第2話 仁徳陵侵入

翌八月十三日昼下がり。

 大阪府堺市、伝仁徳天皇陵、大仙古墳は叩きつけるような陽光と蝉時雨に包まれている。

「おい、あれ見ろよ」観光に来た少しオタクっぽい大学生らしい二人連れの男のひとりが隣の男を肘でつついた。「すげえ美人。昨日USJのアトラクションで見たハリウッド女優のそっくりモデルも顔負けだな」

その視線の先には天皇陵拝所正面に立つ木製の鳥居の下で佇む若い女性の姿があった。ごく普通のジーンズに胸元のゆったりした白いシャツ姿で、小さなリュックを背負い、中肉中背だが、均整のとれた体型と、かすかな風に揺れるセミロングのヘアが遠目にも男心をくすぐるのだろう。彼らだけでなくまわりにいる観光客の男や天皇陵の警備員たちも、ちらちらと彼女に視線をやっていた。

キャラクターTシャツを着た大学生が、旅の思い出づくりに思い切って声をかけてみようと彼女のほうへ歩き出そうとしたとき、別の方向から彼らと同じようなファッションの別の若い男性が女の側へ寄った。

 そして一言二言呟くとくるりと背を向けて歩き出した。

 女は何の表情も見せず男の後ろに付いて歩き出した。

 それはアンバランスなカップルに見えた。

 男はやはりジーンズにTシャツ姿なのだが身長はあきらかに彼女より低く多分百六十センチに届いていないと思われ、少し小太りで無造作に伸ばした髪は、まさに秋葉原などでよく見かけるオタクと呼ばれるタイプに見えた。

 オタク系の男とその後ろを三歩下がって付いていく美女の姿をぽかんと見ていると、二人は警備員の側に近づいた。男が何かを呟くと身分証明書のようなものを見せた。

 その瞬間警備員はそれまでの不審そうな態度を一変し直立不動の姿勢をとった。

 警備員はその後いったん詰所の建物に入るとすぐに鍵を持って出てきた。

 玉砂利の敷かれた道を鳥居の方へ向かって小走りに駆けると、その下に設置されている大きく頑丈な鉄製の門扉の鍵を開け、左右に開いた。

 そこへ悠々とオタク男と美女が近寄ると、オタク男が警備員に一礼して門の中へ入っていった。後ろに美女も続いた。

 二人の姿が天皇陵の内堀と外堀の間に茂る森の中へと続く小道に消えていくのを見届けると、何もなかったように警備員は門の鍵を閉め、もとの立ち位置に戻った。

「おい、天皇陵って、誰も入れない筈じゃなかったっけ」

 大学生の一人が呟くと、もうひとりが答えた。

「あの二人、一体何者なんだ?」


 グリーンペペこと、瀬掘洋子はあらためて自分の前を歩く小太りの若い男性の背中を観察した。

先刻鳥居の前で「ワイは宮内庁のアヤタチや」と横柄な関西弁で名乗った男は、洋子がこれまで知っているエージェントや工作員とはタイプが違っていた。

 服装も所作もまったく一般人と変わらなかった。諜報員として特殊な訓練を積んできた人間には、どんなに一般人を装おうとしても動作や口調の端々に隠しきれない匂いのようなものがこびりついていて、絶対に見抜く自信があったが、アヤタチの後姿にはまったくそれが無かった。さらに男であれ女であれ初めて洋子に会った人間は、その瞬間、彼女の容姿に対して何らかのリアクション、それは羨望であったり、妬みであったり、欲情であったりと様々だが誰もが隠しきれない心の動きを見せるものだが、アヤタチは一切それを見せなかった。

 夏の強い日差しの中で黙々と歩くアヤタチのずんぐりとした背中はある種の野生動物が自分の縄張りを回遊しているような安定感があった。

 森の中を貫く玉砂利の小道が途切れ、目の前には暗い色をした内堀の水と、どう見ても山にしか見えない緑に覆われた前方後円墳が真っ青な夏空と入道雲を背景に聳えている。

「暑いから丁度ええな。泳いで渡るか」

 アヤタチはさっさとTシャツを脱ぐと内堀に飛び込む素振りを見せた。

 その上半身は意外に引き締まった筋肉で覆われていた。シャツを着ていたときには見えなかったが腰に一振りのナイフのような刃物を身に着けていた。

「ちょっと待ってください。あなたは男だからいいけど、私はどうやって向こうに渡ればいいの?」

 洋子の問いにアヤタチが不思議そうに答える。

「あんた、泳げへんの?」

「勿論、泳ぎくらいは出来ます。でも今はその用意をしてきていません」

「用意って何?」

「例えば、水着とかウェットスーツとか。私も女性ですから初対面のあなたの前で裸になって泳ぐわけにはいかないでしょう」

「はあ、そんなもんかいな」

 納得のいかない様子のアヤタチにたいして洋子は更に言った。

「それに、この堀の水、どう見てもあまり綺麗じゃないわ」

 確かに天皇陵の堀の水は匂いこそなかったが、堺の市中を流れる用水路と通じているせいか、透明度も低く、澱んだ感じだった。

「ほな、仕方あらへんな」

 抑揚の無い声でそう言うとアヤタチは腰にぶら下げていたひと昔前の携帯電話入れのような皮袋から刃渡り二十㎝ほどの変わったナイフを取り出し、言った。

「ほんまはここの木は切ったらあかんのやけど、特別や。筏作ったるわ」

 そして周囲の照葉樹からそれほど太くない枝を落とし始めた。

 太くないとは言え、彼が落としている枝はそれでも直径数十センチはあり、普通なら枝打ち用の鉈かのこぎりでなければ落とせない。それをアヤタチは日本史の教科書の最初の方に良く出ている銅剣の形を少し小型にしたような平らな両刃の刃物を数回打ち付けただけで、どんどん枝を落としていった。さらにそこから小枝や葉を削ぎ落とすと忽ちいびつな形ながら、十本ほどの丸太が出来た。

 さらにアヤタチは周囲を軽く見回したあと、もっとも大きな楠に向かって跳躍し、枝を伝いながら幹の中腹まで登ると、巻きついていた蔓に手をかけてそのまま、下に飛び降りた。

彼の落下速度は蔓と幹との密着に相殺されて、バキバキと音を立てながらゆっくりと地面に降り立った。

 その姿を見て洋子は舌を巻いた。彼女も特殊訓練の一環としてサバイバル訓練などを受けてきたが、アヤタチの身のこなしは訓練で体得できる域を超えていた。強いて言うなら東南アジア密林奥地に住む原住民の身のこなしに似ている。無造作に、そしてごく簡単に見える動作の一つ一つが何世代もそこに住むことによって熟練度がDNAのように半ば本能化した野生動物のようだった。

 目を瞠る洋子の前で、ものの数十分でアヤタチは蔓を使い、簡単な筏を作り上げた。

 照葉樹の枝は針葉樹と違ってまっすぐなものは少ないが、まるでパズルを組み合わせたように曲がった枝が組み合わさってそれなりの筏になっていた。

「ほんの二十メートルほどや、この筏で十分やろ。遠慮なく乗ってや」

「ちょっと待ってよ。このまま古墳に上陸するの?」

 洋子の問いに、

「まだ何かあるの?時間ないんやさかい、はよ行こや」と彼はじれたように答えた。

「だって、まだ作戦も聞いてないし、お互いの役割分担や情報交換も出来てないわ。私はあなたが宮内庁の衛視って事以上何も知らないし、あなただって私の事知らないでしょう」

 アヤタチはため息をつくと言った。

「ワイが知っているのは、この御陵さんに、なんや不審な人間が数人入り込んでるさかい、あさってまでにそいつらを排除せい、ゆう指示だけや。そんでそいつらを排除したら政府から派遣された別嬪さん、つまりあんたの事やと思うけど、その別嬪さんに引き渡すように、ってそれだけや。あとは何も知らへんよ」

 アヤタチの表情からは、それが嘘であるとは思えなかったが、汚い核の可能性やテロリストたちの要求に関しては、あえて内閣調査室が宮内庁に伝えていないことも有り得るため洋子はアヤタチの言葉に軽く頷いて続けた。

「だったら、この堀を渡ってからどうするつもりか教えてちょうだい」

「何もあらへんよ。とにかく今日は前方部に上陸して、あとは相手がどう出てくるかによって考えるだけや。まあお互い人間やさかい、ひょっとしたら話し合いで分かり合えるかもしれへんし、駄目やったら血いみないかんかも知れへん。いずれにせよ出たとこ勝負や」

 正確な情報把握と綿密なシュミレーションが任務遂行の第一歩であると教えられ、実践してきた洋子にとって信じられない言動だった。

『もしかしたらわざとこんな態度を取っているのかも』と思いながらも、アヤタチに不審な点は感じられない。

「わかったわ。じゃあ、とにかく堀を渡りましょう」

 洋子が筏に乗ると、一緒に乗るかと思っていたアヤタチはさっさと水に入ると筏を押しながら泳ぎ始めた。

 筏の上の洋子と水面のアヤタチの視線が合うと、アヤタチが言った。

「下から見ても別嬪さんやな」

 これまで洋子の美貌に関していろんな反応を見せる男がいたが、ストレートなその表現に少し好感が沸いてきた。


前方後円墳とは、三世紀から七世紀にかけてほぼ日本全国で築造された古墳の形式で、朝鮮半島南部で若干数の確認がある他は、概ね日本独自の墳丘の形とされ、その規模の巨大さと合わせて当時の支配者、首長クラスの墳墓と推察される。多くの場合、後円部と呼ばれる丸い丘状の部分に被葬者の石室を見ることが出来るため、こちらを本来の墳丘とし祭祀のために前方部が作られそれが次第に一体化していき、仁徳陵のような鍵穴型になったという説が有力である。

 アヤタチと洋子はその前方部に上陸した。

前人未到との建前ではあるが、その警備は甚だ杜撰だったため、これまでも無断で何人もの人間が上陸しており、また年数回は宮内庁の保全検査もあるため、生い茂った夏草の中にも獣道のような一筋の線が照葉樹林に続いている。

 前方部と一口に言っても、その部分だけでも幅三百メートル、長さ二百二十五メートル、高さが三十三メートルあり、さらにそこに太古からの樹林が生い茂っているため、上陸地点からはただの山にしか見えない。しかし照葉樹の大木が日光を遮るためか、水辺を離れるとすぐに雑草は少なくなり、森の中に入ると地面は僅かな下草と腐葉土となり、藪を漕ぐようなことは無かった。

 アヤタチは、まるで目の前に何か道標でもあるかのように何の躊躇いも無く森の傾斜を登っていく。その後ろを四つんばいに近い姿勢で洋子も続いた。

前方部はもともと三段に作られており、地震や風雨の影響によりかなり崩壊が進んでいるものの、堀から斜面を登ると一度平坦な部分に出た。

少し息が上がってきたが、エージェントとしてのプライドから、洋子は平静を装った。

「ちょっと休憩や」

 知ってか知らずか、アヤタチはそう言うと一本の楠の下に落ち葉と枯れ枝を集めて洋子が座る場所を作ってくれた。

 そして自分はその楠に登り、大きく張り出した枝の一本に跨ると目を閉じて何かを聴くようなそぶりを見せた。

 木の下で呼吸を整えながら、アヤタチの姿を見ていた洋子も耳を澄ませてみたが、風の音と微かな葉ずれしか聞こえない。

 それでも何かを聞き分けているかのようなアヤタチの姿に声をかけにくいものを感じて洋子は黙って下から彼を見上げていた。

 大阪湾から吹いてくるのか、心地よい浜風に荒かった呼吸が楽になってきた。

 アヤタチが遠くを見つめたまま、抑えた声をあげた。

「伏せろ」

 その瞬間洋子の周囲の地面にボスッボスッと着弾音が聞こえた。

 アヤタチの登っている木にも数発の着弾が幹をえぐっていた。

 相手はサイレンサー付きのライフルであろう、銃声は一切聞こえない。ただ着弾の度に低い音と微かな振動が響いた。

 十数発の着弾のあと、あたりに静けさが戻ってきた。

 アヤタチが飛び降りるように木から降りてきた。

「怪我はないようやな」

 地面に伏せた洋子の姿を上から下までまるで点検でもするように見回すと続けた。

「ここからあの斜面の上までワイに続いて一気に駆け上がれ。ここから少し岩が見えるやろ。あれ石室やさかい、登りきったら、あの石室の影に入るんや、そうすればとりあえず安全や」

 アヤタチは斜面を駆け上がり始めた。ただ本当に一気に駆け上がるのではなく、後ろに続く洋子のために、何気ない素振りで枝を払い地面を踏み固め登りやすくしながら、背後の洋子と離れないように速度を調整しているのがわかった。

 時々周囲から着弾音が聞こえながらも二人は何とか石室までたどり着いた。

 地震か何かで崩れたらしく、斜面に人の頭ほどの丸石を積み重ねた石室の壁が剥きだしになっており、その一部が崩れてぽっかり穴が空いた状態になっていた。

 アヤタチは黙って洋子に手を出して石室まで引っ張り上げると、その穴の中に隠れるように目で合図した。

 中はようやく人間二人が腰をかがめた状態で入れるぐらいであったが、中央には長さ二メートル、高さ九十センチ程度の石棺が半ば土砂に埋もれたまま、置いてあり、その石棺をテーブルのように挟む形でアヤタチと洋子は膝を抱えて石室内に隠れた。

 銃撃が止んだ。

「とても素敵な部屋ね。ここにこんな部屋があることをあなたは知っていたの?」

 湿った土の匂いを嗅ぎながら皮肉を込めて言うとアヤタチが答えた。

「この石室は、明治維新の時に堺県令のが新政府の威光をかさにこの御陵内に立ち入った際に見つけたもんや。その時にここから甲冑やガラスなんか仰山持ち出したみたいやな」

「じゃあこの石棺が仁徳天皇の納められたものなの?」

 アヤタチのぞんざいな物言いに知らぬ間に洋子も敬語を使うのをやめていた。

「あんた、何も知らんのやな、普通前方後円墳の場合、被葬者は円丘に葬られるもんや。

ここは前方部やさかい、被葬者の近親者の石室やろ。それにこの古墳自体が仁徳天皇のもんやわからへんしな」

「あなた、宮内庁の人間でしょう。宮内庁が仁徳天皇陵だって言ってるのに、否定していいの?」

「そら、宮内庁かて間違うことあるわな。なにせここに立ち入ったのは記録に残っているのは豊臣秀吉と江戸時代の堺奉行に、明治の堺県令、それに戦後のGHQぐらいや。それもみんな興味本位で正式な調査やあらへん。そんなんで正しいか正しくないかわかるわけないやろ」

 そう言われて洋子も納得しながらも、自分が思っていた以上に大変な場所に入り込んでしまったことに気付いていた。

「それにしても、相手はなんでワイらの動きをあんな簡単に探り出したんやろか。まるですぐ近くでワイらを見張っているようやったな」

アヤタチの言葉に今度は洋子が言い返した。

「あなた、本当にエージェントなの?敵は第三世代の暗視スコープを持っているからに間違いないわ。パッシブ遠赤外線方式だから、物体そのものが持つ熱エネルギーを関知するの。だからこれまでの僅かな光を増幅させるタイプの暗視スコープと違って暗闇に限らず昼間でも、たとえ眼が眩むような閃光の中でも影響を受けることなく相手を感知することが出来るの。ここで遠赤外線を発するような体温を持つ大型哺乳動物といえば、敵からみれば私たちだけだから、あっという間に見つかっちゃうわけだわ」

言葉の意味自体を理解しかねているアヤタチを無視して洋子が続ける。

「それにしても、第三世代暗視スコープはどの国も輸出規制がかかっていて民間には出回っていない筈だわ。特に携帯用の小型のものはごく一部の軍隊しか保有していない代物なの。だとしたら、相手はバックにどこかの国の政府がついているか、よほど大きなテロ組織の可能性が高いわけね。どう考えても宮内庁の衛視さんの手におえる相手じゃないと思うけど」

洋子の皮肉にまったく気付かない様子のアヤタチがまったく別の事を言った。

「せやけど、そんな立派な装備持ってるのになんでワイらを撃たなんだんやろ?」

 その疑問はまったく洋子も同感だった。経験のあるものならすぐわかるほどに彼らの銃撃は正確な威嚇射撃だった。その気になれば一発で仕留められる筈のところをすべて洋子とアヤタチから約一メートル右にすべてが着弾していた。古墳の形状から考えて東斜面を左に登る洋子とアヤタチの右を狙うということは、間違っても二人に弾が当たらないようにと考えての事に違いなかった。

  

 どういうわけか真夏だというのに、石室内は涼しかった。周囲の湿った土と石の壁が天然のクーラーの役割を果たしているのだろう。

 しばらくの無言の時間が過ぎて洋子は会った瞬間から気になっていた事を口にした。

「アヤタチさんって、一体何者なの?宮内庁が諜報機関を持っているなんて聞いたことも無かったけど、あなたの身のこなしは確かに一般人とはかけ離れているわ。でも私が知っている諜報機関の人間とは異質の匂いがする。何だろう、訓練とかでなく野生というかもって生まれたものが違うと言うか、よくわからないけれど・・・」

「ワイはあんたらとおんなじ人間やで」

 アヤタチは笑って続けた。

「けど、確かにおんなじ日本人ではないかもしれへん」

「どういうこと?あなた外国人なの?アヤタチって変わった名前だけどコードネームよね。本名はなんていうの?」

「ワイは本名もアヤタチや。苗字は無い。おんなじ日本人ではないと言うたんは、外人ゆう意味や無い。あんたが思っているその辺にいっぱいおる日本人とはちょっと違うかもしれへんいう意味や」

 けげんな顔の洋子に向かってアヤタチが続けた。

「別に秘密でもないから、正直に言うと、ワイには日本の国籍があらへん。かといって外国籍でもない。戸籍自体が無いねん」

「そんなのおかしいわ。戸籍が無ければ義務教育を受けたり社会保障を受けたりする権利もないし、免許だって取れないでしょう」

「それはあんたの思い込みや。戸籍や苗字が無くても日本人としてちゃんと暮らしていける場合もあるんや。現にあんたのよう知ってる尊いお方も戸籍がないやろ」

 そう言われて洋子は気付いた。

「皇族。じゃあ、あなたは皇族なの?」

 アヤタチの表情に一瞬不思議なためらいが走った。

「皇族やない。あの方たちは、日本の光や。光があるところには影がある。光が強ければ強いほど影も濃くなる。ワイは日本の影や。ワイら一族はこの国が始まって以来ずっと宮廷という光を支えるために影の役割を負ってきたんや。光と影は表裏一体や。そやさかい我々には光と同じように苗字も戸籍もあらへんのや」

「そんな話聞いたこと無い」洋子の呟きを石棺の向こうで彼は聞いていた。

「あんたもテレビや新聞、ネットなんかで聞いたことだけがすべてと思うてるんやないか。

せやけどそんなもん、世の中の真実のほんの一握りの事しか伝えてない。あんたも内閣調査室の人間やったらわかると思うけど、マスコミが流す表面的な真実の裏側には膨大な別の事実がある場合が多いのを。それにワイらの存在はこちらからは敢えて言わへんけども昔からいろんな名前で呼ばれている。傀儡子、サンカ、河原者、ホイト、カンジン。まったく同一や無いけれどワイらの一族とは濃いつながりをもった無戸籍の漂泊日本人や。明治維新と第二次世界大戦の敗戦後、そのほとんどは普通の日本人と同じように戸籍を持つようになったが、ワイらだけは残った。それは皇室がワイらを必要としたからや。影の無い光なんぞ存在しないように、ワイらも必要とされたんやな」

「じゃあ、あなた方一族は大昔から皇族に仕えてきたと言うこと?」

 崩れた石室の壁の穴の向こうに見える強烈な夏の日差しを眺めながらアヤタチが静かに答えた。

「光と影に上下はあらへん。男と女みたいに最初からお互いに存在していたんや」

「よくわからないわ。もう少しわかりやすく教えて」

「あんた、古事記や日本書紀読んだことあるか?」

「知らないわけじゃあないけれど、きちんと読んだことなんてないわ」

「まあそれが普通の日本人やな。ほな教えたるけど、記紀でまず光の代表は知ってのとおりアマテラスオオミカミや。ほな影は誰かわかるか?」

 洋子は幼い頃に読んだ岩戸神話を思い出しながら答えた。

「アマテラスに乱暴を働いた弟のスサノオかしら」

 アヤタチはうなずく。

「アマテラスが光を統べるスメラミコト、つまり皇族の始祖であり、夜の闇と海原を統べるスサノオがワイらの始祖や。別に信じんかてええ。ただスサノオという神様は記紀の記述でも、アマテラスと宇気比(うけい)と言われる呪術の勝負をしてお互いに相手の剣や玉を噛み砕いて神々を生み出し、その時スサノオは自らの剣から生まれた神々がすべて心優しい女神だったことにより、自分は清く正しいと勝利宣言したんやな」

「つまりスサノオはアマテラスと対等かそれ以上だったというわけね」

「そうや、まあその後結局、高天原で田の畦を壊したり、糞を撒き散らしたり機屋に皮を剥いた馬を投げ込んだりと乱暴の限りを尽くし、そのためにアマテラスが嘆き悲しんで有名な天の岩戸の話につながるわけや。そいで結局、高天原を追放され、出雲に下るわけなんやが」

「で、そこから今度はヤマタノオロチを退治してクシナダ姫を救う英雄に変わる訳ね」

「そうや。よう知ってるやないか。オオクニヌシノミコトに代表される出雲神話の国津神系の神様はみんなスサノオの子孫や。全員に共通するのは、黄泉の国や根の国といった影の部分、そして戦や航海といった勇猛で少し血なまぐさい性格やな。そういう意味でワイらスサノオの血を引く一族は昔から、清く正しく美しい農耕民族の長である天皇家に対して、暗く獰猛で穢れた狩猟民族的な存在であったわけや」

 確かに神話のスサノオとその一族は特異な存在であった。西欧的な価値観では、しばしば悪魔に近い所業を行なう神であった。天皇家の立場から書かれた記紀においては、スサノオ系の神々に対する記述は、どこか敬して遠ざける挿話に満ちていた。

 洋子は自らをその子孫と名乗る目の前の男をまじまじと見つめながら、事の真偽は別として、そういった家系があっても不思議はないのかも知れないという気がしていた。

 それは彼と彼女がいる場所が数千年の時を越えていまだ一般人の侵入を拒み続ける陵の中であった事も大きな理由かもしれない。


「あなたの家系に関してのお話はとても興味深いけど、とりあえず目の前の問題に関して話しあうことにしましょう」洋子が言うと

「あんたが話をふったんやないか」

「あら、そうだったかしら」

 ふてくされたようなアヤタチの態度に思わず笑いながら洋子は言った。

「いつまでもこの石室に隠れていても埒はあかないし、これからどうするつもり?」

 アヤタチは石室の外を伺いながら答えた。

「相手は最新の装備を持ってる反面、ワイらに対する脅かしだけで殺意は無い事がわかってる。せやったらこちらから接触を図ろう思うてる。」

 『どうやって』という洋子の疑問を先取りしたようにアヤタチが説明を始めた。

「ええか、あんたかてわかってると思うけど銃撃の角度と間隔から考えて、相手は前方部最上段の少し後円部寄りからの狙撃や。そして人数はとりあえずひとり。暗視スコープでワイらが石室に逃げ込んだのを確認している筈や。それからまだ一時間もたってへん。相手も玄人やとしたら、交代の人間でも来いへん限り、銃撃体制をとったまま監視を続けてると思う」

 そこまでの推測は完全に洋子と同じだった。

ただ相手がなぜ自分たちを殺そうとしないのか、それがわからないために次に取るべき行動が今ひとつ見えてこなかった。

「相手に殺すつもりがないんやからここを出て相手と接触する。せやけど正面からいったら相手も立場上本気で狙撃してくるかもしれへん。なにせ、まだ弾を外したんが相手の個人の意思か組織の意思かはっきりしてないんやから。そこでや」

 アヤタチは木の枝で石棺に積もった土埃に大きな前方後円墳の図を書いた。

「ここがワイらがいる石室や。そしてこのあたりで相手はワイらを見張っている」

アヤタチは相手がいるとされる前方部頂上付近に向かって石室から大きく迂回する線を描いた。

「相手がひとりならどんな高性能の暗視スコープでも追跡できるのはひとりだけの筈や。

ところがワイらは二人。そこでや、ワイとあんたがせーので同時にここを出る。そしてあんたは適当に相手に向かって前進する振りをしながら木の影から影へ移って相手の気を引いておく。ワイはここを出たらいったん相手から逃げるように堀際まで斜面を下る。さてこの場合あんたが相手やったら、自分に向かってくる奴と遠ざかって行く奴、どっちを監視する?」

 言われるまでもなく洋子は彼の考えがわかった。

「つまり私が囮として相手の注意を引き付けておく間にあなたが背後へ回り込むということね」

「そのとおりや。相手に殺意はないんやからそんなに危険な囮やない。ただ相手に向かって前進しようとする演技だけはちゃんとしてや」

 人を小馬鹿にしたような言い方が癇にさわって洋子は思わず言い返した。

「私は大丈夫だけれど、あなたこそ。この古墳の前方部は幅だけでも三百メートルあるのよ。迂回して背後に回るって一言でいっても

足場もない森の中を距離にすれば1kmは歩かないといけないのに大丈夫なの」

「ワイは大丈夫や。ワイにとってはこんな森は庭と一緒や。三十分後には相手の背後に回りこんでるやろ」

 確かにこれまでの彼の動きを見ているとその言葉も嘘では無いかもしれない。しかし敵も素人ではない。それほど易々と背後に回ることが出来るとは思えなかった。

 しかしアヤタチは、そんな洋子の様子を意に介した様子もなかった。

「合図を決めておこうか」

「何の合図?」

「ワイが相手を制圧したらトンビの鳴き声や」そう言ってアヤタチが鳶の声を真似た。

「ピーヒョロヒョロ、ピーヒョロ」

その声は人間の出す音とは思えない。まったく本物の鳶の鳴き声が古墳の森に響いた。

「この音が聞こえたら、ここまで来てや」

 そう言ってアヤタチは石棺の上の図を指した。

「それからもし不測の事態が起きた場合はこの声や」

そう言って「キチキチキチ・・・」という音を喉の奥から出した。

 モズの鳴き声だった。

「この鳴き声が聞こえたら、迷わず逃げるんや。ワイのことはほっといてええ。生半可な危機ではモズは鳴かん」

そう言ったアヤタチの表情は、決して事を楽観視しているだけではないことを表していた。

「なるべくトンビの声を聞きたいものだわ」

「ところであんたももし何かあったらワイに合図を送ってや。何か鳴き真似できるか?」

 そう言われても、洋子も鳥の声帯模写の経験は無かった。

「ウグイスでも何でもえんや。とりあえず何かやってや」

確かに恥ずかしがったりしている場合ではない。洋子は躊躇しながらも「ホーホケキョ」と口笛でウグイスの鳴き真似をした。

「えらい下手な鳴き声のウグイスやな」

アヤタチが笑いをこらえながら言った。

「あなたが上手すぎるのよ」

 反論する洋子に対し

「まあええ。とにかく緊急の場合や、ワイに用事がある場合はホーホケキョやってや。すぐに来るさかいに」

 そう言ってアヤタチはすでに洋子に背を向けて石室から半身を出していた。

「迷わないでね」

 ガラにも無い、と思いながらもそう声をかえると

「こんな小さな森で迷うやつはおらんわ。ワイにとっては、東京や大阪の私鉄や地下鉄の方がよっぽど複雑でわからへんわ。あんな迷路みたいなトコ、迷いもせず暮らしとるあんたらのほうがよっぽどすごいわ」

 振り返りもせず言うと

「ほな、囮役たのむで」と石室から飛び出していった。

 続いて、洋子も石室を飛び出して、一番近くの樫の木陰に回りこんだ。案の定、相手は斜面を下るアヤタチよりも、洋子のほうを狙って銃を撃ってきた。

 着弾のたびに足元の腐葉土からボスッと言う音が響く。それでもやはり直接洋子に弾が当たらないように狙っていることを確認して、斜面上の前方部に向かう素振りをしながら木陰から木陰へとすばやく移動を重ねた。

 木々の間を抜けて斜面を下っていったアヤタチの姿はすでにどこにも見えなくなっていた。


 築造時の前方部の三段テラス構造は樹木に覆われた現在でもそのままで、急斜面を登ると十メートルほどの平らな部分があり、また斜面に至る。結局洋子はそのテラス上の部分の木々を移動しながら数十分間相手の威嚇射撃に耐えてきたが、ある瞬間からピタリと射撃が止まった。

「ピーヒョロロ、ピーヒョロロ」

前方部の最上段からトンビの鳴き声が響き渡った。

 思わず笑みをもらしながら洋子は斜面をよじ登った。

 まばらな下草を掻き分けながら最後の斜面を登りきるとそこには、ひとりの男を後ろ手に縛り上げたアヤタチが仁王立ちになっていた。

 少し得意そうなその顔が憎らしいとは思いながらも、洋子はほっとしている自分に気がついていた。

「ピーヒョロロ」アヤタチがまたトンビをまねた。

「もうわかりました」洋子が少し冷たく言い放つとアヤタチが不満げに

「言うたとおりやろ」

 まるで子供のように自慢げな彼を相手にもせず、後ろ手に縛り上げられている男を見た。

 映画のランボーのような迷彩色の野戦用パンツに白いランニングシャツ姿の若い男は、まだ自分の置かれた状況を把握できていないのか無表情のまま洋子を見ていた。

 傍らには彼が使っていたアサルトライフルが落ちていた。

「AKS―74UNね」

 ひと目で洋子は銃の種類を識別した。

「なんやそれ?」

 アヤタチの問いに洋子は銃を拾い上げながら答えた。

「このライフル銃はもともと旧ソ連で開発されたAK―74、通称カラシニコフの改良型ね。銃身を短くして、建物の中や市街戦、もちろんここのような森の中も含めて狭い場所での近距離戦用に作られたライフルAKS―74Uに暗視スコープを取り付けられるようにしてあるの。日本での通称はロシア語で短いものを意味するクリンコフと呼ばれることが多い銃で、ロシアの特殊部隊が制式採用している筈よ。他にも中東の資金力豊富なゲリラのボスなんかがよく持ってるわ。たしかビンラディンがアルジャジーラテレビのインタビューに答える映像でも持っていた記憶があるわ。ブラックマーケットの相場は知らないけれどその辺のやくざや貧乏左翼が入手するのは難しい代物ね」

 そして銃を構えて縛られている男の眉間にピタリと合わせると、洋子は言った。

「ここが一種の治外法権の場所だと言うことは、あなた方が一番知っている筈ね。あなたがもしここで死体になっても、宮内庁の許可が無い限り未来永劫誰もあなたを探しにくることはないわ」

 洋子の言葉に一瞬男の表情に恐怖の色が走った。

 アヤタチが洋子の言葉を遮った。

「あんたそんな可愛い顔してよう言うわ。せやけどこいつ多少の脅しじゃ口開かへんで」

 そんな事は洋子もわかっている。先刻の射撃の腕前といい、後ろ手に縛られた肩から胸にかけての筋肉の盛り上がりといい、囚われの身となった後もそれなりに落ち着いた態度といい、かなりの軍事訓練を受け、ある程度の実戦経験も積んだ猛者であることは容易に想像できた。しかし残された時間と、この先の任務を考えるとここで悠長に彼を尋問している余裕も無かった。

「そんな事より、こいつの首にかけてある丸い鏡のようなもの見てみ」

 アヤタチが座っている男の首から下がったペンダントのようなものを持つと洋子のほうへ向けた。

 それは直径五センチ程度の小さな丸い鏡だった。よくみると現代の鏡ではなく金属の表面を磨いて作られた鏡で縁が三角形、若干の凹面となっており、鏡面の裏側には複雑な文様が描かれていた。

「これは三角縁神獣鏡のレプリカやな。あんた三角縁神獣鏡、知ってるか?」

「詳しくは知らないけれど、卑弥呼の鏡と呼ばれている鏡でしょう」

「そうや、卑弥呼が魏の国に使いを送った西暦二三九年、魏の年号で景初三年の銘の入った銅鏡や。魏志倭人伝には、この景初三年に卑弥呼の使いに親魏倭王の金印と一緒に銅鏡百枚をつかわしたと書いてある。せやから初めて大阪の黄金塚というところで昭和二十六年に発見されたときには、これこそ卑弥呼が魏からもらった銅鏡で、邪馬台国近畿説の動かぬ証拠として脚光を浴びたんや」

 実はそのあたりの経緯は、洋子にも知識があった。それはここ数年急速に組織拡大を続けるカルト教団の情報の一つとして学習した記憶があったからだ。しかしこの場は黙ってアヤタチの説明を聞いていた。

「せやけどその後同じような鏡が何と近畿を中心に三百枚も出てきたんや。反面、鏡をくれた筈の中国からは一枚も出てこない。またその後の研究でも、材料の銅は大陸由来のものだが、そこに書かれている文字は当時の魏の文章としては間違っていたりと、不思議なことばかりや。これはどういうことや、と言うことで、諸説噴出して、結局古代史の謎として残っている不思議な鏡や」

「そうなの。実は由来はともかくとして、この鏡をシンボルとして使っているカルト教団があって、内閣調査室でもちょっとマークしているっていう情報は聞いたことがあるわ」

 洋子は控えめに自分の知識をアヤタチに伝えようとした。

 洋子の卓抜した能力の一つとして、職務上必要な情報をまるでデータベースのようにその頭脳の中で整理し、必要な知識を必要な時に取り出すことが出来た。これまでの仕事でもその能力は如何なく発揮されてきたが、ある時から、たとえどんなに必要な情報であろうとも、普通の人間はあまり先回りして他人からそれを与えられることを好まない、ということに気付いた。これまでの様々な任務の中で、あらゆる状況から判断して必要と思われる情報を即座に披露するたびに、業務上のパートナー達は、それが年長の男性であるほど、露骨にいやな表情を浮かべた。そして彼らは任務終了後に必ず、

「彼女は仕事は出来るけど・・・」と婉曲な表現で洋子を中傷した。それが次第に内閣調査室のみならず、自衛隊や公安にまで広がり、

「完璧すぎて嫌な女」という洋子像が省庁横断的に語られるようになったことは彼女も承知していた。

 だからこそ今後の任務遂行を円滑にするためにも少し遠まわしな言い方でアヤタチに情報提供を試みた。

「卑弥呼の子孫を自称する女性教祖を中心に日本の国を立て直すことを主な教義としている教団で『日御子の光教団』という名前らしいわ」

 後ろ手に縛られている男の表情に一瞬変化が走った。教団の名前に反応したようだった。

「暗視スコープやらライフルやらよう知ってるなと思ってたけど、そんなことまで知ってるんや」

 アヤタチが心から感心した表情で言った。

「その教団に関して知っていること全部教えてんか」

 そう言ったアヤタチの言葉には、これまで洋子が苦しめられた、くだらない中年男性のプライドとは無縁の響きがあった。

「担当外だから、それ程詳しくは無いのだけれど、要は魏志倭人伝の「邪馬台国の卑弥呼」は「ヤマト国の」であり、自分こそがその日御子の直系の子孫であると主張する女教主を中心に活動している新興宗教で、流行の邪馬台国論争なんかとあいまってネット上で話題になり、ここ数年で急速に拡大し、現在は信者数十万人を超えたらしいわ」

「そこで、卑弥呼が魏からもらったとされる三角縁神獣鏡が教団のシンボルになっているわけやな。けどそれだけじゃあ、内閣調査室の研究対象にはならんやろ」

「そのとおり。まず第一の理由が鏡に代表されるように太陽信仰を背景に、自分こそが日出ずる国、つまり日本の正当な支配者であるという教義ね。そこから導き出されるのは必然的に現代の天皇に対する反意と天皇制を根幹とする現体制の打破の主張。そして第二の理由が教祖日御子の素性の不透明さなの。彼女が一体何者でどこで生まれどこで育ったのかまったくわからないの」

「それはワイと同じ無国籍日本人ということやな」

アヤタチが何か思い当たる節でもあるのか小声で呟いた。

「そうかもしれないわ。でも本来あなたのような無国籍日本人なんて概念は政府にはないから、内閣調査室や警視庁公安では、彼女に対して中国あるいは北朝鮮が送り込んできた、工作員ではないかと疑ったわけね」

「で、結局どうやったんや?」

「まったく彼女の出自は不明のまま。本名もわからなければ経歴もまったく不明。本当に降って湧いたように現れたとしか思えないの。」

 アヤタチはしばらく無言で眼を閉じたあと、静かな声で言った。

「洋子はん。あんたすごい知識の持ち主やが、ひとつ言うてええか」

 洋子はアヤタチが何を言おうとしているのかまったくわからない。

「あんたたちは、深く考えすぎや。その日御子という女、多分自分で自分の出自を言うてるはずや。なんでそれを信じへんのや」

洋子の記憶では確か日御子は、卑弥呼直系の一族の家に生まれ、幼い時に瀬戸内海の大山祇神社の神官から、卑弥呼の生まれ変わりと言う神託を受けて両親から離れ、ひとり玄界灘の孤島、沖ノ島に渡りそこで卑弥呼と同じように鬼道を身につけたと称していた。

「でもあなたも知っていると思うけれど彼女が修行したと称している沖ノ島は、海の正倉院と呼ばれ、国宝として指定されている絶海の孤島よ。そして島全体が神域として宗像神社の神官が交代で常駐する以外は無人島で、緊急の場合を除いては一般の人間は一切入れない場所なのよ。その上、いまだに女人禁制を貫いている、そんな島で幼い女の子がどうやってひとりで生きていたというの?」

「ひとりやない。神官はいたんやろ」

「だから、沖ノ島はいまだに女人禁制で、男であっても神官の許可が無い限り上陸さえ出来ない島なのよ。女の子がそこで暮らせるわけがないじゃない」

 洋子は少しいらつきながら答えた。アヤタチが一体何を言いたいのかさっぱりわからない。

「逆に言えば神官さえ許可すれば、他の誰の許可も要らずに暮らせるわけや。無人島やから他人の眼を気にする必要もないしな」

「無茶言わないで。島には学校も病院もないのよ。神官ひとりで子供を育てられるわけがないじゃない」

 アヤタチは洋子を正面から見据えて言った。

「あんた、いろんなこと知ってる。けど覚えとき。知識は時に眼を曇らせるもんや。あんたはまだ、人間は屋根のある普通の家で生まれて、学校に通い、親に食べさせてもらいながら大きくなって、就職して結婚して、子供が生まれて・・・。そんなサイクルが当たり前やと思うてる。でもな、それはあくまで戦後の平和で暮らしやすいニッポンという国の表の顔や。今ある地球上の国の中で最も古いこの国の長い歴史の中ではあんたの常識なんて一瞬の夢や。表面上の知識や常識にとらわれて真実を見過ごさんように気をつけたほうがええ」

 その言い方にまたプライドを傷つけられて洋子は言い返した。

「そんなに偉そうに言うあなたは一体何を知っているというの?」

「その日御子という女に少し心当たりはある。せやけど、具体的なことは今はわからへん。ただその女が正体不明やと、決め付ける前に、もしかしたらほんまの事言うてんのやないかと感じただけや」

 そしてアヤタチは捉えられた男を見ながら言った。

「こいつは脅しても何もしゃべらへんで。時間の無駄やさかい、はよ先に進もう。もしかしたら卑弥呼の生まれかわりに会えるかもしれへんで」

「じゃあこの男どうするの?」

「それはあんたにまかせるわ」

「そんなの無責任だわ」

 洋子は言い返したが、既にアヤタチは背中を向けて後円部に歩き出そうとしていた。

 男はこれから自分がどう扱われるのか理解しかねている様子で洋子とアヤタチを見上げていた。

「仕方ないわね。とりあえずあなたはここにおいていくわ」そう言ったあとで洋子はさらにその男に何か朝鮮語のような言葉を投げかけた。

 すると男の表情は苦しそうに歪み、そして洋子とアヤタチを哀願するような表情で見上げた。

 しかしその時洋子はすでに背中を向けてアヤタチの後ろに続こうとしていた。

「あんたあの男になんて言うたんや?」

歩きながらアヤタチが尋ねた。

「朝鮮語であなたの事は政府を通じて将軍様に伝わる筈。あなたはよくても、その時あなたの家族はどうなるのかしらって言ってあげたの」

「えげつないな。あんた、あの男が朝鮮人やて知ってたんか?」

「知らないわ。でもあなたの得意な直感でそう思っただけよ」

 洋子が言うとアヤタチは少し感心した表情で洋子を振り返り、そして眩しそうに左後方に広がる大阪湾に視線を移した。


 尾根と言っていいだろう。仁徳天皇陵の前方部の最高部は約三十四メートルあり、ほぼビルの十階程度に相当する。そこから眺める大阪湾は、高速道路の高架と大阪南港に林立する工場や倉庫の煙突やクレーンの間から瀬戸内海が垣間見えた。そしてその向こうには少しずつ赤みを帯びながら水平線に近づいていく夏の太陽が見えた。

「昔の人ってどうしてこんな所にこんな大きなお墓を作ったのかしら」

 洋子は前を歩くアヤタチの筋肉の盛り上がった背中に向けて呟いた。

 テロリストたちが作ったのだろうか、獣道のような小道が後円部に向けて続いていた。

 アヤタチが足元からこぶし大の石片を拾い上げて振り返りながら洋子に見せた。

「これな、葺き石やねん。もとはこの古墳の表面にはびっしりこんな石が葺かれていたんや。みてみ、この石、結構表面つるつるやろ」

 アヤタチが手渡してくれた石を受け取り表面の土を軽く落とすと、すべすべとした感触が伝わった。

「これは、淡路島で採れる五色石や。今でこそ森に包まれた小山のようやが、元々表面はこんな石でびっしり覆われた人工の山やったんや。ほんでなこの古墳のすぐそこまで海が迫ってたんや。その頃の瀬戸内海はヤマトと吉備、九州、そして朝鮮や中国大陸を結ぶ物流の大動脈やったんや。想像してみてや。西からヤマトを目指して船でやってきた、九州の豪族や朝鮮、中国、果ては中東やヨーロッパの使節が長い船旅の果てにここで、この古墳に出会う」

 洋子の脳裏に、三重の堀に囲まれ、無数の陪塚を従えながら、何万枚の葺き石で覆われた長さ840mもの円と方形の幾何学的な形の巨大な人工の山が、瀬戸内海に沈む夕日に照らされて真っ赤に染まっていく姿が浮かんだ。

 それは多分、墓と言うよりも、現代アートの建築物のような、洗練された巨大な造形美であったに違いない。

「どうや、はるばるヤマトを訪ねて来るよそ者が最初に上陸する場所でこんなピラミッドよりもでかいもの見せられたら、それだけで、どんな有能な外交官よりええ仕事すると思わへんか」

「確かにそのとおりね。ヤマトに対し、東海の田舎国家という誤った先入感を持って訪れる人々に対するデモンストレーションとしてはとても効果的だと思うわ」

 前方部の尾根部分から、後円部に差しかかろうかという頃、大阪湾に夕日が沈んだ。

 あたりは急に暗くなり、周囲の木々は闇の中のシルエットと化し、虫の声に混じって鳥や小動物の切り裂くような鳴き声があたりに響き渡った。それは遠くに望む堺市街のネオンの光を除けば、完全に密林の夜の始まりを思わせるものだった。

 アヤタチの様子には、野営を準備するような素振りは見えない。残された時間を思えば、昼も夜も関係ないことは洋子もわかっていた。

 それにしても、スサノオの後裔を自称する眼前の小男はこの森に見事に順応していた。

まるで彼が進もうとする先を木々のほうが避けているかのように無造作に歩いていた。その姿は洋子の知識の中にある、東北のマタギやボルネオの狩人と重なって見えた。

後円部との境界部に着いたときには既に周囲は真っ暗になっていた。ここから後円部の頂上までは更に十m弱の高低差があり、建造当時には墳丘を仰ぎ見ながら祭礼を行った場所ではないかという説もある。生い茂る樹木がなければ左右の堀に面した部分には祭礼用と言われる造り出しを見下ろすことが出来る筈だが、暗闇と密林のせいで二人の前には墳丘が大きな影として聳えるだけだった。

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