第22限 【side:音央】

 あんな風に取り乱して怒る成斗くんの姿を、初めて見たあたしは……。

 それを止める事すら出来ないほど、呆然としていた。

 自分が怪我をしている事すら忘れて、叶くんに殴りかかっていった成斗くんの姿が、勇ましく思えた半面、強い香耶への想いを垣間見た気がして、胸が苦しくなった。

 あぁ、やっぱり成斗くんは……。

 どこか拭いきれなかったあたしのそんな想いが、確信に変わった瞬間、あたしの心の中で、何かが割れる音がした。

『俺の……傍にいて。それで俺の事、ちゃんと見てて』

『もう少し……このままでいて』

 腕の中に強くあたしを抱きしめて、成斗くんが言った言葉が、何度もリフレインする。

 今でも鮮明に覚えているあの時のシーンは、閉じたあたしの瞳の中で、徐々にモザイクがかかり出し、ぼやけた残像は音を立てて、粉々に砕けた。

 ついさっきの成斗くんの姿と、昨日の香耶の姿が、あたしの中で、不意に重なる。

 叶くんを好きな香耶が、穂奈美さんに詰め言った様に、成斗くんも香耶を想うあまり、叶くんのいい加減な行動が、きっと許せなかったんだと自己解釈した。だから、成斗くんの事を香耶に追いかけるよう、言ったあたしだった。

 それは今度こそ本当に、あたしが成斗くんを諦めるという、今までとは違う強い気持ちと覚悟。

 これで後ろ髪を引かれる事もなく、あたしは大学を辞める事が出来る。そんな風にわざと考えて、沈みそうになる胸を、ほんの少しでも前向きにさせた。

 本当は、今日の夕食会で、みんなに報告するはずだった。

 あたしが冬休みを機に、この大学を退学すること 。

 この時、あたしは既に、退学届を大学に提出していた。

 コンクールに向けて、ピアノを練習しながら、あたしはずっと考えていた。音大を受験し直して、もう一度ピアノをやりたい、と。そんなあたしの心に、ひっかかっていたのは、成斗くんの言葉だった。

『俺の……傍にいて。それで俺の事、ちゃんと見てて』

 彼女でもない立場のあたしが、成斗くんと同じ大学を辞めてしまう事は、そんな成斗くんの言葉を拒否してしまう事になる。だから、今の今まで、自分の心では「大学を辞める」と決めていながら、みんなにそれを言い出せずにいた。

 服についた埃を払いながら、ゆっくり立ち上がった叶くんに、あたしは知っていながらも、わざと敢えて訊いた。

「さっきの人が、花火大会の時に言ってた、叶くんの片想いの人?」

 叶くんは答えを声にはせず、切れた唇を指で押さえながら、小さく頷く。

「その人の事、叶くんは、本当に知ってるの?」

 真っ直ぐな強い口調で訊いたあたしに、叶くんが怪訝な顔を向けた。

「その人が本当は、いったいどういう人で。何を考えてて。叶くんと居ない時、何をしてるとか、全部知ってて好きなの?」

「生田、俺に何が言いてぇの? ハッキリ言ってくんねぇと、俺もわかんねぇんだけど?」

 あたしの不躾な質問に、苛立ちを隠せない叶くんが、鋭い眼差しで語調を強めた。

「わかんないならいい。あたしもそれ以上、今、言うつもりないから」

 そう言って歩き出したあたしの背中に、今度は叶くんが訊く。

「生田は、なんで香耶に、成斗追わせたりした?」

 あたしは思わず足を止め、ゆっくり振り返ると叶くんを見た。

 それに答える前に、あたしは叶くんの質問の意図がどこにあるのかを考える。あたしにはどうしてもそれが、成斗くんに対するあたしの気持ちを訊く為に、叶くんの口から出た言葉とは思えなかった。むしろ、香耶の気持ちを気にしている様な……。

 大袈裟に言えば、「どうして香耶に、追わせたんだ!?」と、追わせたあたしを責めてる様な…そんな気がした。

 それはあたしの深読みなのかもしれない。だけどあたしは、そんな叶くんの言葉に、叶くん自身さえも気付いていない「香耶を気にかけている」という気持ちを、見つけた気がしてならなかった。

「香耶のことが、気になる?」

 そんな質問返しをしたあたしに、怪訝な目つきはそのまま、叶くんはどこかハッとした様に、顔を顰めた。

 そこであたしも、忘れていた大切な事を思い出す。

 叶くんは、香耶の本当の気持ちを知らないんだってこと……。

 穂奈美さんへの想いを知った上で、叶くんのそばにいたいと思う香耶の気持ちを知らない。

 そんな風に言ったら、叶くんが重く感じるからと、香耶が言っていた事を、あたしはここにきてやっと思い出した。

もしかしたら、叶くんは、今でも香耶が成斗くんを好きなんだと、思っているのかもしれない。あたしの思考は、そんな答えに辿りつく。そしてその誤解だけは、どうしても解いておきたいと思うあたしがいた。

「香耶があたしに言ったの。『アタシは叶になるんだ』って……」

 突然、話し始めたあたしを、わけがわからないという顔で叶くんが見る。

「ずっと片想いしながら、叶くんは好きな人を支えてあげてたから、今度は自分が叶くんの立場になって、叶くんを支えてあげたいって。でもそんな事、叶くんに言ったら、叶くんが重くなっちゃうから、言わないんだって、香耶言ってた」

 叶くんはずっと黙って、何か考える様な顔で、あたしの話を聞いていた。

「余計なおせっかいだったかもしれないけど……それだけは叶くんに、伝えておきたくて」

 そう付け足して、最後に薄く笑ったあたしに、叶くんも薄く笑い返して言った。

「話してくれてありがとな」

 あたしはそれに「うん」と同じ意味で、「ううん」と首を横に振り、そのまま叶くんと別れて帰宅した。

 コンクールが終わってからというもの、あたしは毎日ピアノを弾き続けていた。

 いつもなら集中して出来ていた練習も、今日はその手が何度も止まる。

 ――成斗くんは今、どうしているんだろう?

 気付けばそんな事ばかり思って、練習に身が入らない。

 あたしは深呼吸にも似た大きな溜息を吐くと、またピアノを弾き始めた。

 さっきから何度も同じ所で、ミスタッチをしてしまう指。それが成斗くんへのあたしの気持ちみたいに思えて、弾けない事も含めて、余計苛々とした。

「諦めよう」って……何度思ったかわからない。それでいつも諦めきれずに、最初からやり直し。

 今度こそ、もうこんな自分とは、サヨナラしたい。

 そのサヨナラは、みんなとのサヨナラにも繋がってしまうけど……それは恋を忘れる為じゃない。あたしの新たな夢への旅立ちと、それがたまたま重なってしまったってだけ。

 言いそびれてしまったみんなへのサヨナラに、ピアノの上のあたしの指が、また止まった。

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