第18限 音央side:キミのために出来る事

 大学が終わったその足で、あたしはひとり、成斗くんの入院している病院へと向かう。

 香耶と叶くんは、今日大学をサボって、二人でデートに出掛けた。

 香耶から叶くんの事が好きだと最初に聞いた時は、正直、本当なのかと疑った事もあったけど、昨日の学食で、デートの予定を叶くんと嬉しそうに話す香耶を見て、本当に叶くんが好きなんだと、しみじみ実感した。

 叶くんと付き合い始めたとはいえ、香耶の悩みは消えたわけじゃない。叶くんの心の中に、忘れられない人がいるのを承知で、香耶は付き合い出した。

 あたしが香耶なら、きっと逃げ出しているかもしれない。そんなあたしの弱い心は、香耶に成斗くんの事を諦めなくていいと言われたものの、どうする事も出来ずにいた。あたしがひとり成斗くんを好きなだけの片想いの状況は、あたしが想いを諦めなかったところで、何も変わりはしないのだ。

 こんな自分を変えたいと思うのに、そう簡単に変えられなくて、気付けばついている小さな溜息。

 あたしの遠い視線に、病院の白い建物が映り、下がり気味になるテンションをあげ直す。

 今はそんな事より何より、早く成斗くんに、元気になってほしい。

 あたしがこんなんじゃ、ダメ! ダメ! あたしは気合いを入れる意味合いで、両手で頬を軽くパンパンと叩いた。

 成斗くんが入院して、もうすぐ二週間。ほとんど毎日の様に通っているのもあって、看護士さんとも顔なじみになった。

 顔見知りの看護士さんとすれ違い、お互い笑顔で会釈しながら、あたしは成斗くんの病室へと向かう。

 病室のドアの前。

 ノックをしようとあげた手を止める。

 中から、聞こえてきた話し声は、数人くらいはいる男の子達の声で。大学の友達ではなく、話の内容からして、どうやらダンススタジオの仲間らしかった。

『じゃあ、俺達帰るな』

 ドアの向こうから聞こえた声に、あたしは思わず、そのドアから離れると隠れた。

 ゾロゾロと成斗くんの病室を出て行く気配を、近くの給湯室の壁に隠れて伺う。

 顔をちょこっと壁から覗かせて、男の子達が帰ったのを確認してから、あたしは再び成斗くんの病室の前に立った。

 別に、隠れる事もないんだけど……この人見知りなあたしが、あの人数の中に入っていくのは、至難のわざだ。まして女の子がひとりでお見舞いとか、そんな冷やかしの目で見られるのも嫌だった。

 気を取り直して、あたしが病室のドアを再びノックしようとしたその時。

 ガシャーン ――

 中から、何かが割れる大きな音がした。

 ――成斗くん!? 

 あたしは成斗くんに何かあったのかと思い、ノックをするのも忘れ、急いでそのドアを開けた。

「成斗くん、大丈夫!?」

 あたしの目に飛び込んで来たのは、床の上でバラバラに割れた花瓶と、背中を起こしたベッドの上、突然入ってきたあたしを見つめて、呆然とする成斗くんだった。

 気まずそうな顔つきの成斗くんに、咄嗟にかける言葉がみつからなくて、流れる沈黙。

「どうしたの?」

 あたしは敢えて少し明るめに言いながら中へと入り、背中でドアを閉めた。

「別に。なんでもねぇ」

 成斗くんは、今まで一度も見た事がないとげとげしさを、表情にも言葉にも纏(マト)っていた。そんな成斗くんに驚いて、あたしの表情が固まる。

「……ごめん」

 堅い表情はそのまま、成斗くんが低いトーンで、ポツリと言った。

「さっき、同じダンススタジオに通ってる奴等が見舞いに来てくれたんだけど……『大丈夫か?』なんて言いながら、きっとあいつ等、俺が事故に遭った事喜んでんだよ」

 成斗くんらしくない、ひねくれた物言いに、あたしは悲しくなる。

「そんな事ないよ。みんな心底心配してるよ」

「心底心配してる? 所詮、ライバルだぞ?心配してるなんて上辺だけで、心ん中じゃ『ざまみろ』って思ってんだよ」

 苛々を押さえきれない様子で、成斗くんは声を荒げた。

「実際、事故った俺の代わりに、コンテストに出る奴なんか、申し訳なさそうな顔しながら、嬉しそうだったしな」

「成斗くんがコンテストに出られなくなったのは、本当に残念なことだけど、でも早く元気になって、また頑張ろうよ」

 もっと気の利いた言葉を言いたいのに、ありきたりな慰めしか出てこなくて情けない。そんな下手なあたしの慰めは、成斗くんの心を逆なでした。

「『また』なんて簡単に言うなよ。俺がそのコンテストに出るまで、どれだけかかったと思ってんだよ。何にも知らねーくせに、知った様な口利くなよ!」

あたしだって……何も知らないわけじゃない。

成斗くんのコンテストへの想いがどんなものだったのかは、成斗くんにしかわからない事だけど、高校時代の三年間、音大附属に通っていたあたしだって、周りのみんながみんなライバルだった。だから、成斗くんがライバルに抱く気持ちは、少なからずあたしだって知っている。

 だけど、そこから逃げ出してしまった今のあたしには、成斗くんにそんな偉そうな事は言えなかったし、言う資格もなかった。

「そうだよね……何も知らないのに、ごめんね……」

「悪いけど、今日はもう帰ってくんねぇかな」

 言いながら、ベッドに横になり、成斗くんが背を向ける。

「わかった……また、来るね」

 あたしはそれ以上何も言えなくて、そのまま静かに病室を出た。

 病院を出て歩きながら、さっきの成斗くんの表情と言葉を思い出す。自暴自棄になっている成斗くんが、あたしはとても心配になった。

 もしかしたら、このままダンスを辞めるなんて、言い出すかもしれない……そんな事になるのは、絶対に嫌だと思った。

 成斗くんのダンスに、あたしはとても感動したし、何より、成斗くんには、ずっと夢を追いかけて、いつだってキラキラした目をしていてほしい。夢を途中で諦めてしまったあたしの、成斗くんは憧れだから……。

 成斗くんの姿を見て、あたしは自分がピアノを辞めてしまった事を後悔さえした。

 どうしたらあのキラキラした輝きを、成斗くんは取り戻してくれるんだろう? どうしたら……?

 あたしは見つかりそうもないその答えを探しながら、重い足取りを進めた。

 家に帰ってから、夕食の時も、お風呂の時も、あたしはずっとその事ばかりを考えていた。

 そしてお風呂上りの今も……考えても考えても、どうしていいのか、わからない。

 そんな時。不意に自室のドアがノックされ、お姉ちゃんが部屋に入って来た。

「なーにそんなに悩んでんの?」

 見透かした様な目であたしを見て、お姉ちゃんが小さく笑う。自分から「相談がある」とはなかなか言い出せない性格のあたしは、思い返してみればずっと、お姉ちゃんのこの一言に救われてきた。だから昔から、お姉ちゃんにはついつい、なんでも話してしまう。

 あたしにとってお姉ちゃんは、家族の中で一番の相談相手。あたしは成斗くんへの好意だけは隠して、お姉ちゃんに成斗くんとの現状を話した。

「どうしたら、成斗くん、またダンスを頑張ろうって気持ちになってくれると思う?」

 そんな話の締めで、あたしはお姉ちゃんに問い掛けてみた。

「んー。そうだなぁ……」

 お姉ちゃんは腕組みをして考えながら、何を思ったのか、含み笑いでをあたしを見る。

「『頑張れ』って音央が言うだけじゃなくて、音央も一緒に頑張ったらいいんじゃない?」

「あたしも一緒に頑張るって……ダンスなんて、あたし出来ないよ!?」

「誰も運動音痴の音央に、ダンスしろとは言ってないよ」

 お姉ちゃんは余計なひとことまで口にして、肩を揺らして笑う。こっちは真面目に訊いてるのに、それにはちょぴりムッとして、あたしは口を尖らせた。

「ダンスじゃなくて、音央は音央の得意な事頑張るの」

「あたしの得意な事?」

 オウム返しをしたあたしに、お姉ちゃんは頷いて、あたしの部屋にあるピアノを顎で指す。

「ピアノ……?」

「きっと、今の音央が言葉で何を言っても、その男の子には伝わらないと思うんだ。だとしたら、あとは行動で伝えるしかないでしょ? あ、ちょっと待ってて」

お姉ちゃんは何かを思い出した様に、あたしの部屋のドアも閉めずに出て行った。

 ほどなくして戻って来たお姉ちゃんの手には新聞。四つ折りに畳んであるそれを、お姉ちゃんは何も言わずにあたしに差し出した。

 頭の中に大きなクエッションマークを描きながら、取り敢えず受け取って、見てみる。その広告欄に書かれていたのは、十一月に開催されるピアノコンクールのお知らせだった。

「それ。出てみたら?」

「出てみたらって……あたしが出れるわけないじゃん。半年以上、ピアノ触ってもないのに」

「だ・か・ら。頑張るんじゃない」

 お姉ちゃんのその一言にハッとする。

 頑張ってないあたしが、成斗くんに「頑張ってほしい」なんて。

 夢を諦めたあたしが、成斗くんには諦めてほしくないなんて。

 あたしのエゴもいいところだってこと――

「音央にコンクールの話持ちかけようと思って、その新聞取っておいたんだけど、ちょうど持ちかけるきっかけが出来てよかった。あとどうするのかは、音央次第。じゃあね」

 お姉ちゃんはそう言うと、小さく手を振り、あたしの部屋を出て行った。

 お姉ちゃんが出て行った静寂の中、あたしは新聞広告に書かれているコンクールの詳細に目を通した。

 一次予選は、課題曲四曲の中から一曲を演奏する事になっている。

 いくら音大附属高校に通っていたとはいえ、半年以上ピアノを触っていなかったあたしには、無謀すぎる挑戦だ。しかも、借り切ったホールの観客の前で弾くなんて、子供の頃通っていたピアノ教室の発表会以来……。

 そんな自分がコンクールの舞台に立つなんて、想像するだけでもゾッとする。

でも……成斗くんに「頑張って」と伝える為には……成斗くんに「夢を諦めてほしくない」と言えるようになるには……傍観者でいるだけじゃ、駄目なんだ。

 コンクールは十一月の第四日曜日。

 既に二ヶ月を切ってしまっていて、出場閉め切りもあと数日。迷っている暇なんてない。

 あたしは無謀を承知で、ピアノコンクールに出る事を決意した。


 翌日の大学の昼休み。

 学食で香耶と叶くんからお土産をもらい、お土産話も聞いた後、あたしは昨日の成斗くんとの一件をサラリと二人に話した。

 ダンススタジオの友達がお見舞いに来た後、成斗くんが自暴自棄になってしまっている様子だったとだけ……。

 あたしに何を言ったとか、割れた花瓶の事なんかは、敢えて省いて。そして二人に、何より成斗くんに伝えたいあたしの気持ちを話した。

 ピアノコンクールに、出場を決めたと言う事も。コンクールのチケットを渡す時に、成斗くんには話すつもりだからと言って、まだ成斗くんには何も言わない様念押しした。

 コンクールまで時間がない為、空いている時間は、すべてピアノに使いたい。だから、成斗くんのお見舞いも、控えようと思っている……と。

「でも、あたしが急にお見舞いに行かなくなったら……成斗くん変な風に思うかな?」

「成斗の事だから、昨日音央に八つ当たり気味な物言いでもしたんでしょ? アイツが頭冷やすのにちょうどいいよ」

 その事について、あたしは何も話していないのに、幼馴染みの香耶は、さすがと言わんばかりに、ぴしゃり言い当てた。

 図星を言い当てられ、固まっているあたしに、叶くんは相変わらず得意の先読みをして訊く。

「ちょうど学祭もあるしさ。その実行委員になって忙しいとか言っとくから、心配すんな。どうせコンクールのチケット渡す時には、ちゃんとした理由話すんだろ?」

 あたしがそれに頷くと、

「って、事だから。香耶も生田のピアノの練習の邪魔すんなよ」

 叶くんが香耶に向かい、からかう様に言って笑った。

「そんなのわかってるよぉ」

 と、香耶が口を尖らす。

「『香耶』だってー」

 あたしは話の矛先を叶くんへと向け、ちょっぴり冷やかしてみた。

「それは、コイツがそう呼べって強制するから……」

「強制とか言わないのっ」

 叶くんの弁解を遮って、香耶が叶くんを肘で強めに小突く。

「イッテ。お前なー」

「強制とか言うからでしょ?」

 叶くんと香耶の痴話喧嘩が何だか微笑ましくて、あたしは目を細めて笑った。


 そして始まったあたしの無謀すぎる挑戦。

 課題曲の中から、「ショパンのワルツ Opus42」を選んだあたし。難易度で言えば、もう少し低い課題曲もあったけれど、あたしは敢えて自分の大好きな曲を選んだ。大好きな人の為に、大好きな曲を弾きたくて……。

 久しぶりなんてものじゃないくらい触っていなかったピアノに触ると、鍵盤がとても重く感じられた。

 半年前までは鍵盤を滑る様に動いていた指も、多少どころか、まったく動かない。「一日練習をしなければ三日後退する」と、高校の頃、先生がよく言ってた事を今更になって実感する。

 自分の想像を超えたあまりの現状に、あたしは大きな溜息をつく。だけど……やるしかない。

 いきなり曲を弾く事は後回しにして、基礎練習から始める事にした。指がスムーズに動かなければ、曲を練習するどころじゃない。

 ピアノは好きだけど、自分に才能がやっぱりなかった事を思い知らされた気がして、基礎練習をしているだけで、挫折しそうになった。

 そのたびにあたしの頭に過るのは、成斗くんのこと――


 十一月の初め。

 あたしの手元に、頼んでおいたコンクールチケットが三枚届いた。

 その二枚を、大学の学食で、香耶と叶くんに渡して、今日の帰りに成斗くんにも渡す事を話すと、あたしと成斗くんを二人きりにする為、香耶も叶くんも今日はお見舞いには行かないと言った。

 成斗くんと久々にゆっくり話したいと思っていたあたしは、気を遣ってくれた二人にお礼を言って、その好意に甘える事にした。

 思えば成斗くんと会うのは半月ぶり。成斗くんに「また来るね」と言ったあの日以来――

 香耶も叶くんも、特に何も言ってなかったし、あたしも敢えて何も訊かなかったけど……そう考えたら、なんだかとても緊張してきた。だけど、これを渡さなきゃ、何も始まらない。

 頬を撫でる風が、いつの間にか冬の匂いを連れて来たのを感じながら、あたしは成斗くんの病院へと、少し急ぎ足で歩いた。

 立ち止まった成斗くんの病室の前、小さく深呼吸をする。

 「よし」っと心に気合いを入れて、あたしはそのドアをノックした。

『はい』

 という成斗くんの返事に、ドアを開け、

「久しぶり」

 緊張でひきつりそうになる顔を、必死に笑顔にして、あたしは言った。

「音央ちゃん……」

 驚いた様子の成斗くんは、少しの間を置いて、あたしへと小さく頭を下げる。

「この間は、ごめん。俺……八当たる様な事、音央ちゃんに言ったりして」

「そんなの気にしてないよ。あたしの方こそ、あのままお見舞いに来なくてごめんね」

「学祭の実行委員になったんだろ? 叶から訊いた。どう? 準備進んでる?」

 あたしはそれに応える様に、手に持っていたチケットを成斗くんに渡した。

「ピアノコンクール?」

 成斗くんが小首を傾げて、あたしを見る。

「ごめん。成斗くんに嘘ついてた」

 今度はあたしが、成斗くんに頭を下げた。

「嘘?」

 優しい声でオウム返しした成斗くんに、あたしはゆっくり顔をあげて話し出す。

「本当は、そのコンクールに出る為に、ピアノ練習してたんだ。成斗くんに見に来てほしくて」

 あたしは心臓が今にも飛び出しそうなほどドキドキしながら、そう伝えた。

「音央ちゃん、ピアノやってるんだ?」

「『やってる』って言うより、『やってた』って方が、正しいんだけどね……高校までずっとやってたんだけど、大学に入って辞めちゃったから」

「どうして、辞めたの?」

「ピアノは好きだけど、あたしには才能はないって自分で決めつけて、それで辞めたんだ。でも……一生懸命夢を追いかけてる成斗くん見てたら、ピアノ辞めた事、すごく後悔してる自分がいて、もう一度頑張ってみようって思ったの」

 あたしのそんな話を、成斗くんはチケットを見つめながら、ただ黙って聞いていた。

「わかった。観に行くよ。その頃にはなんとか、俺も退院出来そうだし。って言っても、松葉杖はまだ必要だけど」

 ちょっぴりおどけて笑った成斗くんに、あたしは興奮して訊き返す。

「退院、決まったの?」

「うん。あくまでも予定だけど、あと二週間くらいで退院できるって、主治医の先生が言ってた」

「よかったねー!」

 あまりに興奮しすぎてつい、成斗くんの肩を揺すってしまった。

「イテテ……音央ちゃん、痛いって」

「あ、ごめん」

 一気に恥ずかしくなって、露骨に成斗くんから離れると、成斗くんはそんなあたしを小さく笑って言った。

「俺さ、高校の時から音央ちゃんの事知ってるのに、つくづく音央ちゃんの事、なんにも知らなかったんだなーって思った」

 成斗くんの言葉に、不思議顔をするあたしへと、

「って……俺、急に何言ってんだろうな」

 おどけた様に付け足して、成斗くんが笑う。

「成斗くんがオカシイのは、今に始まった事じゃないって事、あたしはよーく知ってるけど?」

 どうして照れ臭いと思うと、こうも可愛くない自分が出ちゃうんだろう。だけどそんなあたしに慣れっ子の成斗くんは、

「久々に音央ちゃん節、聞いた気がするよ」

 なんて、なんの気にも留めていない様子で、ケラケラと笑った。その笑顔をやっぱり好きだと思ってしまう自分にまで恥ずかしくなって、もうどうしようもなくなる。

「あたし、ピアノ練習するから、そろそろ帰るね」

 まだ来てまもないのに、そんな事を言い出す始末……。

「俺の見舞いなんていいからさ。練習頑張って」

 成斗くんはそんなあたしを咎める事もなく、無邪気な笑顔で送り出そうとする。

「ありがとう。あたし、頑張るね」

 早口で言って、あたしは忙しなく、成斗くんの病室を出た。

 ドキドキと鳴りやまない胸を押さえながら、閉めたドア越しに、成斗くんを振りかえる。

 あたし、頑張るからね――

 心の中、成斗くんにもう一度告げて、あたしはゆっくり歩き出した。

 家に帰ったあたしは、成斗くんに宣言した通り、早速ピアノの前に座ると楽譜を開いた。

 成斗くんにチケットを渡す事が出来て、昨日より随分軽くなったあたしの心。でも、心がどんなに軽くなっても、それが技術までにはなかなか影響されない。

 音大附属に通っている時だって、時間さえあれば四六時中、こんなにピアノを弾いた事なんてなかった。弾けなければすぐ苛々して、弾くのを辞めてしまう事だって、しょっちゅうあった。

 昔以上に弾けなくなっているというのに、それでも今のあたしは、辞める事をしない。辞めるなんて選択肢は、初めからなかった様にさえ思える。

 そしてあたしは、知ることが出来た。自分が思っている以上に、あたしはピアノが好きなんだってこと。

 そんなあたしの中に、新たな目標が、芽生え始めていた。

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