第12話:病院アリス
――水? 身体中に服がまとわりついて……気分が悪くなる。……確かあの時も濡れ鼠だったっけ。……しん……ぷ、僕は……十字架を……、まもっ……た。
全身に濃淡の青を纏った少女は、ウサギのぬいぐるみと一緒におままごとに興じていた。一人っ子ゆえ、遊び相手はこのぬいぐるみのみ。
親は両親ともに医者で、総合病院の院長と副院長をしている。子供に淋しい思いをさせて悪いと思うのか、少女のワガママは大抵は許される。少女のお気に入りは『非日常のストーリー』。生々しい現実など、孤独な一人遊びだけで十分。
小学校に入学した時に親に買ってもらった文学全集や、祖父母に買ってもらった寓話集などが彼女の友達。特にお気に入りは『不思議の国のアリス』。挿絵も魅力的だし、ストーリーもこれぞ王道の非日常で、特に好きなのはティーパーティのシーン。いつかぬいぐるみではない、人間のお友達が出来た暁には是非この広い庭でパーティを開きたい。
少女がいつものように夢想していると、子供役のウサギのぬいぐるみが倒れた。
「もう、ダメでしょ? ごはんの時はちゃんとお座り……あれ?」
少女はその方向に奇妙な『もの』を見つけた。いや、『もの』と言っては失礼か。それは確かに人間の服を着た、『人間』だったのだから。
――いやだよ、捨てないで! わたし、何にも悪い事してない! 男の子になればいいの? それなら私の事ゆるしてくれるの? だったらわたし男の子になるから! だから……だから、ゆるして!
「ゆるして!」
いきなり起き上った反動か、背骨から腰のあたりに痛みが走る。だが、そんな痛みよりも全身にびっしりとかいた汗の方が問題だった。着ていたのは病院でよく着せられる服で、どこかで誰かが着ている所を見たような気がする。
とにかく何かで汗を拭かなくては。そう思ってベッドの周りを見渡していたら、ベッドサイドに腰掛ける少女と目が合った。少女は嬉しそうににっこりと笑った。釣られて笑う。
「……お兄ちゃん、うなされてたよ? 悪い夢でも見てたの?」
――わたしは……。
頭が痛む。この脳内に響く声の正体は何だろうかと逡巡するが、はっきりしない。とりあえず言えることがただ一つだけあった。
「……あのね、わたしは『お兄ちゃん』じゃなくて『お姉ちゃん』なんだよ?」
「お姉ちゃん今日は、一緒におままごと……」
少女が『お姉ちゃん』の病室を訪ねた時には、看護師が一人しかいなかった。相手は気まずそうに視線を逸らそうとする。
「……ねぇ、お姉ちゃんは?」
この病院の跡取り娘相手に迂闊な事は言えない。看護師は無理に作り笑いをして答える。しかし、目の前の少女はこれが作り笑いだととうに見抜いているのだろう。
「検査ですよ。頭を強く打ったせいなのか、それとも心的要因なのか、解らないと直せませんからね」
いくら名医でも、と少女の親を暗に持ち上げるのも忘れない。
「ふぅん。つまんないの」
少女はいつも原作のアリスがそのまま飛び出て来たような、青と白の服装を着ている。頭に蒼いリボンも忘れない。
「お姉ちゃーん! アリスのお茶会しよう!」
少女はたったの三日で茜に懐いた。彼女の担当看護師によると、少女はこの病院の跡取り娘、しかも一人っ子で我儘放題だったそうだ。それが茜という話相手が出来てからは我儘も言わなくなった、らしい。自分が役に立てるのなら、それでいいと思うようになった。
少女は初めて会った時に、簡単な自己紹介をしてくれた。
「わたしの名前は鏡亞里亞。アリア、じゃなくてアリスだったら、鏡の国のアリスなのに」
そうむくれる姿は子供らしくて可愛らしい。年は十二歳で、ちょうど可愛さと頑固さが身に着く年頃だ。
「それで、お姉ちゃんはなんて名前?」
「え?」
そこで初めて、自分は記憶を失っていることに気づいたのだった。
「う~ん。どう見ても脳に異常はないんだよ。精神的要因が大きいのかもしれない」
茜の目の前に座る医師は腕を組んでレントゲン写真を隅々まで眺めている。彼は脳神経外科が主な担当で、亞里亞の父親だ。娘の亞里亞に彼の面影が確かに見られる。
「……そうですか。でも脳にダメージはなかったんですよね?」
明るく笑うショートカットの少女に、微妙な違和感を覚えながらも、医師は太鼓判を押す。
「そう、脳に外傷は全くない。全身も軽い切り傷と打撲で済んでるし、君は結構運がいいみたいだね。やっぱりキリスト教信者は違うのかな?」
医師は冗談交じりに茜の首から下がるロザリオを見つめた。どう見ても本物のルビーがはめ込まれた、純銀製のロザリオ。
「そう……なんでしょうか? わたしはこれを大事な誰かに渡されたことしか覚えていないんです」
「……一般常識は身についているし、年齢的に大学生と言ったところか。テレビのニュースで行方不明の大学生の事が報道されたら知らせるよ」
「よろしくお願いします」
礼を言って検査室から出ようとする茜を、医師は引き留めた。
「君には娘の事で大変世話になっている。ここにいる間は君は『アリス』という仮名で呼ぶのはどうかね?」
「それは……亞里亞ちゃんが嫉妬しませんか?」
「あれがあれ程に打ち込むものと言えば『不思議の国のアリス』だけだからなぁ。素直にアリスとつけたら文句を言われていただろうな」
「はぁ……」
医師は茜の背中をバシバシと叩く。
「ま、よろしく頼むよ。……それじゃ、次の患者さんお通しして」
医師が看護師に指示を出すと、亞里亞と同じ年頃の少女が、学校の制服らしき服を着て入ってきた。私立の学校なのかとぼんやり考えるが、今の自分は『アリス(仮)』だ。どうせ知り合いでも何でもない。
そう思ってすれ違いそうになった時、相手がこちらを凄い勢いで睨んでいた。まるで親の仇か何かのように。
「……こんなところで会うなんて、奇遇ねぇ。あんたの調子はどう? 『義姉様』?」
少女は嫌味っぽく言ったが、茜は彼女の腕を掴んだ。
「貴女はわたしのことを知っているの?」
突然の事に驚く若葉だが、一応血が繋がっているだけの事はあるのか、一瞬で茜の表情の違和感に気づいた。
「へぇ……面白い事になりそうね」
彼女は挑発的に笑った。
「わたくしの挑戦、受けてくださるでしょ? そうしたら、以前のあんたの事を教えてあげてもよくってよ?」
記憶のない茜には、彼女の言う『挑戦』が何のことか解らずに、ただ混乱するしかなかった。
『不本意だけど、わたくしと張れるのはあんたくらいのもの。記憶を取り戻すお手伝いをしてあげますわ』
――一色若葉と名乗った少女は、そんな事を言っていた。……ということは、彼女はわたしの知り合い? 彼女は片頭痛が酷いからここに来たと言っていた。そして、若干十三歳にして高校三年生の天才少女だと(自分で)言っていた。そんな雲の上のような人と、どうしてわたしが知り合いなの?
頭の中の疑問符は消えることなく、次々に新たな疑問が湧き出てくるのだった。
「……それで、これは一体何のマネですの?」
茜と若葉は、亞里亞と共に広大な病院の敷地内でレジャーシートを広げていた。亞里亞がティーポットに茶葉をれる。
「わたしね、アリスのお茶会してみたかったの! お姉ちゃんとわかばちゃんがいるからパーティ出来るね!」
「わたくしを小学生扱いはおやめなさい! わたくしは高校生ですのよ?」
若葉が言い聞かせるようにぴしゃりと言っても、亞里亞には意味が解らない。
「まぁまぁ……若葉さんも亞里亞ちゃんも喧嘩しないの」
茜が微笑みながら諌める。
「……気に入らない」
淹れたての温かい紅茶を飲みながら、若葉はぼそりと呟いた。楽しそうにお茶会を楽しむ二人を冷やかに見つめる。若葉はリモコンのスイッチを入れた。これは亞里亞が茜と一緒に遊んでいる隙に仕込んだものだ。
ウサギのぬいぐるみがだみ声でしゃべりだす。
「ヤア、トツゼンダケド、コノビョウインノドコカニ、バクダンヲシカケタヨ! バショハイッカショ! イマカライチジカンイナイニ、ミツケナイト、ヒトガシヌカモネ!」
可愛らしいぬいぐるみから発せられた突然の宣告。その言葉は、場を凍らせるには十分だった。……いくら記憶を失っているとはいえ、茜の『探偵』としての本能が『爆弾』という単語に反応する。
「爆弾……ですって!?」
――俺の娘。
一瞬、ズキりと頭が痛む。その場に倒れ込みそうになるも、必死で耐える。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「……ちょっと大丈夫じゃないかも」
玉汗が止まらない。それでも茜は駆けだす。
「亞里亞ちゃん、若葉さん、ここを動かないで!」
頭を抱えたまま、病院内へと急ぐ。
なぜこんなにも『爆弾』という単語に反応してしまうのか。どうしておぼろげながらに聞こえる声が自分を苦しめるのか。そして何より、自分自身でもおかしいと思える言動。
――これはなくさない。
茜の胸元で、クロスが揺れる。
――そろそろ髪、切ろうかな。
自分自身の声を聞いた気がして、頭痛は耐えられないところまで来た。
「……はぁ、はぁ、わたしは、このまま……何も出来ないの?」
――わたしの名前? それは――。
爆発のタイムリミットまであと三十分。
「お姉ちゃん、大丈夫かなぁ?」
亞里亞が若葉に問う。彼女はぞっとするような氷の笑みを浮かべていた。
「さぁ?」
茜が失敗すれば、この少女が死ぬだけだ。巻き込まれないよう、手も打ってある。
――この程度の事、クリアできないのなら、あんたは『大西隆の娘』ではない。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
一階から五階まであるこの病院の病室を一ヶ所づつ回る。頭痛に必死で耐えながらも、そろそろ身体が保たない。
「に、逃げて……ください」
そう言って回る事が、今の茜に出来る唯一の事だった。それでも重体患者や寝たきりの老人などは、どう考えても時間が足りない。
――考えるのよ、考えるの!
爆弾を仕掛けた者の意図は解らない。この病院への嫌がらせか、それとも単に人殺しを愉しみたいだけか。
――どっちにしろ、許せない!
茜は病室を回るたびに、怪訝な目で見られる。それでもいい。とにかく一人でも多く助けなきゃいけない。その一心で、ひたすら病室を回る。胸元のクロスが、揺れる。それで、ふとひらめいた。
――まさか。
しかし、思考とは真逆に身体が動く。理性は『一人でも多くの人を助けるべき』だと叫んでいる。でも、本能に近い、今までの経験からくる勘から『少女を救うべき』だと確信させる。
「お姉ちゃん!」
亞里亞は嬉しそうにウサギのぬいぐるみを万歳させた。
「亞里亞ちゃん!その子を貸して!」
反射的に亞里亞は、ぬいぐるみを茜に投げ渡した。彼女は更にそれを出来るだけ高く放り投げる。……次の瞬間には『ピー』という機械音がして、ウサギは原形をとどめないほどにバラバラになった。
茜も亞里亞も、それを呆然と見つめていた。
「……やっぱり、あんたは『大西隆の娘』だわ」
すぐ傍で飲み物を啜る音がして、そちらを振り返ると、若葉がすっかりぬるくなった紅茶を飲んでいた。その片手には小型リモコンが握られている。
「……爆弾の隠し場所はぬいぐるみの中、あの声は『死人が出るかもね』とは言ったけれど、『死ぬ』という『断定』ではなかった」
茜の指摘に、若葉はわざとらしく拍手をする。
「そう。尤も、普段のあんたならこのくらいの事は見抜けたでしょうけどね」
あくまでも冷静で冷たい若葉に、怒りがわいてくる。
「クロックぅ……」
亞里亞はウサギのぬいぐるみの事を想い、涙が堪え切れない。
「どうして貴女はこんなに酷い事が出来るの? 大西って誰? わたしは誰なの?」
若葉は「ごちそうさまでした」と行儀よく頭を下げ、立ち上がった。そして茜の方を振り返る。
「……あんたの名前は宮下茜。十九歳で『探偵』。大西というのはわたくしたちの偉大なるお父様。わたくしと貴女は義母姉妹なのですわ。認めたくはないけれど」
淡々と、感情が一切籠らない声でそれだけ言うと、若葉はゆっくり歩き始める。
「……亞里亞さん、貴方のお父様のお薬の処方はお見事です。わたくしも医者を目指すのも悪くはないと思いましたわ。それでは、ご機嫌よう」
その冷たい声を聞いて、茜は無意識のうちに胸元のクロスを強く握りしめていた。
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