第3話 後円部へ

「もしあそこに卑弥呼の生まれ変わりがいるとしたら、彼女に会えるのも、もう少しや」

 アヤタチが墳丘を仰いだまま、呟いた。そしていよいよ後円部の樹林に踏みこもうとした時、彼の動きが止まった。

「キチキチキチ・・・」

 モズの鳴き声がアヤタチの喉から漏れた。

 緊急を知らせる合図だ。

 一瞬の躊躇の後、洋子は近くの大きなやぶ椿の根元に伏せた。

 同じ瞬間に墳丘上部からまるで黒いつむじ風のように木の間を二つの影が駆け下りてきた。

 暗闇の中でも気配で二つの影がアヤタチに襲いかかったのがわかった。

 金属がぶつかりあう『カン、カン』という音が何度も響き、青白く小さな火花が散った。

 影達は何の声も発しなかったが、その動きはまるで何かのフォーメーションのように規則正しく闇の中を動いている。

 一方が正面から近づけば、時を同じくしてもう一方が同時にアヤタチの背面に回りこもうとする。一方が離れて間合いを取れば、もう一方も同じように離れる。

 星明りの中、次第に影の動きが明瞭に見えるようになった洋子の眼にも、アヤタチの苦戦がわかった。

 時代劇の殺陣などでは必ず約束事として相手は一人ずつ切り込んでくる。受ける側としては一人ずつ撃破していけばよいのだから、ある意味、相手がどんなに多人数だろうが戦いは常に一対一である分戦いやすい。

 ところがこの二つの影はまるで相似形のように同じ呼吸と同じ間合いで攻撃してくる。このため二刀流でも使って同時に相手に攻撃を加えない限り一人では太刀打ちできない。仮に一方に絞って反撃しようとすれば、その瞬間、もう一方の攻撃をなんの防御も出来ないまま受けてしまうことになる。

 アヤタチは洋子から少し離れた所にあったアラカシの木までたどり着くと、それを背後にして仁王立ちになっていた。

 とにかく大木を背面の防御に使い、左右からの同時攻撃を、一方は身をかわすことでよけながら、もう一方は身につけていた小型の変形ナイフで防ぐことで何とか凌いでいた。

 彼らの攻撃は多分軍用と思われる長さ十五㎝程度のサバイバルナイフを武器にしていた。

 その動きは、合気道に似て最小の間合いで水が流れるように動き、常につかず離れずの位置から連続した攻撃を加えてきた。しかし合気道との最大の違いは、そのナイフの最終到達目標が、明らかにアヤタチの頚動脈にあることだった。

 ひとつの攻撃をかわすと、かわされたその刃は、一度も相手の手元に戻ることなくそのまま喉に向かって襲いかかってきた。しかもそれは、先刻の前方部の男の銃撃とは逆で、恐ろしいほど明確な殺意が宿っている。

 何とかアヤタチを助けたいと思ったが彼らの動きは洋子が自衛隊の研修で身に付けた程度の護身術とはレベルが違っていた。不用意に彼女が動き、影のうち一方でも襲い掛かってくれば防御の間もなく瞬殺されることは明白だ。

 すでに五分以上格闘は続いている。攻撃する側も防御する側も一瞬たりとも動きを止めることがない命をかけた戦いの中でその五分は永遠に近い意味を持つ。アヤタチと二つの影の体力は驚異的だが、その動きがあと何分も持つとは思えなかった。

 それでも数分間アヤタチを交えた三つの影は金属のぶつかり合う乾いた音だけを響かせながらアラカシの大木の根元で蠢いていた。

 影たちは洋子に対する注意はまったく払っていなかった。こちらが男女二人なのは多分先ほどの前方部の男が暗視スコープで探っていたように、情報としては彼らも知っている筈だったが、洋子の存在にまで意識が働かないのは、それだけアヤタチの戦闘能力が想像以上であったに違いない。

 彼女は待っていた。

 今、彼女がアヤタチを助けるために無理に何かのアクションを起こせば、意識の外にある洋子の存在を影たちが思い出し、それを逆手に取る可能性がある。例えば、影の一方が洋子に襲いかかり人質に取ることでかえってアヤタチが不利になる可能性も考えられた。

 出会ってまだ半日だが、感覚としてアヤタチが洋子を見殺しにすることは考えられなかった。

 『自分が動くとしたら、一度しかない。戦闘の中で二つの影の呼吸が少しでも外れた瞬間、その僅かな呼吸の揺らぎに合わせて何かの形で自分の存在を影に教えることしかない。意識外の情報によって二つの影の呼吸の揺らぎがより大きな齟齬となった瞬間をアヤタチは必ず見逃さず何かの打開策をとる筈だわ』

 その一瞬を見逃さぬよう固唾を呑んで暗闇を見つめていた。

 その時、遠く墳丘の外からけたたましいトラックのクラクションが響いた。

 天皇陵のすぐ隣を通る高野街道を走るダンプかトラックの発した音だろう。距離があるためにそれほど大きな音ではなかった。しかしその音は、虫の声や葉擦れの自然の音しか無かった空間に異質のものであったために影たちの意識に入り込んでしまったに違いない。

 待っていた揺らぎだった。

 二つの影の攻撃に僅かな乱れがあった。

「ホーホケキョ」

 間髪いれず洋子の下手なウグイスの鳴き真似が闇に響いた。

 あまりに下手すぎて誰が聴いても本物のウグイスとは思えないレベルの口笛だった。

 二つの影の呼吸が完全に外れた一瞬だった。

 アラカシの幹からアヤタチの影が円を描くように動いた。

 星明りの下で金属が鈍く光った。

 一体何が起こったのか洋子にはわからなかった。ただ、そこには先刻までアヤタチを苦しめていた二つの影が地面に倒れ、小さな呻き声を上げていた。

「少し灯りを点けてもいい?」

 小声で洋子が尋ねると「ああ、ええよ」という声が聞こえた。

 持っていた携帯のライト機能でアヤタチを照らすとその姿は右手にあの特殊な形の短剣を下げ、口から血を滴らせていた。

 ライトをアヤタチの足元に移すと、一人の男は腰のあたりに血を滲ませて、へたり込むような形で倒れており、もう一人は喉の部分から血を流しながら『ひゅうひゅう』と空気の漏れるような呻き声を出して倒れていた。

 アヤタチは二人の呼吸がずれた瞬間に、相手に立ち直る隙を与えないために、二人同時に攻撃を仕掛けていたのだった。

 一人に対して短剣で腰を切りつけることで下半身の動きを封じ立てなくすると、同じ瞬間にはもう一人の喉笛を食いちぎっていたのだ。


 倒れている男は二人とも筋骨逞しいアジア系の若者で、やはりかなりの実戦経験があるのだろう。傷を負って流血しながらも、呻くだけで取り乱す様子はなかった。

 一方でアヤタチは、まるで肉食獣が狩を終えた後のように、不敵な笑みを浮かべて狩ったばかりの獲物を見下ろしていた。

 その姿に洋子は、確かに普通の日本人とは違う、狩猟民族の血を感じ、真夏だというのに寒気を覚えていた。先刻まで何となく感じていた恋愛感情に似たアヤタチへのほのかな好意が、嫌悪感と恐れに変わっていた。

 人間が人間の喉笛を食いちぎる。多分そんな技は世界中どんな格闘技を探しても見つからないだろう。まさしく獣の所業だった。

「ここがでなかったら、殺しているところやで。流石にここで殺生をして汚すわけにはいかんかったわ」

 そう言ってアヤタチが二人の若者の胸元をまさぐると、やはりそこには、『日御子の光教団』の三角縁神獣鏡があった。

「洋子はん、あんたの知識でこいつ等についてわかる事なんかあるか?」

 口元の血を拭いながら振り返るアヤタチに冷静な振りをしながら洋子は二人を観察した。

「ナイフは特殊部隊用に開発されたロシア製のコンバットナイフで、通常では輸出禁止対象となっているものだから、暗視スコープの件を考慮しても、やはり何らかの形でロシア軍と接点があると考えていいわね。さらに先刻の格闘を見ると、コンバットサンボの動きに合気道の要素を取り入れていて、これもやはりロシアの特殊部隊で最近取り入れられているらしいわ」

「ほな、こいつらロシア人か」

「そうとは限らないわ。というよりかつてのオウム真理教事件の時もそうだけど、ロシア軍ってところは、お金さえ出せば武器も売ってくれるし、民間人への軍事教育なんかも請け負ってくれるの。つまり宗教法人みたいにお金をたくさん持っている団体であれば、ロシアの武器を持っていて、ロシア軍の格闘術を使うようなメンバーがいても不思議ないわけね」

「ほな、こいつらは『日御子の光教団』の構成員やっていうんか?それにしてはあまりに手強わすぎるんちゃうか」

 実際、アヤタチの言うとおりだった。

 この二人の格闘術は、もし軍人だとしたら、軍の中でもトップレベルであり、単に研修を受けたというような生やさしいものではない。

とすれば、完全な職業軍人かプロの格闘家以外に二人の正体は考えられない。

「最初の男が北朝鮮人であったことを考えても、構図としてはオウムの時と同じように、『日御子の光』も北朝鮮を接点にロシアとのコンタクトを取っているんじゃないかしら。

伝統的に北の体制は、政治面では親中国、軍事面では親ロシアだから、前方部で出会った男も、この二人も、ともに北の軍事工作員と考えれば、ロシア製の武器を所持しているのも、狙撃や格闘技に長けているのも納得出来るわね」

「こいつらが、もし北の工作員とすれば、その目的はなんやねん?」

 ここまで説明したにも関わらず、素人でも理解できるような質問をするアヤタチが洋子には理解できなかったが、それでも答えた。

「日本の体制破壊ね。かつての赤軍のような左翼革命は時代の流れから見ても難しい事は彼らもわかっている。しかしオウム真理教のようなカルト教団を利用して体制を混乱させることは、思想よりも情緒的なものに弱い日本人に対して有効だということは、これも学習しているわけね。しかも、この手法は、宗教を隠れ蓑にすることで、自分たちは前面に出る必要はないから、万一失敗しても、あの時のように、関与の秘密を知る人間を始末してしまえば、撤収も容易なの。彼らは『日御子の光』を第二のオウムとして選んだ可能性が高いわ」

 アヤタチは、まだ完全には理解できない様子であったが、それ以上洋子に尋ねる事はしなかった。

「ところで、最初の男は殺意が無かったのに、この二人は、本気で私たちを殺すつもりだったみたいだけれど、これはどういうことだと思う?」

 逆に洋子が問うとアヤタチが心外そうに答えた。

「わかりきってる事を訊くもんやないで。最初の男が銃で狙撃してきた時には殺意がなく、今回の二人は明確な殺意をもってナイフで襲ってきた。つまりこいつらは敢えて銃を使わずナイフでワイらを殺そうとしたわけや。銃を使えば、いくら消音器を付けていても、ある程度の銃声は隠せない。しかしナイフなら完全に無音の中で殺傷することが出来る。ということはこいつらの仲間の誰かが、ワイらを殺すことに反対していて、そいつに内緒でこの二人は動いたんやろ」

 この会話を聞きながら、腰を切られて座りこんでいる男が少し悔しそうな表情を見せた。

 それを見て「図星やな」と言いながらアヤタチが言った。

「あんたの言うとおりやとしたら、こいつらは『日御子の光教団』を利用して日本の体制破壊を目論んでいる北の工作員なんやろ。しかし肝心の日御子自身か、あるいは彼女に近い実力者はワイらを殺すことは望んでいない。そう考えるのが普通やろ」

「そうね」うなずきながら洋子は、倒れている男に話しかけた。

「あなた達の正体はわかったわ。その傷ではどうせ動くことも出来ないでしょうから、私たちが帰ってくるまでここでおとなしくしていてね」

 すると二人のうち、腰を切られた方の男が

苦痛に顔を歪めながら呻いた。

「おまえら、日御子さまをどうする気や?」

「ほう、やっぱりあの山の頂上には卑弥呼の生まれ変わりがいるんやな。ただ、その人をどうするなんてことは、本人に会ってみな何とも言えへんな」

 アヤタチが素っ気なく答えると、意外にも男はすがるような眼で話し始めた。

「あんたたちの言うとおり俺もこいつも北に命令されて教団に入った人間や」

 そう言って隣で喉から血を流して倒れている男を眼で示した。

 あらためて携帯のライトに浮かぶ彼らの顔はまだ二十代前半、洋子より年下に見えた。

「内部から教団の性格を戦闘的なものに変えていくことが俺らの使命やった。そのために北のルートを利用してロシアから武器の調達もしたし、新たに入信した奴らに戦闘訓練もした。教団の中での地位が上がってくると、あらゆる機会を通じて教義普及のためには反社会的な闘争も止む無し、という主張を繰り返し、実際に脱会者や普及活動を邪魔する人間には拷問まがいのこともやった」

 洋子は北の工作員が自らの活動内容をこれほど簡単に話すのが意外だった。いくらアヤタチのために戦闘不能状態に陥ったとはいえ、通常では考えにくい事だった。

「俺らはこの大阪で生まれて育った在日や」

 その言葉にアヤタチも洋子も一体この若者が何を言いたいのか図りかねた。

「俺もこいつも、日本で生まれて日本で育ったんや。たまたま親が朝鮮籍というだけで、それ以外は普通の日本人となんも変わらん」 腰の傷を抑えながら苦しそうに言葉を続けた。

「せやけど、日本人にはなれんかった。確かに眼に見える差別なんてもう無いかもしれへん。せやけど俺らが朝鮮籍やとわかると、日本人はちょっと複雑な表情で距離を置くんや。

いや、日本人だけやない。在日社会の中でも韓国籍と朝鮮籍では同じ民族でも、もう何か少し距離があった。結局俺たち二人は、同じ境遇同士、世の中に背を向けて生きていくしかなかったんや」

 そして男は自分の着ていたシャツを引きちぎると、砕けた腰をかばうように地面を這ってもう一人の男に近づき、アヤタチに噛み千切られた喉の傷を塞いでやった。

「喧嘩も強かったし、何より『チョウセンや』って言うだけでヤクザも、警察さえ俺らを避けた。怖いものは何もない。せやけど俺たちと普通に付き合ってくれる奴も誰もおらへんかった。みんなひきつったような笑顔で離れていこうとした。そんな俺たちを普通に扱ってくれたのは北の政府だけやった」

 そして男はもう一人の若者の肩を抱きながらアヤタチと洋子を見据えた・

「そこから先はあんたたちが予測したとおりや。誘われるまま半島へ渡り工作員の教育を受けたあと、ロシアからヨーロッパを経由して、北の政府が用意してくれた偽パスポートを使って、純粋な日本国籍をもった日本人として戻ってきて、活動してたんや」

「それで、北の政府に『日御子の光』教団にに入って、内部から反社会的組織として育て、日本の体制破壊を図るように指示されたんやな」

 アヤタチの言葉に男は頷いた。

「で、何が言いたいの?」

 これほど簡単に自分の境遇を話す工作員にかえって不信感を持ちながら洋子が尋ねた。

「今は違うんや。信じてもらえへんと思うけど、俺ら日御子さまにお会いして、日御子さまの教えを聞いているうちに、心から日御子さまをお守りしたいと思うようになったんや。」

「つまり、ミイラ取りがミイラになったってわけね」

洋子の皮肉を無視して男が言った。

「日御子さまの教えはあんたたちの考えているようなカルト教団と違う。かつての邪馬台国がそうだったように、争いも諍いも無く、みんなが家族のように仲良くそして長生きできる理想郷を作ることが目的や。俺らはそのためならどうなってもええ」

「邪馬台国がそんな理想郷だったなんて誰が知っているの?どこにあったかさえわからないのに」

 あきれた口調の洋子にアヤタチが答えた。

「こいつの言うことはあながち嘘やないで。ちゃんと魏志倭人伝に書いてある。『その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。』ってな。つまり当時の倭人は百歳近い長生きで、女性は浮気や嫉妬もしないし、盗みや争いも少ない。法体系もしっかりしており、さらに身分の上下はあっても互いに信頼関係に基づく秩序が保たれているってことや。みんな邪馬台国がどこにあったか、そればっかりに気を取られて、この文章の重要さに気付いてへん」

 確かに洋子も『魏志倭人伝』といえば邪馬台国に至る道筋と、女王卑弥呼に関する記述は知っていたが、邪馬台国の風俗に関する記述など気にとめた事も無かった。

「考えてみ。中華思想に凝り固まって、周辺国家を蛮族や夷人扱いする国で、相手の女王や国の名前にわざわざ卑とか邪なんていう漢字を使う奴らが、何で後世に残す正史でここまで東海の小国をほめる必要があると思う?

答えはつまり事実だからや。いや多分彼らの意図からすれば、実際にはこの記述以上に当時の邪馬台国は社会的に安定した住みやすい国だったと考えるべきやろうな。魏呉蜀の三国で不毛な戦いを繰り広げていた当時の中国に比べると、邪馬台国はまさに奇跡の国と言っていいかもしれへん」

 そのアヤタチの言葉に勢いを得たように男は二人に向かって言った。

「魏志倭人伝には、卑弥呼さまは鬼道を使って衆を惑わすってあるが、嘘や。日御子さまの教えは、ただ鏡に向かって己の姿を写して、それが神であるか獣であるか判断せよ。それは自分自身が一番知ってる筈や、と教えてくれたんや。そして俺ら一人一人に日御子さまの心が入った鏡を下さったんや」

 そういう意味で彼らが三角縁神獣鏡のレプリカを持っているのか、と納得しながらも、洋子は、まだ腑に落ちないものを感じていた。

「じゃあ、私達を殺そうとすることはあなたのその鏡の中ではどう写るの?それにあなたたちが汚い核を盾に日本政府を脅迫していることはどうなの?あなたたちのその鏡に写して見て神の心に沿うものなの?」

 男は戸惑った表情を見せて答えた。

「俺ら二人は日御子さまのためなら獣になると決めたんや。日御子さまは相手が誰であろうが血を流すことは禁じておられる。せやから我々の計画を邪魔するものがあっても威嚇にとどめるように言われたんや。けど最初に前方部で俺らの仲間と戦ったあんたら、特にそっちの男を見たとき、とても威嚇どころでは日御子さまを守ることは出来へんとわかった。俺ら小さい頃から喧嘩や争いの中で育って、北朝鮮とロシアでは実際に人を殺す訓練も受けてきた。相手がどれくらいの実力かぐらいはすぐわかる。あんたらと戦うには殺すか殺されるか、中途半端な威嚇では日御子さまを守ることは無理やと感じたんや。せやから敢えて日御子さまの命令を無視してあんたらを襲った。ただ日御子さまにそれを知られまいとして銃を使わずナイフを使ったんが失敗やった。」

 そこで男は一度言葉を切ってからさらに続けた。

「けど、あんたの言う『汚い核』ってなんや?それは俺ら心当たりがない。日御子さまがここに入ったのは大事なものを見つけるためやと聞いてる。そのために竹島や尖閣、北方領土を諦めるようなんて、適当な脅しを日本政府に対して行なっているということは知ってるんやが、『汚い核』のことは俺らはしらへん」

 アヤタチも何かを言いたさそうに洋子を見ていた。

 彼女はもう既にアヤタチやこの二人の日御子崇拝者に「汚い核」のことを隠す意味を見失っていた。

「私が内閣調査室から聞いた話では、テロリスト、つまりあなたの崇拝する日御子さまは、日本政府が要求を聞かない場合『ファットボーイ』の封を開けると通告してきたらしいわ。ファットボーイ、即ち広島に投下された原爆『リトルボーイ』と長崎に投下された原爆『ファットマン』を混合した造語ね。そこから、政府は『ファットボーイ』を核物質を使った兵器だと予測しているの。さらにこの天皇陵において核分裂や核融合を促すための大型の起爆装置を設置することは事実上不可能だと考えた結果、『ファットボーイ』の正体は例えばセシウムやプルトニウムのような放射性物質を大気中にばらまくことによって、住民に放射性障害を与える兵器、つまり『汚い核』ではないかと考えているの。これなら放射性物質の入ったビンを打ち上げ花火に括り付けて上空で爆発させるだけでかなりの広範囲に甚大な被害を与えることが出来るわけね」

「仮にもし、この天皇陵から目の前の大阪湾に向けてその汚い核が打ち込まれたらどうなるんや?」

アヤタチの問いに洋子は静かに答えた。

「放射性物質の量と質によるけど、最悪の想定としてプルトニウムのような強毒性の核物質が大量に拡散したと仮定すれば、直接の放射性障害もさることながら、半減期が数万年にも及ぶ物質だから、大阪、神戸、堺の三つの政令指定都市とその周辺都市を含め人口約五百万の人々が被曝と避難を余儀なくされて、すべて永遠に死の街と化してしまう可能性があるわね」

 アヤタチと洋子と、二人の信者の脳裏にSF映画によく出てくるような人類破滅後に広がる広大な廃墟と化した関西の風景が浮かんだ。

「日御子さまはそんなことをするような方やない」

 腰から血を流しながら男は主張した。

「日御子さまは天涯の花や。いつもお日様に向かって俺たち信者だけでなく、世の中の生きとし生けるものすべての幸福を静かにお祈りされているだけや」

 そこで男は一息つくとアヤタチと洋子に懇願するような口調で言った。

「けどな、あんたの話を聞いて、少し気になることがある。もしあんたの話がほんまやったとしたら、そんなことをする可能性があるのはナシメや」

「ナシメ?」

「本名は知らん。皆がナシメと呼び、本人もそう名乗っている男や。教団創設時からの幹部信者で、『日御子の光教団』の対外交渉と資金面を一手に引き受けている奴や。俺ら以上に北やロシアに太いパイプを持っているという噂やけど、俺らみたいな北の工作員ではない。今も日御子さまと一緒にあの石室に閉じこもってる筈や」

 そう言って後円部の頂上を見上げた男の言葉には、先ほど日御子に対して見せた尊敬と憧れに満ちた表情とは逆に、何か敵意のようなものを感じさせた。

「そのナシメという男なら、第三国を通じて核物質を手に入れる事も可能だし、それを現実に脅迫の手段として使用することも有り得るということね」さらに洋子は相手の返事も待たず続けた。「ナシメって男の特徴を教えてちょうだい」

 信者の男は少し考えてから答えた。

「多分、年齢は五十過ぎやと思う。痩せ気味の神経質な感じの男で普段は他の信者と違ってスーツ姿の時が多いな。あまり喋らん奴で多分、教団の中でも親しい奴なんかおらへんやろ。俺らも教団に来る前に何をやっていたかとか、どこで資金を調達してくるのかなんてまったく知らん。ただあいつの命令を聞かんかった信者で降格されたり追放された奴はいっぱいおる。そのくせ自分は時々日御子さまの命令さえも無視するような態度を取る嫌な奴や」

 公安がマークする国内の危険人物のほとんどを記憶にインプットしている洋子だったが、それだけの情報量ではさすがにナシメの正体を特定することは出来なかった。

「今、石室内には日御子さまとナシメ以外にあと何人いるんや ?」

 アヤタチが口を挟んだ。

 その言葉に信者の男は自分がつい口を滑らせた事を悟り再び黙った。

「まあええわ。おまえ、根はいい奴みたいやからこのままにしといたるわ」

 そう言い捨てるとアヤタチは洋子に対して眼で出発を促した。

「待ってくれ。約束してくれ。日御子さまに危害だけは加えないと」

「それは日御子さま次第や。本当に彼女があんたの言うような天涯の花のような人やったら、ワイは意味もなくそれを手折るようなことはせえへんよ」

「それは保証する。あんただって会えばわかる。日御子さまは悪意とか邪心などという言葉とは最も遠い、一点の穢れさえない、美しく清らかな方や。もちろん姿かたちも美しいが、そこに性とかセックスなんてことを想像すれば、自分自身が恥ずかしくなるようなお方や。そっちのおねえさんもびっくりするような美人やが、日御子さまにはかなわへんよ」

 それを聞いた洋子はさすがにむっとして言い返そうとしたが、先にアヤタチが苦笑いしながら答えた。

「おまえ、このおねえさんを怒らせると完全に日本政府を怒らせることになるんやで。口のききかたに気をつけや」

 男は肩をすくめるようにして黙った。

 つい先ほどまで命をかけた死闘を繰り広げた二人の男が自分を話の種に距離を縮めているのを感じて少しうらやましく感じながら、洋子は言い捨てた。

「日御子さまとやらにそんなに腑抜けにされるとは北の工作員のレベルも落ちたものね。さあ早く行きましょう」

 洋子が歩き始めると、背後で、今度はアヤタチが男に向かって肩をすくめているのがちらりと見えたようだった。


 後円部にはその頂上まで既に小道のようなものが続いていた。それは建造当時と同じく前方部から円頂へ直線で続いていた。これも『日御子の光教団』メンバーが作ったものだろう。ただ頭上には鬱蒼とした森が茂っており、星明りもほとんど届かない。アヤタチは昼間と変わらない調子で何気ない足取りで登っていくのだが、洋子は微かに見えるアヤタチの背中と息遣いを頼りに後ろをついていくのがやっとだった。

「ねえ、ちょっと話かけてもいい?」

もともと三段に作られていた墳丘は長い年月の間に崩壊しその段差はほとんどわからなかったが、それでも中腹あたり、少し斜面がなだらかな場所で洋子はアヤタチに声をかけた。

 もう一息登れば日御子とナシメがいる筈の円頂部に着く筈ではあったが、彼女の諜報員としての本能が、どうしても一度このあたりで情報を整理しておく必要性を感じていた。

「ここまで来たらワイらの行動も言動も多分相手に筒抜けやということわかってるやろな」

 そう念を押すアヤタチに洋子は無言で頷いた。暗闇の中でもアヤタチにはそれがはっきり見えたようだ。

「ほなこのあたりで少し休もうか」

 そう言って目の前の土上に露出した巨大なクスノキの根に腰掛け、洋子にも隣に座るように促した。

 黙ってアヤタチの隣に腰を下ろすと、湿った土の香りが鼻をついた。足元には土に混じって少し硬いものもあった。葺き石かもしれないし、あるいは古代には墳丘に並べられていたとされる円筒型の大型埴輪の破片かもしれない。

 見上げると樹木の間から夏の大三角と呼ばれるデネブとベガとアルタイルの三つの一等星が見えたが、その間を流れているはずの天の川はさすがに古墳の周囲に広がる都市の光に阻まれて見ることが出来なかった。

「まず現状をもう一度整理するわね。これから私たちが向かう墳丘にいるのは卑弥呼の生まれ変わりと自称する女教祖とその教団幹部ナシメ、あとはすでに三人は片付けたから、石室の規模からすればせいぜい一人か二人」

 アヤタチは黙って聴いている。

「彼らの目的はまずこの墳丘に何か大事なものを探すために入り込み、それをカモフラージュするために竹島や尖閣、北方領土の放棄を日本政府に求めた。まずわからないのがここね。核の使用までちらつかせて見つけなければならないものって何かしら?この仁徳天皇陵と卑弥呼の生まれ変わりに何の接点があるというの? スサノオの血を引くというあなたにはそれがわかっているの?」

「おおかたの察しはついている。そのためにはちょっと大昔の話で長くなるけどええか」

 アヤタチはそう言うと洋子の返事も待たずに話し始めた。

「まず卑弥呼という名前や邪馬台国っていうのは昔の和言葉の音をそのまま漢字に当てたというのは常識やな。現代でも中国語で「コカコーラ」が「口可口楽」って書かれるのと一緒や。難しい話は省くけど卑弥呼も邪馬台国も魏志倭人伝を書いた陳寿という男が実際には日御子とか姫巫女という和言葉を、一般名詞と固有名詞の区別もつかないまま音をそのまま記述しただけやというのが定説や。仮に邪馬台国の卑弥呼の本来の意味が大和国の日御子やったとすればまさに現代の天皇家の祖先になるわな」

「と言うことは邪馬台国近畿説ね」

 邪馬台国の所在地については大きく九州説と近畿説に別れ論争が続いているのは洋子も知っている。

「まあそんなに簡単に白黒つくものではないし、誰も実際に見たものはおらんわけやからあわてんように。実は日本書紀の「神功皇后紀」には、わざわざ魏志倭人伝の記述を引用して、卑弥呼の正体は神功皇后だということを暗に示している箇所がちゃんとあるんや。年代的には卑弥呼より、卑弥呼が死んだ後乱れた倭国を再統一した、一族の娘のほうが整合性があるんやが、卑弥呼が一般名詞の日御子であるとすればそれはどちらでもええことや。ついでに日本書紀の記述ではちょうど卑弥呼からトヨの時代にかけての約六十年間、神功皇后の夫仲哀天皇の崩御から、皇后の息子応神天皇の即位まで、天皇の在位は空位となっており、その間まさに倭国は女王の統べる国であったと示唆しているんや」

「だったら、なぜ学者たちは、近畿だ、九州だって騒いでいるの」

「それは日本書紀がわざわざ魏志倭人伝に合わせて神功皇后という架空の女王を創造したと言う説があるからや。日本書紀の編纂者にとって神武天皇による大和朝廷開闢を紀元前六百六十年とする記紀の整合性を持たせるためには、三世紀に卑弥呼が魏に朝貢したという魏志倭人伝が目障りで仕方ない。しかし当時の先進国である中国の正史を無視する訳にはいかないためにわざわざ神功皇后という架空の女王を創造し、整合性を図ったということらしい。ついでにこの神功皇后は、夢で神託を受けたり、反乱鎮圧のために九州から近畿へ進軍したりと、巫女的な性格と、記紀の神武天皇東征伝説をモチーフにしたような挿話に彩られ、卑弥呼とアマテラスの両方を髣髴とさせるように描かれていて、現実的に大和朝廷の成立が三世紀から四世紀だと考えれば、神功皇后こそ卑弥呼でありアマテラスだと考えることも出来るんや。ただ記紀の作者にすれば、もし卑弥呼をアマテラスとしたら、時代が食い違いすぎて困るんやけどな。それにしても当時の日本書紀の編纂者である舎人親王も、編纂を命じた天武天皇もれっきとした皇族や。もし卑弥呼やその後継者であるトヨが九州の地方女酋長のような存在であったら、完全無視すればよいことや。実際それ以前に漢に朝貢した奴国のことは、後漢書東夷伝に記述があるにも関わらず無視している。ということは邪馬台国が九州にあったにせよ、近畿にあったにせよ天武天皇や舎人親王は大和朝廷と邪馬台国の間に何らかの連続性があることは承知していたんやな」

「確かに卑弥呼と天皇家がまったく無縁ということは無さそうね。でも卑弥呼の生まれ変わりの日御子がこの仁徳天皇陵で一体何を探そうとしているかの答えにはなってないわ」

 アヤタチは意外そうに答えた。

「日本書紀の記述に従って神功皇后が卑弥呼やとすると、仁徳天皇は神功皇后の直系の孫になるんやで。ついでに卑弥呼が朝貢した頃の魏は既に仁徳帝の頃には晋に代わっている。そしたら中華王朝の慣わしでは、本来魏にもらった『親魏倭王』の金印は新王朝である晋に返して、新たに『親晋倭王』の金印をもらうべきところや。けど当時のヤマト朝廷は晋に対してほとんど没交渉や。日本と中国の正式な交流が復活するのは、さらに仁徳帝末期五世紀の宗の時代の『倭の五王』の記述からや。返すあても無く持っていても意味が無い、けれど一族にとって、とても大事な宝があったとすると、当時の風習ならどうすると思う?」

そこまで言われて初めて洋子は気付いた。

「金印ね。魏志倭人伝の記述にある卑弥呼が魏から送られたという『親魏倭王』の金印がこの仁徳天皇陵に埋葬されている可能性があるということね」

 ようやく気付いたのか、というような表情でアヤタチは頷いた。

「ただし、おかしなこともある。金印を見つけたいだけにしては、仕掛けが大げさや。自らの正当性を主張するにしても、こっそり探して、見つけた後で公開すればええ話や。わざわざ核兵器を持ち出したり、領土問題をダミーに使う意味がわからん」

 確かにそのとおりだ。

 『日御子の光教団』の目的が天皇に変わる正当性を主張する事であれば、金印を見つけた後に、それを事実として大々的に公表したほうが効果的であり、あえて金印が見つかる前にここに立て篭もって政府と対決する意味がよくわからない。そこに教団の背後にいる北朝鮮、あるいは中国ないしロシアの意思が働いていたとしても、日本国内の政情不安を煽り、国際社会での地位低下や、周辺諸国への影響力の低減を図る目的は理解できるが、その先の意図が見えてこない。彼らのシビアな国益追求の論理からすれば、もっと眼に見える形でメリットが無ければここまで教団の暴走を促すとは考えにくかった。

「その鍵を握るのは、教団ナンバー2と思われるナシメかもしれないわね」

 洋子のこの推測にはアヤタチも同感らしかった。

「あんた、ナシメって何か知ってるか?」

「何かのコードネームみたいだけど。記紀に出ている神様の名前かしら」

「ナシメは、西暦二三八年に、卑弥呼が魏に遣わした初めての遣いの名前や。こいつも魏志倭人伝の中ではで重要な部分にもかかわらず、邪馬台国論争ではあまり取り上げられへんから、知られてへんけどな」

 確かに邪馬台国論争について世間並みの知識しか持たない洋子には馴染みの無い名前だった。

「ナシメってそんなに重要な役割を果したの?」

「ああ、多分当時の魏の役人にとってはほとんど人前に姿を見せない卑弥呼よりもナシメのほうがはるかに重要人物やったんや」

「何がそれほど重要なの?」

「ナシメの外交力は半端やないで。なにしろろくに聞いたこともない邪馬台国からまず魏の出先機関である帯方郡の太守に交渉し、直接魏の皇帝に貢物を求めた。その後、皇帝に謁見し、とにもかくにも魏の皇帝から『親魏倭王』の称号を得ることに成功したんや」

「それってそんなにすごい事なの?」

「たぶん当時の国力からすれば、日本の外交史上、聖徳太子が隋の煬帝に送った『日出づる国云々』の国書で中国と対等の立場を勝ち取ったことに匹敵する快挙やないかな。朝貢という立場をとっているにせよ、彼が持参したものは、僅かに生口と呼ばれる奴隷十人とまだら模様の布だけや。当時の邪馬台国の認知度から考えれば帯方郡の太守に会えただけでも成果や。ところが彼は都である洛陽まで赴き、有名な『親魏倭王』の金印と紫綬に加え、当時の貴重品である絹織物、錦、毛織物、銅鏡、刀、真珠、鉛丹という朱顔料などを大量に与えられ、自らも率善中郎将という位と、銀印青綬を与えられているんや。これだけの外交力をもった日本人は聖徳太子以来、現代に至るまでいないんやないかな」

 そこまで聞いても洋子にはまだピンと来ない。

「でも親魏倭王って、倭王よ、お前はかわいい魏の子分だぞって意味でしょう。確かに外交力があったのは認めるけど・・・」

 どう説明したらいいのか少し迷ったような表情の後、アヤタチは続けた。

「現代でもそうやが、中国にとって外国と言えば、子分か敵かどちらかや。彼らの常識では対等の友好国という存在はない。そんな環境の中での『親魏倭王』の金印がどれだけ価値があったかといえば、わかりやすい例で言うと、中華域外で魏から金印を得たのは、邪馬台国と西方の大月氏国のみや。当時の大月氏国といえば、シルクロードの大国クシャーナ朝のことで、中国にガンダーラ美術を始め、経典やガラスなど西域の文物を伝える、ある意味中国以上の先進国や。そんな国と同等の称号が、ろくな軍事力も特産物も無い邪馬台国に与えられる事がどれだけ破格なのがわかるやろ。ナシメの外交力はまだすごい。二四五年にはなんとナシメに対し黄色い旗を与えてる。この旗はナシメが皇帝の正規軍である証であり、さらに二四七年には狗奴国と交戦中のナシメのためにわざわざ使いを出して旗に加え皇帝の詔書まで与えているんや。送った先は卑弥呼でも、実際に政治を司どっていたと言われる卑弥呼の弟でもなくすべてナシメや。魏からみればナシメこそが邪馬台国の王であるかのような扱いとしか思われへん」

 確かに、邪馬台国については卑弥呼にばかりスポットがあたりがちだが、実際に実力を持っていたのはナシメであったことは間違いなさそうだ。

「この天皇陵にいるナシメは、そのことを知っていてあえて自らナシメと名乗っているとしたら・・・」

 洋子の言葉の後をアヤタチが引き継いだ。

「ああ、自分こそが『日御子の光教団』の実質の支配者であるということを示唆している可能性もあるな」

「でも、邪馬台国のナシメの超越した外交力の源は一体何だったのかしら」

「あまりの魏の重用ぶりに、学者の中にはナシメこそ魏から邪馬台国に遣わされた諜報員、つまりナシメスパイ説まで出ているくらいや」

 洋子はその言葉に何か不吉なものを感じた。


 時刻は既に深夜。

 日付も変わり、八月十四日になっている。官邸から宮内庁と内閣調査室に与えられた時間はあと二日。残された時間は刻々と過ぎていく。

 それでも、洋子にはもうひとつどうしてもアヤタチに聞いておきたい事があった。

 日御子の正体だ。

 洋子が『日御子の光教団』について触れた時に、確かにアヤタチは「日御子の正体に心当たりがある」と言った。そしてその時の口調は、どこか日御子に対して柔らかい感情を持っているように感じられた。

 先刻、アヤタチと死闘を繰り広げた元北朝鮮の工作員の男にしても、当初の任務を放棄してまで日御子に心酔し、命がけで日御子を守ろうとした。さらには彼女を称して『天涯の花』とまで例えた。

 同性として、少し嫉妬に近い感情を覚えながらも、日御子の事をカルト教団の女首領ではなく別の面から分析する必要を感じていた。

 彼は日御子について何を知っているのだろう。兎に角、日御子についての情報ならどんな些細なことでも今は知っておく必要があった。

「あなたが言っていた日御子の心当たりって何?彼女に会う前にそれを教えて欲しいの」

 洋子の直接的な物言いにアヤタチも真剣なものを感じたのか、ちゃかすことなく答えた。

「これも少し長くなるけどええか?」

 洋子が暗闇の中で頷く。

「えぶねって知ってるか?家の船と書くんや」

 洋子はそんな言葉知らなかった。

「家船っていうのはな、近世まで長崎五島列島から玄界灘、瀬戸内海、一説では北陸付近の日本海や、太平洋は駿河湾付近までをエリアとして活動していた海上漂泊民族のことや」

 洋子は海上漂泊民族なんて、この日本では聞いた事もなかった。もしこれがアヤタチの言葉でなかったら、多分作り話として聞き流していたかもしれない。

 そんな彼女の心を見透かしたようにアヤタチが続けた。

「現代でも家船の末裔は瀬戸内海の島にごく少数存在し、かつての家船に近い生活形態を守っている人もいる。ただし本来の家船は、家族単位で船を棲家とし、一生の間、船以外の財産を一切持つことなく、死ぬまで海上で漁撈生活のみに携わっていたんや。彼らは戸籍も無い、義務教育も受けない、貨幣経済さえ受け入れないから、必要な物資はすべて物々交換で手に入れていた。ただ何故か家船衆は九州から瀬戸内の有力神社の後見により、西日本のすべての漁場で自由に漁をすること、そして西日本のすべての港に自由に出入りすることを許されていたらしい」

「でも、なぜそんな人達がいた事があまり知られていないの?」

「家船もサンカなどと同じく一部の民俗学者を除いてはほとんど研究対象にもならへんかったし、一口に家船といっても、その発祥を南北朝時代にまで遡る由緒ある一族から、単に何かの理由で陸上から追われ海上生活を余儀なくされて家船となった者まで千差万別やから、それを一つのまとまりとして紹介される機会があまりなかったんや。さらに家船衆自身も、由緒ある家船は誇りを持って自ら表舞台に出ることを好まず、新参家船衆は逆に脛に傷を持つ無戸籍漂流民として陽のあたる場所を避けていたんやから、彼らと身近に接する機会のある人間以外には、その存在すら知られなかったのは無理もないやろな」

「この天皇陵にいる日御子がその家船とどう関係しているの? 」

洋子は我慢できず催促するかのように尋ねた。

「せやから、長くなるいうて最初にことわったやろ。ほんまにせっかちやな。その家船のもっとも古いと言われる一族の中に九州宗像大社の大宮司で、戦国時代に滅んだ宗像氏の血脈を受け継ぐ宗像家船衆という一族があって、その総領は代々女性が務めるんやが、総領になると『トヨ』と名乗るしきたりらしい。ワイが知っているんは、数年前に宗像家船衆新総領として十三歳の女の子がトヨの名を襲名したんやが、その子が幼い頃、伊予大三島の大山祇神社で『この子は日嗣の御子や』と言われたいう話を聞いたことがあるんや」

「その子が今この陵にいる日御子ってわけね。でも宗像大社の宮司の子孫が大山祇神社で神託を受けるって変じゃない?」

「大山祇神社の祭神オオヤマツミは、アマテラスとスサノオの兄にあたる。そして同時にその娘イワナガヒメとコノハナサクヤヒメも祭神としていて、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)の結果生まれた三姉妹、タゴリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメを祭る宗像神社とはかなり近い関係にあるんや。不思議でも何でもあらへん」

 このあたりで普通の人間なら神様の名前だけで頭が混乱してくるところだが、洋子の頭の中では神話の神々のデータベースが少しずつ構築され、そこからあらゆる仮説を引き出そうとしていた。

「もしかして、その宗像三女神とかオオヤマツミの娘二人は、魏志倭人伝の卑弥呼とその宗女トヨを投影している可能性があるのかしら?」

「流石やな。ほな、あんたの頭の中で、宗像神社と大山祇神社の近辺で神代からの有名な神社は他に何がある?」

そのぐらいの答えは洋子にとっては簡単だ。

「近いのは世界遺産の広島の厳島神社かしら。あとは全国八幡総本宮の大分の宇佐八幡宮も近いわね。讃岐の金比羅さんもあるわ」

 それを聞いて頷きながらアヤタチが答えた。

「厳島神社の祭神は宗像三女神のイチキシマヒメ、つまり斎島姫、巫女姫のことやな。さらに宇佐八幡宮の祭神は卑弥呼と同一人物説のある神功皇后とその息子応神天皇、さらにヒメ大神と呼ばれる正体不明の女神を祭っているんや。金比羅さんは、古代海人族の言葉でクンピーラ、つまりワニのことやけど、海人族の神話ではワニこそ海の女神の化身と信じられているんや」

「すべて卑弥呼とトヨを投影している可能性があるわけね」

「ついでに大阪、博多、下関にある住吉神社も、住吉三神と言われるイザナギの息子とともに神功皇后が祭られている。そして日本で一番有名な二柱の女神が祭られている社といえばわかるやろ」

 暗闇の中でアヤタチの思わせぶりな表情が見えるようだった。

「アマテラスとトヨウケが祀られる伊勢神宮ね」

 洋子は素っ気無く答えた。しかしその時には彼女の脳裏にも西日本の海上に点々と連なる『女神の道』のようなものが明確に浮かんできた。海の正倉院と呼ばれ、今なお女人および一般人の入島を禁じる玄界灘の孤島沖ノ島から宗像大社、博多住吉神社、宇佐八幡宮、下関住吉神社、安芸厳島神社、伊予大山祇神社、大阪住吉神社、伊勢神宮へと続く女神を祭った神社の存在。そして何より皇室の氏神、伊勢神宮の祭神がアマテラスとトヨウケノオオカミである事実。そこに状況証拠として卑弥呼と宗女トヨの投影を感じないではいられなかった。

 洋子の思考が一息つくのを待っていたかのようにアヤタチが新たな情報を告げる。

「北九州から瀬戸内海あるいは日本海を通って伊勢までのエリアは即ち家船一族の活動範囲とまったく重なるんや。このエリアで家船衆は自由に漁をし、自由に入港することを各地の神社から保障されていたんやな。そして家船の最古の由緒が宗像神社の宮司、宗像氏にまで遡ることを考えれば、彼らの中に卑弥呼やトヨの血脈が流れていても不思議無いやろ」

 そこで洋子は今回の事件の背景を再確認するように考えをまとめた。

魏志倭人伝に登場する日本史最大の謎とされる邪馬台国の卑弥呼とその後継者トヨ。その子孫の可能性がある、海の漂泊民族『家船』の総領家の娘「トヨ」。彼女が伊予大山祇神社から卑弥呼の後継者であるとの神託を得て、宗像神社の沖宮で育ち、長じて「日御子」を名乗り「日御子の光教団」を設立。平和と秩序と長寿の国、邪馬台国の再興を図る。一方で邪馬台国は、日本書紀における神功皇后の存在を仲介として、状況証拠的に皇室との連続性が想像され、神功皇后の孫仁徳天皇が眠るとされる世界最大の墳墓、伝仁徳天皇陵の中に有名な『親魏倭王』の金印が存在する可能性があり、それを探すために現在日御子と教団幹部ナシメが核兵器の存在をちらつかせながら、この天皇陵に立てこもり日本政府を脅している。その影には北朝鮮の影も見えているが、幹部ナシメの正体がまだ掴めておらず、日御子の過激な行動の動機がいまひとつ不明なままだ。

ようやくおぼろげながら、全体像が見えてきたようだが、まだ霧の中に隠れている部分も多い。ここから先は日御子とそしてナシメに直接会って確かめるしかないのだろう、と洋子は考えた。

また、パートナーであるアヤタチの正体もまだ洋子にとって謎の部分が多い。

スサノオの子孫を名乗り、国籍は持たないが、宮内庁の衛視という身分を有するアヤタチ。皇室の影であるという彼の話もにわかには信じられないが、北の工作員との戦闘や並外れたサバイバル能力を目撃した今、感覚的にはそれを否定できない。

それにしても、アヤタチの語る、神々の話やサンカやエブネといった漂泊民族の話を聞いていて、今まで洋子が知っていた日本と彼の語る日本の姿があまりにも違っていることに驚いていた。

同じ国でありながら眺める方向が違うだけでこんなにも姿かたちが変わってしまうものなのか、とあらためて感じていた。

「・・・今ある地球上の国の中で最も古いこの国の長い歴史の中ではあんたの常識なんて一瞬の夢や。表面上の知識や常識にとらわれて真実を見過ごさんように気をつけたほうがええ」そう言ったアヤタチの言葉に今なら素直に頷けるような気がしていた。


「さあ、もう一息。急ぎましょうか」

 洋子が出発を促したが、アヤタチは立ち上がらない。大きな根の上に座ったまま眼を閉じている。

「日御子とナシメはもうすぐそこにいるのよ」

 洋子は闇に浮かぶ円頂部を見上げた。

 そこまでは直線にしてあと百メートルほどしかない。真夜中には違いないが、この事件を片付けるタイムリミットはあと二日を切っている。間に合わなければ自衛隊と警察の合同チームがこの禁足地の制圧に乗り出す事はアヤタチも宮内庁から聞いて知っている筈なのに、ここまできて何故彼は動こうとしないのか?

胸の中のその疑問がまるで聞こえたかのようにアヤタチが眼を閉じたまま言った。

「日御子は多分、日の出とともに日拝に出てくる筈や。ワイはその時まで待ってみようと思う」

「なぜ?敵はもう目の前にいるのよ。それも多分何らかの方法で私達の行動はすべて監視している筈なのよ。今更朝になるのを待つことに何の意味があるの?まさか眠くなったなんて言うんじゃあないでしょうね」

 言い方がきつくなっているのは洋子自身も気付いていたが、ここへ来てアヤタチの意味不明な言動にいらいらが募っていた。

「敵?ワイは日御子のこともナシメも敵なんて思ってへんよ。先刻の元工作員のあんちゃんも言うてたけど、日御子にワイらを殺傷する気はないんやで。それにワイの仕事は最初に言うたとおり、あそこにいる奴らにここから出て行ってもらえばいいだけや。そのためには戦うこともあるかも知れへんけどな、会う前から敵だの味方だの決め付けるつもりはあらへん」

 そして、アヤタチは大きく両手を挙げて伸びをすると、洋子に言った。

「人間に限らず、生き物は暗闇でお互い遭遇すると、本能的に相手に対して敵対意識をもつもんや。それは自らの身を守るための防衛本能やから仕方がない。でも人間は、逆に明るいお日様の下でお互いの姿を確かめた上で、笑顔で出会えば一瞬で敵対意識を取り除くことも出来る。そういう生き物や。せやから相手が敵か、敵でないか判断するんは、明るいとき、出来れば空気がまだ澄んだ朝の光の中でお互いの表情を見て判断することや。あんたみたいに出会う前から敵やと決めつけていると、世界中敵だらけや。長生き出来へんよ」

 言われて洋子は何か先生に説教されたような感覚だったが、不思議と腹は立たなかった。ただ相手の喉笛を食いちぎるような先刻の行動と今の言葉に、またアヤタチの行動規範がわからなくなっていた。

「夜明けまであと四時間ほどや、眠れんでもええからここで眼をつぶって休んどこ」

 そして、彼はそのままクスノキの幹にもたれかかるように眼を閉じた。

 結局洋子の意見はまったく無視されたのだが、アヤタチの先程の( 人間は笑顔で出会えば一瞬で敵対意識を取り除くことも出来る)と言う言葉は確かに、似たような事例をかつて軍事心理学で学んだ記憶があったために素直に肯定できた。

 敵意は敵意を呼び、好意は好意を惹起する、そんな当たり前のことを忘れていた自分を少し情けなく思いながら、洋子もアヤタチの隣でクスノキを背に眼を閉じた。

 完全に眠っていたわけではない。

 意識は保ち、いつでも覚醒出来る態勢でありながら、心身の休息を得る特殊な睡眠方法は、かつて自衛隊のレンジャー訓練に参加した時に教官から教わったもので、一〇分単位で仮眠と覚醒を繰り返す方法だった。

 隣で眼を閉じているアヤタチも傍目には熟睡しているように見えても多分同じような睡眠方法をとっているのだろう。規則正しい寝息ながら、体勢はまったく崩れることがなかった。

 それでも、いつの間にか時間が経ち、洋子が次に薄目を開けたときには、周囲はまさに夜明け時の薄青色のひんやりした空気に包まれていた。

 八月十四日の大阪の日の出時間は確か五時十五分で、その三十六分前に夜明けが始まることから、多分今は四時五十五分くらいかな、と考えながら完全に覚醒した洋子の目の前に今まさに幼虫から脱皮を完了し、青白い羽が乾くのを待つ蝉の姿があった。

 細い枝の先に貼りついた幼虫の抜け殻に、しがみつくようにして飛翔の時間を待つ蝉。

この蝉にとっては、何年も幼虫として過ごしてきたこの地が天皇陵であることなど、何の関係も無いのだろう。ただこれまでの暗く長い土中の生活と引き換えに、生の最後に訪れるほんの数週間の飛翔と交尾の時間をじっと待つその姿に、洋子は少し胸が熱くなるのを感じていた。そして蝉を見る自分のように、もし今洋子やアヤタチを客観的に見ることの出来る超越的な存在がいたとしたら、彼らの眼には自分たちも同じようにあわれな存在として映るのかな、などと考えていた。

「こいつはアブラゼミやな」

 背後からアヤタチが小さく声をかけた。知らぬ間に彼も起きていたのだった。

 洋子は黙って頷いた。

 今目の前にある斜面を数メートル登ればそこは直径七十メートル、サッカーフィールドの半分程度にもなる平坦な円頂部が広がっている筈だ。

 資料によれば、その中心には土が盛られ後世の為政者によって作られた石柵が周囲に巡らされている。また通常であればその中央部に石室がありその中に被葬者が眠っているのだが、江戸時代の文献では、既に当時盗掘にあっており石棺が露出していたことや、石棺の蓋は豊臣秀吉によって持ち去られ堺政所の庭の踏み石になったのではないか、といった事が書かれている。

 内閣調査室の資料では、石室付近に幅約4m、長さ8m、高さ約5mの空洞が広がっていることがエコー調査でわかっている。

 ただその空洞が本来の石室なのか、日御子たちが何らかの方法で作った空洞かも不明であった。

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