第13話:喪われた過去を求めて

 ――わたしの名前は宮下茜。主にインターネット上で依頼を受けて、『探偵』として働いて、生計を立てている。十月十六日生まれで、現在十九歳。血液型A型、てんびん座。教会で暮らしている。

 インターネットや面識のあるらしい人たちから聞いた情報はこんなところ。これでも今のわたしにはピンとこない。第一何なの、この短すぎる髪は。

 わたしは女の子なの、だから、こんな短い髪じゃダメなの。



 鏡病院を退院したわたしは、自分について知りたいと強く思った。治療に罹ったお金は、貴重な症例の患者を診れたという事で、ほとんどかからなかった。

 亞里亞ちゃんはわたしが退院するのを泣きながらも祝ってくれた。それからのわたしの行動は早かった。

 病院に収容された時には携帯電話も身分証の類も一切なかったから、鏡院長のご厚意で貸してくれたお金で最低限の事は調べた。ホームページには確かにわたしの写真が載っていたノデ、簡単なプロフィールもそこで知った。多分自分で作ったであろうそのホームページには、これまで解決してきた事件に軽く触れていた。そこには彼女――『天才少女』一色若葉の名もあった。はっきりと『義姉妹』とは書いていなかったけれど、彼女がそんな嘘をついてどうなるのだろう。 

 わたしは彼女が言った事を鵜呑みにする気はないけれど、大西の事も調べてみた。爆弾での爆破事件を得意とする、劇場型の愉快犯。留置所でさえ、彼にかかれば出入り自由という、恐ろしい男。……写真も出てきたけど、わたしのこげ茶色の髪とは似ても似つかない、漆黒の髪の持ち主。想像よりも若く、想像よりも整った顔だちをしている。

 その次は市役所に行って、本籍を確かめてみる。東京都足立区――。住所から察するに、わたしは幼い頃、アパートもしくはマンションに住んでいたらしい。……それがどうして教会に棲んでいるんだろう。

 とにかく、こんな中途半端な気持ちのままじゃ帰れない。きっと周りの人に迷惑をかけるに決まってる。……だったらいっそ、一から自分の事を振り返ってみてもいいんじゃないかと、わたしは思う。

 その第一歩が、実家に行ってみる事。そこにはきっと何かがあるはずだから。



 交番で道を訊きながら、なんとかその場所にたどり着いた。古いアパートだった。建物のコンクリートにはひびが入っていて、今にも崩れそう。建物の周りには雑草がぼうぼうと生えている。もう冬なのに、たくましい。

 市役所でもらった、住民票の写しを手に、わたしは今、幼い時を過ごした部屋を訪ねる。部屋の鍵は開いていて、誰でも入れる。

「何で……こんなに不用心なの?」

 玄関先には埃で覆われたフォトフレームがぽつんと置かれていた。わたしはそっとそれを手に取ると、ふっと息を吐いて埃を飛ばそうとするけど、こびりついて思うようにいかない。ティッシュを濡らして拭くと、やっと写真が見えた。中央には長髪の、幼い少女がいる。

 ……恐らく、これが昔のわたし。今とは似ても似つかないほど女の子らしい。髪の色は相変わらず変わっていない。奥にいる若い男女がわたしの両親なのだろう。

 すなわち、片方は大西隆――『爆弾魔』。もう片方の女の人は陶磁器かと勘違いするほど白い肌に、艶やかな黒髪が見事な美人。

「これが……わたしのお母さん? ……ッ!」

 ――男の子だったら。

 写真を見た途端、あの頭痛がわたしを襲う。耐えられなくなって、わたしはその場に座り込んだ。

 ――ちゃん、茜ちゃん。

「やめて……その声で、わたしを……呼ばないで!」

 ――茜ちゃんは長い髪が似合うね。

「こんな髪!」

 ――必ず、また会おうね。

「ダメ! わたしは待てない!」

 ――ずっと友達、だよ。

 わたしは気がつくと幻聴に対して独り言を繰り返していた。狭い玄関に座り込んだまま、わたしは呼吸を整える。

「はー、はー、はー、……よし、大丈夫」

 それから人の気配を全く感じない廊下をゆっくりと進んでいく。長年掃除していないらしく、埃は積もり放題、かび臭い。奥には和室が二部屋、手前にはキッチン、廊下にはトイレ。

 どうやらお風呂はないらしい。このアパートに来る途中に潰れたらしい銭湯があったっけ。あそこを利用していたのだろうか。

 キッチンスペースに足を踏み入れると、あまりの悪臭に倒れそうになる。

「……凄い匂い」

 冬だからこの程度で済んでいるのだろうけど、夏場はもっときついだろう。洗いかけのままの食器が山積みになっていて、その上に茶褐色のシミがついている。

「……血?」

 キッチンの洗い場の壁一面に夥しい量の変色したシミが出来ていた。そのあまりの量に吐きそうになる。

 ――本当にわたしはここで生まれ育ったの?

 奥の和室の壁も同じく、血の跡で汚れている。

「……どうしてこんなに血が?」

 わたしたち家族が住む前に一家心中でもあったのだろうか。ふすまを開けると煎餅布団が山積み。どうやらわたしたち一家は、相当貧しい暮らしをしていたらしい。



 特に収穫を得られないまま、不快感だけを味わったわたしは、新鮮な空気を吸うために外に出た。冬だけど、今日は比較的暖かい。病院に運ばれた時に来ていたメンズのシャツはボロボロに痛みきっていたし、ジーンズも好みじゃないので、思い切って安いものを買った。

 スカートをはいたのは久しぶりな気がして、気分が弾む。これで髪さえ長ければ文句はないのに。前のわたしは何が気に入らなくて短髪にしていたのだろう。……男の子より女の子の方が楽しいはずなのに。

 お洒落とかお化粧とか、ヘアアレンジとか……。そんなごく当たり前の事に夢中になれなかったんだろうか? 今のわたしは記憶はないけれど、妙な解放感がある。このままならわたしはずっと記憶が戻らなくてもいい。

 ――駄目よ、長い髪は駄目。

 ……まただ。またあの頭痛。わたしは再びその場にしゃがみこみ、痛みが去るのを待つ。けれど、一向に調子は良くならない。

「ちょっとアンタ、宮下さんちの前で何してんの?」

 ガラガラ声に顔を上げると、そこには四十代くらいの女性が仁王立ちで立っていた。

「……わたし、宮下茜です。貴女は宮下をご存じなんですか?」

 すると相手は面食らったようだ。しばらくわたしの姿を上から下までじっと見つめる。

「……もしかして、茜ちゃん? どうしたの、その髪は?」

 ――過去が、顔を出そうとしている。



「まぁ、楽にしなさいよ」

 そう言って彼女は渋めのお茶とおかきをコタツテーブルの上に乗せた。その人はお隣さんで『四宮』と名乗った。本人曰く、わたしの母の結婚前からの付き合いの人らしい。

「……どうも、お構いなく」

「あら~嫌だよ~この子は! 昔は遠慮なしに離乳食すっ飛ばして、煎餅食べようとしたくせに!」

 ……どうやら信じてもよさそうだ。確かに昔、一時期煎餅にハマった記憶があるから。

「さて、色々と積もる話もお互いあるけど、何が訊きたい?」

 そう彼女は切り出した。熱いお茶とおかきをつまみながら、まずは母とはどういう関係か詳しく聞きたいと言った。

「そんなに面白くもない話よ。和子ちゃんの家は京都でも有名なそういう……ああ、誤解しないでね? ただのお座敷遊びを楽しむところね」

「ああ、何となく解ります」

 わたしが相槌を打つと、更に詳しく話してくれた。

「実家が先祖代々そうだったから、和子ちゃんが店の手伝いで酒宴に出たのは、彼女が十五歳の頃だったね。あたしもあの頃は割と売れっ子ったけど、和子ちゃんよりも美形はいなかったね」

 彼女はきっぱりと言い切った。

「着物もいつもいいやつ着ててね、羨ましいって思ってたんだけど、裏では猛稽古よ! あたしも血を吐く思いで習ってたけど、和子ちゃんには敵わなかったわ。だから素直にいい人が出来た時には祝福したわ」

 いい人というのは大西の事だろう。狡猾だという彼の事だから尻尾は出さなかったに違いない。

「あたしもおかみさんに頼まれてたからね、一緒に上京してきたわけ。でも悲劇だったのよ、これが!」

 わたしは思わず身を乗り出す。

「どういう意味ですか?」

「茜ちゃんもいい年した大人なんだし、はっきり言うけど、あなたが生まれてから、すぐに他の女のところに行っちゃったのよ」

 例の北欧人だろうか。一色若葉の母親の。

「その人の名前って解ります?」

 わたしが尋ねると、四宮さんは露骨に嫌な顔をした。

「最初は良かったんだけど、普通は子持ちの男を誘惑しようなんて思わないでしょ? やっぱ外国人は駄目ね」

 ここで煎餅をぼりぼり。

「それから、母はどうなりました? どこにいるんですか?」

「お隣とはいえ、その辺は守秘義務がどうのこうのってうるさくて。詳しく聞けなかったの。ごめんなさいね、役に立てなくて」

「いえ……」

 わたしが熱いお茶を啜ると、彼女が頭に手を伸ばしてきた。

「昔はあなたの髪も綺麗だったのに……やっぱりあの事が原因だったのかしら」

「あの事?」

 少し頭が痛い。けれど、これを聞かなくてはいけないと思い、耐える。

「……和子ちゃんが事あるごとにあなたに当たってたって噂があったのよ。実際にそうだったと思うわ。『男の子だったら』が口癖だったもの」

 ドクン、ドクン、と心臓の音が脳にダイレクトに響く感覚。

 ――わたし、男の子なら。髪切るから、おこらないで! ゆるして!

「……あの記憶……」

 それは今まで顧みようともしなかった、過去の自分の幻影。例え髪を短くしようとも。例え男装しようとも。例え一人称を僕としようとも。……決して逃れられない、母からの呪縛。

「……ちょっと、茜ちゃん?」

 四宮さんが引き留めるのも聞かず、『僕』はお礼を言ってその場を、そのアパートを離れた。



 教会に戻った時、神父は神に祈りを捧げていた。その姿は神聖で、何よりも尊いと思えた。

「……帰って来てくれたのか」

 彼は振り返らず、それだけを『僕』に言う。

「……うん。ちょっと僕らしくもなく『自分探し』してきたから、遅くなっちゃった。……待たせてゴメン!」

 胸元のクロスを神父に見せる。

「ほら、これのおかげで無事だった。少し傷ついちゃったけど」

 彼はくるりとこちらに振り返った。

「お前さえ無事ならそれでいい」

 そう言って僕を抱きしめた神父の胸は、とても暖かかった。

――ただいま、神父。ただいま、『僕』。

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