第26限 【side:成斗】

 季節はいつの間にか、春になっていた。

 足のリハビリも順調で、松葉杖生活からも解放された俺は、クロスバイクに乗り、ゆっくりと桜並木を走る。

 春風に散るピンクの花びらが、優しい雨みたいに、風を切る俺の肩に降り注ぐ。そんな穏やかな春の日。

 俺はそのままクロスバイクを走らせ、ある音大の正門前で、それをゆっくり止めた。

 大学から出てくる女の子達が、俺に不思議そうな眼差しを向ける。そんな事はさほど気にせず、俺はずっと、ただひとりの女の子が出てくるのを待っていた。

どのくらい待っただろう……。

 俺の瞳が、友達と笑いながら、こっちへと向かって歩いて来る音央ちゃんを見つける。音央ちゃんは、まだそんな俺には気付かない。

 心でするカウントダウン。

 さん……に……いち……あ、気付いた。

 でも。

 その目は、何もなかった様に逸らされて、俺の横を通り過ぎて行った。

 呼び止めようとして、思いとどまる。友達も一緒だし、俺が声を掛けた事で、音央ちゃんに困った顔をされるのは、シカトよりもはるかに辛い。

 やっぱり、俺はここに来るべきじゃ、なかったのかもしれない……。

 しても遅い後悔をしながら、止めていたクロスバイクに手をかけた時だった。

 パタパタと駆けてくる足音に顔をあげると、肩で息をする音央ちゃんがいた。その顔は、あまりに無表情で、怒っているのか、困っているのか、よくわからない。

だけどそれは、高校のバイトの頃から、俺がいつも見慣れている音央ちゃんの顔だった。

 俺は何故か妙にほっとして、思わず笑ってしまった。

「こんなとこで、何してんの? しかも、人の顔見るなり、笑ったりして」

「それそれ。いつもの音央ちゃん節」

 俺が軽くからかうと、音央ちゃんはあからさまに表情を硬くした。

「待ってたんだ。音央ちゃんのこと」

「なんで?」

 相変わらずな無表情に、俺は構わず続ける。

「俺さ、松葉杖なくなったんだ。ほら」

「見れば……わかる」

「もうちょっとしたらさ、ダンススタジオに、また通おうと思ってるんだ。それでコンテストにもまた挑戦しようって思ってる。それで、それを音央ちゃんに、傍で見ててほしいんだ」

「傍でって……あたしもう、大学も違うし……」

「大学が違ったら、傍で見る事は出来ない?」

 音央ちゃんがコクンと頷く。

「俺が言ってるのは、そういう意味じゃないんだけどな」

 俯きがちだった顔をあげ、音央ちゃんがまっすぐに俺を見た。

「ここの距離」

 俺は自分の親指で、「心」と胸を指して言う。

「俺、叶みたいに、女の扱い慣れてないし、音央ちゃんの事、知らず知らずに傷つけてしまう事もあるかもしれない。傍にいてほしいって言ったけど……違う。俺が、音央ちゃんの傍にいたいんだ」

 俺の不器用すぎる告白に、音央ちゃんのまっすぐな瞳が揺れた。

「こんな頼りない俺じゃ……嫌か」

 苦笑いをした俺に、涙を我慢した様な震え声で、音央ちゃんが言う。

「嫌だっ」

「え?」

「嫌だよ……成斗くんじゃなきゃ……」

 音央ちゃんの頬に、零れ落ちた涙は、細く線を描いて、ひとつ、またひとつと滑り落ちていく。

 俺は音央ちゃんの腕を掴むと、強く自分の胸に引き寄せた。

 大学に植えられた桜の木が、突然吹いた強い春の風に、サワサワと揺れる。

 まるでライスシャワーの様に降り注ぐ桜の花びらの中、やっと辿り着いた小さなぬくもりを俺はぎゅっと抱きしめた。

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