番外2:どこかのおだれかのおはなし

 コツ、コツと、その人物は、わざとらしい足音を立てながら、歩みを進める。鉄格子の嵌った『そこ』は外部との接触を、一切遮断している。この場所に来る者は、片手で数えられるくらいしかいない。『彼』はある病室のドアを、ノックせずに開ける。そこでは、いつもの『彼女』が彼を待っていた、わけではない。

「あれからどうですか? なにか……お変りはありませんか?」

 彼がそう問いかけても、彼女は一切答えない。ただガラス玉のような虚ろな、焦点の合わない瞳だけが、無機質な病室を眺めている。彼はため息をつくと、持参した茶葉を急須へ適量、放り込む。

 ここは基本的に住人の自由はない。ただし、外から来る人物が持参する物は許されている。

「……に」

 彼女は聞こえるか聞こえないかの音量で、何かを言った。彼は思わず『奇跡』を期待した。職業病というヤツだろうか? 彼自身でも、その期待の意味はよく解らない。しかし、彼女の言葉は彼を気落ちさせるものだった。

「……男の子ならよかったのに。そうすれば私は……いつでもあの人の事を、姿を見られるのに」

 この言葉は、ここに来る度に、五回に一回は言っている、彼女の口癖だ。

 その言葉に彼はやるせない思いと、深い憤りを感じるのだ。



「おとこのこじゃないから、いらないって」

 幼い少女は、確かにそう言っていた。まだ七歳の可愛い盛りの少女が言ったとは思えなかった。

「こら! ……大人をからかうんじゃない。お家はどこだい? 送って行ってあげるから、一緒に……」

 濡れ鼠の少女は彼の申し出を、首を左右に振る事で拒否した。

「……ほんとうのことなのに、どうしてだれもしんじてくれないの?」

 少女は泣きそうな顔で彼を見上げた。ただでさえ、つい最近に妻子を失っていた彼は、この年頃の女の子には甘かった。どうしても世話を焼かずにはいられない。

「……解った、信じよう。君の名前は? 言えるかい?」

 少女は不審そうに彼を見上げたが、雨で冷えた身体と、ろくに食べていない身では抵抗も無駄だと悟ったらしい。

「わたしは――」



 少女を保護して最初にした事は、彼女の身元を探す事だった。いくら賢かったとしても八歳児では出来る事など限られる。持ち物を確認しても、幼稚園児が使うような小さな鞄には小銭が、数枚しか入っていなかった。

 しかし、その小さな鞄には、『さくらぐみ』と書かれていた。その幼稚園はこの場所からかなり距離がある。外見は小学生だが、何か事情があるとみえる。

 どう見ても痩せすぎで、あまり食べていないであろうこの幼子のどこに、ここまで来る金などあったのだろう。とにかく、その幼稚園に連絡すると、少女のフルネームが解り、連絡先も解った。引っ越していないらしく、電話番号も変わっていなかった。

「……はぁい。だぁれ?」

 電話に出たのは女性の声で、その声も若さが感じられなかった。てっきり行方不明の我が子を心配しての事だろうと思ったが、少女の事を告げると機嫌が悪くなった。

「あの子がどうなろうと知ったこっちゃないわ!」

 そう受話器越しに怒鳴られた。そこでやっと少女の言っていた事が事実だと解った。彼女は……本当に『捨てられた』、もしくは育児放棄を良しとされた子供だったのだ。



 それでも他人の自分のそばにいるよりは実の親の元がいいだろうと、幼稚園から訊き出した住所を訪ねた時、少女の母親は救急車で運ばれている最中だった。

一瞬唖然としたが、そうしている場合ではない。周囲の野次馬にどういう状況なのかと尋ねても、返ってくる言葉は衝撃的だった。

「ああ、なんでも今回のは強烈だったみたいだよ、自殺未遂」

 その言葉に地面が崩れ去るような感覚を覚えた。

 ――なんという事だ。

 彼女の自殺未遂は、リストカット、アームカット、果ては頸動脈を切ろうとした事もあったらしい。 更に驚いた事に、目の前の救急車で運ばれていく女性は元は京都の芸者で、ある若い男と恋仲になり、籍は入れないものの同棲していたらしい。当時を知る者は、熱っぽく当時の彼女の美しさを語った。

「いやぁ~、あれだけの美人なんて金払って当然だね! まさに目の保養! ……それが今では、な? ……まだ三十代前半だってのにあの頭さ」

 美しい黒髪だった、と思われるのは白髪の中に辛うじて残る、艶っぽい黒髪のみ。

「それで、その相手の男は?」

「さぁ? 理由は知らんが、娘ごと捨てられたらしいよ。酷い男もいるもんだな。ま、娘は可愛かったけど母親ほどの美人になりそうにはなかったし」

 どうでもいい、と彼は続けた。

「おかげであの美人が見る影もなく、頭ン中ヤラレちまってあのザマさ!」

 『彼』は救急車が発車してからもその場を動けなかった。



「……あの男は十七年前に、貴女たち母娘を捨てたのですよ?」

 湯呑みを震える手で持ちながら、彼女は薄く笑う。

「今ではあなたの元にいるんでしょ? ……じゃあ、あの子がいないなら、きっと帰ってきてくれるわ!」

 震えに耐えきれなくなり、零れるお茶。それにも構わず、呪詛を吐く女。

 ――元凶の男の行方は誰も知らない。

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