第20限 叶side:タイムリミット
「待てよ」
俺は、香耶の手首を強く掴んで、引き止めた。
そのまま踵を返し、香耶を引きずる様に、車が止めてある駐車場へと向かう。もっと抵抗するかと思ったけど、香耶は案外大人しく、俺に引きずられながらもついて来た。
キーレスでロックを解除したのと同時に、香耶は俺の手を振り払うと、自分からその助手席に乗り込む。俺はそれに少し安堵しながら、運転席へと回り込み、キーを回してアクセルを踏んだ。
行く先なんて特にない、宛てのないドライブ。
流れる景色を見ながら、黙りこむ香耶の横で、俺はハンドルを握りながら、ここに至るまでの出来事を、切れ切れに思い返していた。
生田のコンクールが終わった後、成斗だけを残し、俺と香耶は車で待つ事にしたわけだけど……。
生田を連れてなかなか帰って来ない成斗に、香耶が言った。
『成斗と音央、遅くない? アイツ言葉知らないから、音央の事、慰める事も出来ないでいるんじゃない? やっぱ、成斗だけじゃ心配だよ。アタシ、見てくる』
そう言って、車を降りた香耶を、俺も遅れながら追いかけた。
ふと立ち止まる香耶の背中。
その横に一足遅れで並んだ俺の視線の先には、生田を抱きしめている成斗がいた。
急いで俺は、隣に立つ、香耶を振りむく。
そこには、二人の姿を呆然と見つめる香耶の横顔があった。
だから……「後悔する」っつったのに――
香耶の横顔に、俺は心の中で悪態をついた。
『あたし達の役目も……終わっちゃった』
独り言みたいに横顔で呟いて、不意に俺へと視線を向け、穏やかに笑って見せた香耶に、俺はわざと、少しおどけた笑いを返す。
『ってことで。続きは、誰も見てないとこで、やってもらおーぜ?』
俺はそう言うと、成斗と生田のラブシーンに割って入った。
本当は邪魔するつもりなんてなかったし、邪魔したくもなかったけど。香耶の笑顔があまりに痛々しくて、見てるこっちのが辛かったから……俺は敢えて、滅茶苦茶おどけながら、成斗と生田の邪魔をした。
そんな二人を前にして、香耶は気丈に振る舞っていたけど、そこに俺は、昔の自分の姿が重なって、香耶の軋む心が、痛いほどよくわかる気がした。兄貴の横に立つ穂奈美さんを、俺もそんな風に、ずっとずっと見ていたから――
『音央のがんばったね会やるよ~』
言い出したのは香耶。
俺の隣に座り、やけ酒と言わんばかりに、アルコールを飲み干す香耶に、さり気なく言った。
『あんま無理して、飲みすぎんなよ?』
そんな俺のいったい何が癇に障ったのか、
『もう、ほっといてよ!!』
時と場合も考えず、いきなり香耶がキレた。
俺はそんな香耶の心が、もう限界なんだと思い、とにかく成斗と生田の前から香耶を離した方がいいと判断した。
それは香耶自身も思っていた事らしく、先に席を立って歩き出した香耶を、俺はあとからすぐに追いかけた。
俺の車を止めた方角とは、まったく反対方向に歩いていた香耶の手首を掴むと、香耶を引きずる様に駐車場へ……そして、現在に至る――
香耶は窓の外を見て、相変わらず黙り込んでいたけど、不機嫌そうだった表情は和らぎ、その瞳はどこか愁いを帯びていた。
そんな香耶に俺は初めて、「女」を意識した。
いつだって言いたい事を言い合い、男友達みたいだと思っていたけど……。
男の俺とは違う、細い肩と頼りない腕で、ひとりでいろんなもん抱え込んで……そんな香耶を、決して変な意味ではなく、純粋に抱きしめてやりたいと思った。
だけど……。
俺がそんな事をしたところで、香耶の心を救うことなんて、出来やしない。抱きしめる腕は、誰でもいいわけじゃない。抱きしめてほしい腕じゃなきゃ、なんの意味もないんだ。
香耶が今、何を思い、気持ちはどこに向かっているのかなんて、真相を知る由もない俺は、それを忘れられない成斗への想いだと、勝手に思い込み、決めつけていた。
香耶の気持ちがよくわかりすぎるから、逆に何も出来なくて、かける言葉すらみつけられなかった。
それがとても歯痒くて、情けなくて、何故か虚しさまで感じる。この気持ちは……同情と言う名の愛情? 愛情と言う名の友情?
上手い表現がみつからなくて、俺はそれ以上、考えるのをやめた。
「叶は……今でも穂奈美さんが好き?」
ずっと黙り込んだままだった香耶が、視線は窓の外に向けたまま、突然、ポツリと俺に訊く。
「そんな簡単に、忘れらんねぇだろ……」
半分の本音と、もう半分は、成斗を忘れられずにいる香耶への慰めのつもりで、俺はそう答えた。
「そう……だよね」
寂しそうに薄く笑って肯定した香耶に、俺はそれを確信する。
「後悔してんだろ?」
成斗を諦めようとした事の意味で、主語なく訊いた。
「すっごく……後悔してる」
想像通りの香耶の答えに、実は会話がズレていたなんて、俺が思うわけもない。
「お前はそれでいいの?」
「いいも何も。別の相手に向かってる気持ち目の当たりにして、それをあたしがどうする事も出来ないよ。そもそも自分で蒔いた種だし……こういうの自業自得って言うんだね」
それぞれの想いがズレながらも、不思議なほど噛み合って、進む会話。
あまりに自分で自分を責める香耶に、俺はかける言葉が見つからなくて、そして流れる小さな沈黙――
「アタシって、そんなに女としての魅力ないかな……?」
相変わらず視線は窓の外に向けたまま、香耶が子供みたいに、口を尖らせる。そんな独り言にも聞こえる問い掛けに、俺は小さく鼻を鳴らして、横顔で笑った。
「なんだよ。いきなり」
「ずっと成斗は振り向いてくれなかったし……叶の彼女になったっていっても、手も出してもらえなかったし」
「ちょっと待て。成斗の事はともかく、そこに俺は関係ないだろ。そもそも、香耶と俺は付き合ってるフリだぞ!? フリ!!」
男とはいえ、俺だって理性くらいはある。と、思う……いや、思いたい……。
「たとえフリでも!! 叶、言ってたじゃない。好きじゃなくても、キスもセックスも出来たって。それがアタシとは、まったくなんにもないって事は、オスメスのメスにも見られてなかったって事じゃん」
なんじゃそりゃ!? と、突っ込みたくなる様な、ぶっ飛んだ香耶の解釈。だけど、あまりに不似合いなセリフを言う香耶が可愛く思えて、俺は声をあげて笑い、それを収めながら言った。
「香耶は、そういう女じゃねぇーってこと」
「そういう女って、じゃあ、どういう女?あ、そこで『男』とか言ったら、エルボだからね」
そんな冗談を付け足した香耶に、俺は敢えて真面目に答えた。
「誰とでも軽々しく、そういう事しない女。もっと言えば、誰とでも軽々しく、そういう事してほしくない女」
どちらかと言えば、見た目遊んでる風な香耶が、実はそうじゃないってギャップは、バイト柄、色んな女と接する機会のある俺としては、高評価だったりするわけで。
男としての上から目線で言わせてもらえば、女として高い価値があるってことだ。さすがにそれは、何様もいいところだから、言葉にはしなかったけど。
少なくとも俺が香耶に、手を出す事をしなかったのは、俺が香耶を高くかっていたからと言っても過言じゃない。
そこには、そういう女であってほしいという、俺の身勝手な願望も、少なからずあったのかもしれないけれど。
だから。たった一度でも、香耶とキスをしてしまった事は、ずっと俺の中で、悔やまれてならない出来事のひとつだった。
「なんか、うまく誤魔化されたみたいな気分」
「女には一生わかんねぇ、男の心理ってやつだよ」
それ以上説明する事が出来なくて、俺はそんな言葉で締めた。
「あ、海」
窓の外を見ていた香耶が、海岸近くを走り始めた車の中、ポツリ言う。
「行くか?」
「行きたい!」
「埠頭の夜景とか?」
「ううん。砂浜」
「砂浜!? こんな寒い夜に砂浜行って、何するんだよ?」
「叫ぶの。心に思ってる事大声で。大声出すとさ、スッキリしない?」
香耶の心がそれで少し楽になるなら……。
香耶に何もしてやれない俺は、そんな香耶のささやかな我儘を聞き入れる事にした。
海浜公園の駐車場に車を止めて、外に出る。
冬の冷たい海風が、体を一気に吹きぬけた。
「さみぃーよ」
「寒いけど、ちょっと気持ちいい」
あまりの寒さに立ち止まり、背中を丸める俺とは反対に、香耶は階段下に広がる砂浜へと走り出す。
「んな走って、転ぶなよ」
言ってるそばから、
「わぁっ」
香耶が俺の視界から消えた。
「いった…ぃ」
「だから、言わんこっちゃねぇ」
段差に足を取られて転んだ香耶に、俺は手を差し出す。差し出した俺の手に、香耶がつかまったところを、「よっ」と引き上げて立たせた。
「お前の手、冷たっ」
「叶の手あったかいから、ちょっとだけこのままでいて?」
それに応える代わりに、繋がれた手はそのまま、俺はゆっくり歩き出した。
冬の海の砂浜には、もちろん誰もいるわけはなく……ヒューヒューという風の音に混じって、引いては打ち寄せる波の音だけが聞こえた。
砂浜の真ん中くらいまで来て、俺は足を止める。
「もうこの辺でいいだろ。早いとこ叫んじまえ」
「じゃあ、叶から」
「なんで俺なんだよ。叫びたいっつったの、お前だろ」
「叶が叫んだら、叫ぶ」
引いてはくれそうもない香耶に、俺はこの寒さから早く解放されたくて、諦めて叫ぶ事にしたものの……。
「叫ぶっつってもさ、いったい何叫ぶんだよ?」
「今、叶が思ってること」
そう香耶に言われて考える。
――俺が今、思ってる事ってなんだ!?
思考まで凍りつきそうな寒風の中、俺は必死に考えて、そして叫んだ。
「香耶ーーーっ!! 幸せになれーーーーーっ!!」
叫んだ俺に、香耶は驚いた顔をしながらも、小さく笑って、視線を海へと向ける。そして大きく息を吸い込んで、香耶は叫んだ。
「叶のバカヤローーーーーーーッツ!!」
って……!?
「あースッキリした♪」
って……!! そりゃねぇだろ。俺の名前じゃなくて、そこは「成斗」だろーが!!
喉まで出かかった俺の言葉を止めたのは香耶。
「寒くて耳とれそう。早く帰ろう」
繋がれたままだった俺の手を、歩き出しながら引っ張る。
「行こう」って言ったり、「早く帰ろう」って言ったり。ったく……忙しい奴。しかも「寒くて耳がとれる」って、どんな言い草だよ。あまりに勝手すぎて、怒るどころか、逆に笑えてくる。それが香耶らしいっつーか……なんつーか……。
好き勝手な事言って、怒ったり笑ったり、大人しい愁い顔なんかじゃなくて、元気で無邪気な香耶でいてほしい。
本当に心から、俺はそう思い、だから叫んだ。いつかきっと、お前が大好きな奴と、幸せになれと願って……。
それが、今、俺が一番強く思ってることだから。
――それを言葉にして伝えるなんて事は、ぜってぇーしないけどな。
車に戻ってエンジンをかけた俺に、悪戯な眼差しで香耶が言った。
「ワガママついでに…もういっこワガママ言っていい?」
「ん?」
ここまで来たら、どっからでもかかってこいと、俺は何気なく訊き返す。
「叶のアパートに、泊めて? それで一緒にDVD観よ」
「何、観る?」
「んーとね、思いっきり笑えるヤツがいい」
俺がすんなりオーケーした事で、香耶ははしゃいだように、そんな事を言った。
車を走らせレンタル屋に向かい、二人であれこれ悩んで、借りたDVD。
コンビニにも寄り、アルコールやつまみ、ジュースやお茶まで買い込んで、俺のアパートへと向かう。
アパートの前の駐車場に車を止め、それぞれに荷物を持ち分けて、車を降りた。
香耶と他愛ない話をしながら、向かった部屋の前、立っていた人影に、思わず止まる会話。
「穂奈美……さん?」
俺の口からこぼれた名前に、穂奈美さんが俺を見て、焦った様に香耶が言った。
「あ、じゃあ、アタシ帰るね。荷物ここに置いとくから、後は自分で運んでね」
香耶はそう言うと、その場に荷物を置き、穂奈美さんに会釈をすると、そのまま踵を返す。
あまりにも咄嗟の出来事に、俺の心は追いつかないまま、
「取り敢えず、部屋に入って待ってて」
穂奈美さんに部屋の鍵を渡して、俺は車のキーだけを持ち、ダッシュで香耶を追いかけた。
「香耶っ」
香耶の背中に叫ぶと、俺の声に、香耶が足を止めた。俺はそんな香耶の元に駆け寄る。
「帰るなら送る」
香耶は笑って、大きく首を横に振った。
「アタシは大丈夫。まだ電車あるし」
「いいから来い。送るから」
そう言って俺が掴んだ腕を、香耶は強く振り払うと言った。
「穂奈美さん、待ってたんだよ? こんなに寒い中、叶のこと待ってたんだよ? アタシになんか気を遣ってる場合じゃないでしょ!! ほら、早く穂奈美さんとこ行って」
香耶は俺の体をアパートの方に回転させて、俺の背中を押す。
「叶がアタシの幸せを願う様に、アタシだって叶の幸せを願うよ。だから、ほら、早く」
強く背中を押されて、一歩前によろめきながら、香耶を振り返った俺に、
「頑張れ!! じゃあね」
香耶は笑顔で「バイバイ」と手を振りながら、足早に歩き出した。
俺はもうそれ以上、香耶を追いかける事は出来なくて、どんどん小さくなる香耶の背中が夜の闇に見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
ゆっくりとした足取りで戻った部屋の前に、穂奈美さんはいなくて……。
置きっぱなしにしてあった荷物も、綺麗に片付けられていた。
明かりがついている部屋のドアノブをゆっくりと回し、玄関に入った途端、俺へと穂奈美さんが駆け寄り、そのまま抱きつく様にして、俺の胸に顔を埋める。
「どした?」
懐かしく思う髪の香りに戸惑いながらも、俺は敢えて冷静を装って、柔らかいトーンで訊いた。
ゆっくりと顔をあげた穂奈美さんは、何を応えることもなく、俺の唇を塞ぐ。愛しさで咽返りそうになる香りの中、求めてやまなかった唇の感触に、俺がそれを拒む理由はみつけられなかった。
貪る様な俺の激しいキスに、穂奈美さんが時折、声にならない吐息を漏らす。俺はそのまま、キッチンの冷たい床の上に、穂奈美さんを押し倒した。
瞬間。何故か俺の頭に、香耶とのキスが過る。
条件反射の様に、止まった俺の行為。それを一気に掻き消した、穂奈美さんの揺れる眼差しと言葉。
「叶ちゃんがそばにいてくれないと……駄目なの」
また強く心は引き戻されて、俺はさっき以上に激しく、穂奈美さんの唇を塞いだ。
ブラウスのボタンにかけた俺の手を、優しく穂奈美さんが止める。
「続きはベッドで……」
そう言った穂奈美さんの唇に、短いフレンチキスをして、立ちあがった俺に、横たわったままの穂奈美さんが、俺へと右手を伸ばす様に差し出した。
その手を掴んで、穂奈美さんを勢いよく引き上げた時、海岸での香耶との出来事が、再びそれに重なる。そんな自分に俺は、どうしようもなく苛々した。
俺の手を引き、穂奈美さんは寝室のドアを開けると、ベッドに俺を優しく押し倒し、キスの雨を降らせながら、服を脱がしていく。
こそばゆい快感が体中に走り、我慢が出来なくなった俺は、そのまま体を回転させて上になり、また激しくその唇を奪いながら、徐々に首筋に舌を這わせると、穂奈美さんの服を少し乱暴に脱がせた。
頭の中、まだくすぶっている苛立ちを消し去る様に、俺はその夜、幾度となく、熱く激しく穂奈美さんを抱いた。
結局……俺と穂奈美さんは、肌と肌で会話する以外、きちんとした話もしないまま、気付けば朝を迎えていた。
眠りから目覚めても、眠ったのかどうなのかもわからないくらい、ぼやけたままの頭。
俺の腕枕に眠る穂奈美さんの顔を見ても、夢なのか現実なのか、まだよくわからない。そんな俺の腕の中、穂奈美さんがゆっくりと、目を覚ました。
思わず合った目に、小さく笑って穂奈美さんが言う。
「おはよ」
「オハヨ」
同じ様に笑って返した俺の首に、穂奈美さんは細くて白い腕をギュッと巻き付ける。
俺はそんな穂奈美さんの頭をポンポンと優しいリズムで軽く叩いて、その腕をゆっくり引きはがした。
「ちゃんと……ゆっくり話そう?」
「いつ?」
穂奈美さんが、頼りない眼差しを向ける。
掛け時計に目をやり、今はお互いそんな時間がない事を知った俺は、穂奈美さんの会社が休みの前日に、合わせて言った。
「今週の金曜か、土曜日の夜は? って言っても、俺のバイトが終わってからになるけど」
「うん。わかった」
頷いて笑った穂奈美さんの頬に、俺は軽くキスをして、大学に行く為に、重い体をゆっくりと起こした。
穂奈美さんは会社に行く前に一度家に戻ると言い、俺より先にアパートを出て行った。
俺はと言えば、起きない頭を、目覚めのコーヒーと煙草で、必死に叩き起こして、一限目の講義に間に合う様に、なんとかアパートを出る。
本当なら、休んでしまいたかった。だけどそれをしなかったのは、あんな形で帰してしまった香耶が、気がかりだったから……。
それと、穂奈美さんと話をする前に、俺はどうしても香耶に、先に話しをしておきたくて。
寝不足で、いつも以上に気分が悪くなりそうな満員電車に乗り、やっとの思いで辿り着いた駅。
学生とサラリーマンやOLで、ごった返す階段を登りきったところで、香耶とすれ違った。
「香耶」
呼び止めた俺の声に、肩をビクッとさせて、香耶が振り返る。
「どこ行くんだよ?」
「途中まで行ったんだけど、なんか、気分のんないから、今日は帰る」
「お前がサボるなら、俺も付き合う」
「なんで?」
「今日は俺、お前に会いに大学来た様なもんだから」
香耶はからかう様な眼差しで笑うと、何も言わずに駅の構内へと続く階段を下りていく。
「あ、おい。待てって」
俺はそんな香耶の後を追い、階段を駆け下りた。
お互いホットの缶コーヒーで手を温めるようにして持ち、俺と香耶は公園のベンチに並んで座っていた。
冬の日差しがベンチを照らしてはいるものの、頬にあたる風は冷たい。
香耶に「話したい事がある」と言って、俺はここに香耶を連れて来た。
「昨日はごめんな」
「やだなー。そんな風に謝らないでよ。気にしてないってば」
おどけて笑う香耶に、何故か胸が余計、チクチクと痛む。
「それで、穂奈美さんとは、うまくいったんでしょ?」
「えっ!?」
咄嗟に訊き返した俺に、香耶が冷やかしの眼差し全開で、俺の目の下を、左右順番に指差して笑った。
「ク・マ」
ストレートな香耶の突っ込みに、思わず口を噤む。
「良かったね。穂奈美さんが叶のとこ、帰ってきてくれて。今度は、しっかり捕まえときなよぉ!?」
「まだそういう話、穂奈美さんとはしてないんだけど……今度ちゃんと話そうって思ってて。そしたら俺、香耶と付き合ってるフリはもう出来ない。ごめん」
香耶は何も言わない。
「香耶?」
俺の呼び掛けに、香耶は俺を見て、テヘッってな感じで笑った。
「彼氏と別れる時って、こんな感じなのかなぁー? って、頭の中でシュミレーションしてた。てかさー。どうしてそういう事言うかなー。アタシと叶は本当に付き合ってたわけじゃないんだから、そんな風に律儀に、アタシに話す事ないよ」
確かに、そうなのかもしれない……言う必要なんて、なかったのかもしれない……。
言って初めてわかった事は、いつの間にか、彼女に別れを切り出す時の嫌な気分が、俺の心の中に、渦巻いていたということ。
「叶は楽しかった? アタシと付き合ってるフリしてくれてた時」
そう訊かれて、香耶との日々を振り返ってみた。
それは他愛ない日々の積み重ねだったけど、ふざけ合って笑ったり、言いたい事言い合って、時々喧嘩してみたり……今こうして振り返ってみれば、それが凄く楽しい日々だったと、しみじみ思える。
「すげぇ、楽しかった」
「じゃあ、アタシもちょっとは、穂奈美さんがいなくて寂しかった叶の日々に、貢献出来たってわけだ?」
香耶はコロコロとはしゃいで笑うと、ベンチから立ちあがって、思いっきり背伸びをした後、静かに俺を振り返った。
「アタシもすっごく楽しかった。ありがとう。じゃあ、そろそろ行くね」
「わざわざ、こんなとこまで、悪かったな」
「ううん」と小さく笑いながら首を振り、香耶はベンチに置いていたバッグを持つと、ゆっくり歩きだしたかと思いきや、いきなり俺を振り返る。
「ん?」
「DVDちゃんと返しておいてね。あと、観ておもしろかったら教えて?」
「おぅ」
そう言って、手をあげた俺に、香耶も「じゃあ」と手をあげて歩き出し、また何かを思い出した様に足を止め、振り返って俺を見た。
冴えないコントみたいな香耶の行動に、たまらず小さく吹き出す。
「今度は何だよ?」
「預かってるプレゼント、明日大学に持って行こうか?」
俺は少しだけ考えて、首を横に振る。
「その時は、俺が香耶の家に、取りに行くよ」
香耶はそれに頷くと、両手で大きくバイバイと手を振り、今度は振り返る事なく歩いて行った。
香耶がいなくなった静けさに、無意識にこぼれた俺の小さな溜息は、澄んだ冬の空気に力なく溶けていく。
安堵なのか……? 空虚なのか……? 形のないものに、それを表す色を付ける事は、簡単に出来やしない。本当は何色でもないというのなら、そのどちらでもないのかもしれない。そんな言い訳をしている俺の心を、俺自身が一番、理解してはいなかった。
考えた事もない事を、あれこれと考えたせいで、寝不足の体に、睡魔が襲う。バイトの時間まで、家に帰って眠ろうと、俺はベンチから立ちあがり、ゆっくりと歩き出した。
その夜、バイトから帰ってシャワーを浴びた俺は、缶ビール片手に、観るでもなく観ていたつまらない深夜番組に、忘れていたある事を思い出した。
香耶と借りたDVD。俺はそれを手に取ると、デッキに入れ、再生ボタンを押した。
何を借りるか散々二人でもめたのに、香耶も俺もテレビで見逃したというお笑い番組のDVDが見つかった途端、そのDVDに即決定。それは人気のある番組で、今まで何本もDVD化されている。おもしろくないわけがない。のに……俺から出るのは、どこか乾いた笑いだけ。
それを半分も観る事なく、デッキから取り出すと、俺はベッドの中に潜り込み、すべてを穂奈美さんのせいにして、散らかっていた心を綺麗に一纏めにした。
もう二度とこの手に帰る事はないと思っていた穂奈美さんが突然現れた事で、俺の心はまだ夢の様なその現実に追いついて行けず、また失う恐怖にも、どこかで怯えているんだ――と。
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