第3話:過去からの刺客

『どうしたんだい、こんな雨降りに』

 まだ若い彼はビニール傘を、幼い少女の頭上に掲げる。今日は久しぶりの大雨。晴れの日ばかり続いていたため水不足に悩んでいる者たちにとっては、まさに恵みの雨だった。しかし目の前で濡れ鼠になっている彼女には、この雨は迷惑以外の何物でもないだろう。

 だが、彼女はそれ――彼の差し出すビニール傘を跳ね除けた。思わず驚く、彼。幼い少女は小さく呟く。それは本当に小さな声で、雨音によって消し去られてしまいそうだった。

『……ぬれていたいきぶんだから』 

 それを聞いて、彼は静かに傘を畳んだ。次の瞬間には、表情がまるで消えていた彼女の顔に『驚き』という名の『感情』が表情として現れた。

『なにやってんの? おじさんもぬちゃうよ』

 彼女は初めて『感情』を顔に表した。微笑んで、彼は彼女を見つめる。……その眼差しには、どこかの誰かを目の前の、この幼い少女に重ねているようでもあった。彼女は幼いながらも彼の表情に『なにか』を感じ取った。それは、子供ならではのものだ。彼は満足げに彼女に語り掛ける。

『いいんだ……私も濡れたい気分だから』



「……もう二十年……。生きていたら、二十八歳か……」

 教会の小さな庭で、どこからか迷いこんだらしい仔犬と、なぜか教会にあったフリスビーを投げて遊んでいる、大きくなった彼女――茜を見ると、つい思い出してしまう。茜はもう自分の『実の娘』のようだと思う。ただ、純粋に愛おしい。

 けれど、神父の中を占める『彼女たち』は、「私たちの事も忘れないで」と懇願している。だから、毎日神に祈るのだ。二人の供養は仏式だったのだが、冥福を祈るのならば、神もお許しくださるだろう。

「うわっ! 雨降ってきた! 神父、窓閉めなきゃ!」

 それまで仔犬と遊ぶことに夢中になっていた茜が、ぼんやり考え事をしていた神父に向かって叫ぶように言った。それまで彼の頭の中を絞めていた『彼女たち』は、すぐに煙のように消えた。

「窓は私が見ておくから、お前は着替えなさい!」

「はーい」

 彼女は仔犬を抱えて教会の施設内に入る。濡れた髪を、入り口にある小さな屋根の下で頭ごと振って、ついていた水滴を落としてある。そしていきなり、その場でそれまで履いていたハーフパンツと、羽織っていた薄手のシャツを脱ぎだした。

「……だから、女の子なんだから人前で脱ぐ癖をやめなさい! はしたない!」

 そう神父が注意すると、茜はにやりと笑った。

「神に仕える身のくせにぃ! スケベ!」

「そういう意味で言ったんじゃない! 第一、私には妻も子も……」

 ああ、そうだった。珍しくしんみりしている彼を見た茜は、なんだかいたたまれない気分になった。普段は話さない、お互いの過去の事。今までは、無意識のうちに話題にするのを避けていた……気がする。

「……そういえば神父って、妻も娘もいるんだよね?」

「いや、いない。……いなくなったんだ」 

 髪をタオルで丁寧に拭きながら、茜の目線は、伏せてあるフォトフレームにいく。それを神父がコトッと音を立てて立てる。……これを見るのは何年ぶりだろう。彼は内心で考えてみる。『あの日』以来、ずっと伏せたままの気がする。それだけ長い間『彼女たち』とは離れたままだ、<br>

「これが神父の家族? で、これが娘? ……似てないなあ!」

 いつの間にかいつものシャツに、細身のパンツという服装に着替えた茜が、彼の傍に立っていた。彼女は興味深い、とでも言いたそうにフォトフレームを凝視している。

「……母親に似たんだよ」

「その頃から神父って名前だったの?」

「……違う。本名は……神木修一。今の牧師という職業の前には、普通のサラリーマンだったよ。今は、お前に食わせてもらっている、といったところだがな」

「へ~! 意外と普通の名前なんだね。それで、今、奥さんと娘さんのは?」

「妻は水穂、娘は那波。義父とは折り合いが良くなかったけれど、それ以外は普通の家庭だった……」

 思い出すように妻と娘の名前を口にした。『彼女たち』は火事で亡くなり、今でいう『神父』自身も重態だった。そんな彼を助けてくれたのが、他でもない妻だった。

 彼女は、自分の最期が近い事を自然と悟り、自身全身の皮膚を彼に与えたのだ。それを聴かされたのは、満足に手も動かせない病室での事だった。

 そしてその後、最も彼を動揺させたのはテレビのニュース番組だった。



『――では次のニュースです。東京――で起きた火事が故意であることが判明しました。容疑者は同じく東京に住む十八歳の無職の少年で、本人の供述によると『昼間公園で遊んでいるところを被害者に嗤われ』ての犯行との事です。周囲の住人によると、この少年には以前から強い破壊衝動があり、学校でも危険視されていた、との事。しかし彼は未成年なので――』



 ――『赦せない』。そう強く思った、憎んだ。「ただ子供に笑われたからなんだ」と。「そのくらい笑って、赦してやれ、こっちは二度と、戻ってはこないんだぞ」と。

 それから彼ははテレビはもちろんの事、看護士に頼んで全種類の新聞を見せてもらった。……各メディアは、大事な部分を隠している。たたこれだけの、到底『情報』とはいえないモノだけでは『復讐』を遂げるなど無理だ。神木は妻子を喪った時のような、まるで大地が崩れるような感覚を何年も味わっていた。

 ある雨の日。安っぽいビニール傘を差しながら、教会への帰り道を歩いていると、寒さに震えている幼い少女を発見した。その日が、のちの『あの日』――宮下茜という名の、神木の『復讐の道具』との出会いの日だった。 



 男は監獄にいた。何度入ったか解らないだけ、この場所で彼は時間を潰した。彼にとってこの場所――監獄は『入れられる』ものではなく、自ら進んで『入る』ものなのだ。この施設の中での時間はなかなかに快適だった。脳を覗かれる恐れもないし、彼が買っている恨みも、ここでは誰にも晴らす事は出来ない。

 今日も、彼は静かに計画を考えていた。彼が執着するのは『燃やし尽くす事』。たとえそれが、どのような『モノ』であれ、『絶対』に『確実』に燃やし尽くす。

 だから彼にとって、『あの事件』は失敗だった。一人生き残りがいると、裏の情報筋でそう聴いた。重態だと聞いていたから、既にこの世にはいないだろうが、『完璧』を信条とするこの男には、到底我慢が出来ない事だった。

 また、彼の非常に優れた頭の中にアイディアが沸いてくる。これは、「ここを出て行動を開始しろ」という、彼の中の『神の天啓』なのだ。



「茜、服はもっとちゃんと畳みなさい!」

「はーい」

 などと言いつつも、茜がその通りにした事は、一度もない。

「……まったく、どこで育て方を間違えた?」

 そう神父は一人ごちる。娘の那波は三歳の時点でそのくらい出来ていたのに。……茜を『拾った』のは、約十年前。彼が家族を喪った痛みに、たった独りで耐えていた頃だ。彼女の正確な年齢も戸籍も解らないが、今では大切な、たった一人の『家族』だ。

夕食の味噌汁の味見をしていると、高いヒール独特の足音が聞こえた。この音は、いつもの『彼女』の持つ特有のモノ。

「茜、玄関を見てきてくれ」

 『彼女』のこの足音は、機関内ではよく知られている。『彼女』は 艶やかで美しい長い黒髪を後ろで一つにまとめている。仕事着のスーツは、赤いのモノしか着ない。香水によるものなのか『彼女』の近くに寄ると、とてもいい匂いがする。

 『彼女』――長月美千代はそんな女性だ。

「久しぶりね、茜ちゃん!」

「お久しぶりです、美千代さん!」

 茜はそう挨拶し、美千代に勢いよく抱きついた。この娘の美人好きは……しばらくは治らないらしい。

「神父にご用ですか? でも彼は料理中で……」

「……私はここにいます!」

 神父は息を切らしながら、その場に立っていた。それには構わず茜が、心底不思議そうに尋ねる。

「美千代さん絡みなら“K”の担当ですよね?」

 美千代は困ったように笑う。彼女は茜を抱きしめている。まるでマスコット扱いでも、茜は文句を言わない。……これが大抵の、いつものやり取りの流れだ。いつもと言っても、美千代は基本的に“K"の専属で、“Q"である茜に仕事を持ってくる事はあまりなかった。

「そうなんだけどね。……今回は特例で貴女達にお願いするわ」

「いいんですかぁ!」

 すぐに嬉しそうに反応したのは茜だ。美千代は苦笑するが、茜はただ嬉しそう。

「いいもなにも、貴方たち絡みの依頼だからね?」

 「これ観ておいてね」とだけ言って一枚のDVDを置いて、嵐のように彼女は去って行った。懐いている茜は少々さびしそうだが、『仕事』は仕事だし、『プライベート』はプライベートで分けるべきだ。

「……なんだろう、このDVD?」

「まあ観てみようじゃないか」

 こう見えて、実は神父も割と謎解きが好きなのだ。たとえ、実力が全くなくとも。<br>

「……」

 DVDを見た途端、神父は吐き気を訴え、洗面器に向かって夕食を戻した。茜はそんな彼の背中をゆっくり擦ってやる。

「どしたの? ……なんか変なものでも食べたの?」

 神父は口の周りに付着した、戻したものをハンカチで拭き取っている。十数分もすると、やっと、息も落ち着いてきたので彼は言いづらそうに、口を開いた。

「……私は火事が駄目なんだ。 それも動物的な恐怖心によるものだ、とお医者様は仰っていた……。私から妻と娘を炎が奪い去った、あの忌まわしい日から……ずっとだ。多分一生治らないだろうな……」

 家と、妻と、娘を奪った火事。それだけはどう足掻いても克服できない、現在では『神父』と呼ばれる神木隆一という男の最大の弱点だ。

「……人間、苦手なモノなんて、誰にでも、幾らでも、あるものだよ?」

 珍しく茜が真顔で言うので、神父は素直に納得した。そして彼は精神統一のための日課の礼拝時間を大幅に増やして、十二分に祈ってから寝るとだけ言って、彼女の目の前から自室へと去った。

 そのDVDに写っていたのは、燃え盛るアパートを背景にした、一人の男の姿だった。神父が彼の私室へと下がったので、現在は茜一人で観ている。……確かに炎は勢いよく燃え上がっているが、特におかしいところは見受けられなかった。しかし観ている者――茜には何かを感じさせた。

 ――このアパート、僕が棲んでいたトコロと、よく似ている、と。


 昔……といっても、恐竜がいたとか南極大陸がどうだとかいう程の昔というワケでもない。……ただ、遠い雨の日だった、と記憶している。当時は僕も幼くて、子供だったから、どこまでが正しい記憶なのかは断定できない。けど、強くて長い雨の日だった事は、僕の脳裏にしっかりと刻まれている。その日の事だ、神父が僕を拾ってくれたのは。

 当時の僕には「父親はいない」、と母親である和子って女の人から教えられていた。でも多分、それも嘘だったのだろう。棲んでいたアパートには、毎日のように借金取りが押し寄せ、毎日食べるものにも困っていた。それくらい貧しい環境で、僕は幼い日々を過ごしていた、と思う。「こんな家出て行ってやる」と、何度思ったか。でも……出て行ったら母親が泣く。世間の目を気にして。幼い子供なりに、僕だって気を遣って『母親』である彼女――和子って女の人と一緒にいたつもりだ。……それになにより、更に幼い頃に彼女の腕で優しく抱かれえた記憶は、確かに僕の中にあった。

 貧しい家庭で幼い時期を過ごした僕は、よく独りで遊んでいた。……ブランコに一日中座り込んでいるのは、『退屈』に違いない、とよく近所の子供に笑われた。和子って女の人は、それで僕に外出を禁じた。ただ、誰かとだけは一緒だった気がする。それでも母親は、「それは僕のせいじゃない」と、必死に訴えても聞き入れなかった。

 やがて僕の顔から表情が消えていた。それは文字通りの意味で、笑いもしないし泣きもしない。それが余計に母親である彼女を追い詰めるらしい、と僕は知った。それで僕は家出を決めた。……クリスマスプレゼントは、『厄介者』――僕がいなくなる事だ。

 しかし、決行のためにはお金がいる。いった通り、僕のうちは貧乏だったから、お小遣いも月に百円も、貰えればいいところだった。家出決行を決めた僕は、貯金箱を割って全財産を確認した。その金額は予想以上の千五百円もあった。その全財産で切符を、一枚だけ買った。

 ……実は以前から一度はやってみたいと思っていたシチュエーションだった、事はよく覚えている。当時はまだ幼かったし、今と変わらずの童顔だったけれど、切符はなんとか買えた。東京は狭いようで広い。確かあの時は、迷わないように家から地図を持って来て正解だった、と痛感した事も強く覚えている。……ここからなのだ。ここから先の記憶が、今はどれも曖昧なのだ。

 確かあの時の僕の記憶を、必死になって漁ってみる。出てきたのは、見知らぬ『男』との……断片的なシーンだった。

『このさきは――』

 言い終わらないうちに、『男』に地図を奪われていた。『男』の顔は全く思い出せない。その他の全体像は何となく思い出せるけれど。……彼は僕に耳打ちをした。

『家出か? ……その身なりだと、ヤバい奴の絶好のカモだぞ?』

 いつの間にか『男』に隣の席を取られていた。……よく見ると、彼はなかなか良い身なりをしていた。少なくとも、当時の僕よりはずっと良い。僕なんか確か……どんな服を着ていたのか、思い出せない。確かに生活に困っていた事だけは、生々しく身体が覚えているのだけれど。

『名前は?』

『あかね』

『アカネ、か。どうだアカネ、俺の娘にならないか? 和子といるよりも、遥かにいい暮らしさせてやるぞ?」

 ……確か当時から僕は、学校の勉強はからっきし駄目だったけど、推理の真似事だけには自信があった。だから、この時の小さな違和感にもちゃんと気づいた、確か。

『……なぜおじさんがおかあさんのなまえをしってるの?』

 僕の反応を嬉しそうな眼で見ていた、あの時の『男』は。

『……まぁ、気が変わったらここに連絡をくれ。……お前の成長を待ってるぞ、アカネ」

 そう言われた後で、急激な眠気に襲われて、電車の中で眠っていたんだっけ。そして駅員のお約束の声「終電ですよ」に起こされて、幼い僕は何一つ知らない知らない街を初めて歩いたんだった。……最初の二、三日は気力で粘っていたけど、「もうダメだ」と諦めかけた時だった。

 それまで快晴続きだった空はどんよりと曇っていた。ふらつきながら街を歩く幼い僕に、トドメを刺すように振ってきた雨。そこへ、人の良さそうな中年の男の人が傘を差し出してきたんだ。僕は『あの日』の事――神父に拾われた日の事をよく覚えている。確かに、こう思ったんだ、「ああ、よくあるパターンか」と。不良が雨の日に仔犬を拾うってヤツ。……今でも『あの日』の事を思い出す時には笑えてくる。話が出来すぎで。



 二人の共通認識である『あの日』から、茜は神父の娘になった。もちろん正式手続きなど踏んでいない。しかし、確かに茜は彼の娘になった。……たとえどれだけ男っぽく振るまおうとしても、『娘』は娘でしかなかった。神木が自身の事を『神父』と呼ぶよう躾け直した少女は、確かに彼の『復讐の道具』でもあったように。

『茜は、自分一人でお風呂に入れるかい?』

『じぶんのことはじぶんでしてきたもん! そのくらいできる!』

 まるで我侭な猫のような少女だった、幼い頃の彼女――茜は。だが、そんなところも可愛らしい。いつしか本当の親子のような、そんな錯覚に捕われるようになってきた。そんな頃に、美千代が茜の前に現れたのだ。……それは今思い返せば『天啓』という名の『運命』だったのかもしれない。

『……神父、貴方ロリコンだったの?』

『……ロリコン?』

『知らないの? 『ロリータ・コンプレックス』の略よ。意味は『少女愛』ってところ?』

 「熱心に礼拝を続けてると聞いてたのに」、と美千代は笑った。彼女には流石の『神父』の『本当』の素性も本名も全てを話してあった。『復讐の道具』を手に入れるまで『神父』がどれだけ燻っていたのかも、彼女は熟知していた。

『いや、私はこの娘を保護しただけで……』

『“K”からの依頼よ。……その子には資質があるみたいだって、『上の連中』が判断したの』」

 ビデオテープを神父に無理やり押し付けて、美千代は笑って言った。

『……もしかしたら、“K”に格上げかもしれないわよ? その子』

 それからの茜は、神父が予想していたよりも優れた活躍を見せ、彼を心から喜ばせてくれた。数々の難事件をあっさり解いてみせては、「次の事件はないの?」と急かす始末。『事件』という言葉を聞けばすぐに喜ぶ、どこか倫理観に欠ける娘に育ってしまった。だが、それは『復讐の道具』としては頼もしい事、喜ばしい事なので、神父はそんな茜を褒めて、現在まで育てた。

 しかしその頼もしい茜は学校には行かず、独学で勉強している。……様子を見るに、過去に嫌な経験――イジメかクラスメイトとの諍いらしきモノがあったらしい。神父は敢えてなにも言わずに放っておいている。十八歳になる今年は学年としては高校三年生だ。そんな肩書などなんの意味もないと考えている彼は、不登校は容認派だ。

 推理についても同様で、いつも『勉強』と称してはミステリ小説を読み漁っている。智也に『根暗』や『オタク』呼ばわりされた時には焦ったものだが、今ではいい思い出だ。彼はからかいのつもりで、当時初対面の、学校に通っていれば中学生の時期に、そう言ったのだ。多感な時期にもかかわらず。それはむしろ、茜を奮い立たせ、結果的に古典的トリックには詳しくなった。



 その智也との『事件』も無事に終わった。……しかし事件は時として次の事件を呼ぶ事もある。その事件を知ったのは朝のニュース番組だった。

「こちらニュータウン2000、2001号室の住人は全員外泊していて無事だった、との事です!」

 ボリュームを高くして聞いていたので、茜が目を擦りながら起きてきた。

「騒がしいなぁ……何?」

「……智也君たちのマンションが襲われた」

 真っ青な顔の神父が、今聞いたばかりの事を彼女に向かって繰り返した。

「……智也たちなら無事でしょ。アイツらって悪運はかなり強いし……」

 茜は平気な顔で、たった今焼けたばかりのトーストを齧る。

「智也君たちも、もちろん心配だが……火事なんだ」

 『神父』の中で、妻子を喪ったあの日から続く『燻り』がぶり返る。『奴』が、再び事に及んだ。……これは既に起こった『事件』 であり、神父にとってはまたとない機会――チャンスだ。

「……『奴』が戻ってきたんだ! ……『奴』は私の妻子の『仇』で、史上最悪の爆弾魔」

「……それって、神父の家族を奪ったっていう例の……?」

 茜には予め話してある。……詳しくは要ってはいないが、彼女はなんといっても『神父』にとっての『復讐の道具』なのだ。『奴』が苦しむのならば、たとえ今まで通り茜の望む親像である『神父』の仮面を捨てる事すら厭わないつもりだ。神木の顔に戻った『神父』は、『奴』の名を茜に告げる。

「……そう、本名は大西隆という。……そして、『奴』を撃つのは私だ」

 『神父』としての決戦の時は近いと、智也と和也のマンション爆破の事実から知る。……この調子では昔逃した『生き残り』である神木がこの教会に棲んでいる事は『奴』も十分承知の上だろう。そういう男なのだ、『奴』は。『奴』こと大西隆という『男』は、必ず『神父』を狙ってくるだろう。『奴』の犯行のパターンは、美千代に依頼してとうの昔に分析済みだ。……逃がしはしない、決して!

 『神父』としての顔もこれが最後かもしれない、そう思うと、後に残される事になる茜が急に哀れでたまらなくなった。



 それは満月の夜の事だった。『神父』は、机の引き出しから二丁の拳銃を取り出した。これは茜を守るために、美千代の言う『上の連中』から許可を得て、手に入れていたものだ。一丁を茜に渡して、神父は自分の分の拳銃に弾を装填した。茜は二階を、神父は一階を担当する事になった。

「『奴』は完璧主義者だ。……『生き残り』がいればそちらを必ず狙う。その時が私のチャンスだ!」

 神父はそう断言した。茜は……怖くないと言えば嘘になる。殺人現場は怖くないが、『神父』が神父でなくなるような気がして怖いのだ。二階で待機していると、一階から、明らかにそれと解る銃声がした。一発、二発、三発。……多分、神父が撃っているのだろうが、不安で仕方がない。

 茜は急いで階段を下ると、目の前の光景に我を失った。……撃っていたはずの神父が逆に撃たれている。

「……神父? ねぇ、ちょっとしんぷぅ! しっかりしてよぉー!」

 侵入者――『奴』は、茜を見ると三つの棒をくくりつけた『なにか』をテーブルの上に載せると、「面白いものを見つけた」とでも言いたそうな表情で、彼女に近づいて来た。すっかり我を忘れた彼女には抵抗すること自体が頭にない。『奴』――爆弾魔は容易く茜に向かい合った。<br>

「……お前は、茜? 茜じゃないか? ……なぜこんな場所にいる?」

「……なぜお前が、僕の名を知っている?」

 涙目になりながらも、傍らに倒れている神父を庇い、問いかけると、『奴』――目の前の『男』はニヤリと嫌な笑い方をした。

「……茜、お前は子供の頃の事をあまり覚えていないだろう?」

 言われた通りだった。神父と出会った『あの日』の記憶は鮮明に、強烈すぎるほどによく覚えているのに、その他の幼い頃の記憶はほとんど断片的なモノばかりしかない。……茜にはそれが自分でも不思議でならなかった。しかし、なぜ目の前の『奴』――神父の妻子の仇が自分の事を知っているのだろうか?

「どうしてか解るか? ……お前は俺の『娘』だからだ。お前は覚えているか? 駅で出会った『あの時』の事を?」

「……何、だって……?」

 確かに幼かったあの頃の自分が、家出しようとした『あの時』、「自分の娘にならないか?」と名を訊ねてきた『男』がいた事を、やっとの事で思い出した。

「……アンタ、もしかして、『あの時』の『男』?」

 ……信じられないし、信じたくない。『あの時』優しそうだった『男』が神父の妻子の仇である『奴』と同一人物だなんて。

「……もう一つ、お互いにとって『いい事』を教えてやろう。『あの時』なぜ俺がお前の名『アカネ』という単語を聞いて、すぐに『和子』という名を出したか、今のお前ならば簡単に答えが導き出せるだろう? やってみろ」

 『奴』こと『あの時』の『男』は、この状況でなぞかけのような言葉を吐いた。……嫌な予感しかしないが、好奇心に駆られて、頭をフル回転させる。そして、たどり着いた結論は……。

「……まさか。でも……いや、やっぱりありえない!」

「この世の中、『可能性』というモノはいくらでもあちこちに転がっている。信じたくないならそれでもいが……断言してやろう、お前は……この俺、大西隆の『実の娘』だ。……信じられないのならば、これでDNA鑑定でも何でもしてみるんだな」

 死にたくなるような、衝撃の事実――『大西の実の娘』という言葉と、彼自身の数本の髪の毛を、立ちすくむ茜に渡し、大西は不敵に笑う。

 ――こんな事している場合、じゃない。

茜の理性がそう叫ぶが、自分が『大西の娘』だという確信を、彼女は自らの頭脳で照明してしまった。……傍らの神父は、数か所を撃たれていて、もちろん傷口からの出血もある。そう重い怪我ではないが、手当は早いに越した事はない。やっと茜がそう、冷静な判断を下した時には、時はもう遅かった。……大西が置いていった爆弾が爆発したのだ。

 茜は爆発物が発行する瞬間、全く反応できずに、ただ立ちすくんだままだった。

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