第4話:安息の場所などない我々

 秋も深まり、紅葉が綺麗な季節になった。都内でも有数の名医が集うここ美柳病院で、村上栞は午後の予定を確認していた。彼女はこの病院に勤務して五年目で、この仕事にも慣れてきたばかり、といった程度のナース。幼い子供の頃からの夢だった『看護婦さん』という、どこか『女性のみがなれる職業』というイメージのある響きが好きった。そのため、『看護婦』という職業名が、男女共通の『看護師』に変更になると知った時には、大変ガッカリしたモノだった。そんな彼女のような想いを持つ看護師も少なくはないはずだと、本人は思っている。

「神木さん、体温は何度でした?」

 淡いピンクのナース服に身を包んだ栞は、手にしたクリップボードに数値を記しながら訊いた。童顔で目が大きいこのナースは、下手すると十代にも見える。問われた神木という患者は、この病院に運ばれてきた時にはかなり重い傷を負っていた、と当日担当だった他のナースたちから聞いている。その彼は今は平静そのもので栞の質問に答える。

「六度。平熱です」

「解りました。ご気分はいかがですか?」

 彼は一瞬、栞から目を逸らし、そして再び彼女の目を見ながら訊いた。

「……『宮下茜』という名前の女の子を知りませんか?」

 この病院に入院してから、彼が何度もを訊いた、同じ質問だ。あの時、爆発した教会には古い木材が使われていたため派手に燃えた。大西が残していったものが『爆弾』だった事は間違いない。彼は爆弾魔なのだから。

「……『宮下茜』さん、ですか? 何度も調べてはみたのですが、この病院に入院されている、という事はありませんね」

「では……他の病院は?」

 神木は大西に撃たれた弾丸の鋭い痛みに意識を失い、目が覚めたらこの病院にいたのだ。自分が、たかが拳銃で撃たれただけで意識を失うなど、情けなさすぎる。あの後に何があって、残された茜がどうなったのか、彼女が今どこにいるか、など全く解らない。だからこうしてナースが病室を訪ねてくる度に尋ねているのだ。

 彼が質問を重ねると、目の前のナースは困ったように首を振る。

「現在は個人情報の管理が厳しいんです。この病院内の事を調べるだけでも大変だったんですよ?」

 その言葉には、話術には自信のある彼でもぐうの音も出ない。所詮神木一人では、彼の単独では、茜が無事に生きてこの世にいるかどうかすら、調べる事など出来ないのだ。

「ちょっと、村上さん! あなたはいつまで神木さん一人に構っているの?」

 廊下から病室を覗き込むように、少々太めの中年ナースがこちらに向かって叫ぶように言った。ナース長の早瀬麻理だ。彼女に睨まれると、患者の娯楽――将棋やオセロなどの盤上ゲームすら取り上げられる、と患者たちに恐れられている。その噂の真偽はともかく、同じ仕事の者には厳しいと肌で感じた神木は、栞を質問責めから解放した。

「すみません、早瀬ナース長! では神木さん、わたしはこれで」

「こちらこそすみません。お引止めしてしまって」

 バタバタと音を立てて彼女は廊下へと去って行った。引き留めてしまった事を悪いと思いつつも、神木の頭にあるのは、やはり茜――『娘』の事だけだった。

 神木の怪我は、本当に酷いものだった、と入院して意識が戻った時に医師に言われた。銃弾はなんとか貫通していたが、しばらくの間――少なくとも一か月間は、右腕と左足を動かしてはいけない。そう厳重注意された。……それでも、各臓器を撃たれなかったのは幸いだった、らしい。医師はレントゲンを撮り、それを神木に見せながら説明してくれたのだが、元サラリーマンの、現牧師には当然理解できなかった。

 実はこの病院には秘密があった。……“K”と“Q”の機関のさらに上層部の手が及んでいるのだ、この病院には。そのため、拳銃で撃たれた理由も一切訊かれる事はなかった。この事はこの病院に勤務している者でもごく少数の者しか知らず、他の大多数の看護スタッフ――先ほどの村上栞や早瀬麻里といった一般人は『ごく普通の私立病院』としか認識していない。

 一般の病院ではこうはいかないだろう。銃による傷の原因を知られたら、神木は路頭に迷う事になる。

「……ねぇ」

  最初は空耳かと思った。

「ねぇってばぁ!」

 二度目の声には気づいた。そして声のする方へ、ゆっくりと顔を向ける。隣のベッドには、横わわっている少女がいた。髪型はショートカットで、背はあまり高くない。茜と同じくらいの年頃だ。見た目がどこか彼女と似ていたので、神木は思わず微笑んでいた。

「なんだい?」

 出来るだけ穏やかな感じだと思われそうな声を出して、神山は応えた。彼女が声をかけてきたという理由は、多分彼と同じだろう。

「あたしヒマなの! 何か話してよ!」

 ……やはり理由は『暇』の一言。声事態はどこか甘えるような印象なのに、口調が命令口調では魅力も半減だ。どうやら少女の性格は見た目通りらしい。なかなかの我侭だ。

「話と言われても……私は何も面白い事なんか……」

「じゃあ、なんで入院してるのか話してよ?」

 間髪入れず返してきた。……拳銃で撃たれた、なんて正直に言えるわけがない。彼女はこの病院の裏面を知らないらしい。ここは生まれて初めての嘘で乗り切ろう。まさかこの私が嘘をつく事になるなんて、と神木は自分の職業である『牧師』の名を穢す気分で口を開く。

「私は交通事故に遭ってね。潰れた車内で怪我をしたんだ。……そういう君は、なぜここにいるんだい? 病気に罹るような年には見えないが……?」

「……へぇ、災難だね! あたしは、……もう何年になるんだろ? 物心ついた時からずっとここに入院してるよ」

 さらりとそんな事を言う。『物心ついた時から』という事は十年が過ぎていてもおかしくはない。なにしろ、今年十八になったばかりの茜と同じ年頃に見えるのだから。

「ずっと……? 君……学校は?」

 この少女も茜と同様に特殊な環境で育ったのだ。彼女の生き方は茜の参考になるかもしれない。……この時は、そんな軽い気持ちで訊いた。

「小学二年までしか行ってない。それからずっとここにいる」

「なぜ入院してるんだい?」

「『アクセーシュヨー』、って医者が言ってた。……『シュヨー』っていうのが何だか解んないけどね。『アクセー』は何となく解るよ? あたし、頭悪くないし」

 神木は出来る限り、噛み砕いて説明した。それでも彼女が『悪性腫瘍』を理解できたか、といえば怪しいところだ。腕に三本の点滴のチューブを刺した彼女が、独り言のように呟いた。

「……外に出たいな」



 長月美千代は、ようやく目を覚ました。昨日は中学の同窓会に参加し、つい昔話に花が咲き、いつもよりもはるかに多い量のアルコールを飲みすぎてしまった。時計に目をやると、もう昼だ。

 ダイニングに行くと、既に食事の準備は整っていた。ハムエッグ、淹れたての紅茶とコーヒー、フレンチトースト。ご丁寧に二日酔いに効く薬まで用意され、それはダイニングテーブルに載っている。

「……あっ、美千代さん、目が覚めたの?」

 藍色のエプロンを身につけた少女が明るい声でそう言った。いつ聞いてもいい声だと、美千代は密かに羨ましがっている。このシンプルながらも、いざ作るとなると案外手間のかかる料理を用意してくれた彼女の名を呼ぶ。

「ええ、もうすっかり覚めたわ。……茜ちゃんが用意してくれたの?」

「うん。暇だったし」

 ソファーの上には、大量の本が山積みになっている。ジャンルはもちろん茜の大好きなミステリ。その全ては、美千代が茜のために買ってやったものだ。このくらいの出費なら、経費で落とせるだろう。

「ありがとう、あなたならきっといいお嫁さんになれるわ!」

 この少女が相手なら、褒め言葉も素直に出せる。実際に、彼女が用意しておいてくれたものは、いずれも文句なしに美味しかった。……どこかの汚部屋住人とは、家事スキルが雲泥の差だ。特にアタックしてくる『彼』には、正直扱いに困っている。

「美千代さんのところになら……嫁に行ってもいいかな~!」

 舌を出して茜は笑った。そして茜が用意した朝食を全て平らげた後で、美千代は言った。……もうだいぶ治ったと『上の連中』から連絡が入ったばかりだし、彼女はきっと彼なしの日々には飽きて来た頃だろうし、ちょうといい。

「私は、今日はオフなの。……だから、神父のお見舞いにでも行かない?」

「神父は……無事だったの? ……確かにあの時、僕は大西と対峙して、それから――」

 約一ヶ月が経った今でも、鮮明に思い出せる、あの時の記憶。大西に『俺の娘』だ、と言われショックを受けた茜は、立ちすく婿としか出来なかった。……当然その時は、拳銃で撃たれていた神父の事すら頭になかった。ただ、十八年間生きてきた中でも最も鮮明な光が、視界に入った。多分、大西が置いていた爆弾が爆発した瞬間の事だったのだろう。

 その光りを『眩しい』と感じる暇もなかった。その次の瞬間には、いきなり教会の梁が崩れてきたからだ。危うく燃え盛るそれに、身体を挟まれそうになった時、神父が自分の身を挺してまで、茜の身体を思いっきり突き飛ばした。おかげで、梁の下敷きにならずには済んだ。

 しかし、それでも炎の勢いは増すばかりで、茜と神父の身体の間は、炎で埋まってしまった。その時、銃声に気づいた近所の若い男性が、自分の命を危険に晒してまで、茜たちを炎の海から救い出したのだ。

 ちょうどその時、美千代が教会に用があったらしく、その場に居合わせた。だから彼女が普段は愚痴ばかりの『上の連中』に掛け合って、関係者御用達の病院を手配したのだ。だから、今、茜がここにいるのは自然な流れなのだ。

 だが、彼女は神父の安否など全く知らされる事なく、この美千代が借りている高級マンションで、一時的措置とはいえ生活を共にしていた。

「神父の担当の医師から、昨日電話が入ったばかりでね。……本当は昨日に行こう、って言おうと思ってたんだけど、茜ちゃんが熱心に『同窓会に行け』って言うから、ね?」

「……だって、そういうの僕はないだろうから。別に『学校に行きたい』ってワケじゃないけど、思い出は大切にしないと行けないと思うから」

 茜は慌てて弁解する。そんなつもりはなかったのだ、本当に。

「とりあえず、私は支度するから。……準備をさせた上に、申し訳ないんだけど片付け、お願いできる?」

  茜を励ますように美千代が言った。

「もちろん。……美千代さんみたいな美人のお願いなら、僕はなんだって聞くよ?」

 美千代は目に見えて強がる茜の頭を軽く撫でると、ダイニングから自室に戻って行く。頭を撫でられた茜の心境など彼女は知らない。

 部屋に戻った美千代はまずバスローブを脱いだ。次に下着を身に着けて、ストッキングを履く。いつものではない、プライベート用の淡いブルーのシャツに赤のスーツを合わせる。

 化粧は、リキッドファンデーションを軽く塗って、アイブロウから素早く丁寧に仕上げていく。チーク、アイシャドウ、マスカラも同様に、丁寧に且つ素早く。最後の仕上げに鮮やかな赤い口紅を塗った。

 茜は既に支度を終えていて、ソファーに横になって本を読んで待っていた。

「お待たせ、茜ちゃん」

 茜は本に栞を挟むと、それをそっと閉じる。準備の整った彼女――美千代の姿をじっと見つめた。見つめられる美千代は茜の口から「スッピンの方が綺麗」などと言われないかと無駄な不安に駆られる。それは杞憂で、茜は無邪気な笑顔で言った。

「美千代さんって、スッピンでも十分綺麗だけど……お化粧をするとますます綺麗だね!」

「……あら、茜ちゃんもそろそろ『お化粧するお年頃』なんじゃないの? しましょうよ! ついでにこれも着てみせて頂戴よ!」

 美千代は予め彼女に着せるために買っておいた、フリルがたっぷりついたワンピースを茜に見せた。これには流石の彼女も顔をしかめた。本気で嫌そうな顔で彼女は言った。

「……いくら美千代さんに頼まれても、それだけは嫌です」

 茜の装いは、シンプルなライトグレーのタートルネックのトップスにジーンズ。……これでは男と勘違いされても文句は言えない。それでも、この格好は彼女のこだわりなのだ。

「絶対に可愛いのに……残念ね」

 美千代は心底残念そうに言った。それ以上は何も言わず、食事をしたダイニングテーブルに載った車のキーを手に取った。彼女の愛車は赤のセダンだ。色と品質には今度は美千代のこだわりがある。

「まぁ、今のままが茜ちゃんだしね。ここは潔く諦めましょうか。さて、出ましょう」

  開けた窓から入ってくる風が少し肌寒い。秋も十一月ともなるとこんなものなのか。もっと厚手の生地の服を着てくればよかったと茜は後悔した。対する美千代は逆に赤色のスーツが暑そうだ。

「寒かったら閉めていいのよ?」

「……ところで、神父の容態はどうなんですか?」

 直射日光が眩しいと思ったら、 美千代もそう感じたらしく、サングラスをかけながら彼女は答えた。

「右腕と左足を撃たれたそうよ。しばらくは動かせないけど、命に別状はないらしいわ」

「よかったぁ!」

  茜はホッと胸を撫で下ろした。この約一ヶ月の間に、季節はあっという間に移り替わっていた。車の窓ガラス越しに見える、見事な色とりどりの紅葉は、一人で入院している彼を慰めてくれていただろうか。なんて、らしくもなく感傷的になる茜を乗せて、美千代の運転する車は、『私立美柳病院は3キロ先』の文字が書かれた看板を、素早く突っ切った。



 小宮山香織、と名乗った少女とはすぐに仲良くなった。普段茜を相手にしているためか、五十六歳という年齢にしては若者向けの話題を提供できた。香織はすっかり神木に懐き、素直に甘えたりするようになった。そんなある日、彼はこの一ヶ月の間探し続けた茜と再会する事になる。

 パンツタイプのナース服を身に着けた若いナースが、神山の病室のドアをそっと開けた。彼女のネームプレートには『小川』と書かれている。彼女は彼に来客を告げる。

「しーんぷぅ! 僕だよぉ!」

 弾むような声色に、彼は読んでいた紙面から顔を上げた。そこには探し続けた顔があった。生きていること自体が奇跡だと思ったが、彼女はただサッと見た限りでは全くの無傷、正真正銘の無事だった。

「……茜、私は……お前に――」

 彼女の後ろには、花束を抱えた美千代の姿もある。二人が無事で見まいに来てくれただけでも嬉しいのに、まさか花束まで用意して来るとは予想していなかった。……これには思わず涙ぐんだ。二人は多少性格にクセはあるものの、心根は真っ直ぐなのだ。

「ごめんねぇ、神父? ……もっと早く会わせたかったんだけど『上の連中』がなかなか連絡よこさなくて、ね?」

 それはかなりレベルの高い機密事項のはずだ。この病院の『秘密』を知る者ならともかく、ここ、一般病棟にいるごく普通のナースに知られては、困るのではないだろうか。

「小川さんは仕事に戻ったよ。……やっぱこの病院のナースって忙しいんだね。『秘密』があるせいでさ」

「お前は、この一ヶ月の間、どうしていたんだ? ……あの時は炎が広がって――」

「ストップ。……それ以上は、『病院』で話す事ではないでしょ?」

 この一ヶ月の茜の生活が心配だった神父は、つい『秘密』に抵触しそうになった。この『秘密』に抵触すると、『秘密』を洩らした張本人である神父はもちろんの事、茜もただでは済まない。……今、三人がいるのは、どういう『病院』なのだ。美千代が、釘を刺してくれたおかげで命拾いした。

 それから三人は、これからの事を話し合った。退院したらどこに棲むのか、仕事はどうするのか、などの基本的な生活基盤が主な内容だ。もともとあの教会は、組織の『上の連中』が買い取ったもので、彼個人のものではない。だが『牧師』という職業は気に入っているし、性に合っている。

 それにあの教会が立っている場所は、都内でも各方面からのアクセスが楽な場所だった。神木は牧師をやめる気がなく、茜も探偵業を続けたいと言う。『探偵業と教会の善行で稼ぐ』、その条件で美千代が『上の連中』を説得する、という事になった。

「仕事が増えるけど、その分だけ稼ぎがまた増えるわ!」

 美千代はそう言って笑ってみせた。とりあえず今日の面会は、「お互いの元気な顔を見るためだった」と、照れた茜が言うので、これでいいと言った茜と付き添いの美千代は帰った。



「ねぇ、おじさん。……まだ起きてるでしょ?」

 香織の声に、眠りかけていた神木の意識が浮上する。この病院の就寝時間は二十一時。いつも二十二時に寝ている彼には、当然、不満はなかった。……だが香織は違うらしい。それは若さゆえか。

「……起きているよ」

 牧師という名の職業病というヤツなのか、話を聴いて貰いたいという者の頼みは、彼には無下に出来ない。それに気づいたらしい香織は、ほぼ毎日のように就寝時刻後もこうして話しかけてくる。慕ってくれる気持ちは嬉しい。

「あたしにはね、弟と妹がいるの。憲吾と里香っていうの」

 今日は家族の話か……長くなりそうだ。すっかり眠る準備が整っている神木には構わず、香織は続ける。

「憲吾も身体が弱くて、いつも本を読んでる。里香はあたしに懐いてて可愛いの!」

「君の弟と妹なら可愛いだろうね」

「……早く病院の外に出たいな」

 今日もそう呟く。親しくなって知った事だが、「早く外に出たい」は彼女の口癖だ。ベッドサイドの間はカーテンで仕切られていて、シルエットしか見えない。淡いオレンジに焦げ茶の影を滲ませながら、もう一度香織が言った。

「……外に出たいな」

 声に違和感を覚える。こころなしか掠れている気がする。

「……? 香織ちゃん?」

 焦げ茶の影が大きく揺れる。それにハッとした神木は、迷わずナースコールのボタンを押していた。カーテンを思い切り引く。

「香織ちゃん? おい、香織ちゃん!?」

 まだ安静が必要な身体を無理やり動かし、神木は彼女のベッドサイドに寄る。……香織の身体は激しく痙攣していた。ゼエゼエ、と激しく息を吐いたり、吸ったりしている。呼吸困難だ。

「どうしました?」

 この夜の夜勤の村上栞が、バタバタと音を立てて病室に入って来た。彼女は一目見て、香織の状態を察し、再び廊下へ引き返していく。医師を呼ぶためだろう。

「しっかりするんだ、香織ちゃんっ!」



「あれ? ……神父は?」

 翌日、茜が病院を訪ねた時には、病室に神父の姿はなかった。ナースステーションに戻り、すっかり顔を覚えられた小川ナースに訊いてみるも、知らないとだけ言われた。

 仕方がなく、病室で彼を待っている茜の目の前に、入院中の患者の見舞いにしてはやけに派手な女性が現れた。病院だというのに、香水の匂いがきつい。それは思わず吐き気を催すほどだ。

 彼女は背後に、童顔のナースを引き連れている。どこかで見た事がある気がするが、どこで見たのか思い出せない。彼女のライトブラウンに染めた髪が、背中で踊っている。

「村上さん、香織は?」

 ベッドサイドで、連れのナースに縁者らしき者の容態を尋ねているように見える。

「……香織ちゃんは昨日の夜、過呼吸で処置室に運ばれました」

 この病室にベッドは二つ。昨日は、神父のベッドの隣で、同じ年頃の少女が寝ていたはずだ。『香織』というのが、その彼女の名前だろう。

「奥様は香織ちゃんが大事なんですね」

 ナースは嬉しそうに言うと、ベッドを整えている。その間、彼女は落ち着かなそうに、辺りを見回している。……『病院』の『秘密』に気づかれたのか、と少し焦ったが、そうでもないようだ。結局、神父が茜の待つ病室に戻って来たのは、午前の面会時間ギリギリだった。

「茜……来てたのか」

 どこか彼には、疲労の色が見える。 昨日は眠れなかったのだろうか? 目の下にうっすらと隈が出来ている。敢えてそれに気づかないフリをして、同調するように言った。

「……大変そうだね、入院生活も」

 ベッドサイドの椅子に腰掛けると、茜は昨日の夜の話を聞きたがった。……隈の原因が自分以外の事だと、軽く嫉妬したのかもしれない。面会時間が終わる寸前に香織は戻ってきた。

「おじさん!」

 彼女は神父に抱きついた。珍しく彼はが慌てている。……面白くない。その原因は明白だ。あの同じ年頃の少女、彼女が茜にらしくもない不安を与えていた。……認めたくない自分の中の『女』が顔を出している。

「……香織ちゃん、身体はもう大丈夫なのかい?」

「うん。もう平気」

 二人の会話に茜は入り込めない。この二人は、入院患者同士の妙な『縁』とでもいうモノがあるのだろうが、健康体で入院していない彼女にはそれがない。茜と同じ事を思ったのか、香織の母親が注意した。そして身体の弱い香織を責めた。

「……あんたがもっと丈夫なら、私だって家と病室を往復しなくて済むのに」

「……あたしが入院してなくても、『病院』には来るくせに」

 その言葉で茜ははっとした。……『病院』という単語に過剰反応したわけではない。どこで香織という名の少女の母親の顔を見たのかを思い出したのだ。

「あのぅ……もしかしてあなたは、奥様雑誌の表紙によく写真が載ってる小宮山さなえさん?」

 彼女は頷いた。約一か月前に、美千代と一緒に行った書店で見たのだ。ミステリコーナーの横に山積みになっている、主婦層をターゲットにした、雑誌の表紙を飾っていた彼女に写真に写った姿を。確か……大きな文字で、青年医師の妻でセレブマダムと書かれていた。

「まあ彼が私に一目惚れしたらしくてね? 一年交際してからプロポーズされたのよ!」

彼女は自慢げに言った。確かに彼女――小宮山さなえは自分と同じ年頃の子持ちには全然見えない。自身の恵まれた美貌に加え、夫は外科医で、収入はこのご時世にかなりのものらしい。ベッドに寝ている香織はそれを聞いて表情を曇らせた。

「……次に来る時は、は憲吾と里香も一緒に連れてきてよ! 会いたいのよ! お願い!」

「大変申し訳ありませんが……面会終了のお時間です」

 村上栞が面会時間の終了を告げた。茜は震央ともっと一緒に話していたかったが、規則では仕方がない。香織の母親――『セレブマダム』と有名な小宮山さなえも同じ気持ちだろうと彼女の方を見たのだが、すでにその姿は病室から消えていた。どうやら、香織が弟と妹のモノらしき名前を口にした時点で、退室していたのだろう。……何とも言えない気分になった。

 その後、ナースステーションに立ち寄った茜は、神父が後どれほどの間、入院していなければならないのかを訊ねた。しかし、ナースの仕事は『医師の補助』だ。詳しい経過など知るわけもなく、ただお茶を濁されただけだった。今日は巡り合わせが悪いのかと、考え事をしながら、仮住まいの美千代の借りている高級マンションに戻って来た。

「茜ちゃん、ちょっとこれ見て」

「なんだろ……えっ? どういう事!」

 美千代のマンションで先に夕食を食べていた茜は、数分前に届いたばかりの夕刊を美千代に渡された。そこに載っていたのは今日出会ったばかりの小宮山さなえが何者かに襲われたというニュースだった。



一酸化炭素溶液――そんな危険な液体も、『病院』にはあった。機関の『秘密』の研究のために用意されたそれが、小宮山婦人――さなえを襲うとは、誰も思いも寄らなかったに違いない。<br>

  夜も更けた頃のナースステーション。……そこで一酸化炭素溶液の、瓶の中身を注射器に移し変える女の姿があった。何のためらいもなく、殺人の道具を用意する。その女の様子を見ている者は誰もいなかった。



「神父! 小宮山さなえさんが襲われたって! 意識不明の重態だって!」

 その事は彼も聞かされている。昨日の深夜に、小宮山さなえは救急搬送されて、この病院に来たのだ。処置質に運ばれた彼女は、一夜をそこで過ごしたらしい、と香織から聞いた。

 その香織は隣のベッドで穏やかな寝息を立てている。今は面会時間が始まったばかりの午前九時ジャスト。朝一番で、慌てて茜が訪ねてきたのだ。

「……落ち着きなさい。仮にも“Q”ともあろう者が落ち着きを失うとは情けないとは思わないのか? 第一、小宮山婦人は病院外で襲われたのだろう?」

 彼は今朝読んだばかりの新聞から得た情報で、茜をやり過ごそうとした。しかし茜には気になる事があるようで、すぐには納得してくれそうもない。それどころか被害者の家族である香織にまでコメントを迫った。

「なにかおかしな事とか、気にかかる事ってない? 恨みを買ってたとかは……」

 気づいた時には、彼は茜の頭を叩いていた。

「何するんだよ。これから……」

「……香織ちゃんは、絶対にこの事件には関係ない。ただの被害者の家族に過ぎない。そんな事くらい、少し考えれば、お前の頭ならば解るだろう? ……病人をいたぶって楽しいか?」

 頬を打たれた上に、一息にまくし立てられ、一時だけ茜は黙った。だが、全く納得した様子は見受けられない。むしろ逆に、更に香織に迫ろうとしている。……もう我慢できないとばかりに神木は言った。

「……お前がこのまま変わらないのならば、私はお前の面倒を見きれない! どこへでも行け!」

 トドメの一言で、うって変わって、茜はすっかり大人しくなった。それでも彼女の中に生じたモノは消えないらしい。香織から、何かを訊き出す手はないか、と思案しているようだ。……もう付き合いきれない、限界だ。彼がそう思った時に、やっと午前中の面会終了時間がきてくれて、心から安堵した。茜は美千代のマンションに戻るしかなかった。

 茜が帰った後、神木は香織の話を聞いていた。彼女は話を遮っては茜の事を訊いてきた。……朝の彼との面会時に何か思うところがったのかもしれない。

「……あの人、おじさんの『実の娘』じゃないって前に言ってたよね? なら、どうして世話なんて焼くの? あんな風にケンカなんてするくらいなら最初からおいておかなければいいじゃない?」

 今更の疑問だ。だが、彼女にとっては到底理解しがたいモノなのだろう、神木と茜の複雑な関係は。彼は出来るだけ負担をかけないように微笑んで言った。

「私は、あの子を自分の『実の娘』だと思って育ててきた。……でも、あんな真似をするとは微塵も思わなかった。香織ちゃん、君には本当にすまない事をしてしまった。あの娘に代わって、すまない」

 すると香織は力なく笑った。

「……あたしにも、おじさんみたいな人がいればよかったのに。……そしたら、あたしだって――」

「『あたしだって』……なんだい?」

「ううん。なんでもない。……今日はなんだか疲れちゃったみたい。もう寝るね、おやすみなさい」

 意味深なその言葉の意味を聞く前に、香織は眠ってしまったらしい。本人の言った通り、疲れていて眠くなったのだろう。布団をかけてやりながら思う。……この子も孤独なんだ、と。

 ふと、サイドテーブルに目をやると、細めの注射器があった。自分で抗生物質を打つためのものだろう。いつもなら気にしないのに、今はそれが妙に気にかかった。



 翌朝の新聞では、小宮山婦人が再び襲われた、と報じられていた。美千代の分のコーヒーを淹れながら、茜は神父の事を思っていた。昨日の騒動は、昨日のうちに、彼女に相談済みだ。

「……まさか、神父が僕とこんな事になるなんて」

「茜ちゃん、こういう時はあっさりと済ませた方がいいわ。お互いのためにも、ね?」

 茜はしばらく黙った後で言った。

「……そうだよね、こんなちっぽけな痛みなんて、きっとすぐに忘れられる!」

 茜は強い調子でそう言うと、ある決意をした。それは彼女が『神父』と呼ぶ人物――神木隆一の事を、傷つける結果になる事は確実だ。前回の事件、『奴』こと大西隆から受けた神木の傷は、かなり深い。心身共に。それを更に傷つけると思うと胸が痛むが、茜は意を決して、美千代の運転する車に飛び乗った。

 目的地は当然『私立美柳病院』だ。そこに今回の事件の犯人がいる。そして今回は、その犯人の正体を既に特定済みだった。『彼女』をナースステーションに立ち寄ってから呼び出すと、犯人である『彼女』は、動機について詳しく語ってくれる事だろう。

「なぜこんな事を?」

 茜が問うと犯人の『彼女』――小宮山香織は躊躇いながらも明確な殺意を窺わせた。

「……健康で幸せそうにしている、あの人が憎かったから」

「……だから、あんな事を? 言っておくけど、君程度の苦しみなんて世間には沢山あるんだよ?」

 未成年とはいえ、探偵である茜は一応は社会人だ。一応、という扱いだが、学生という身分である香織とは、踏んできた場数も違えば、経験や知識も、もちろん違った。それでも香織は反論せずにはいられない。

「……だって不公平じゃない! あたしがこんなに苦しんでるのにあの女は……!」

 神木は別室で、この二人の会話を聴いていた。当然の事ながら、最初は全く信じられなかった。隣のベッドの香織がやったなど。しかし、今こうして茜は理論で攻め、証拠を見せつけて自白をとっている。あの少女――香織の苦しみは相当なものだろう。

 茜がまず行ったのは、小宮山さなえとの面会だった。彼女本人曰く、「病院を出た途端に眩暈がした」という。一酸化炭素溶液を注入されながらも、意識を失わなかったのは大したものだ。それだけ頑丈な身体の持ち主から、香織のような病を持つ娘が生まれたという事実はまさに『人体の神秘』としか言いようがない。娘――犯人である香織との面会の時に、注射されたらしいが、全く気づかなかったと夫人は言う。それもそのはず、自分で抗生物質を打つ彼女には注射などたやすい。

 動機は何なのかが最重要ポイントだが、それを香織は頑なに語ろうとしない。どうしてもダメかという茜の交渉に、神木が話を聴くならば、いう条件で手を打った。

 そのような経緯があり、今度は神木が、犯人を訊問しているところだ。推理の様にロジック――論理的な思考が必要な頭脳労働は不得手だが、神木には『牧師』独特の『聴く話術』に長けている面がある。

「どうしてお母さんを殺そうと思ったんだい?」

 神木はいつもの『神父』の口調で尋ねた。あくまでも穏やかに、優しく語り掛けるような問いかけ。これが彼の『聴く話術』のテクニックだ。しばらくして香織が口を開く。

「……」

「……なんだって? もう一度、言ってごらん」

「……憲吾、里香」

 それは彼女が以前言っていた、弟と妹の名前だ。あの時は眠かったから、結局詳しい話は聴けず終いだった。……それだけ言ったっきり、香織は再び口を閉ざした。

 部屋を出たところで茜に会った。……頬を打ち、あんな事を言ってしまったので、互いに気まずい。先に沈黙を破ったのは、彼女の方だった。

「……彼女、何て?」

 いつもの張りのある声で、ぼそりとそう言った。それはいかにも、「昨日の事は気にするな」とでも言いたげだ。

「全く何も言わなかった」

 実際に、香織は弟妹の名前だけしか言わなかった。それが何を意味するのか、全く解らない神父からすれば、その事実はやはり『何も言わなかった』。茜は小さく「そう」、とだけ言った。……そして神木と視線を合わせると再びいつもの関係に戻ったように言った。

「あのさ……ごめん!」

「なんの事だ?」

 もしかして昨日の、頬を叩いて、知らないと言った事だろうか? ……香織が犯人だったと解った今では、むしろ謝るべきは神木の方だった。

「……昨日は彼女――香織って名前だっけ? あの子に色々訊いてさ。あの後、美千代さんに全部話したよ。そしたら、『お互いのために早くした方がいい』って言われたんだ」

 そもそも茜は、いつから香織が犯人だと知ったのだろうか? 神木がずっと何も言えないままでいると、もどかしいとばかりに、彼女は更に言葉を重ねる。

「でも僕は、彼女の事を止めたかったんだよ。……彼女が犯人だって事は最初から解ってた」

「……」

 神木は何も言えない。昨日の事に関しては、結果的にはむしろ自分の方が悪かったのだ、と思ってはいる。でも、昨日は茜を責めずにはいられなかった。茜に向かって怒りを露わにしてしまった理由は、きっと彼女――犯人である香織の言葉の端々に、寂しさと悲しさがが感じられたからだ。

「……彼女は、きっとまた同じ事をすると思う。だから神父、あの子を止めてあげて!」

 そう最後まで茜は必死だったが、神木には香織のような『弱者』に対して、たとえそれが『仕事』だとしても、きつく当たる真似など出来ない、したくない。

 結局この『小宮山かなえ殺害未遂事件』という、ゴシップ誌由来の名のついた事件は、犯人である彼女――小宮山香苗が未成年という事もあり、あっという間に新しい衝撃的な事件に埋もれてしまった。



 最後に神木が香織に会ったのは、彼自身の退院間近の秋晴れの日だった。彼女は相変わらずわずらわしい、三本の点滴のチューブを手に刺したままだ。その様子を痛々しく思いながら、念を押すように言う。

「……もう私たちは会う機会がないね。もちろん、もう二度と、あんな事はしないよね?」

 心底別れが残念だった。もちろん嫌味ではないつもりだ。……香織は、そっと神木に寄り添うと、耳に口元を当て囁いた。

「……ホント言うとね、あたしは家族全員が大嫌いだったんだ。みんな、自分たちの健康が、どれだけ恵まれているって事なのか、全く解ってない! バカばっかり! なんであんな女があたしの母親なの? あんな、生まれた時から健康そのもので、育ちにも、結婚にも、人生にも恵まれてて、それで『当たり前』だって、思ってる! ……だから、あの事件の真相が世間にバレても犯行は続けるよ。もちろん」

 それは時間からしてみれば、ほんの一瞬の出来事だった。神木でなくても、“K”であろうとも、誰も彼女に対して『何も出来ない』。香織は、彼女自身の家族が、全員消えるまで同じ事を繰り返そうというのか。それは静かな犯行ゆえに逆に下手に過激な事件よりも恐ろしいと思う。

 そんな、神木の心を読んだかのように、彼女は言う。自身の言う事が『絶対の真理』であると、信じて疑わない強い光をその瞳に映しながら。

「……証拠も動機も、見つからなきゃそれでいいの。だから、あたしは『良い姉』を演じているの!」

 そう、わざと弱みを見せまいとする姿が、敢えて『今更』動機を言う香織が可哀想で、哀れに想えた。 間違った方向への強さを、自分から進んで身につけようとしているのだ。それがかえって痛々しく神木の目と耳には映り、聴こえた。

 『実の娘』ではないとはいえ、神木には茜という名の『娘』という、『親しい関係』の家族がいる。彼女は時には平気で暴走することもあれば、先走ることだってある。それが『当たり前』の『人間の弱さ』だ。神木にとって『宮下茜』という名の『娘』との関係は、香織の『実の家族』とのそれよりも、遥かに恵まれている。……香織には『誰もいない』のだ。だから彼女は『同じ犯行を繰り返す』と神木に宣言したのだ。それがひどく『無意味な事』だったとしても、彼女はその『無意味な事』を繰り返せずにはいられないのだ。

「……私には君の犯行を止めることはもちろん、『否定する事』すら出来ないよ。君は私よりも遥かに『孤独』なのだから……」

「……そうでしょ? あたしは『孤独』。どれほど血の繋がった『実の家族』がいてもね。……あたしは殺してやるの。『実の家族』全員を。成人するまでに……ね? ……さようなら『おじさん』。一緒にいた時間は確かにあたしにとっては『本物』だったよ?」

 神木は、ひどく疲れた。……ただいつも仕事でしているように話を『聴いた』だけなのに。香織が最後に言った通り、彼女は『実の家族』を一人残らず、自らのその手で葬り去るのだろう。……それも成年するまでに。

 しかし、最後の最後の『おじさん』と呼ぶ神木自身へのものと思われる言葉だけは、彼女本人が言った通り『本物』だったのだろう。神木の後にあの御病室の、あのベッドに、香織を『実の家族』への幻想を断ち切ってくれないだろうか? 最後に残された彼女の中の『良心』こそが、また続くかもしれない小宮山家の殺人を止める『鍵』なのだから。

 私立美柳病院のエントランスに、美千代の愛車があった。

「ご苦労様。一緒に乗せて行ってあげましょうか?」

 こんな時に美千代に逆らってもいい事はない。……神木はありがたく車に乗った。

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