコウネコの糞から採れるインドネシア産の世界最高級の豆よ」
「猫のフンかいな・・・」アヤタチが複雑な表情をしながら目の前のカップを見つめた。
それが可笑しくて、洋子も日御子もナシメも声を出して笑った。
和んだ空気のなかで洋子が尋ねる。
「この空間は石室を改造したものですか?」
「ここは、日御子さまと私のためにあなた方に倒された三人が作ってくれた部屋です。実際の石室は完全に天井石が崩落して、側面の石の壁も崩れて土砂に埋まり、この石棺も半分は地上に露出した状態でした。数ヶ月前から夜陰に紛れて彼らがここに入り、石棺の周囲の土砂を取り除き、竪穴式石室の壁を広げ、樹木で天井をカモフラージュしながら組み上げて作ってくれたものです」
ナシメが天井を見上げながら答えた。
「盗掘はされていなかったのですか?」
「いえ、完全に盗掘されていました。それも一度ではなく、いろんな時代に何度も盗掘された形跡があり、土砂の中から出てきたのは、ガラスの破片や埴輪の破片、甲冑や鏡の一部ではないかと思われる金属片などで、完全な形のものは一切ありませんでした。いえ、正確に言うと、僅かに数点完全な形のものが・・・」
ナシメは少し間をおいた後、吐き出すように言った。
「コンビーフなどの缶詰の空き缶が数点。多分終戦後GHQの調査隊が残していったものです」
「じゃあ、この石棺も既に荒らされたあとのものなのですか?」
洋子の問いにナシメは気を取り直すように言った。
「それはまだわかりません。私たちも確かめていないのですから。ただ、側面や蓋石の部分には数多くの盗掘を目的とした穴や傷はあります。しかし、さすがにこの大きな石を貫通することは難しかったらしく、すべて途中で諦めた痕が伺えます。もしこの石棺が暴かれているとしたら、この巨大な石蓋を開封するだけの財力と権力を持った人間だけでしょう。GHQも占領下の日本人慰撫政策の中でそこまでの暴挙には出られなかったようです」
四人はあらためて目の前の巨大な石棺を見つめた。一般には長持型と呼ばれるが、丸い突起や上面の緩やかな半円型から全体の姿はSF映画に出てくるタイムマシンやUFOに近いイメージだった。
「そういえば、さっきの直弧紋ですが、これがこの石棺に刻まれていることに何か意味があるのですか?」一度抱いた疑問はすぐに解決しないと洋子は気がすまない性格だ。
「直弧紋は、字のとおり直線と円の弧が複雑に絡み合った日本独特の文様で、主に吉備から九州にかけての装飾古墳の壁や埴輪に描かれたり、石棺などに刻まれることが多く、その意味に関しては太陽信仰の影響だという説や水紋を象っているという説があります。まあ答えとしては両方で、私たち『日御子の光教団』の教祖日御子さまの系統である太陽神、卑弥呼、トヨ、アマテラス、神功皇后、彼女らに敬意を表し、死後の復活を願って、あの世である海の果てとそこから復活する太陽をモチーフにした文様なのです」
「それが、この石棺に刻まれていることにどんな意味があるのでしょうか?」
他の三人には自明の事でも、日本の古代史に対する造詣があまり深くない洋子にはまったくわからない事が多い。さらにどうもスサノオの子孫と自称するアヤタチと日御子、さらにナシメの間には何か共有された前提条件となる事実があって、洋子だけがそれを知らされていないような雰囲気が感じられ、それをはっきりさせないと気がすまなかった。
「邪馬台国論争はご存知ですね」
唐突に日御子が口を開いた。先ほどの祝詞の時とはまた別の透き通るような声で、洋子はその声にも惹かれるものを感じながら頷いた。
「結論から申し上げますと、九州も近畿もどちらも邪馬台国なのです」
「それは、邪馬台国が九州で発生し、後に近畿に東遷して大和朝廷になったという『邪馬台国東遷説』ですか?」洋子がごく一般的な知識から尋ねると日御子は微笑を湛えたまま、続けた。
「いいえ、もともと当時の邪馬台国は九州から関東に広がる広大な連邦国家だったのです。敵対する南の国、つまり熊野国、今の和歌山県南部を除けば。だって魏の国がシルクロードの広大な強国、大月氏国と同等の称号をいくら小国といっても九州や畿内の一地方政権に与える筈がないでしょう」
「では、魏志倭人伝が伝える邪馬台国の女王の都の位置は畿内説が正しいのですか?だって熊野国が狗奴国だということは、その北にあたる畿内が邪馬台国の中心地ということでしょう」
洋子は中学、高校で学んだ日本史の知識で何とか日御子の説明を理解しようとしていた。
「それは半分当たっているけど、半分間違っています。連邦国家である倭国は、九州北部、代々トヨを名乗る私の一族が統べる豊の国つまり『ヤマトノトヨコク』を宗教的な中心地とし、軍事、政治、経済の都はその時々によって畿内であったり吉備であったりの、二眼構造だったのです。つまりは北九州から山陽、四国、近畿までの瀬戸内海を中心としたエリアすべてが邪馬台国連邦だったのです。その後政治的な中心地が今の奈良県、に固定されたためにそこが大和という国になったに過ぎず、もともとのヤマト国はあたかも地中海文明のように内海を自由に航行することで栄えた海洋国家だったのです」
その言葉で洋子の中でかなりの疑問が氷解した。なぜ魏志倭人伝の邪馬台国の位置が霧に包まれたようにあやふやであったのか。つまり二世紀の倭国大乱を収めた卑弥呼がいた場所が即ち邪馬台国の首都だという先入観を捨ててしまえば、素直にヤマトと邪馬台国は一体化できる。魏志倭人伝の記述でも、魏の使者が訪れた邪馬台国を「女王の都とする所」との記述はあっても、そこに卑弥呼が常駐していたとは書かれていない。逆に「年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ」と卑弥呼自体を見た者もほとんどいなかった状況を伝えている。そして卑弥呼の容貌や言動に関する記述が一切無いことから、使者自身も卑弥呼と直接会ったというよりは、卑弥呼がいた場所とは別の政治的中心地に招かれて、代理人に会ったと考えるほうが自然だ。つまり、斎巫女である日御子こと卑弥呼は豊の国で宗教的権威を保ち、一方で卑弥呼の意を受けた弟(実際に血縁関係にあったかどうかは疑わしいが)か、あるいは連邦国家の王の中の一人が為政者として別の場所でヤマタイ国の中枢として存在したのだろう。その政治的都が、魏の使者が訪れた当時、近畿のどこかにあったとしたら、北九州、畿内両方に邪馬台国の痕跡が認められるのは当たり前なのだ。
今でも北九州には宇佐八幡宮や宗像大社のようにその起源を伊勢神宮より古くする宗教的権威が鎮座していることがそれを裏付けている。さらに洋子は日本史で学んだ奈良時代の宇佐八幡宮神託事件を思い出していた。怪僧道鏡が女帝称徳天皇の寵愛を得て、自らが次代の天皇となろうとしたとき、その根拠として持ち出したのが、宇佐八幡宮の神託だった。結果的には和気清麻呂がわざわざ九州まで出向いてそれが偽りであることを暴き、道鏡の野望は頓挫するのだが、考えてみれば、次の天皇を決めるほどの権威が奈良時代であっても伊勢神宮ではなく九州宇佐八幡宮にあったことは、日御子の話の証左のひとつかも知れない。
日御子の話は続く。
「卑弥呼が死んだあと再び倭国が乱れ、一族の娘トヨが日御子を継いで平和が戻ったことは魏志倭人伝の記述どおりです。この時トヨはわざわざ豊の国から瀬戸内を東上し畿内まで来て、その宗教的権威で乱を鎮め、自らの一族の男性を畿内そして倭国の為政者として任命しました。この事は神功皇后が、九州で出産した際に、皇位継承権の剥奪を恐れ、畿内で反乱を起こした応神天皇の異母兄、香坂皇子と忍熊皇子を平定するために瀬戸内を東上し、自らの子、つまり応神天皇を皇位に就けたとの記紀の記述に投影されています。そして応神天皇が反乱首謀者である忍熊皇子の本拠地である大和の国三輪から、この河内に邪馬台国の政治的な中心を移したのです。何故なら、河内こそ瀬戸内海を通じて宗教的な聖地『豊の国』と直接海の道で繋がり、かつ敵対する狗奴国こと南の熊野国や、反乱を起こした東の大和三輪に対する戦略的要衝にあたるからです。記紀ではこのあたりの歴史に関して、天皇家の万世一系の記述と矛盾が起きないようにかなり工夫した跡がうかがえます」
「つまりは、ここに巨大古墳を作ったのは、単に大陸や九州からの旅人に対する示威だけでなく、背後の三輪や熊野に対する牽制の意味もあったわけね」
洋子が納得すると、日御子は頷いた。
「そのとおりです。応神天皇が大和三輪王朝に代わってこの地にトヨの命を受けて河内王朝を立てる際に、トヨから預かったのが、自らの正当性を示す『親魏倭王』の金印だったのですが、仁徳天皇の在位中、420年に魏から政権を禅譲された晋が完全に滅び、宋が中国を統一したために、存在価値を失いその7年後に没した仁徳天皇の棺とともにここに埋葬されたのです」
「日御子ことトヨの直系である仁徳天皇の石棺には太陽と復活のシンボル直弧紋が描かれていても何の不思議もないわね」
最初にアヤタチから「金印が仁徳天皇陵内にある」と聞かされた時には違和感があったが、こうして日御子の口からその経緯を聞けば、確かにここに金印があって当たり前のような気もしていた。
しかし、実際に金印はあったのだろうか?
石棺以外の部分は、盗掘のため完全に荒らされていたと言う。石棺はまだ未開封だということは、多分まだ金印は見つかっていないのだろう。
また、仮に、金印があったとしたら、それをどうするつもりなのだろうか。
洋子がその疑問を口にすると、今度はナシメが答えた。
「金印はまだ見つかっていません。多分この石棺の中にあると信じていますが、事情があって今はこの石棺を開けるのを待っています」
「事情?」
アヤタチが聞き返したが、ナシメはそれを無視するかのように話を続けた。
「金印は日本人の皇室に対する幻想を砕くために使います。戦争に負けようが、大震災に見舞われようがびくともしなかった日本人の皇室に対する尊崇の念。その理由はそれがほぼ単一民族に近い日本人のアイデンティティの源だからです。美しく豊かな自然を持つこの国土とそこに幾世代にも渡って住み続ける人々にとって皇室はまさに現行憲法の記載どおり『日本国民統合の象徴』なのです」
「確かに天皇陵から『親魏倭王』の金印が見つかれば、邪馬台国と現皇室の連続性が証明されるビッグニュースなわけだけど、それが皇室への幻想打破に繋がるかしら?戦前とは違ってすでに大半の国民が本気で皇室が紀元前の神武天皇の時代から続いているとは思っていない中で卑弥呼と皇室の関係が証明されたからといって、それほど幻滅するとは思えないけど」
ナシメは大きく頷きながら答えた。
「そうです。我々は金印を単なるビッグニュースに終わらせないためにこうしてここに篭っているのです」
話がまだ見えずに苛立ちながら洋子は尚も食い下がる。
「仮に、金印の発見をもって天皇家の権威を失墜させることに成功したとしても、それが何になるの?あなたがた『日御子の光教団』がそれで天皇家に取って代われるとは思えないわ」
ナシメは再び深く頷いた。外交官時代からの癖なのだろう、相手の主張を正確に、そして誠実に聞くその態度は好感が持てた。
しかし、ここでナシメは唐突に、そして幾分強い口調で言い放った。
「目的は革命です」
このようなトリッキーな間の取り方も彼が如何に優秀な外交官であったかを想像させる。
「古来、日本では真の意味での『革命』が起こったことはありません。『革命』の定義を中国風に王朝の交代とすれば、今の天皇制が続く限り、過去も未来も日本で革命が起こる可能性はありません。真の意味で革命を起こそうとすれば、まず天皇制の打破がその第一歩なのです」
「革命って何の革命ですか?まさか今さら日本に社会主義革命や共産主義革命を起こそうなんて時代錯誤なことを考えているのではないでしょうね」
洋子はますますナシメが何を言おうとしているのかわからなかった。
「私が目指しているのは『日御子の光教団』を中心とする宗教社会主義国家です。昨夜アヤタチさんがおっしゃっていたように、かつて魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の姿、人々が一定の秩序のもとに相和し心豊かに暮らす、文字通り豊の国、豊葦原瑞穂国を現代に再現することが目的です」
何を夢のような事を言っているのだろう、という洋子の表情を読み取ってさらにナシメは続ける。
「宗教社会主義という言葉自体が非常に古臭く感じることは確かです。しかし実際には世界の潮流は科学技術の発展と逆行するかのように、中東ではイスラム社会主義的なものが、ヨーロッパや北米ではキリスト教社会主義的な考えがどんどん勢力を強めています。まさに『人はパンのみにて生くるにあらず』。二十一世紀になって唯物論的なマルクス主義も、享楽的なアメリカ的資本主義も出口を失い、人類すべてがあるべき理想像を模索している今こそ我々にとって宗教を介在した新しい国家造りが求められているのです」
「でも、金印ひとつでそんなに革命を起こすほどのエネルギーが生まれるとは思えないわ」
「革命を成就させるには大きく三つの要素が必要となります。まず第一に現体制に対する民衆レベルでの大きな不満です。これは現状の日本の国家としての凋落ぶりを見ればすでに十分だと思います。第二は革命後の明確なビジョンです」
それが洋子にはよくわからない。日御子の光教団がどんな新しい国家像を見せてくれるのか。
「日本国民、いや全人類はすでにアメリカ的な物質文明では満足出来なくなっています。だからこそ人々は宗教やスピリチュアルなものに惹かれ、様々なカルト教団や怪しげな占い師や霊媒師が世の中を跋扈しています。それはアメリカ的な物質による充足だけでは誰も満足を得られないことに気付いたのです。
さらにアメリカ的な民主主義や平等の理念も実際に手に入れてしまえばそれほど魅力的なものでは無かった。そこで我々は日御子さまを中心に、より高次元の満足度を得られる社会を築くために革命を志向したのです。それはあの有名な心理学者マズローが、晩年になってようやく、欲求の五段階のさらにその上にあると確信した自己超越の世界に似ています。即ちまず自分が在ることに満足し、それを支えてくれる森羅万象に感謝し、そこから有益なものを創造することに生きがいを覚えることの出来る社会です。そのためには所有欲や名誉欲などの低次元の欲求を捨てる事を学ばねばいけません。我々『日御子の光教団』はそのための導師として革命の中心になるのです」
そう聞いても、洋子には、ナシメの言っている事が近頃の新興宗教の教義とどう違うのかがわからない。とても明確なビジョンとは思えなかったが、先ほどまで柔和だったナシメの瞳に憑かれたような光が宿ってきたことに気がついていた。
「第三は、まさに革命の中心となる核の存在です。強烈なカリスマ性をもった存在が必要になるのです。人々を熱狂させ、陶酔させてくれる存在が無ければ革命は成就しません。かつて日本でも、学生運動の盛んな時期がありましたが、結局皇室を超えるカリスマ性をもった指導者がいないために民衆の支持を得ることは出来ませんでした。しかし金印を携え、皇室以上の血脈の正当性を持ち、宗教的なカリスマ性を備えた日御子さまという指導者を得て、革命成就の要件はすべて満たされたのです」
唐突にナシメが学生運動を引き合いに出したことが洋子には引っかかるものがあった。もしかしたら彼も若い頃は学生運動にのめりこんでいたのではないかと思えた。確かにナシメの年齢から逆算すると第二次安保闘争の世代に近いと思われる。能弁に、そして酔ったように革命について語るナシメの様子は当時の左翼学生に共通の雰囲気が感じられた。
「ほいで、片手に金印を掲げ、片手に汚い核を持って、ロシアや北朝鮮を後ろ盾にここから革命ののろしを上げるつもりなんか?」
あきれたようにアヤタチが口を開いた。そして今度は日御子に向かって言った。
「あんた、ほんまにこんな神輿にのるつもりなんか?あんたはワイらのような影の家系やない。言うてみれば皇室以上に神に近い家系や。太陽のように眩しすぎてかえって誰の前にも姿を現さずにきた血筋や」
日御子は微笑を絶やさずアヤタチの言葉を聴いていた。
「正直、ワイも家船の中に天皇家と祖先を同じくする尊い血筋があることは知ってたんや。今回の事件を聴いた時、あんたが関係してるんやないかとも思うていた。 せやけどこんな馬鹿馬鹿しい革命ごっこの片棒を担ぐなんてどうかしてるんやないか。このナシメって男に利用されているだけなんやないか」
アヤタチはナシメを目の前に堂々と批判した。
「日御子はん、あんた本当にこの男の言うてる革命が実現すると思うてるんか」
すると日御子は微笑したまま答えた。
「この男は小賢しいのです。自分の夢のために都合よく私を利用しようとしています。でも・・・」そこで日御子は言葉を切って、ナシメを見た。
「その小賢しさがいとおしいのです。ナシメに限らず人は小賢しいものです。どんなに悟ったふりをしていても小賢しさの呪縛から逃れることは出来ません。この男の小賢しさはお菓子をねだる子供のようなものです。笑って許してあげてください」
二十歳そこそこの小娘にそう言われたナシメは図星を指されたように苦笑いをしているだけだった。
しかし洋子も日御子の言葉に違和感は感じなかった。言われて見れば自分だって小賢しいのだ。自分の小さなプライドを満足させるために他人を傷つけたり、美人と言われて、内心嬉しいくせに嫌な顔をしてみたり。
(小賢しいのはナシメだけじゃあない。私も同じなの)そう日御子に告白したい気持ちになっていた。
その時アヤタチが言った。
「洋子はん、あんた既に日御子はんの鬼道に惑わされているで。気をつけたほうがええ」
そう言われても洋子は何のことかわからなかった。
「魏志倭人伝に書かれた『鬼道をもって衆を惑わす』っていうのは、呪術や占いと違う。文字通り人をとりこにするんや。あんたもう既に何のためにここに来たか、忘れているやろ」
「何のために?」
「ワイと一緒に、この二人と汚い核を排除し天皇陵と日本を守るために来たんやないか。それが先刻からあんたが日御子はんを見る目はまるで恋人を見る眼や。でもあんたの目の前にいるこの女は、あんたがテロリストと呼んでいた人間やで」
「嘘」洋子はアヤタチの言葉を否定したかった。「日御子さんがテロリストなわけがない。」そう言いたかったが、一方で冷静な自分が確かにアヤタチの言うことが正しいことを告げていた。
混乱する洋子に日御子が優しく語りかける。
「洋子さん。私は太陽の光と皆さんを繋げる鏡です。私自身が神獣鏡なのです」
何のことか洋子にはわからない。
「人が世界で一番好きなのは自分です。私には私はありません。私と対する人はすべて私の中に大好きな自分を見ます。だからみんな私に好意を持ってくれます。かつて魏志倭人伝ではそれを『鬼道』と表現したようですが、つまり小賢しいナシメは私に同じ小賢しさを見て私に魅せられています。そして洋子さん、あなたは本当に美しく聡明な方ですが、やはり心の中に何か違うものを持っているようです。そしてそれを私の中に見つけているのです。ですから何もあなたが混乱する必要はありません。あなた方から見れば私はテロリストに違いないのですから」
そう言われて、すでに洋子の中で日御子に対する敵対意識は消滅していた。前方部で戦ったあの元工作員の気持ちが完全に理解できた。
その様子を見ていたアヤタチが我慢できないように割って入った。
「もうええ。日御子はん。あんたの力はようわかった。それでも、とにかくあの外にあったランチャーロケットを撤去して、この陵から出て行ってもらうんがワイの仕事や。そのためにはどうしたらええのか教えてんか」
自らを皇室の影の一族と名乗る彼には、日御子を通して映る姿は無いのかも知れない。
ただアヤタチの日御子に対する態度にも何か特殊な感情が見え隠れするように、洋子は感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます